SGRAかわらばん

エッセイ069:今西淳子「新宮澤構想と東アジア共同体議論:宮澤喜一元総理大臣を偲ぶ」

2002年7月20日(土)、第8回SGRAフォーラム「グローバル化の中の新しい東アジア」を軽井沢で開催しました。フォーラムの最後に宮澤喜一元総理大臣にお越しいただき、フリーディスカッションにお付き合いいただきました。そもそも、宮澤先生は私の父が一番尊敬していた方で、家族ぐるみで行き来させていただいたので、私も小さいころから存知上げていました。それで、2001年2月9日(金)に東京で開催した第2回SGRAフォーラムで、「象徴的に『新宮澤構想』と宮澤先生のお名前が入っている、アジア通貨危機に対する日本の対応が、アジアの共同体づくりのきっかけになったのではないか」という名古屋大学の平川均先生のご発表にとても感動しました。そして、1年半後に軽井沢で、平川先生による「新宮澤構想」の評価について、宮澤先生に直接お聞きする機会を作れたことは、大変光栄なことだったと思います。

 

軽井沢のフォーラムで、平川先生は、次のように質問されました。「アジア通貨危機のあとに、宮澤先生がイニシアチブを取られた『新宮澤構想』が、アジアの地域協力に、あるいはアジアの相互理解の中で非常に大きな役割を果たしたと思います。私自身、韓国に1999年に行ったときに、先生の構想が出て、それはかなりの方が好意的でありましたし、それからタイに行ったときも、『宮澤という人はだれか知らないけれども、宮澤構想というのは、すごくいいことをしてくれた』という話を聞いたことがあります。アジアの人たちが、先生のイニシアチブで大きく変わる、1つのチャンスを作られたと思っています。」「『新』というからには、古いものがあるからで、それは当然、1980年代のラテンアメリカ危機が念頭にあるわけですが、そのときに先生がイニシアチブを取られたのに、それは結局、アメリカにそのまま持っていかれて、先生のお名前は残らなかった。そう考えたときに、『新』という言葉の中に、先生の思い、あるいは日本政府の思いが入っているのではと思いました。そこで、『新』の中の思いと、それから、先生がそういう構想を出された背景などについて教えていただければと思います。」

 

宮澤先生は、「1997年にああいうことがタイで起こって、あちこち広がっていったわけですが、その時、日本としては、財政的にはうまくない状況ですけれども、外貨は十分持っておりました。今まで各国とのいろいろな具体的な関係がありますから、日本の持っている外貨を使っていただければ何かの役に立つだろうと考えました。これはごくごくあたりまえのことですが、それが動機です。」「新宮澤構想と言われた『新』は、平川さんのご指摘の通りです。ラテンアメリカのときのボンドを出したらいいという、あとにいわゆるブレイディ・ボンドになって実現したわけですが、そういうことの関連で、『新』という名前がついたのだと思います。特段の意味はありません。私が期待していることは、何かの役に立ったら、それは大変幸せで、そういう間に各国間のマルチナショナルな接触が図られて、お互いをより知るようになるということです。」と答えられました。そして、私にとって一番印象的だったのは、東アジア共同体構想へのきっかけとなったという評価に対して、次のようにおっしゃったことでした。

 

「1997年にThe Asian Monetary Fund(AMF)が一時、取りざたされましたが、実際問題として、これは急にできるわけのものではない。また、私自身が、300億ドルのお金を使っていただくと考えたときに、それがそういうものにすぐ発展するとも思っておりませんでした。非常に率直に申せば、私は戦前の人間ですので、戦争前に日本も一生懸命アジアの国のために何かをしようとしたが、全くそれは失敗に終わったということを非常に肝に命じて感じていますから、うっかりそういうことを考えるわけにはいかないと、実は今でも思っているくらいです。ですから、何かのお役に立ったというのは、そうであったら大変幸せです。」

 

SGRA会員の白寅秀さんは、「先生のお話を聞くと、非常に謙虚に話していらっしゃるという感じがいたしました。というのは、先程、戦前、日本がアジアに対してやった日本の行為は失敗であった、新宮澤構想では何とかアジアの国々に役に立ちたかったという話をされました」という感想を述べた後、「積極的な意味でのアジアの価値観、あるいはアジア共同体としての意味合いというものを、こちらから発信しなければならないと思うのです。そういうところで、先生ご自身が考える、アジアならではの独自性、東アジアから発信できる新しいものとはどういうものでしょうか」という質問をしました。

 

宮澤先生は、「私はアジアについて非常に控えめではなくて、実際には現実的だと思っているのです。なかなか、経済の領域を越えて、一緒にコモンなことをやろうというのは難しいと思っているのです。それは、各々の国にいろいろ政情があって難しいということもあります。国によっては政権が安定していないということもあります。そういうことの前に、共通なものがなかなかお互いの間で意識されていないと思うのです。それを育てるのがグローバリゼーションだということならそれでいいのですが、何で一致できるかという共通なものがなかなか見つからないのに、グローバリゼーションだけで一致したのでは困るのです。しかし、幸いにしてこうやって平和が続いていますから、お互いそういうものは見つけるようになっていくかもしれません。ただ、あまり私自身はオプティミスティックになれないものですから。ことに日本がその中で何かリーダーシップを取ろうなどということには、どうも私は賛成ではないです。そんなことは出すぎたことだと、私は思っているのです。そのような気持ちです。」と答えられました。

 

私は今、「戦争前に日本も一生懸命アジアの国のために何かをしようとしたが、全くそれは失敗に終わったということを肝に命じる」という原点を見失わないようにしながらも、アジア通貨危機における「新宮澤構想」が「アジアのアジア化」へ大きく転換したきっかけのひとつであり、その後活発になった「東アジア共同体」議論に繋がっていると評価したいと思います。

 

宮澤先生のご冥福をお祈り申し上げます。

 

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<今西淳子(いまにし・じゅんこ)>
学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から関わり、現在常務理事。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より平和教育と異文化理解を目的とする青少年の国際交流事業を行うグローバル組織であるCISV(国際こども村)の運営に参加し、日本国内だけでなく、アジア太平洋地域や国際でも活動中。