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エッセイ280:オリガ・ホメンコ「白パンと夢」

彼女は、もう50年近く、国語の先生として働いています。小さな村の出身で、4歳の時に父親を亡くして口数の少ない母親に育てられた彼女は、小さい時から村の悲惨な生活を脱出することを夢見ていました。彼女が村の学校で一番好きな先生は国語の先生でした。生徒たちはそのおじさん先生の家によく遊びに行きました。優しい先生でした。戦争でほとんど父親を失くした村の子供達にとって、イワン先生がその役割を補っていたにちがいありません。

だがイワン先生の家は、みんなと違って裕福でした。たった一つの違いなのに、その違いはものすごく大きかったのです。彼の食卓にはいつも白パンがありました。細長くて、外側がかりかりしていて、他の家ではお祭りにしかでてこなかった宝物の白パン。その当時村のほとんどの人は黒パンしか買えませんでした。白パンは贅沢品でした。

その白パンを見て小さなオレクサンドラは考えました。「私も一所懸命勉強して、学校の先生になろう。私の食卓にもいつも白パンがあるように!」。そのたった一つの密かな理由で、15歳の時に先生になる勉強をするために村を離れました。もちろん、食べること以外に、詩や歌なども好きでした。最も好きだったのは作文を書くこと。地理は嫌いでした。彼女の小さな村のクラスの生徒は5人だけで、地図もない学校だったからです。今では信じられないけど、1950年代半ば、戦後のウクライナの状況はこのようでした。

それから、50年以上、町に住んで国語の先生として仕事をしているのは私の母です。白パンや地図は学校にも家にもあります。彼女の教え子は、既に数万人もいます。スポーツ選手、作家、俳優、医者、技師など、いろいろな専門を選んだ人たちがいます。一緒に出かけると全然知らない人から話しかけられます。昔教えた子が話かけてくれることが多いのです。もう顔がわからない場合が多いけれども、名前を聞くと思い出すみたい。やっぱり、さすが学校の先生。

先日、学校にスウェーデンの先生方が研修に訪れました。その先生方がママの勤務歴を聞いた時に、とても驚いたそうです。50年間も学校で働いている先生はスウェーデンではほとんど居ないそうです。ママは彼らの驚いた顔を見て微笑んでいたようです。白パンの話はしなかったみたい。ソ連時代、ウクライナ学校が少なかったために、ウクライナ語を教えられる先生が少なくなりました。それで、ママは70歳になった今でもウクライナ語を学校で教えているのです。ウクライナの国語を。

ママは、子どもの時に見たものや、出会った人から受けたインスピレ-ションが大事だと、私に良く言います。小さなインスピレーションが大きな夢に繋がり、より良い将来を呼ぶことができると。

昔ながらの白パンを見ると、ママの小さい時の話を思い出します・・・そうするとまた頑張る勇気が湧いて来きます・・・

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<オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko>
「戦後の広告と女性アイデンティティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。2006年11月から2008年12月まで学術振興会研究員として早稲田大学で研究。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。現在キエフでフリーの日本語通訳や翻訳、NHKやBBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍している。
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2011年2月16日配信