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エッセイ666:尹在彦「ヴィクトリアピークの霧」

 

1990年代までの韓国にとって、香港は文化の輸入が許された唯一のアジアの「先進地域」だった。韓国では長らく日本文化、特に映像コンテンツが禁止されていたため、香港を舞台にした様々な映画は憧れとして受け止められた。香港映画は旧正月やお盆の「引っ張りだこ」で、多くの韓国人を魅了した。イギリスの植民地ということもあってか、映画には多様な人種の人々が登場する。これもまた異国情緒を醸し出す要素だった。90年代を風靡した王家衛(監督)の映画は社会的なブームまで引き起こした。香港は民主化したばかりの韓国社会にとって「自由の象徴」でもあった。

 

韓国人の目線から見る現在の香港は複雑だ。香港は「帝国主義の被害地域」でありつつも、現在においては権威主義体制の激しい弾圧を受けている。韓国は歴史上、香港と同様の経験(植民地・独裁政権)をしており、そこから何とか抜け出した国である。そのため、私は香港に関して欧米系メディアの一方的な論調に比べれば中立的な話ができると思う。

 

香港は英国の帝国主義による植民地化で、中国では「百年国恥」の象徴として語られる(しかし、倉田徹・張イクマンによると香港が本土で注目され始めたのは90年代以降のことという(『香港』126頁)。宗主国(である)英国は、統治下の香港人に対しある程度の自由こそ与えたが、民主的な権利、即ち選挙権は80年代まで保障しようとしなかった。

 

1980年代に入り、英中間の返還交渉が進むにつれ、英国は急遽、新たな選挙制度を取り入れ始める。特に最後の総督、クリス・パッテンは返還日が近づく中で、無理をしてまで制度改革を推し進めた。やはりこれでは、英国の香港の民主主義に対する「本気度」が疑われても仕方ない。しかし、こういった側面は現状の香港問題を取り上げる中であまり注目されていない。特に欧米のメディアではそうである。返還交渉の結果、民主制度を50年間保障するとの取り決めに中国が合意したこと(一国両制)も重要であるが、英国に現状の問題への責任が全くないかといえばそうとは限らない。

 

1997年に香港が中国に返還されて以降、何度か大規模なデモが行われた。特に世界的に注目を浴びたのは2014年秋の雨傘運動だ。私は2013年と14年に取材のために香港を訪れた。13年には香港政治とは関係のない出張で、正直「暑い」という印象しかなかった。思っていたより英国色が薄いことも記憶には残った。

 

ところが、14年11月の出張では香港への見方も多少変わっていた。香港の若者問題をより詳しく知りたく、仕事とは直接的関係はなかったが若者の話を聞いてみた。気づかされたのは若者の経済的苦境だった。香港大学には現地人・本土人・留学生の3グループがあり、現地人学生の就職が最も厳しいという。広東語や英語だけではなかなか良い仕事にはありつけず、本土から来た優秀な学生たちが多国籍企業の本土進出の人材としてちやほやされているということだった。香港出身の若者たちにとって憧れの金融業への就職はまさに狭き門で、IT部門への就職は門戸が開かれているが、給料が非常に低かった。2010年代以降の若者を中心とした抵抗が、単純に政治問題でなく、経済問題が絡み合っていることを改めて実感した。

 

そういった若者たちの不満は解消されずむしろ膨らんでいった。それが2019年の法律改正の問題と相まって、中国政府に矛先が向かうようになったのだろう。これに対し中国政府は最初、トランプ(政権)との関係上、様子見の姿勢をとったが、コロナ禍の中で急速に規制を強めている。民主化運動の象徴とされた学生や起業家は次々と収監され、現在はほぼ芽が摘まれた状態だ。しかも、今年の全国人民代表大会(全人大)では「香港の代表者は愛国者に限る」といった法案が成立した。私は「国への愛し方」には様々なものがあり、人それぞれ違うと考える。そうした中で、香港では民主主義だけでなく、英統治下でもそれなりに守られていた自由が危うくなっている。世界的な支援の手が届かないコロナ時代は弾圧の格好の口実になっている。

 

韓国でも1980年代まで同様の理由で数多くの人(とりわけ大学生)が弾圧され、一部は国により殺害された。軍事政権は「内政干渉」を理由に、NGO等の介入を拒み続けていた。ただ、現在と構図が逆転している現象もあった。レーガン政権は全斗煥政権を認めていた。これに対し大学生らは米国大使館に対し「内政干渉(=独裁政権の認定)をやめろ」と叫ぶなど、反米運動を展開した。

 

香港に行くたびになぜか一度も欠かさずに登ったのが、夜景スポットのヴィクトリアピークだ。最後に訪れたのは2019年のことで、大規模デモの直前だった。しかし、霧があまりにもひどくて何も見えなかった。初めてのことで、まさに香港の未来を象徴するような光景だった。香港は中国だけでなく、アジアの民主主義の将来を占うカギを握っている。これからも香港をウォッチしなければならない。

 

 

<尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jaeun>
2020年度渥美国際交流財団奨学生、一橋大学特任講師。2010年、ソウルの延世大学社会学部を卒業後、毎日経済新聞(韓国)に入社。社会部(司法・事件・事故担当)、証券部(IT産業)記者を経て2015年、一橋大学公共政策大学院に入学(専門職修士)。専攻は日本の政治・外交・メディア。

 

 

2021年4月8日配信