SGRAかわらばん

エッセイ214:孫 軍悦「彼の名はトラちゃん(中)」

トラちゃんの金曜日

トラは外出が好きだ。朝は祖父ちゃんといっしょに散歩に出かけ、午後は、祖母ちゃんと一緒に買物に行く。祖父ちゃんと一緒なら、ただ歩くだけでつまらないけど、疲れたら抱っこしてもらえる。祖母ちゃんと一緒なら、海老や魚などいろんな生き物が見られて楽しいが、荷物を持たされる。「もう疲れたよ」とわざと袋をひきずって見せても、祖母ちゃんは知らん振りをする。トラもたまには一人で遊びたいのかもしれない。が、一人で外を歩かせるわけにはいかない。幼い頃は、被害を受けることが心配だったが、大きくなると、「危害」を加えることがもっと心配だ。

寂しくなったら、トラは大声で家族を呼ぶ。厳しい祖母ちゃんに対しては、顔をぐっと近づけ、大きな前歯を見せながら、鼻に皺を寄せて笑って見せる。すると、祖母ちゃんは「まあ、なんて醜い顔!」と笑い、思い切りトラを抱きしめる。優しい祖父ちゃんに対しては、彼はその腕に倒れかかり、お姫だっこ(!)をねだる。いまやこの要求に応じてくれるのは彼を溺愛する祖父だけであることを、彼はよく知っている。お父さんが帰ると、トラは直ちに洗面台に連れ込み、音を出しながら鼻をかむ真似をさせる。鼻炎のある父親のこの癖がいつの間にか二人の間の絆を確認する儀式となった。
 
もっとも、トラはいつもこのような温和な形式で感情を表現するとは限らない。髪を引っ張ったり、腕をつねったり、思い切り背中を叩いたり押したりするのも、彼ならではの関わりを求めるシグナルである。こうした「挨拶」の仕方はたしかに十分に「文明」ではないが、「こんにちは」といった万人に通用する文句より、はるかに豊かである。それは、相手との距離によって使い分けられた決まりきった挨拶ではなく、〈いま、ここ、あなたにだけ〉伝えたい彼の気持ちなのである。
 
しかし、彼の気持ちを理解しているつもりの私でも、ついに堪忍袋が切れ、「私はあんたの家来じゃねえよ」と、つねりかえしたことがあった。その時のトラの眼には、私の豹変への驚きと怯えと、理解されない悔しさと怒り、さらにどうしたら関係を修復できるかという困惑が交じり合っていて、私の脳裏に深く焼き付けられた。「トラよ、誰もが家族と同じように寛容ではないことをどうか理解してくれ!」、そう心のなかで叫びながら、私は後味の悪い「反撃」をもう二度としないと誓った。
 
トラは鋭敏な聴覚の持主である。マンションの四階にいながら、家族の誰かが階段を上ってくると、彼はすぐ誰であるかを正確に当てることができる。夕刻が迫ってくると、トラはそわそわしてくる。何度も、「パパ!」「ママ!」と大声で叫び、小鳥のように両腕をパタパタしながら玄関に飛んでいく。もっとも、「違うわ」と祖母ちゃんに言われ、しょんぼりと部屋に戻ってくることもしばしばある。どうやら、足音を正確に聞き分けられるのは、鋭い聴覚のおかげだけではなく、家族の帰りを心待ちしている彼の気持ちの現れでもあるようだ。
 
家族全員が帰宅すると、トラもようやく落ち着いてくる。早々に夕食を済ませ、ソファーに寝そべりながらアニメを鑑賞するのが、彼の至福の時間である。斜視がひどくなっているため、昼間テレビを見ることを祖母ちゃんに固く禁じられている。無論、祖母ちゃんの眼を盗んで、びくびくしながら見ることもなくはないが、正々堂々と見られるのは夕食の後だけなのだ。その時、もし「トラ、帰るぞ」と言ったら、彼は決まって泣きじゃくる。だが、「トラ、風呂に入ろう」と言ったら、彼はそれほど嫌がらない。
 
トラはお父さんと一緒にお風呂に入るのが好きだ。いや、正確に言うと、彼は鏡に映る自分の姿が好きだ。カラフルなバスタオルを身体に巻きつけ、鏡の前で、様々なポーズや表情を作りながら独りでげらげら笑っているのを見ると、さすが家族でも「まったく、鼻持ちならぬやつだ」と閉口してしまう。
 
こうやって、きれいになったトラちゃんは、「さようなら」と言いながら、祖父ちゃん、祖母ちゃんの顔によだれたっぷりのチューをして帰っていく。聞いた話では、寝る前に、お母さんに昔歌ってもらった子守唄を歌わせ、悲しそうに泣いたとか。
そんなに悲しい思い出、一体何だったのだろう。
 
トラの去った後の家は台風が去った後のようだ。電話から外れた受話器や、床に落ちた枕や、ひっくり返った亀や、葉の毟り取られた盆栽を眺めながら、祖母ちゃんはいつも恨めしそうに言う、「学校に預ければよかった」と。
 
だが、翌週の金曜日、トラがまた我が家にやってくるのである。(つづく)

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<孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue>
2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。
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2009年7月22日配信