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エッセイ824:野田 智仁「その研究、何の役に立つの?~基礎研究の意義について~」

「その研究、何の役に立つの?」という質問は、研究を行う上で避けられず、多くの研究者が聞き飽きているのではないだろうか。とりわけ、応用や製品化を前提としていない「基礎研究」に携わっている研究者の多くにとっては、決して楽しい質問ではないだろう。私は内心、

 

「愚問ですね」

 

と返したい気持ちもあるが、さすがに過言であり、かつ思考の放棄である。ましてや、公的資金や財団資金など、他人のお金を使って研究を行っている以上、説明責任がある。私はこれまで、ゴキブリやカメムシ、ショウジョウバエなどに関する研究を行ってきたため、申請書などを書く際には「害虫駆除への応用」というような謳い文句を使ってきた。嘘ではない、が、日頃このようなことはほとんど考えていない。

 

近年、研究が「役に立つ」かどうかは社会的にも非常に重要なテーマとなっている。「選択と集中」に代表されるように、「役に立つ」研究を優先し、基礎研究を軽視する傾向が世界中で見られるからである。日本の研究力低下の要因として基礎研究の規模縮小は度々取り沙汰されており、2025年ノーベル生理学・医学賞受賞者の坂口志文氏は、近年の日本の研究環境について警鐘を鳴らしている。

 

「基礎研究に対する支援の厚みが、昔と比べて薄くなってきている」

坂口志文

 

また、2016年ノーベル生理学・医学賞受賞者の大隅良典氏は、大隅基礎科学創成財団を設立し、自ら基礎研究支援に取り組んでいる。基礎研究をとりまく環境は、多くの研究関係者が危機感を抱いている問題である。

 

「国に頼らず、社会が大学の基礎科学研究をサポートする仕組みを創りたい」

大隅良典

 

基礎研究はなぜ重要なのか。また、その重要性がなぜ社会に十分浸透しないのか。実用的側面と、研究という文化に関わる哲学的側面の両方から考えてみたい。

 

基礎研究の重要性は、一言で言えば「無用の用」に尽きる。一見、役に立たないように見えるものが、実は重要な役割を果たしているという、道家思想であり、思いがけない形で「役に立つ」ことのある基礎研究の本質をよく表している。現代では生活の一部となった衛星利用測位システム(GPS)は、アインシュタインの相対性理論なくしては機能しない。しかし、アインシュタインが相対性理論を発表した1905年から、GPSの開発が始まった1973年の間には半世紀以上の隔たりがあり、当時このような応用がなされるとは考えていなかったであろう。アインシュタインは自然の摂理を追究していたのであり、「役に立つ」かどうかは重要ではなかったのである。思いがけない基礎研究の点と応用研究の点がつながる例は枚挙にいとまがない。科学技術の発展には基礎研究と応用研究の両方が不可欠であり、基礎研究は応用研究の土台となるのである。この点について、2012年ノーベル生理学・医学賞受賞者の山中伸弥氏は次のように述べている。

 

基礎研究は種をまく研究で、応用研究は育ってきた芽を大きく咲かせる研究

種をまく基礎研究がなければ、想像を超える大きな花は咲かない

山中伸弥

 

つまり、人間は、何が「役に立つ」かを事前に予測できるほど賢くないということである。一見すると悲観的な見方かもしれないが、私にとって、この上なく開放的である。やってみなければ分からない。そして、それがいつ、どのように「役に立つ」のかもまた分からないのだ。

 

一方で、基礎研究に携わっている立場からすると、この理由だけでは不十分とも感じる。そこには、研究という文化や哲学に関わる側面があると考える。

 

話は逸れるが、人間とその他の生物を分けるものは何だろうか。一見単純な問いであるが、人間特有と考えられていた性質は次々と他の生物にも見出されており、明確な答えを出すのは意外と難しい。私はその一つとして、「知の蓄積と継承」を挙げたい。人間以外の生物は、直接接触した個体(例:親から子へ)から知識を得ることはできても、500年前の知識にアクセスすることはできない。一方、人間は書物や記録を通じて、1000年以上前の思想に触れることができる。人間は知を蓄積し、それを後世に継承し積み重ねることで発展してきたのである。その根底には、知の集積(知識欲)とその継承(共有欲・顕示欲)が人間にとって根幹的な欲求であり、人類の発展を支えてきた重要な要素の一つではないだろうか。そして、基礎研究とはその欲求の最大の現れなのではないだろうか。

 

私は生物や自然世界が好きであるとともに、研究というプロセスに惚れ込み、研究の道に進むことを決意した。私の個人としての知的好奇心を満たしてくれる行為であるとともに、研究という文化や哲学に惹かれたからである。長い年月の中で、途方もない数の人々が抱いた小さな疑問への探究、一人一人の貢献は限りなく小さい微々たるものであっても、その集積によって、現在の人間の英知が形作られているという点に研究の哲学がある。私もその一人でありたい。私の小さな貢献がいつか、誰かの新たな疑問のきっかけとなれば、それは私の基礎研究が真に「役に立つ」瞬間であろう。

 

そんな研究ロマンに思いを馳せながら、私は今日もゴキブリを眺めるのだ。

 

<野田 智仁(ノダ・トモヒト)NODA Tomohito>

1996年、日本生まれ。2025年度渥美奨学生。2018年英国エクセター大学環境生命学科卒業。2021年東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻前期(修士)修了。2026年3月、同博士課程後期(博士)修了。ゴキブリをはじめとした、様々な昆虫と微生物の共生関係についての研究を展開。2026年4月より沖縄科学技術大学院大学(OIST)進化ゲノミックスユニット・日本学術振興会特別研究員(PD)として研究活動を継続。

 

 

 

2026年7月9日配信