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エッセイ036:張 紹敏 「ハーシー、与えられた町」

ハーシーという名前を聞くと、日本では米国のチョコレートや製菓会社と思う人しかいないかもしれない。その会社の誕生地であるハーシーの町はアメリカ人にとって、本当に甘い町であるが、リラックスできるリゾート地でもある。大人にとっては、ゴルフや音楽を楽しむ場所であり、子供や若い人にとっては、チョコレート・ワールドやハーシー・パークで一日中過ごせる。夏になれば、学生の修学旅行の目的地にもなる。しかしながら、実際に住んでみると、静かで人に優しい町であった。ハーシー・パークの100周年を迎えて、今年はイベントが満載だ。ハーシーから車で10分ほどのところにハリスバーグ国際空港があるが、シカゴ経由で日本に行けば、ニューヨークのJFK空港から成田空港へ飛ぶ直行便より料金が安いので驚いた。

 

ハーシーはペンシルベニア州の中南部にある人口2万人未満の小さな町である。町名の由来は博愛家のミルトン・ハーシーの名字。ハーシー氏は19世紀の中ごろ農家の息子として生まれ、貧困生活を送り、兄弟の中でただ一人生き残った。小学四年の学歴しか持っていないハーシー氏は、四年間お菓子屋の徒弟として働いた後、フィラデルフィア、シカゴ、ニューヨーク市で三回創業したが、全て失敗。19世紀の後半になって、四回めの挑戦として、ランカスターでキャラメルの創業に成功した後、彼はチョコレートの製造を習った。その頃チョコレートはスイスの贅沢品であったが、アメリカの大衆にチョコレートを食べさせたいと思った彼はキャラメルの会社を売り、牛乳が豊かな地元に戻って従来のブラックチョコと組み合わせ、ミルクチョコレートを創ったのだった。

 

チョコレート事業の成功だけでなく、従業員の生活環境を向上させるため、ハーシー氏は工場の周辺に新しい施設を作り、木や芝生を植え、整備した街路、煉瓦作りの居心地の良い住宅を作った。今のハーシー・パークには、水泳用プールや劇場、小学校から高校までの公共学校もあるが、全てハーシー氏や会社や財団が寄贈したものである。「一人の幸せは皆の幸せの一部である」というのが彼の哲学だった。1963年のある日、ペンシルベニア州立大学に電話があった。ハーシー基金のある役員から、ハーシーで大学の医学部と病院を作りたいということだった。それがハーシー医学センターのはじまりだ。それから2千人以上の医学生が卒業したが、今現在、8千人以上の医者、看護婦、研究者らがここで働いている。私もその一人になった。ハーシーの町自体が「アメリカの精神」と呼ばれる「share(分かち合うこと)とgiving(与えること)」の一つの例といえるかもしれない。それは、「日本の精神」の一つ「和」に近いかもしれない。

 

私が初めて「アメリカの精神」に出会ったのは、8年前に私がアメリカに来て切手を買った時。その切手には「Share & Giving – The American spirits」と書かれていた。娘が小学校の2年生の時に起きた小さな事件を忘れられない。ある日、先生が、クラスの全員に、「明日、皆とShareする何かを持ってきてください」とおっしゃった。次の日、学校から帰ってきた娘は泣きながら次のように話してくれた。「友達は皆、自分で作ったものをShareしていたの」「友達は何を作ってきたの?」と私。「Build-A-Bear!」と娘は答えた。私にとっては、それまで聞いたことのないことだった。「じゃ、それを作ってみよう」その週末、娘は生まれて初めての「Build-A-Bear」を作り、次のShare Dayに持っていった。子どもたちは、Build-A-Bear Workshop(注)で、新しいふわふわの友達を作ることができる。実際は、さまざまな素材や色のぬいぐるみや洋服やグッズを選んで組み合わせるだけだが、7-8歳の子どもたちにとっては「手作り」ということになる。「share」という言葉は、子どもたちが友達と一緒に遊ぶものを持っていくということだけでなく、それが「手作り」のものであるということを指している。時間をかけて自分の手で作った大切なものを、友達と分かち合う。子どもの時から、成長するために必要な知識と同時に「心」も学んでいるのだ。

 

今日、「和」の国日本の学校でいじめが大きな社会問題になっているのが信じられない。

 

(注)約36種類ある動物のキャラクターの中からお気に入りを選んで、自分だけのぬいぐるみが作れる体験型ストア、それが「ビルド・ア・ベア ワークショップ」です。1997年米国セントルイスにオープン以来、子供たちはもちろん大人たちにも人気を呼び、全米230店舗、世界14カ国で40店舗以上に成長しています。2007年には創業10周年を迎えます。
http://www.buildabear.jp/

 

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張 紹敏(ちょう・しょうみん Zhang Shaomin)
中国の河南医学院卒業後、小児科と病理学科の医師として働き、1990年来日。3年間生物医学関連会社の研究員を経て、1998年に東京大学より医学博士号を取得。米国エール大学医学部眼科研究員を経て、ペンシルベニア州立大学医学部神経と行動学科の助理教授に異動。脳と目の網膜の発生や病気について研究中。失明や痴呆を無くすために多忙な日々を送っている。学会や親友との再会を目的に日本を訪れるのは2年1回程度。
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