SGRAかわらばん

エッセイ042:今西淳子 「活躍するSGRAの仲間たち:広州・香港(2)」

大学城から広州市へ戻る途中で広東料理レストランへ寄りました。「食は広州にあり」ですから、広州のレストランの大きさと活気にはいつも圧倒されます。典型的なレストランは数百人ものお客さんが軽くはいれる1階のフロアーと2階に個室がたくさんありますから、予約もせずにふらっとはいっても、10人くらい何でもありません。レストランのお店の前には、水槽があって様々な魚が泳いでいます。その横の金網の籠の中には亀や蛇。勿論、全部食材です。食材の多さに料理法の多様さが加わって、何ページもあるメニューをみながら、中国の皆さんは、ああでもない、こうでもないと、喧々諤々話しあいながら何を食べるか決めてくれます。たとえば、私の大好物の青菜炒めでも、5種類くらいの青菜から選ぶことができます。

 

胡さんは、日豊興業というトヨタ系列の会社に勤めています。トヨタが広州郊外の南沙という経済特区に工場を作ったので、胡さんの会社もここに進出しました。残念ながら、今回は南沙まで行く時間がなかったのですが、既に事務所を購入されたとか。胡さんは、成型、塗装、組み立て関係の設備製作、消耗品の提供とアフターケアの管理が仕事のようです。私が「昨年10月に北京に行った時には、日本車が少なくて、ヒュンダイばっかりだったので、日本企業はだめと思ったけど、広州にきたら、圧倒的にトヨタとホンダだったので安心した」(私が日本の自動車産業を擁護しなければならない理由は何もないのですが・・・)と言うと、「中国の自動車産業は、地方政
府との結びつきを考えなければだめですよ」ということ。胡さんは、広州トヨタの工場が一段落したので、現在天津のトヨタ系列の工場建設に加わっていますが、天津トヨタと広州トヨタは全く違う会社だということです。しかも、もっと凄いのは、天津のT社が胡さんの設計したモノの図面(ノウハウ)を他社に提供して発注したとのこと。その上、今度は、それが広州に進出するニッサンの工場も使われるのだそうです。わざわざニッサンの系列会社が来るほど生産規模が大きくないので、「日本の」系列会社をシェアするわけです。こうなってくると何が何だかわかりません。同じ中国のトヨタでも全く別の会社かもしれないし、トヨタとニッサンというライバル会社でも、同じ系列会社が請け負うということもあるのです。「これから中国の自動車産
業は戦国時代です」とは胡さんの説明です。

 

久しぶりに会った仲間たちとの会話が弾みすぎて、香港行きの列車に乗り遅れました。広州駅に着いたのは、発車10分前だったのですが、「出入国検査」があるので、もう構内にいれてくれませんでした。「一国二制度」とは、他に類のない制度ですが、旅行者から見れば要するに別々の二つの国です。広州駅で中国側の出国審査をして、香港の駅で香港への入国検査をします。胡さんは、用事があるので深せんまで送ってくださるとのことだったのですが、深せんから香港まで徒歩で「国境」を渡るのは、普段は30分くらいの列ですが、お正月は大変混雑していて2時間以上並ばなければならないので、電車の方が速いと思ったのです。中国人にとって、香港に行くためには、戸籍のある場所で発行する特別の許可証が必要です。中国パスポート+ビザでないのは「一国」だからでしょう。現在、アジアの人が日本へ来る時に、ビザが不要なのは、シンガポールとブルネイと香港と韓国だけです。香港パスポートは特別です。だから、中国からたくさんの妊婦さんが出産をするために香港へ行くのです。運の悪いことに、10分遅れたために私が乗ることになった次の列車は、2時間半遅れで出発し、香港には予定より4時間遅れて、夜11時に到着しました。残念ながら、予定していた夕食会はお流れになってしまったのですが、ホンハム駅には、SGRA会員の叶盛さんが待っていてくれました。ありがとう!叶さんは、バイオテクノロジーを専攻して東大から博士を取得した後香港で就職し、現在は香港城市大学で研
究員をしています。中国の大学時代にしていたのはお茶の研究で、東京でお会いしていた時には最先端の科学者のわりにはおっとりしていたのに、今やすっかり香港人になって「研究の目的ははっきりしています、金儲けのため!」とのことでした。

 

急遽、翌日に昼食会をすることになりました。香港人のSGRA会員は日本やアメリカに滞在中ですが、中国人のSGRA会員が2名香港で活躍しています。叶さんと、もうひとりは侯延昆(本当は王+昆)さんです。侯さんは、東工大から化学の博士号を取得した後、エール大学でポスドクの研究をし、渡米後3年目には米国化学アカデミーに就職して、渡米5年めにはオハイオ州に芝生に囲まれた一軒家を購入し、日曜日にはゴルフなども始めてみましたが、それでは物足りなくて、奥さんに家族と家計を支えてもらって1年半の最短期間でコーネル大学のMBAを取得しました。この間、アメリカのパスポートをもつお子さんが2人生まれました。東京で少し働いた後、香港の美国雷曼兄弟亜州投資有限公司で働くことになりました。どこの会社だと思いますか?名刺には、Lehman Brothers Asia Limited, Analyst: Asia Ex-Japan Equity Research – Auto/Auto Partsとあります。当初は、化学製薬関係の証券アナリストを目論んでいたのですが、世界で有数のこの投資銀行が必要としていたのは、中国の自動車産業と部品産業の会社を投資家のために分析できる人物だったのです。これは、今までに誰もやっていなかった分野で、しかもまだまだ情報も少なく、侯さんはしょっちゅう広州に行っているとのことでした。今の会社は、半分以上が中国出身のアナリストで、その仕事ぶりは本当に凄いということです。

 

侯さんの会社のあるのは、香港島のInternational Finance Center(IFC)ですが、ここは東京の大手町とあまり変わりません。そこの地下のレストランで昼食会を開催しました。勿論、香港ですから飲茶です。その時の会話で印象に残っていることがふたつあります。ひとつは、「ポスドクの頃はあんなに貯金できたのに、給料が数倍になったのに今は・・・」という話。まあ、今は家族もいますし、引越しも多かったから仕方ないですね。もうひとつは、「昔は中国標準語を香港で話していると見下されるように感じたけど、今はそんなことはなくなった」とのこと。香港では広東語が主流で、今でも標準語を話さない人も多く、標準語よりも英語が通じる場合も少なくないようです。それにしても、香港における「標準語を話す人」の評価が、中国の経済発展とともに変っていったというのは興味深い話でした。

 

侯さんは、「東京は空港が遠くてすごく不便」と言います。それもそのはず、IFCの地下には空港エクスプレスの駅がありそこでチェックインすれば、あとは電車に15分間乗って、30分前までにゲートに行くだけ。これでは成田はとてもかないません。

 

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今西淳子(いまにし・じゅんこ)
学習院大学文学部卒。コロンビア大学大学院美術史考古学学科修士。1994年に家族で設立した(財)渥美国際交流奨学財団に設立時から関わり、現在常務理事。留学生の経済的支援だけでなく、知日派外国人研究者のネットワークの構築を目指す。2000年に「関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)」を設立。また、1997年より子供のキャンプのグローバル組織であるCISV(国際こども村)の運営に参加し、日本国内だけでなく、アジア太平洋地域や国際でも活動中。