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エッセイ183:于 暁飛「ホジェン族の少女(その1)」

2008年8月、私は夏休みを利用して、ホジェン(赫哲)族居住地黒龍江省街津口村を訪れた。1999年にホジェン族現地調査を始めてからこれでもう10数回になる。今回の調査の目的はホジェン族の夏季漁業の状況を知ることである。

 

バスは松花江に沿い三同国道を飛ぶように走る。いつも来た道で、両側は一面見渡す限り大豆ととうもろこしで、緑は濃くつやつやと光り、今年は豊作であることを人々に示していた。私が来るのは夏か冬なので、一面の緑でなければ、一面の雪である。バスが揺れるたびに、この前の冬に来たときのことを思い出し、すぐにでもあのホジェン族の少女に会いたいと思った。

 

あの冬も、同じようにこの国道であった。気温は昼でも零下20数度、郊外に着くと白く霞んでいて、全て白い雪で覆われていた。とうとうと流れていた松花江、黒竜江は巨大な銀色の竜のように、北方大地に静かに冬眠している。バスは松花江とアムール河の合流点に着くと、それから30分走り、街津口村に駆け込んだ。

 

バスを降りると、すぐ目に飛び込んできたのは、私が思い描いていたあの顔、霜焼けで赤くなった顔が白い雪に照らされて、まるで一輪の牡丹のようだ、「フェイフェイ、迎えに来てくれたんだ」と言い、私は忽ち寒さを忘れて、フェイフェイと抱きあった。「あなたが迷うのではないかと、おばあさんが私を迎えによこしたの」。私は笑い出した、その街津口村には一本の道しかなく、入り口から山里まで一直線にはしり、丘を越すとアムール河である。余りに簡単だが、それでも私が迷うかもしれないというのは、家がみな同じ形で、特にここ数年の間に建てられた新しい村の住宅は、造りも全て同じで、そのため来るたびにあちこち探してやっとたどり着くからである。

 

フェイフェイは、ここ10年私が調査の対象としている尤文蘭の孫娘である。1999年の冬以来、ホジェン族の調査のたびに、尤文蘭一家と非常に懇意にし、私を家族の一員として扱ってくれる。私は、街津口に行くたび、家に帰ったように感じる。そのときは、フェイフェイがまだ小学校に上がる前で、彼女の母は離婚して、再婚したので、それ以来ずっとフェイフェイは同じ村に住むお祖母さんと一緒に暮らしている。

 

フェイフェイは非常に可愛い子で、肌が白く目が大きい。髪と瞳は少し黄色みがかり、まるで西洋の人形のように、可愛い。私はいつも彼女にこう言う。「あなたには、どうしてロシアの血が混ざったのかしら。」フェイフェイは歌が好きで、踊りが好きだ。暇があると腰をまげたり、脚をあげたりして、体がとても柔らかい。彼女が踊っているのを見るたび、頑張りとおすよう彼女を励まし、大きくなったら北京へ行き、中央民族大学に入り、スターになり、ホジェン族の歌を歌い、ホジェン族の舞を踊りなさい、そのためには、一生懸命勉強しなければねと勧めた。フェイフェイはそのたびに澄んだ円らな目を輝かせ、頷くのだった。このことは、私たち2人の約束のようになり、いつしか私の希望となり理想となった。フェイフェイを外の世界に出してあげれば、スターとしての素質を持っているから、将来必ず大スターになる。このまま埋もれさせてはいけない。

 

この山紫水明の里の大自然の懐に包まれ、フェイフェイは五穀雑穀を食べながら、天真爛漫に成長した。今、私の前に立つフェイフェイは、私が日本から持ってきて彼女に与えた赤いダウンコートを着て、ジーンズを穿き、非常に垢抜けしており、東京原宿の街中を歩かせても、誰も彼女を鄙びた中国辺境の村の娘とは思わない。私は行くたびに自分の不要になった衣類を持って行き、彼女らに与えた。私は、所属している渥美財団の新年会にはできるだけ参加している。皆さんと顔を合わせるほか、不要になった衣類のリサイクルコーナーがあるからだ。実際のところ、いくつかは私も好きなブランド品もある。そのときは、私はフェイフェイのため、似合いそうな洒落た衣服を数着選んだ。これらの素材とスタイルの服は、この鄙びた村には見られず、買おうとしても買えず、また買う余裕も無いから、ちょうど良いお土産である。(続く)

 

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<于 暁飛(う・ぎょうひ)☆ Yu Xiaofei>
2002年千葉大学大学院社会文化科学研究科より学術博士を取得。現在日本大学法学部准教授。専門分野は文化人類学、北方民族研究。SGRA会員。
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