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エッセイ584:エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ「私の日蓮(4):日蓮遺文の思想史的研究の方法論について」

「私の日蓮(1):日蓮研究に至った背景について」

「私の日蓮(2):日蓮の多様性」

「私の日蓮(3):宗教的主体性」

 

日蓮はまず歴史的人物だと言えるが、歴史を超える「何か」、すなわち『法華経』の教えの普遍性を踏まえて活躍した宗教者に違いない。言い換えれば、歴史の中にいながらも、歴史を超えた次元を前提に活躍した人である。また、科学は、数多くの文献について日蓮の真作かどうか答えることができても、何のためにその真偽問題を解決しなければならないのかは答えられない。「意味」も「目的」を持たない、ありのままの事実しか提供できないものだから。となると、「宗教的主体性」は問題を抱えているが、「科学的主体性」にも大きな限界があると言わざるを得ない。前者は「意味」と「目的」を提供することができても「思想史的研究」には相応しくなく、後者は何故「思想史的研究」を行うのかを説明できないからだ。

 

では、「疑い」続けられるものは、科学以外にもあるのだろうか。あるとすれば、それは哲学であろう。しかし、哲学は定義として、科学のように理性の活動でありながらも、所属の文化と時代の諸設定を乗り越えたところですべてを考え直す試みであり、ラディカルな批判性がある。そのため、日蓮遺文の「思想史的研究」に活用するとすれば、必然的に日蓮系の諸宗派と各教団の伝統・解釈・カテゴリー・研究方法へのラディカルな批判として働き出すことになるだろう。しかし、諸宗派と各教団の伝統・解釈・カテゴリー・研究方法と現代思想の諸設定を乗り越えたところで日蓮遺文の中身を考え直していく必要があると言えるが、このような「哲学的主体性」はどこまで現在の各教団に許されるのだろうか。更に、「哲学的主体性」こそ最良の手段であるということも、どこまで言い切れるのだろうか。筆者が研究している日蓮の「写本遺文」のケースを考えれば、答えが出てくる。

 

日蓮の「写本遺文」は、後代の弟子たちの「写し」しか残らず、日蓮の「真蹟」はないからこそ真偽について即断できないという点に加え、これまでの日蓮研究ではあまり指摘されてこなかったもう一つの大きな特徴が存在する。それは、どのような読み方をするかによって「真蹟」の内容と矛盾するかどうかが決まってくるということである。すなわち、「矛盾しない」という読み方を探っていくことも可能だという特徴である。しかし、日蓮教団の伝統に強く縛られていれば、そのようなことは簡単には出来ない。

 

筆者の研究では次のような方法を考えた。日蓮の「真蹟遺文」は2種類ある。
(ア)日蓮の代表作に該当する「真蹟完存の遺文」;これらは「真蹟遺文」の20%で、多くは日蓮が当時の有力な人物たちに宛てた論書である。今の日蓮各教団で最も信頼され研究されている資料である。
(イ)今の日蓮各教団ではあまり参考にされない「真蹟断片のマイナーな遺文」;これらは「真蹟遺文」の80%で、一般の信者の一人ひとりに宛てた資料である。
これまでの研究においては、日蓮の「写本遺文」の内容は(ア)としか比較されなかったが、(イ)とも比較すれば、次のようなプラスの3点が明らかになる。
(1)「真蹟断片のマイナーな遺文」は同じテーマに関して、より多面的で様々な角度を提供している。内容が豊富な資料であるため、「写本遺文」の内容と「真蹟遺文」とが矛盾するかどうか判断しやすくなる。(矛盾しないと考えやすくなる)
(2)「代表作」(上記(ア))という狭い範囲から「真蹟断片のマイナーな遺文」」(同(イ))にも視野が広がるということで、「真蹟遺文」のカテゴリー自体がより広くなる。
(3)(イ)との比較において発見できる日蓮思想の様々な側面を比較材料に導入することができるので、日蓮思想の全体像がより広くなる。

 

しかし、この作業には大きな限界が存在する。それは、2つの可能性に同時に導いてしまうことである。確かに、(1)日蓮の「写本遺文」の中身は、彼の「代表作」と「マイナーな遺文」から描かれる「日蓮本来の思想」に「ありえなくはない」ため、「真作らしい」と考えることもできる。だが、(2)日蓮の真作に見えるように後代の優れた弟子たちによって非常に巧みに偽作された可能性もある。

 

結局、日蓮の「写本遺文」は歴史的にも本当に彼の著作かどうかは確実な答えが出ていないままで、むしろ特に「信仰の立場からは問題ない」と言える箇所、すなわち「真蹟完存の主な代表作」と「真蹟断片のマイナーな遺文」のどれかに似ているとある程度言えるような理論を含んだ箇所に注目してこそ、逆に上記のような二重の可能性に最も導きやすく、結論を更に曖昧で複雑にしてしまうことになる。これが、諸宗派と各教団の伝統・解釈・カテゴリー・研究方法と現代思想の諸設定を乗り越えたところで日蓮遺文の中身を考え直していくという、「哲学的主体性」の大きな限界であろう。

 

どうしても、確実な答えに導いてくれる「何か」を新しく発見することが必要不可欠のように思える。例えば、現存する日蓮の「写本遺文」の1つずつが文献として歴史に初めて登場した時点から間も無く、「この書はこう言った理由で現在の~さんに作られ、師匠・日蓮の著作として最近はじめて収録されたものである」と根拠付けて明確に記す資料(宗門内の注釈書)さえ発見することができれば、筆者の研究はもう少し楽になるかもしれない。残念ながら現段階では、これは干し草の山で針を探すような試みである。しかし、同時に、今の日蓮研究では至難の試みであるからこそ、多くの研究者が日蓮の「写本遺文」に関心を抱き、魅力を感じる大きな理由になっている。

 

<エマヌエーレ・ダヴィデ・ジッリォ☆Emanuele_Davide_Giglio>
渥美国際交流財団2015年度奨学生。トリノ大学外国語学部・東洋言語学科を主席卒業。産業同盟賞を受賞。2008年4月から日本文科省の奨学生として東京大学大学院・インド哲学仏教学研究室に在籍。2012年3月に修士号を取得。2015年に大田区日蓮宗池上本門寺の宗費研究生。2006年度に仏教伝道協会の奨学生。現在は博士後期課程所定の単位を修得のうえ満期退学。身延山大学・国際日蓮学研究所研究員。

 

 

2019年1月31日配信