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エッセイ288:洪ユン伸「ある外国人研究者の『知識人としての自己責任論』―東日本大震災に思う」

私は、沖縄に思いを寄せてきた「外国人」研究者である。沖縄戦の経験を韓国に伝えたく、10年近く沖縄の研究や現地調査に力を入れてきた。戦時教育を受けた愛国人や、目に迫ってくる違う人種(米軍)への脅威が、いかに「目に見えない恐怖」となり、「人間が人間でなくなる」状況を作り出したのかを、朝鮮人や沖縄人の体験を中心に研究してきた。震災の経験後、私は、自分がこれまで語ってきた「目に見えない恐怖」というものが、いかに抽象的であったのか、言い換えればいかに学者ぶっていたのかを、身をもって経験している。「恐怖」というものは余りにも具体的で、日々の食卓こそが問われているのだから。

そして、その具体的な日常生活に、私がこの社会で何かを教えている教育者であることより、時には「外国人」であるということが最も重要な判断基準になり、そのことが非常時に直ちに「恐怖」となりうることを経験した。外国人である私と、知識人である私は分類できないが、前者の場合「日本から逃げる」という選択肢が、後者の場合は「日本に残る」という選択肢が用意されている気がしてならなかった。理性的にどういう情報が正しいのか判断する暇もなく「どうしても日本に残る理由のある人でなければ帰国を」と自国の大使館から勧告された時点で、外国人の一人一人は「もはや自分の身は自分で守らなければならない」という選択を強いられた。日本に残ることへの責任は全て「個人」が背負わなければならない立場に置かれたともいえるだろう。

真ん中の選択は存在しない不思議な状況で何を選択するにしろそれは個人の「自由」であったが、その「自由」とは、帰国する「外国人」の群れが報じられた時点で、テレビ画面に映る「責任なき社会の一員」に他ならなかった。私は日本に残ることを選択したが、「日本社会は日本人の手によって復興するしかない」といったコメントや報道よりも、「逃げるのは外国人のみ。東京は安全」という言葉に安心する人が大勢いることに、果てしもない孤独感を感じていた。たとえ東京に残っても、私はしょせん外国人であるという孤独感は、それでも残る必要があるのか悩ませた。韓国の母は、4万人を超える人が帰国するなかで娘が帰国しない現状を受け止められず、毎日のように電話をかけ、「あんたは日本人でもないのに」と泣き崩れる。風向きまでをも知らせる母親の情報力に驚いた。もはや日本の天気予報は、海外でも敏感に反応するほどになっていたのであり、私を愛する家族の緊張感はピークに達していた。職場は春休み中の大学で、最も責任や義務のない「非常勤講師」。批判する人なんて一人もいない。私の理性はいつのまにか「東京に残る理由がない」という結論をひそかに下していた。しかし、私は日本に留まった。休み中だから国に帰ると自分で言い聞かせれば何の道徳的「罪悪感」を感じることもないかもしれないのだが、そういう風に自分に言い聞かせることは到底できなかった。何もできない「知識人」、何もできない「外国人」、何もできない人間であることが情けなかったが、それでも何をするのかという問いかけをした際、荷造りをして国に帰るという選択はできなかった。それは何故なのか。自分の書いた論文が「平和」や痛みに対する「共感」といったものであるから?残念ながらそういう奇麗な説明は出来ない。いかなる奇麗な言葉も今回は廃棄せざるを得ない。ただただ私は、情けなかったのである。

雨に溶かされ降ってくるかもしれない放射能の恐怖から、多くの人がひそかに動いた。被災地周辺の人々は東京へ、東京の人々は関西、関西の人々は沖縄や北海道へ。そして余裕のある人は海外へ。そして空間をシフト出来たら「避けられる」、あくまで「平和」のような日常が待っているということが私を苦しめる。

多くの外国人研究者が休みである故に国へ戻ったが、災害の際、日本人の研究者の海外行きが急増している事実を私は知ってしまった。そうした情報が次々と耳に入ってきたのは、私が外国人研究者であり、緊張感なしに海外に行くことを告げられる相手であったためであり、私の「偏見」だと何処かで信じたい。が、一部であるにしろ私の周りにそういった動きがあったことは事実だ。北海道、韓国、ヨーロッパ、アメリカ、現地調査や休暇を目的に出かけた人々が、震災中、一人東京に残された私の安否を懸念して電話をかけてきた。沖縄の友人が「あんたはしょっちゅう沖縄に来るのに、今こないでどうするの」と電話をかけてくる。沖縄の国際通りは日本人の観光客でにぎわっていると言われ、研究者のグループも多いことを知らされた。名の知られた有名大学の先生が家族連れで中国に向かったと聞く。日本には戻らないつもりで中国へ旅立ったという。放射能への危機感が高まりつつあった時期であった。日本人の研究者である。自らの旅日程を知らせ、「あなたは国へ戻らないのか」という言葉がいつのまにか決まり文句のようになった。怒りさえ感じてしまう。一体、何だろうか。

こういう状況のなか、私の感情はあるラジオ番組でエスカレートしていった。朝5時まで被災地の人々を少しでも勇気づけようとスタートした番組であった。ドラえもん、古い演歌、ポップなどが、被災地に送る多くのエールと共に日の出の時刻まで流れ続けた。そして、ある高校生がエールを送ってきた。

「僕は、受験生です。こんな時に受験勉強などしている自分がとても情けないと思います。僕はこのままでよいのでしょうか。本当にごめんなさい」

こういう内容だった。思わず泣いてしまった。彼に向って「良いのです。一生懸命勉強して、この世にきっと役に立つ人間になってください」と答える被災地の人からのメッセージも読み上げられ、多くの音楽が流れていった。しかし、いったん流れ始めた涙は、なかなか抑えることが出来なかった。受験勉強を恥じる彼らが大学に入った時、私、私たちは、一体、何を教えられるのだろうか。涙が止まらなかった。私は「情けなさ」のため、日本に留まったとしか、自分の選択を説明することが出来ないのである。

外国人の同僚たちは、私に言う。「第二次世界大戦中、日本人だけが勝っていると信じていた」と。第二次世界大戦を研究テーマとしている私はそのことを誰より批判的に捉えてきた。しかし、私はそういう見方で今回の災害の際の「日本社会」を分析することを取りやめた。震災中、原子力という科学の危うさ、日本の政治の無気力と民主主義の限界、貧困地域層と企業倫理のなさ、情報民主主義などいろいろな側面で今回の問題を考えてきた。しかし、今、私は、はるかに放射能の高い現場で取材し続けたメディアの人間を批判することを保留した。放射能が高いことを知りつつもその地域に留まることを願う住民や、貧困地域の生計を支える「原子力発電所」の維持を掲げ再び選挙に出る政治家を、こういう状況を目にしても安全性を言い続ける科学者や、まともな知識に基づくコメントすらできない企業の無責任な言葉も、今の私は、「日本社会論」とするあらゆる理論的な批判を先延ばししたい。「逃げるか」か「残るか」という選択肢しか残らなかったかのように見えた外国人の立場で考えると、日本における学者には、「残りながらも沈黙する」という真ん中の選択肢が存在したように見えたからであり、その情けない労働現場が、私が信じる「学問」や言葉の現場である以上、私は外国人であれ、「知識人の責任論」を先に批判的に捉えざるを得ない。

作業中に被爆者3人が出てからいつのまにか現場で働く「下請け会社」という語に代わり「協力会社」という語が誕生している。メディアで流れるこれらの言葉を容認してしまう耐えがたい社会の「沈黙」に満ちた雰囲気がある。日々の生活を支えてきた光が貧しい地域の犠牲に成り立っていた事実を、「仕方ないものである」と受け止めていた私たちは、今度は、自衛隊員、消防士、いわゆる「協力会社」の人々が被爆する状況をテレビで見つめながらも、「そういうことでもしなければ助からない」と、何処かで希望を託しているのであろう。「自分の身を守るための小さな過剰反応が、結局、被災地を苦しめているのよ」と震災中日々を共にした「日本人の母」は言う。その言葉が胸に響く。その通りである。そういう希望が「共感」の輪を広げ、私たちを沈黙させているからだ。しかし、逃げる学者の姿を見届けた私は、マスクや傘を持って逃げられない人々がもっとも人間的に見えて仕方ない。学者は身の安全や居場所を確保してから、迫ってくる状況への判断を言葉にするのだろうか。現場を離れた学者の言葉は、人々の胸にひそかに訪れる希望が、他者を苦しめているという事実を訴えられるのだろうか。それであなたはどうするのか。それしか「問う」ことができない、そういう「恐怖」が作り出した、ある人の犠牲にしか見出すことのない「希望」。その「希望」から私たちは意識的に「逃げること」ができるのだろうか。犠牲がでても希望を託したいこれらの「沈黙」に向かって何の役にも立たないだろう。ならば私は、「知識人としての責任論」をむしろ廃棄し、ごく普通の人々が感じる恐怖のなかに身を寄せ、戯れのように恐怖にさらされながらも、自分の居場所を守り、逃げ場のない日常のなかで行動するごく普通の人々側に立って、この状況をこの日本で自分の身に迫る恐怖と共に考えようと決めた。それが、東京に留まった「情けない」理由である。

あなたは何処にいたのかという単純な「知識人批判」から、私は、今のところ自由である。しかし、日本に留まったにしろ、私は「残りながらも沈黙する」という真ん中の選択をした多くの学者のグループにいる。問題となるのは、あなたは何処にいたのかではなく、それであなたは何をしたのか、ということであろう。いつか私は日本を離れるかもしれない。しかし、今、この時点で、私は日本の社会におり、その場で言葉を発表してきた。いつ終わるかもわからない研究も日本にある。今私の「居場所」は日本社会であり、それであなたは何処にいたのかではなく、それであなたは何をしたのかに、少なくとも言葉として応える義務がある。そして、それであなたは何をしたのかという問いに、少なくとも私の教え子たちに向かって、恥じることのないよう「知識人の自己批判論」を書き残そう。

4月から私は、一体、何を教えられるのだろうか。私は学生たちに「逃げるか」「残るか」という選択肢を取り出し、「日本人として頑張ってほしい」と言いたくない。私は、そういう選択肢がいかに暴力的であるかを知っている外国人であるからだ。私は、科学的に放射能の危険度を説明するつもりもない。目に見えない恐怖にとらわれ、天気予報までをもチェックする誠実さと、風と共に雨と共に降ってくる放射能を防ぐ能力は私にはない。だからと言って、この問題が世界と共に考えるべきものだという抽象的な「平和論」を教えるつもりもない。自然の力やグローバルな貿易システムという現代社会においては、世界規模で被害にあうのだとしても、重軽があるからだ。ただ、学生たちとこの現在進行形の「目に見えない恐怖」を共に経験した一人の研究者として、風のようにまたは雨のようにこの恐怖のなかに潜む偏見や差別が、いかに被災地の人々に、または、この社会を生きる一人一人の人間から「逃げる」自由を奪ってきたのかを教えることはできるかもしれない。そして学生たちに言いたい。あなたは何をしたのかと問われる時に、「命こそ宝」という語を忘れないこと。私自身が、沖縄から学んだこの言葉を、「見知らぬ他者と共に逃げるための言葉」として議論してみたい。他者を配慮する言葉を最後まであきらめない「学問」、その人間のための「知」を口にしてきた私、私たち学者にとって、震災後の世界は、背景なき自画像は存在しないと示しているような気がしてならない。

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<洪ユン伸(ホン・ユンシン)☆ Hong Yun Shin>
韓国ソウル生まれ。韓国の中央大学学士、早稲田大学修士卒業後、早稲田大学アジア太平洋研究科博士課程在学中。学士から博士課程までの専攻は、一貫して「政治学・国際関係学」。関心分野は、政治思想。哲学。安全保障学。フェミニズム批評理論など。現在、「占領とナショナリズムの相互関係―沖縄戦における朝鮮人と住民の関係性を中心に」をテーマに博士論文を執筆中。編著に『戦場の宮古島と「慰安所」-12のことばが刻む「女たちへ」』SGRA会員。
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2011年4月6日配信