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エッセイ320:スマンティヨ「アヒル飼いの子」

35年前のことを思いおこせば、私はちょうど小学1年生で、父の転勤で、インドネシアの西部ジャワ県バンドン市内から中部ジャワ県ソロ市内のインドネシア最大の空軍教育訓練駐屯地の敷地内の団地に引っ越しました。中部ジャワの方言、習慣などにまだなれていなかったころ、よくまわりの軍関係者の子供達からいじめを受けました。インドネシアでは、軍の団地に住んでいる子供たちは乱暴者が多くて「Anak Kolong(寝台の下の子:蘭印時代に駐屯地の兵舎で生まれ寝台の下に寝かされて育った兵隊の子)」というあだ名がついているほどです。そのため、学校の勉強が出来なかったし、成績もいつもビリで、学校へ行くことすら嫌いになりました。父の仕事の関係で、空軍基地の団地の中に住まなければなりませんでしたので、不良の子どもたちとの接触を避けられませんでした。

まさに、様々な悪条件が揃っていました。そのため、私は、親の知らないうちに悪い子になってしまいました。小学3年生になった時、親と一緒に校長先生に呼び出されて、成績の悪さなどを注意されました。そのとき、本当に怖くて、親の顔を見ることができませんでした。複雑な気持ちでいっぱいのまま、一緒に学校から帰る途中、緑豆のお粥店に寄りました。母はやさしく私の顔を見、父も、身体が震えていた私に、甘いお粥を食べさせてくれました。

翌日、父はなかなか取れなかった休暇をとって、よく空軍学校の訓練生たちと一緒に歩き回る田舎へ私をつれて行きました。突然、父は一軒の民家に寄って、私をその民家のご主人と子供たちに紹介しました。民家の裏にはたくさんのアヒルがいたので、やっとその主人がアヒル飼いであることがわかりました。

その日から休日になると、すぐこの民家に遊びに行くようになりました。アヒル飼いの子どもと仲良くなり、よく一緒に田んぼや川などで泥にまみれるまでいっぱい遊びました。そのころから、私は自然に関心を持つようになり、人間と自然が調和したところがこんなに美しいと思うようになり、現在もよく頭に思い浮かべています。

そのとき不思議に思ったことは、この仲良しになった子は、自然の中でよく遊んでいたと聞いていたのに、いつも学校の成績が1番で、その田舎で最優秀の学生だったことでした。そして、これをきっかけに、私は悪夢から目が醒めたように、このアヒル飼いの子に負けたくないという気持ちになり、勉強に力を絞って、今まで親をよく困らせた分を取り戻そうと決心しました。

それから1年後、私の学校の成績はビリから1番になり、親、校長、町の人々を驚かせました。父がこの知らせを聞いたとき、私の目には信じられないほど喜んでいました。母の目からも嬉し涙がぽろぽろ流れました。そして、父はこの通知書を当時なかなか買えなかったフレームに入れて自分の部屋に飾りました。

その父は、私が、子どものころからの海外に留学したいという夢まで実現できたことを一番嬉しく感じてくれています。あのアヒル飼いの子と出会わなかったら、きっとこんな人生は送れなかったと思います。今でも帰国するといつもこの子に会いに行っています。この子から自然の良さを勉強させてもらったおかげで、大学に進学してからレーダで自然をモニタリングする研究に興味を持つようになりました。また、現在、次世代地球環境診断用の小型衛星をはじめ、無人航空機、合成開口レーダなどの開発をしています。

自然の中の様々な動植物の種類と生活もあの子が教えてくれたものです。アヒル飼いの子は私のヒーローで、いつも心の底に大切にしています。

(渥美財団1995年度年報より転載、著者により一部加筆)

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Josaphat Tetuko Sri Sumantyo (ヨサフアット テトオコ・スリ スマンテイヨ)
インドネシア出身。1995年金沢大学工学部電気・情報工学科卒業 1997年同工学研究科電気・情報工学修士。その後インドネシア科学技術庁技術応用評価庁(研究員)、インドネシア国軍陸軍教育・訓練院(研究員)、バンドン工科大学工学部電気工学科(非常勤講師・研究員)勤務。2000年千葉大学環境リモートセンシング研究センター(リサーチアシスタント)、千葉大学大学院(自然科学研究科人工システム科学専攻)、2002年博士号を取得。2002年千葉大学電子光情報基盤技術研究センター ベンチャー・ビジネス・ラボラトリ 講師、2005年-現在千葉大学環境リモートセンシング研究センター 准教授(専任教員)の他に、バンドン工科大学、インドネシア大学、ウダヤナ大学などの客員教授。研究分野:マイクロ波リモートセンシング、小型衛星、無人航空機、合成開口レーダなどの開発。
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2011年12月21日配信