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エッセイ186:羅 仁淑「私の目に映った祖国」

昨年の夏休みと今年の冬休み、二十数年ぶりに韓国を吟味することができた。

 

昨年の夏休み、恩師の娘にソウル市内の案内をした。私にとって来日以来、ソウルが堪能できる機会になった。彼女から町をぶらつくだけでも良い観光になると言われ、二人は目的地も決めずに町に出た。旧家を改造した食堂やお土産屋が集まっている仁寺洞(インサドン)という町に行った時のことだ。光復節(8月15日)が近かったからだろう。光復節に因んだイベントに出会えた。一休みしたいという気持ちもあって、真ん前の席でイベントが始まるのを待った。イベントの内容はマイクを持って「私は誇らしい国旗の前で国に忠誠することを誓う」と書かれている垂れ幕の文書を声を張り上げ読むと国旗で作った小さい洋傘とキーホルダを商品としてもらう、というものであった。参加者一人一人の顔はみんな真剣そのものであった。厳粛な雰囲気に飲み込まれそうだった。それ以上面白半分で見物する訳には行かずその場を去った。

 

外は暑いし、毎日テレビを見ながら明け暮れた。耳にたこができるほど良く使われている言葉がある。「国民」だ。国を代表するほど人気がある歌謡歌手や俳優を指して「国民歌手」とか「国民俳優」というし、テレビ局では自社が良き放送局であると宣伝するとき「国民の放送○○放送」という。「国民」が使われている場面を取り上げようとすると枚挙にいとまがない。一所懸命「国民統合」に努めている国の努力が伺える。どの国も「国民統合」を願う。しかし、他の国はここまではしない。なぜ、韓国はここまで「国民統合」に力を注がなければならないのか。 各自の仕事に責任を持って一所懸命やることも突き詰めていくと「国民統合」に突き当たる。にわかには理解しがたいかも知れない。少し整理しておこう。「国民統合」の対照的な言葉は「個人主義」あるいは「利己主義」であろう。

 

われわれは頻繁に利害をおいて選択に迫られる場面に遭遇する。その時の選択基準はそれぞれの価値観であろう。簡単に3種の価値観、すなわち、功利主義、パレート最適、利己主義について述べよう。 まず、「功利主義」についてだが、これは所得分配の公正基準に用いられる倫理学・哲学の専門用語で、全体主義の立場から自分の利益だけを特別扱いする利己主義に反対し、「最大多数の最大幸福」(全体の利益を増やす行動=善)を主張する。すなわち、功利主義においては全体の利益の総和が最も重要視される。ある行動をすれば、自分には10の損が発生し、相手に20の得が発生する場合でも、功利主義的価値観を持つ個人ならその行動を選択する。自分と相手の損得を差し引きした場合、得の総和が10増えるからだ。しかし、実際、生身の人間が全体の得の総和が増えるからといって自分が損する行動を選択するであろうか。

 

次に、「パレート最適」についてみよう。これも経済学の専門用語で、「相手を損させない限度内で個人の利益追求が許容される」という利己的行動の最終ラインが引かれている。倫理的・道徳的個人の価値判断基準はこの「パレート最適」であろう。 最後に、利己主義についてだが、この価値観には自己の利益追求に限度がない。たとえ、相手に20を損させて自分に10の得がある場合においても、その行動が選択できる。しかし、道徳的・倫理的個人であれば、この利己主義的価値基準に基づく行動はしないであろう。 数日前、急いでいたので、バス停2個ほどの短距離を、タクシーに乗った。40分以上かかった。なぜかって?遠回りをしたからだ。3回タクシーに乗ったが3回ともそうだった。タクシーに乗るたび、必ず運転手さんから「そこはどこですか?」と聞かれる。そこがどこかを予め把握しておくのはあなたのお仕事でしょう、と心の中で呟きながら行き先に電話をして運転手さんに受話器を渡す。他人を喜ばせる気持ち(功利的)があると言えるだろうか、他人に迷惑を掛けるまいという気持ち(パレート最適的)があると言えるだろうか。

 

夜遅くまでお酒を飲んだのでタクシーのお世話にならなければならなくなったことがあったが、寒い12月の夜、コンビニの前で夜明けを待ってタクシーに乗って帰った。私がとくに警戒心が強いだろうか? 多くの場合、国の価値判断基準は「功利主義」であり、国民個人のそれは「パレート最適」である。上記のタクシー運転手さんの価値基準は「利己主義」であると言える。遠回りをすれば、約束時間に遅れたお客さんには20の損が発生し、売り上げが上がった分運転手さんには10の得が発生する。功利主義的基準からすれば、総和で10の損になるので、そのような選択はできない。また、パレート最適価値基準に照らしても相手に損をさせ自分が得をすることになるので選択できない。利己主義的基準に基づいているため、そのような行動が選択できたのだ。

 

少なくとも日本人はパレート最適価値判断に基づいて行動すると思われる(過大評価かも知れませんが)。電車の中で何を言われても泣き止まない子供が「他人の迷惑になるから止めて」と言われたとたん泣き止んだのを見たことがある。若干無理はあるが、他人に損をさせないというパレート最適が適用できる。 知人に植木を手入れするはさみを作る職人がいる。自宅に行ってみると、はさみを作る装置より各種植木が占領しているスペースが広く、さらに植木を世話する手間が大変だと言われた。その友人は植木に関する研究会やシンポジウムには欠かさず参加し、植木の勉強をしている。聞いたところ、「植木について徹しないと良いはさみは作れないよ」と答えてくれた。彼はパレート最適基準を超え、功利的価値判断で行動をしていると思った。はさみの売り上げの10をほとんど良いはさみ作りに費やし、はさみを買ってくれた人に20の喜びを与えるために努めているからだ。

 

このような日本人に、自己より他人・コミュニティ・国を思う気持ちが持てるように仕向ける必要はない。国民統合や愛国心は自己以外の者に配慮する、さらには自己以上に自己以外のものに配慮するということである。いうまでもなく、愛国心は洗脳したり、煽ったりして作られたものより国民の心の底から自然と出てきた方が良いに決まっている。しかし、国の功利主義的価値観と国民(すべての国民ではないが)の利己主義的価値観の間に大きい乖離が存在するなら、それを狭める手段として国民統合や愛国心を洗脳したり煽ったりすることもやむを得ないかも知れない。

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<羅 仁淑(ら・いんすく)☆La Insook>

博士(経済学)。専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。SGRA会員。

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2009年1月30日配信