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エッセイ787:キン・マウン・トウエ「ミャンマー大地震の経験」

2025年3月28日午後12時50分(日本時間:15時20分)、ミャンマーの中心部にあるマンダレー市の近くサガイーを震源にマグニチュード7.7の大地震が発生した。地震の経験が少ないミャンマーの人々にとっては、瞬時に自分が生き残れるかが決まる一生忘れられない出来事だった。予測もしていなかったし経験もないから、地震直後は困難なことがたくさんあった。

 

「サガイー断層(Sagaing_Fault)」と呼ばれる1200キロ以上もある長い断層がミャンマーを南北に縦断していることは、1930年ごろから専門家によって指摘されていた。今回の大地震を引き起こした動きは「ストライクスリップ」であり、2つのブロックがお互いに水平に動いた。実は、サガイー断層プレートを中心とした大地震が100年後(現在)に起きるとも予測されていた。

 

ミャンマーの首都ネピィドー管区、マンダレー管区、サガイー管区、南シャン州に大きな被害が起きて多くの建物が潰れた。4月1日に死亡者2719人、負傷者4521人、行方不明441人と発表があり、その後も増加し続けている。

 

多くの高層ビル(例えば11階建て1000室以上のスカイヴィラ高級マンション)が潰れ、たくさんの命が失われた。地震の後、マンダレーの街に出てみると、家を失ってホームレス生活をしている人々がたくさん居た。命が残されても食料や水、寝る場所、仕事場がなくなり、夢を失い、心の傷を負っている。階段を見るだけで怖い、家は残ったが戻るのが怖い。一瞬のうちにホームレス生活になった友人たちを見て、支える言葉も出ない。40度以上の暑さは被災者の健康をむしばむ。5月になれば雨季に入り、テント生活もできなくなる。被災者のために心が痛む。

 

自分に命が残されたのは幸せなことだった。地震が起きた時、マンダレー市にある市民病院に2カ月半前から入院している91歳の父親のところに居た。父を背負って4階から階段で運び出した。父はこの混乱によるショックで危機的な状態に陥ったが、病院スタッフのみなさんのおかげで助かった。

 

地震が発生した時、家族はばらばらだった。幸いにも病院のインターネットがまだ使える状態だったので、バンコク留学中の娘から連絡があり、お互いの無事を確認した。マンダレーの学校に通っている次女は潰れた校舎から抜け出し、先生たちと避難したとの連絡があり安堵した。6階の自宅に居た妻と息子に連絡が取れなくて心配したが、2時間後に私が経営する居酒屋のスタッフと避難したとの連絡を受け、やっと全員の無事が確認できた。「イビススタイルホテル」内にある「居酒屋秋籾(AKIMOMI)」は大きな被害を受け、日本から苦労して輸入した大事な食器や飾り物が壊れてしまった。ただ、マンダレーから車で1時間ほど離れた避暑地ピンウーリンで経営する「ホテル秋籾」は、日本人の設計と監督によって建設されたこともあってか、大地震の影響はほぼない。

 

今回の大地震によって、家族とスタッフ全員の命に影響が無かったのは幸せだった。そこで、被災者のために私ができることをしようと考えて支援活動を始めた。まず、「ホテル秋籾」に滞在しているマンダレーからの被災者(多くは、年配の方たちと子供たち)に心の傷を短時間でも忘れてもらうために、特別な夕食を無料で提供して皆さんに美味しく、楽しく過ごしていただいた。部屋代の割引やできる限りのサービスを行った。ホテルに滞在している100人ぐらいの被災者しか支援できないので、お弁当も作って病院に差し入れた。

 

今、私の力ではお弁当や飲み水を配布することしかできない。これから必要になる医薬品やドライフード、ソーラー電気関係やテント、寝具など被災者支援のための募金を始めた。このエッセイを読まれる皆様にも「ミャンマー大地震復興支援活動のための募金」にご協力を願いしたい。

 

地震被害の状況や支援活動の写真

 

<キン・マウン・トウエ Khin Maung Htwe>
ミャンマーで「小さな日本人村」と評価されている「ホテル秋籾(AKIMOMI)」の創設者、オーナー。マンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手、Ocean_Resources_Production社長を経て「ホテル秋籾」を創設。SGRA会員。

 

 

2025年4月10日配信