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エッセイ803:尹在彦「『ファクトチェック報道』とは何か:ジャーナリズムの観点から日本の現状を考える」
近年、日本でも「ファクトチェック(factcheck)」という用語が広く浸透してきた。「ファクトチェック」とは、真偽が不明だったり、信ぴょう性に欠けていたりする情報を検証する作業だ。身近なところでも、X(旧Twitter)でAIアシスタントのGrokに「ファクトチェックしてください」とタグを付けて投稿する例が多く見られ、Grokが詳細に回答してくれている。
民間非営利団体(NPO)「日本ファクトチェックセンター(JFC)」などは、SNSで拡散された情報の真偽を判定し、頻繁に投稿している。朝日新聞も2025年6月に「ファクトチェック編集部」を設立し、配信を強化した。
日本における「ファクトチェック」は、主にSNS上の誤情報(事実と異なる情報の総称)や偽情報(意図的に流布された誤情報)への対応に重点が置かれている。しかし、これは海外で見られる「政治ジャーナリズムとしてのファクトチェック報道」とはやや性格が異なり、意識されないことも少なくない。このエッセイでは日本におけるファクトチェックの現状への違和感を指摘して、ファクトチェック報道の本来の意義を再確認したい。
メディア業界におけるファクトチェックには大きく二つの文脈がある。ひとつは、日本で「裏取り」と呼ばれる伝統的な取材プロセスだ。報道前に取材内容の真偽を確認する作業であり、例えば政治家の不正疑惑を取材した際には、関係者やその周辺への取材を通じて情報を検証する。
もうひとつは、2000年代以降に米国で発展した新しいジャーナリズム手法で、政府や政治家の発言や情報を対象として真偽を判定し、その過程を記事に明示する点が特徴だ。これはイラク戦争時に米国メディアが政府の情報を鵜呑みにしたことへの反省に端を発している。「○○氏がこう言った」と表面的な事実だけを伝える報道は、影響力の大きい政府や政治家の拡声器となりかねないという危機意識から、この新しいジャーナリズムが生まれた。
米国では「FactCheck.org」(2003年)や「PolitiFact」(2007年)「ワシントンポスト」の「ファクトチェッカー」(2007年)が誕生した。出発点はすべての誤情報への対応を目的としたものではなく、政府や政治家の発言を検証する「メディアの公的役割」として始まった。このため、米国のファクトチェック報道では政治家の演説やSNSアカウントが頻繁に取り上げられる。2014年以降、韓国でもファクトチェック報道が注目され、現時点においても多くのメディアが配信している。米国と同様に政府や政治家の発言が主な検証対象であり、選挙の有無にかかわらず日常的に報道されている。
一方で、日本のファクトチェック報道は政治家への言及が少なく、主にSNSやインターネット上の情報を対象としている。例えば、朝日新聞のホームページに掲載された17本(2025年1月以降)のファクトチェック記事のうち、国内政治家が対象は5件のみであり、残りは海外政治家(ドナルド・トランプ氏など)やSNSアカウントが検証対象だ。この背景には、記者クラブ制度を通じたメディアと政治家との近い関係や、公正中立や客観報道を重視する文化的価値、そして政府や与党への心理的抑制などが影響していると考えられる。そのため、日本では「ファクトチェック=ネット情報の真偽判断」という認識が定着した。
朝日新聞や毎日新聞、神戸新聞などが今年、とりわけ参議院選挙に向けてファクトチェック報道を積極的に展開するようになった契機は、昨年の兵庫県知事選挙だった。当時、一部の政治家や有権者から示された「メディア不信」の高まりが背景にあった。日本でいち早くファクトチェック報道の可能性に注目したジャーナリストの立岩陽一郎氏(元NHK記者・現大阪芸術大学短期大学部教授)は「多くの在阪メディアから助言を求められた」と証言している。しかし、政府や政治家の発信内容を正面から検証する「政治ジャーナリズム」としてのファクトチェック報道は、いまだ限定的であると言わざるをえない。
ファクトチェック報道の必要性はどこにあるのか。第一に、「虚偽あるいは誤解を招く発言を繰り返す政府や政治家に対する持続的な牽制」という役割だ。第二に、「将来における歴史的記録としての価値」を持つ点が挙げられる。ジャーナリズムに求められるのは、不確かな情報環境においても、可能な限り事実に近い情報を社会に提示し続けることだ。
ファクトチェック報道は受け手の政治的態度を即時に変える効果が限定的とも指摘されている(特に強固な支持層において)。それでもなお、政府や政治家に対する抑止力として機能し、市民社会が事実に基づいて議論を行うための前提条件となるという点に、その社会的・歴史的意義がある。類似した虚偽情報が形を変えて繰り返し政府や政治家から発信される。過去のファクトチェック報道が後続の検証作業の基盤となることも、すでに学術的に明らかになっている。ファクトチェック報道は単なるSNS上での偽・誤情報対策にとどまらず、より広く民主主義社会を支える公共的実践として捉えるべきである。
<尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jaeun>
東洋大学社会学部メディア・コミュニケーション学科准教授。延世大学(韓国)社会学科を卒業後、経済新聞社で記者として勤務。2021年、一橋大学大学院法学研究科にて博士号(法学)を取得。同大学特任講師、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所非常勤講師などを経て2025年、現職。渥美国際交流財団2020年度奨学生。専門は国際関係論およびメディア・ジャーナリズム研究(政治社会学)。
2025年11月6日配信



