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エッセイ714:オリガ・ホメンコ「ウクライナの2つの海」

私の2冊の日本語の著書を出してくれている群像社という出版社には〈群像社 友の会〉という読者の会費で成り立っている会があって、その会員向けに年2回、A3で4ページの『群』という通信を出している。この7月で60号(まる30年!)となる記念すべき号で、ウクライナに関する4つの質問を受けた。その1問目は「黒海はなぜ『黒い海』なのか、黒海、アゾフ海はウクライナにとってどんな海なのか」というものだった。本エッセイはその一部を修正加筆したものである。

 

日本には7月に「海の日」という休日があり、さすが海に囲まれた国だと思う。ウクライナには黒海とアゾフ海という2つの海があることはあまり知られてないかもしれない。日本の友達には「黒海は本当に黒いの?」とよく聞かれる。また名前の由来と黒海への思いについても。

 

黒海はいろいろな時代に、いろいろな国で異なる名前で呼ばれた。ギリシャ人には紀元前8世紀から知られていた。ヘロドトスの『歴史』では「北の海」と呼ばれている。紀元前1世紀頃のギリシャの哲学者のセネカは「スキタイの海」と呼んだ。同時代の地理学者で歴史家のストラボンによれば、この海はギリシャの入植者によって「黒い海」と名付けられた。ここで嵐や霧によって遭難したし、敵対的なスキタイ人とタウロイ人が住む未知で未開の海岸だったからだ。彼らは野蛮な見知らぬ人が住む海にふさわしい名前を付けた――「人を寄せ付けない海」「もてなしのない海」または「黒い海」と。しかし、入植以降、紀元前6世紀からは「もてなしのある海」と呼ばれるようになった。

 

ヨーロッパではギリシャやビザンチン伝統が強かったので、18世紀までの地図では「もてなしのある海」と呼ばれ続けていた。また海の部分は「キメリア海」とも呼ばれていた。またそれを略してポントゥス、ラテン語でMare_Ponticumとも呼ばれた。

 

一方、12世紀に書かれた古代スラブの年代記『過ぎし年月の物語』では「キエフ公国(ルーシ)の海」と呼ばれ、コサックの時代には「コサックの海」も呼ばれたこともある。

 

「黒海」という名前の由来にはいくつか説があって、どれが正しいのかは不明である。トルコ語からという説もある。トルコ語では「黒の海」と呼ばれる。トルコ系の民族では方向が色で示される伝統があって、黒は北を意味した。「黒の海」は北にある海という意味になる。その名前を使っている人は今でもいる。ちなみに南は白で、地中海は「白い海」と呼ばれている。だが「黒海」と呼ばれるようになったのは、トルコからの影響かは不明である。

 

黒海は、ウクライナ、ルーマニア、ブルガリア、ロシア、トルコ、ジョージアの海岸を洗っている。最大深度は2210メートルで、面積は42万2000平方キロメートル。そして150~200メートルの深さの水は硫化水素が多く、場合によっては火事になる可能性もある。船員たちは、この海を旅した後、船の錨やその他の金属部分が黒くなったことに気づき、海を「黒」と呼んだ。主たる海流は海岸に沿って反時計回りに流れていて、そこからの2つの支流が海の真ん中で北から南にねじれて互いに出会う。19世紀にイギリス船の乗組員はオデッサからイスタンブールまで海流に乗って帆を上げずに行き賭けたらしい。海底には、ムール貝、カキ、そして極東からの船によって運ばれた貝もいる。またこの海は100年に20?25センチメートルの速度で広がっているという。

 

バイロンの長編詩『ドン・ジュアン』の中では黒海はヨーロッパとアジアの間にある海と書かれ、またフランスのルイ14世時代の生物学者のジョセフ・ピトン・ド・トゥルヌフォールは「古代の人が何を言ったとしても、黒海には黒いものは何もない」とも書いている。そしてソ連時代の大衆歌には「最も青い黒海」という歌詞がある。『チョロノモーレツィ(黒海人)』というサッカークラブもある。

 

第二次世界大戦の前、「大陸政治」とは別に海を中心に考える特殊な政治コンセプトがウクライナで生まれたことがある。オデッサ出身の医者、政治評論家、詩人でもあったユーリイ・リーパが提起した「黒海論」である。それによれば、黒海周辺の国家は一つの政治ブロックを形成し、そのリーダーはウクライナであるべきだ。なぜなら、「黒海は黒海周辺の国家にとって経済的、精神的な土台になるものである。ウクライナにとって黒海は命に関わる空間である。そして面積、資源や人のエネルギーの多さを考えると、ウクライナが黒海周辺の国々の中で黒海をうまく利用する上で先頭に立つべき国である。それゆえウクライナ外交において『黒海論』は優先すべきものである」からだと述べている。

 

そして隣国と比較する時に「ヴォルガ上部地域がモスコビア(モスクワ公国)の陸軸である場合、ウクライナの陸軸は黒海の北東海岸だ。モスコビアの領土の中では川の大部分は北に流れるが、ウクライナでは、クバンを除いてすべての川が南に流れる。ウクライナの拡大の最も自然な軸は南軸であり、モスコビアにとって最も自然な軸は北軸だ。ロシアは北、ウクライナは南。両国は、人口と地政学的重要性の点で互いにバランスを取っている」と書いている。ちなみに満州にいたイワン・スウィットはこの「黒海論」の影響を受けて、極東シベリアでのウクライナ人移住の歴史を19世紀からではなく13世紀半ばから遡ることになった。

 

ちなみに、もう一つのウクライナの海、アゾフ海は世界にある63の海の中で最も小さくて内陸にある。ウクライナでは「子供用の海」とも呼ばれる。アゾフ海は世界で最も浅く、水深は13.5メートルを越えない。夏には28~30度くらいの海温になる。古代ギリシャ人は海とは考えず、メオティアン湖と呼び、ローマ人はマエオティアン沼地と呼び、スキタイ人はカラチュラック(リブネ)海と呼び、アラブからは「濃い青の海」と呼ばれた。現在のトルコ語でも「濃い青の海」と呼ばれている。

 

スラブの歴史上の記録では1389年に最初にこの海をアゾフと名付けている。アゾフという都市の名前が海の名前の由来という説がある。ここはギリシャ時代にボスポロス王国の植民地で、また10?12世紀にトムタラカン公国、そして13世紀にアゾフ地方はジョチウルス(キプチャク・ハン国、金帳汗国)の一部になり、その次にクリミア・ハン国(オスマン帝国の家臣)の領土になった。そしてコサックたちも1695~96年あたりにここまで戦いに来ていた。ウクライナの民族歌謡には『アゾフの町でトルコの逮捕から逃げた3人兄弟』というコサックの伝統的な歌もある。

 

18世紀のロシアとトルコの戦争の結果、ここはロシア帝国のものになった。ちなみに、トルコ語の「アザン」=「下のもの」、チェルケス語で「ウゼフ」=「口」または「河口」という意味もあるという。ウクライナではアゾフとオゾフという名前を両方とも使っていた。ソ連初期の1929年の地図ではウクライナ語でオゾフ海となっている。

 

1600年代以降、アゾフ海では多くの軍事紛争が発生し、ロシア軍に対するイギリスとフランスの同盟国の参加により、クリミア戦争という大規模な戦いも行われた。

 

アゾフ海はある意味ウクライナの中のアジアでもある。黒海とつながる最長でも4キロメートルほどの狭いケルチ海峡は、地理的にヨーロッパに位置するケルチ半島と、アジアと位置付けられるタマン半島を隔てている。海峡の真ん中には、ウクライナに属するトゥーズラ島がある。1925年までは小さな半島だったが、嵐でつながっていた部分が崩れて島になった。ウクライナに長さ6.5キロメートル、幅500メートルの小さなアジアの領土がついてきたとも言える。そこには「腐った海」と呼ばれるシワーシ池があり、健康に良い泥を利用したサナトリウムがたくさん建てられている。

 

山が少なく平たんなウクライナには海が2つあり、それが国の地理だけではなく歴史に大きく影響されてきたことを、海に対して特別な思いを持っている日本のみなさんにお伝えできたら嬉しい。

 

<オリガ・ホメンコ Olga_KHOMENKO>
キエフ・モヒーラビジネススクールジャパン・プログラムディレクター、助教授。キエフ生まれ。キエフ国立大学文学部卒業。東京大学大学院の地域文化研究科で博士号取得。2004 年度渥美奨学生。歴史研究者・作家・コーディネーターやコンサルタントとして活動中。
著書:藤井悦子と共訳『現代ウクライナ短編集』(2005)、単著『ウクライナから愛をこめて』(2014)、『国境を超えたウクライナ人』(2022)を群像社から刊行。

 

 

※留学生の活動を知っていただくためSGRAエッセイは通常、転載自由としていますが、オリガさんは日本で文筆活動を目指しておりますので、今回は転載をご遠慮ください。

 

 

2022年8月4日配信