SGRAかわらばん
エッセイ798:イドジーエヴァ・ジアーナ「共感について」
東京に越してから共感についてよく考えさせられる。朝の通勤ラッシュ、満員電車。ドアが開くたびに、ホームで待つ人々が容赦なく押し寄せ、車内の乗客はさらに圧縮される。皆は自分が少しでも快適な位置を確保しようと無言の戦いに挑んでいる。満員電車は弱肉強食の世界である。息苦しさに耐えながら、誰もがスマートフォンの画面に目を落とし、イヤホンで外界の音をシャットダウンし、できる限り他人の存在を意識しないようにしている。その中、一人の若い女性がふらついた。体調が悪いのか、彼女は吊革に手を伸ばそうとしたが、人波に押され、バランスを崩して隣の男性にぶつかってしまった。男性は彼女を横目でにらみ、舌打ちする。女性は申し訳なさそうにお詫びの言葉を呟いた。彼女は周囲の誰もが見て見ぬふりをする冷酷な無関心の中で立ち尽くした。
このような光景は東京では決して珍しくはない。肘打ちされたり、足を踏まれたり、怒鳴られたりすることもある。満員電車の暴力性にはもはや誰も驚かないどころか、多くの人はそれを当たり前のものとして受け入れている。しかし、これは単なる過密状態による偶発的な摩擦ではなく、むしろ共感の欠如がもたらす現象ではないだろうかと考えたりする。誰かが具合悪そうにしていても、席を譲る人は少ないし、トラブルが起こっても、多くの人は関わらない方がいいと思い、無関心を装う。満員電車の中では助け合うよりも、いかに自分のスペースを守るかが優先される。それは冷たさというよりも、生き抜くための無意識の戦略なのかもしれない。
共感とは他者の感情や立場を理解し、寄り添うことだと言われる。それは本当に必要なものなのだろうか?人によって考え方が異なり、共感こそが社会を繋ぐものだと思う人もいれば、逆に共感があるからこそ苦しいことがあると思う人もいる。確かに、共感はときに負担にもなる。SNSを開けば、誰かの怒りや悲しみがあふれ、共感するよう求められる。職場では、上司や同僚の気持ちをおもんばかることを求められ、家に帰れば、家族の感情に寄り添うことを期待される。その結果、共感する余力がなくなり、無関心になるのは、ある意味で当然のことなのかもしれない。
しかし、共感の欠如は無関心だけを生むわけではなく、暴力を生んでいることに着目したい。
満員電車で舌打ちをする男性の表情には、苛立ちや疲れだけでなく、どこか攻撃性がにじんでいた。ぶつかってきた女性を自分のパーソナルスペースに侵入した邪魔な存在としてしか見ていないような目だった。共感がない場所では、人は他人を障害物としてしか見なくなる。他者の痛みを想像しなければ、それは単なるノイズになり、邪魔になれば排除しようとする。満員電車での舌打ち、無言の肘打ち、強引な押し合いは暴力の一形態であり、自分の空間を守るための正当な行為として認識される。この縮図は社会全体にも広がっている。ネット上での誹謗中傷、職場での冷たい態度、すれ違いざまにぶつかっても謝らない街の空気。共感が薄れ、相手をただの障害物として扱うとき、そこには暴力が生まれる。
共感を失った社会で、どうすればその人間らしさを取り戻せるのか。共感は特別な才能ではなく、意識して育てるものなのかもしれない。例えば小説を読むことで異なる人生を疑似体験できる。誰かの話をじっくり聞くことでその人の世界を垣間見ることができる。あるいは、街を歩いて、ふとした人の表情に目を向ける。それだけで、人との距離が少し縮まることもある。更に一歩踏み込めるなら、知らない相手と話してみるのもいい練習になる。例えばいつも通っているスーパーの店員さんと話してみるだけで、その人は障害物ではなく、生身の人間であることに気付く。当たり前のように思えることなのに、現代人はその当たり前のことを忘れかけている気がする。特に東京のような大都会に住む人は。
ただ言うまでもなく、誰もがいつでも他人に共感できるわけではないし、常に優しくあれとは言わない。ただ、どこかでほんの少し誰かのことを思う余白があれば、それだけで世界の見え方は変わるのかもしれない。満員電車の中で誰かが倒れそうになった時に、手を伸ばす人が一人でも増えたなら、その小さな行為が私たちに人間らしさを取り戻すきっかけとなるはずである。結局は三島由紀夫が言っていた通り、「人間というのは、自分のためだけに生きて、自分のためだけに死ぬというほど強くはない」。少しでも他人のことを考える余裕があれば、きっと毎日見慣れている光景が変わり、弱肉強食の悪循環から抜け逃げ出す道を見出せるとひそかに考えたりする。
<イドジーエヴァ・ジアーナ IDZIEVA Diana>
ダゲスタン共和国出身。2024年度渥美財団奨学生。東京外国語大学大学院総合国際学研究科より2021年修士号(文学)、2025年9月博士号(文学)予定。主に日本の現代文学の研究を行っており、博士論文のテーマは今村夏子の作品における暴力性。現在、東京外国語大学、慶應義塾大学、津田塾大学で非常勤講師。
2025年7月17日配信