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包 聯群 「火事で焼失した小学校の再建をみんなの手で実現させることができた」

中国黒龍江省泰来県には515 人が居住するウンドル村がある。2003 年8 月30 日、笹川科学研究助成による満州語の調査をしていた私の目の前で、村の人々の心を痛める事件が発生した。1946 年に設立され、多くの人材を育てた歴史をもつモンゴル族小学校が火事によって一瞬の内にその形を変えてしまった。村の人々はあまりにも悲惨な出来事に言葉を失った。

 

この村ではモンゴル族が全体の73%、漢民族が15%、満州人が10%、ダグル族が2%を占めている。
村の周辺はすべて中国語が話されている環境であるが、ウンドル村の人々の日常用語にはモンゴル語がもっとも多く使われている。小学校の児童は40 名程度で、母語であるモンゴル語を勉強できる唯一のモンゴル族小学校であった。しかし、火事が発生する前から一部の人による小学校合併の動きがあった。小学校4 年生から2.5 キロ以上離れた別の村に通わせ始めていた。火事が発生した後、小学校3 年生からのすべての児童を別の村に通わせた。教師もそれぞれ別の村へ派遣された。仮教室に1 年生と2 年生の児童及び教師一人が残された状態であった。

 

村民が学校再建委員会を設け、地元の行政へ事情を説明し、学校再建を求めた。その後、県教育局の責任者が村に行って、村民たちに経済的な理由により再建できないという説明をした。絶望した村民たちは、私宛に日本からの応援を求める手紙を送ってきた(2004年4 月6 日)。手紙を読んだ私は、日本側を代表する責任の重さを感じる一方、母校でもあった小学校のために何かをしなければいけないと思い、母校出身3 名が中心となり、在日小学校再建委員会を立ち上げ、様々な活動を開始した。

 

しかし、実行は容易ではないことに気づいた。多くのボランティア団体(東武練馬コスモスの会、東京・
沖縄・東アジア社会教育研究会、SUNUS、フフ・モンゴル・オドム、モンゴル民族文化基金など)に支援を求めた。国際交流も視野に入れて、東武練馬コスモスの会の支援のもとに留学生たちが中心となり、様々な祭り(10 回程度)に参加し、モンゴル料理の販売をした。それによって、異文化を紹介し、国際交流を進める一方、学校再建資金の一部(他は支援金)を集めることができた。

 

その時、最も重要なのは教師を派遣できるかどうかという問題であることに気づき、2005 年3 月に一時
帰国して地元の各行政機関を訪問し、黒龍江省民族委員会から学校再建に必要とする資金の半分を支援する約束をしてもらった。泰来県教育担当の副県長さんも日本の多くの皆様と多くの留学生のご支援を理解し、特別な計らいによって、小学校に5人の教師を派遣し、モンゴル語科目の再開も許可された。今年の5 月に日本から10 万人民元を学校側に渡し、小学校の再建を求めた。9 月に東武練馬コスモスの会が中心となる日本人10 人グループが小学校の開校式に参加した。地元の行政官僚も大勢参加し、日本への感謝の気持ちを述べ、日中友好関係が永遠に続くことを祈ると発言した。 

 

最後に言いたいことは、村民の笑顔を取り戻した「小学校再建活動」の背景には、渥美国際交流財団からの欠かせないご支援が存在していた。お金と時間のかかる小学校再建活動は、私にとって、経済的に大きな支えがなければできないことであった。財団の奨学金とご支援が私のパワーとなり、それらを活動に生かせたからこそモンゴル族小学校が再建できたと位置付けている。

 

(2005 年10 月記)中国黒龍江省泰来県には515 人が居住するウンドル村がある。2003 年8 月30 日、笹川科学研究助成による満州語の調査をしていた私の目の前で、村の人々の心を痛める事件が発生した。1946 年に設立され、多くの人材を育てた歴史をもつモンゴル族小学校が火事によって一瞬の内にその形を変えてしまった。村の人々はあまりにも悲惨な出来事に言葉を失った。

 

この村ではモンゴル族が全体の73%、漢民族が15%、満州人が10%、ダグル族が2%を占めている。
村の周辺はすべて中国語が話されている環境であるが、ウンドル村の人々の日常用語にはモンゴル語がもっとも多く使われている。小学校の児童は40 名程度で、母語であるモンゴル語を勉強できる唯一のモンゴル族小学校であった。しかし、火事が発生する前から一部の人による小学校合併の動きがあった。小学校4 年生から2.5 キロ以上離れた別の村に通わせ始めていた。火事が発生した後、小学校3 年生からのすべての児童を別の村に通わせた。教師もそれぞれ別の村へ派遣された。仮教室に1 年生と2 年生の児童及び教師一人が残された状態であった。

 

村民が学校再建委員会を設け、地元の行政へ事情を説明し、学校再建を求めた。その後、県教育局の責任者が村に行って、村民たちに経済的な理由により再建できないという説明をした。絶望した村民たちは、私宛に日本からの応援を求める手紙を送ってきた(2004年4 月6 日)。手紙を読んだ私は、日本側を代表する責任の重さを感じる一方、母校でもあった小学校のために何かをしなければいけないと思い、母校出身3 名が中心となり、在日小学校再建委員会を立ち上げ、様々な活動を開始した。

 

しかし、実行は容易ではないことに気づいた。多くのボランティア団体(東武練馬コスモスの会、東京・
沖縄・東アジア社会教育研究会、SUNUS、フフ・モンゴル・オドム、モンゴル民族文化基金など)に支援を求めた。国際交流も視野に入れて、東武練馬コスモスの会の支援のもとに留学生たちが中心となり、様々な祭り(10 回程度)に参加し、モンゴル料理の販売をした。それによって、異文化を紹介し、国際交流を進める一方、学校再建資金の一部(他は支援金)を集めることができた。

 

その時、最も重要なのは教師を派遣できるかどうかという問題であることに気づき、2005 年3 月に一時
帰国して地元の各行政機関を訪問し、黒龍江省民族委員会から学校再建に必要とする資金の半分を支援する約束をしてもらった。泰来県教育担当の副県長さんも日本の多くの皆様と多くの留学生のご支援を理解し、特別な計らいによって、小学校に5人の教師を派遣し、モンゴル語科目の再開も許可された。今年の5 月に日本から10 万人民元を学校側に渡し、小学校の再建を求めた。9 月に東武練馬コスモスの会が中心となる日本人10 人グループが小学校の開校式に参加した。地元の行政官僚も大勢参加し、日本への感謝の気持ちを述べ、日中友好関係が永遠に続くことを祈ると発言した。 

 

最後に言いたいことは、村民の笑顔を取り戻した「小学校再建活動」の背景には、渥美国際交流財団からの欠かせないご支援が存在していた。お金と時間のかかる小学校再建活動は、私にとって、経済的に大きな支えがなければできないことであった。財団の奨学金とご支援が私のパワーとなり、それらを活動に生かせたからこそモンゴル族小学校が再建できたと位置付けている。

 

(2005 年10 月記)