SGRAかわらばん

エッセイ313:今西淳子「内モンゴル草原旅行記」

2010年9月に内モンゴル大学で開催したチャイナ・フォーラムで、SGRA会員のブレンサインさんとネメフジャルガルさんが選んだテーマが鉱山資源開発だった。内蒙古博物館の展示と、内モンゴル大学のオンドロナ先生の発表で、広大な露天掘りのことを知ったのがきっかけで、今年のフォーラムの前にシリンホト(錫林浩特)に行くことにした。そして、シリンホトからフフホトまでの700kmの内モンゴルの草原、ゴビ、農耕地、山脈を車で走りぬけた。この興味深い旅をアレンジしてくださったネメフジャルガルさんにあらためて感謝したい。ネメフさんはもっと説明したかったそうだけど、途中、眠ってしまってごめんなさい。

9月24日(土)早朝の便で、北京からシリンホトに着いた。中国の他の都市同様、新しい明るい空港だった。一行は、フォーラム講師の柳田耕一さん、孫建軍さん、渥美財団の石井慶子さんと私。空港で前日にフフホトから8時間ドライブして来てくれたネメフさんが出迎えてくれた。快晴。風もほとんどなし。事前に、北京で、内モンゴルは寒いですよと脅かされていたが、幸いなことに今回の滞在中は秋高気爽、快適な気候だった。内モンゴルは鉱山開発のおかげで、飛ぶ鳥を落とす勢いの経済発展を続ける中国の中でも、発展が一番早い地域である。広い道路の両側には新しい建物が立ち並び、どでかい博物館、広場など、何もかもが大きくて新しくてぴかぴかしていた。さらにもっと驚くのは、建設工事中のアパート群である。こんなに一斉に建設して住む人が居るだろうかと思ってしまうのは、余計な心配なのだろう。なぜなら同じ光景は、フフホトでも見られるし、おそらく中国全土の都市でおこっている現象であろうから。

まず、今回の旅のハイライト、石炭の露天掘り現場を見に行った。飛行機の窓からも眺めることができたが、露天掘りの山は、シリンホト市のすぐそばにあったので驚いた。その地域の聖なるボルガン山(丘)の上には、風車と携帯電話のアンテナが建っている。開発の暴力に心が痛む。窓から見る採鉱施設は綺麗に整備されていた。ひとつの山では、石炭は覆いのついたベルトコンベアーで下に運ばれ、建物の中でトラックに積載される。ご存知のように、シリンゴル盟では5月11日に、一人の若い遊牧民がダンプカーに轢かれたことをきっかけに、大規模な抗議行動が起こり、そのニュースは世界に伝わった。その後の中国政府の対策は非常に早く、環境は著しく改善されたということだった。ダンプカーは決められた舗装道路しか走行できなくなったし、外で積載してはいけなくなり、ベルトコンベアーには覆いが被された。

私たちの車は舗装道路からはずれ、草原の中の道を通って、黒い馬が繋がれている民家の庭先を通ってすぐのところが、もう露天掘りの現場であった。火山のクレーターのような大きな穴の底で、パワーシャベルが数台ダンプカーに石炭を積んでいく。上から眺めるので大きさの実感は湧かないけど、あっという間に一杯になり、次のダンプカーがやってくる。時々散水車が通って水をかける。この水をかけなければいけないというルールも5.11以後のことだという。私たちが立っていたところの反対側には、ダンプトラックが列をなしている。ダンプははいる前と出る時に計量し、採掘量を割り出すそうだ。ここのあたりで採れる石炭はあまり質の良いものではなく、殆どは、内モンゴル自治区の南の方にある発電所で使われるということだった。このあたりでは、ゲルマニウムもとれるという。ダイオードや放射線検出器に使われるそうだ。牧草地を削り取って採掘していくこのような現場が、IT化と世界の経済発展を支えているのかと思うと背中がぞくっとした。石炭がなくなると、その穴は土をもどして、さらには次の穴の土をいれて埋められる。そして草原に戻すのだと言う。

お昼は、草原の中の鄙びたツーリストキャンプのゲルの中だった。羊肉の丸ゆでのご馳走であった。羊にはやっぱり白酒ということで、思いがけずに昼間っから宴会になった。モンゴル国と違うのは、味噌があったので、邪道とは思うが羊肉と一緒に美味しく食べることができた。キュウリ、人参、かぶ、トマトなどの野菜もたくさんあったことも、モンゴル国と違う。そして、内モンゴルの特徴的なものとして、煎ったキビと、クリームと、お砂糖をまぜたアンブタを初めて食べた。これは美味!中国では、鉱山や都市の土地は国家、農地は村が所有し、村人は村から使用権を与えられている。遊牧民も土地の使用権を持っているわけだ。この付近の村には50数家庭いるが、その殆どは遊牧で生計をたてている。10家庭は土地が鉱山開発地域に当たったので、村の所有権が国に買い上げられた。国はその土地の使用権を、買い上げ価格の何倍もの金額で開発業者に売る。それでも、村人も一番高額な人で1億円を超す現金収入を得た。彼らは、そのお金で都市の商店のスペースの使用権を買い賃貸しているという。

昼食のあと、博物館を見学した。恐竜の骨の複製、草原風景、民族衣装や道具などの陳列だったが、とにかく建物が巨大で、日本の地方都市の箱物行政は負けているなと思った。その後、貝子廟(ベースィーンスム)に行った。今から200年余り前に一人のチベットの高僧がアバガナル地方に回って来て、この場所でお寺を創建し、仏法を広めるための助言を行ったのが始まりだという。昔はシリンホトにはこの廟しかなかったという。999段あるという階段を上ると、私が今まで見た中でも一番整備されたオボーがあった。オボーとは、モンゴルの人々が、道中の無事を祈って石をつみあげてつくる塚で、旅人はそこを右回りに3回以上まわって祈る。13基が並ぶここのオボーは、コンクリート製で、まわりには青や様々な色のスカーフが結ばれていた。人々が石を積むかわりに、スカーフを結んで祈るのだと思う。丘の上からは、高層ビルが立ち並ぶ市内と鉱山を含めた郊外の景色、そして地平線が見えた。ちなみに、999段あるという階段は、140段くらいだったので助かった。オボーから降りて、18世紀に建てられたお寺の一部を見学した。ひとつの建物が資料館になっていて関連する写真が展示されていた。新しくて大きくてぴかぴかのシリンホト市全体に比べて、2本の大きな木も生えている200年前からの空間は、心を落ち着かせてくれた。
 
翌朝、SGRA会員のナヒヤさんも加わって、午前8時にシリンホトのホテルを出発。フフホトを目指して700kmのドライブが始まった。まず、ぴかぴかの市内をぬけ、とんでもない量の建設中のアパート群を通りすぎて、しばらく行ったところで、シリンホトを眺めた。町全体にどんよりとスモッグがかかっていた。冬になればもっとひどいという。といっても、市内でも青空だったし、とても綺麗な町であるという印象を受けたのだが、風が吹いていたらほこりだらけとのこと。

シリンホト近郊一帯は内モンゴルでは有名な牧草地帯で、肉の産地である。季節は既に秋で、牧草は枯れていた。内モンゴルの自然破壊の話を聞きすぎていたせいか、むしろ草原が思っていたより綺麗だという印象を受けた。モンゴル国の草原と一番違うのは、ゲルがないことであった。その代わり、草原のところどころに家が建っている。ちなみに昨日昼食をしたツーリストキャンプでも、本物のゲルはひとつだけで、他はコンクリートで作られていた。内モンゴルの定住化の歴史は100年以上という。草原は、柵で区切られているところがあったが、牧民たちは自分の土地に家畜を放して飼育しているのか。というのはそのような土地に放されている家畜はあまり見なかった。羊の群れを何回か見たが、それは囲まれた土地ではないところを移動しているように見えた。シリンホトからおそらく何百キロも、石を30cmくらい積み上げたものが続いていた。それは人民公社時代に、草刈のためにその中の牧草地には放牧していけないということを示すために作られた石壁の跡だという。衛星写真で見たら、万里の長城と間違えるのではないかと誰かが言った。

途中で真っ白い水の池があった。天然の重曹の産地だという。昔はこれで洗濯をしたとのことだったが、インターネットで検索してみれば「シリンゴル重曹は天然石(トロナ鉱石)から作った天然重曹だから、環境に負担をかけない自然物質として話題を集めています。食品添加物としても認可されている高品質の素材なのでお掃除はもちろん、食器、野菜洗い、入浴剤に、お料理、お菓子つくりなどどんな用途にもおまかせ」とのこと。

しばらくすると、牧草も低くなりより乾燥した地域にはいった。このあたりは、羊肉で有名だそうだ。スニドの羊といえば神戸の牛に比肩するという。厳しい環境の方が肉が美味しくなるのだろうか。青い屋根の長い建物がいくつもある集落があった。「生態移民」の村だと説明を受けた。決められた牧草地を分け与えられなかった牧民たちは、生態系を保護するために強制的にここへ移民させられたという。ここではオーストラリアから輸入したホルスタインを牛舎で飼っている。調査によれば、牧民の収入は以前より減っているそうだ。ホルスタインはこの土地に合わないし、近くに町がないので牛乳を売る場所がない。結局は政府の補助金に頼るようになり、働かなくてもお金がもらえると、なまけものには羨ましがられているという。

スニド旗の「右」と「左」の間が150kmというのでそのスケールに愕然とするが、午後1時をすぎてようやくサイハンタラにたどり着いてお昼となった。ネメフさんの友人の推奨のお店で、モンゴル風揚げギョーザを食べる。一行7人で、その他にも数皿頼んでビールまで飲んで160人民元(約2000円)!お店の人が計算を間違えたのではないかと思った。それからゴビと呼ばれる、より乾燥した地帯にはいった。ラクダの群れを見かけたが、野生ではなく誰かに属しているということだった。ゴビをぬけると、また草原が続いた。ランチの後のお昼寝から起きると、「草原はここまでですよ。ここがフフホトから一番近い、ツーリストキャンプです」と説明があった。観光客が馬に乗って草原を走っていた。

「この丘を越えると景色が全く変わります」と知らされたので、一体どうなるのかと興味深々だったが、急にたくさんの木が現れて、畑が現れた。農民がジャガイモの収穫をしていた。機械はなく、5~10名の人々が手作業でジャカイモを袋に詰めていた。このあたりは、内モンゴルで、漢民族が移住してきて農耕を始めた最初の地域の一つだそうだ。燕麦、ひまわり、麦、トウモロコシなども作っていた。車を止めて畑に降りて、落ち穂拾いならぬ落ちジャカイモ拾いをした。まさか内モンゴルの草原(だったところ)でジャガイモを拾うとは思わなかった。カササギが木のてっぺんで鳴いていた。カササギの声を聞くと良いことがありますよ、ナヒヤさんが言った。国土全体が開発された日本から来た私にとっては、普通の農村風景のようにも見えた。

フフホトへ到着するまえに、陰山山脈を越えた。抗日戦争の時に大きな基地となっていたところだという。モンゴル国でも同様だが、直射日光が少なく雪どけが遅い山の北側には自然林があり、広葉樹も多く紅葉が綺麗だった。川はすっかり枯れていたが、ナヒヤさんが小学生の頃には、遠足できて川遊びをしたという。ネメフさんは国慶節に家族と一緒に来る予定で、フフホト市民の憩いの場となっているようだ。

山を下りるといよいよフフホト市だった。まず専門学校の共同キャンパスである「大学城」にでくわし仰天した。とにかくとんでもなく広い敷地に、校舎と体育館やグラウンド等の施設、高層ビルの宿舎が林立する。すべてが新しくてぴかぴかである。そして交通渋滞が始まった。ネメフさんが、ここから内モンゴル大学のキャンパスまで早くて30分、渋滞なら2時間かかると教えてくれた。

草原旅行の写真

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<今西淳子(いまにし・じゅんこ☆IMANISHI Junko>
学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から常務理事として関わる。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より異文化理解と平和教育のグローバル組織であるCISVの運営に加わり、現在CISV日本協会理事。
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2011年10月26日配信