SGRAかわらばん

エッセイ033:マックス・マキト 「比中関係を考えさせる僕のミニ東アジアサミット」

12月7日にマニラへ一時帰国した。間もなくセブ島で東アジアサミットが開催される予定だったが、台風上陸を理由に、フィリピン政府は中止してしまった。日本では大騒ぎだったようで、「本当の理由は何ですか?」と今西代表からメールがきた。それで、我家の朝食時に大議論になった。「やはり、政府がだめだ」という母に対して「まあまあまあ」という父。僕にとっても中止の理由は理解しがたかったので、多くの人々と同様、非常にガッカリだった。

 

後日、政府に近い経済学者と話したら、本当に台風に対する恐怖だったらしい。数週間前にマニラとその周辺は強い台風に直撃されて、想定外の大変な被害を受けた。マニラだけで大規模な停電が一週間も続いた。SGRA研究チームの顧問である平川均先生と、マニラ郊外にあるトヨタ経済特区を訪問したが、その台風で駐車場にあった百台以上の新車がやられたと聞いた。あの台風のトラウマがあの中止に繋がったと理解しても良いだろう。

 

僕はサミットの中止が非常に残念で、自分なりに何かできればと思っていたところ、ちょうどそのチャンスが来た。

 

2005年の香港・広州訪問がきっかけとなり、広州の政府系研究所(GASS)から研究者二人をフィリピンに招くことになった。僕は、共同研究の仲間であるフィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)と提携させるように努力した。GASSの事情によって何回も訪問の日程が変わった。結局、UA&Pがもうクリマス・正月休みに入った時期に彼らはやってきた。ころころ日程が変わっただけでも、対応が大変だったが、サミット中止を挽回すべく、せめてフィリピン訪問で良い印象が残るように努力した。UA&Pのシニア・エコノミストを運よく捕まえて朝食会議をし、GASSとUA&Pとの交流(研究や英語・中国語学生交換)は再確認された。UA&P校内の見学もできて、中国では見たことがないクリスマス飾りなどに大変興味津々なので僕も嬉しかった。

 

残りの滞在期間で、どうしてもフィリピンらしいところを見学したいと言われて、家族をあげて協力し、要望通りのツアーを組むことができた。世界一小さい火山までボートで行って乗馬もしたようだ。この時は、父と、たまたま北京から一時帰国していた、中国語のできる従兄弟が案内役だった。さらに、温暖で綺麗な海と白い砂のビーチにココナッツという典型的な南国リゾートとして有名なBORACAY島に行きたいという。厳しい冬から逃げてだしている連中で今の時期はどこも一杯だが、弟とその友達が知り合いのネットワークを使って頑張って探した結果、ちょうど二人分の飛行機便や宿泊所を見つけることができた。GASSのお客さんは非常にハッピーで広州に帰った。

 

ささやかながらもフィリピン政府のサミット中止を補うことができたと思っていたところ、2度目のチャンスがやってきた。UA&P・SGRAの共同研究であるフィリピン経済特区の研究の最終報告を行うセミナーが、寒い北京で一月に開催されることになったと、助成機関の東アジア開発ネットワーク(EADN)の事務局から急に知らされたのだ。暖かいバンコクで開催されるはずだったが、政治的な事情で開催場所や時期が変更された。EADNは東アジア諸国の研究者が中心だが、その研究報告の時期がセブ島の東アジアサミットの新しい開催時期にも重なった。UA&Pの共同研究者は参加できないので代わりに僕が頼まれた。またサミット中止のようなことにならないように、東京で大学の授業は始まるけれど、この報告の仕事を引き受けることにした。短時間で北京報告会の参加準備をして、発表当日までかかって用意したパワーポイントを使って何とか上手く発表できた。

 

更に、その後、サミットの中止を補うことができるような3度目のチャンスがあった。今西代表の強い推奨で、北京の大学で教えているSGRA会員の孫建軍さんと朴貞姫さんと会うことになった。東京の渥美財団新年会とほぼ同時進行で、ラクーン会(渥美財団同窓会)新年会を北京で行った。孫さんがわざわざEADNセミナーの会場まできてくださり、翌日、朴さんと3人で一緒に時間を過ごした。二人とも、日本語に対する高需要に圧倒されて忙しいけれども、よく日本のことを考えている。朴さんはとても日本を懐かしがっているし、孫さんは北京大学で修士か博士のレベルで勉強したい日本人を探している。最後に、孫さんの話題のご自宅も訪問でき、記念写真を撮ってもらった。北京観光の準備をする余裕がなかった僕は、案内していただけることになって助かった気がした。

 

二人とも突然の訪問の僕を暖かく向かえてくれた。冬なのになぜか北京のSUMMER PALACEを訪問した。中国なのになぜかSTARBUCKSで休憩した。北京なのになぜか北京ダックの入っていない中華料理の夕食を食べた。振り返ってみれば、不思議なコースを僕が選んでしまったと後悔している。あのGASSのお客さんを見習って、ちゃんと前もって訪問都市の勉強をしておくべきだった。

 

以上のように、政府のサミット中止を自分なりに補う三つのチャンスを体験したが、このニヶ月間で、僕の人生における比中関係の要素が多くなったと感じる。その結果がどうでもあれ、僕の努力が報われたかのようにセブ島の東アジアサミットも無事に終わった。中国代表がフィリピン滞在をもう一日伸ばして交渉が行われ、フィリピンと中国の政府は、観光を含むあらゆる分野における協力について合意した。僕がマニラや北京で実感したように、中国とフィリピンの関係は一層深まっている。

 

北京のEADNセミナーでは、日本が高いレベルで体験した共有型成長を注目した世界銀行の「東アジアの奇跡」報告を取り上げた。この報告では「歴史的な事故(HISTORICAL ACCIDENT)」によってフィリピンと中国は共有型成長を果たせた対象国に含まれていない。この「歴史的な事故」によって中国とフィリピンは対象国と違う経済構造を持つようになった。中国では中央集権的計画経済の実験で世界銀行報告の対象期間において殆ど市場経済はなかった。フィリピンではスペインなどの植民地化の影響で「アジアで唯一のラテン系の国」と呼ばれるようになった。「ラテン系の国」とは、野心的な工業化を図ったが失敗して国際債務問題に巻き込まれ、成長が鈍くて貧富の格差が大きいということである。悲しいことだが、僕が共有型成長を習おうとしている日本も、最近違う方向に向かっているように見える。

 

それにも関わらず日本の特殊な発展経路に関して北京の学会で発表を終えた僕は、東京へ帰る便を、近代的な北京国際空港で待っていた。ワイド・スクリーンでボクシングの試合が放送されていた。僕はこんなことに普段興味がないが、試合はフィリピン人対ラテン・アメリカ人だったので思わず最後まで見ることになった。フィリピン人選手は相手を3回も倒して勝った。このことは、共有型成長がなかなか実現できないフィリピンが、ラテン系の歴史を克服して共有型成長の可能性を切り拓いていくことに、日本や中国がなんらかの形で関係することになる前兆だと信じたい。

 

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マックス・マキト(Max Maquito)
SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。
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