SGRAかわらばん

エッセイ653:申惠媛「適切な距離感の測り方」

中学生のとき、なにかの宿題だっただろうか、自分のことについて作文を書いたことがある。詳細はまったく思い出せないものの、日本に暮らす韓国人としての自分のことを振り返りながら、「私は私」という、今にして思えば小説等の影響を多分に受けていて、背伸びしてはなかろうか?と勘繰りたくなるような、しかし実に素直な結論で、担任の先生に気に入ってもらえたことが嬉しかった、そんな思い出がある。

 

今の自分と比べると、当時の私は常にアンテナを張っていて、ちょっとしたことで尖り、自分の考えを晒すことに躊躇しない、こわいもの知らずの十代だった。振り返れば眩しく、空恐ろしくもある。当時の私にとって、自分とはまわりに「日本に住む外国人」を認識してもらうためのこの上ない媒体であったし、日本語の拙さを指摘されなくなってからは、まわりの人々が持つなにかしらの固定観念を見つめ直してもらうために小さな発信を続けていた。社会学者の岸政彦は、著作『同化と他者化』において、マイノリティであることは果てしなく自己に問いかける「アイデンティティの状態」に置かれることであり、マジョリティであることはこのような問いかけから免除されていることであると述べたが、当時の私は(もちろんこのことは知る由もないが)まさにこうした問いかけを自分のみならずまわりに対しても投げ続けることに強く意味を感じていたように思う。

 

翻って今、日本に暮らす「外国人」をめぐる研究を選び取り、長い時間をかけて進めてきた私は、もう少し慎重で、当時の私からすれば不必要におどおどしているように見えるかもしれない。何かを発言する前に、立ち止まり、深呼吸して、推敲しようとする私は、良くも悪くも少しばかり「大人になった」のかもしれないが、どちらかといえば、当事者としての自分と、(まだまだ若葉マークではあれ)研究者としての自分のちょうど良い距離感を測り続けているからではないか、と感じている。

 

私は今でも変わらず、日常生活で覚えた小さな違和感をひっそりと拾い集め、積み上げている。入学式を控えたこの季節になると聞こえてくる、「桜をきれいだと感じるのは日本人ならではだよね」「日本に生まれてよかった」といった、なんてことはない言葉に対して、その度に引っかかりを覚える。特段何の悪意もない、「やっぱり韓国人だね」や「もう完全に日本人だよね」のどちらに対しても曖昧に笑ってうなずくことしかできない。淀みなく会話していたはずの相手に、名前を明かした途端にゆっくりとしたスピードになる日本語に、配慮を感じ取るよりももどかしさを覚えることも、依然として多々ある。

 

それでも、これらの思いは、私が研究を進める上での強烈な動機や基本的なスタンスにこそなれ、実際に議論を展開する際に挟み込まれることはないように、可能な限り注意を払って進めているつもりである。誰にとってもそうかもしれないが、少なくとも私にとって、論文を書くことは、いくつも厳しい批判を想定し、なんとか答えようとする作業の連続のように思える。私が思いつく程度のことはすでにとうの昔に答えられていて、より細かく、より新しい説明が求められる。先人の積み重ねた考察を読み進めるほど、新たな言葉を獲得すると同時に、自分が付け加えられる部分の小ささを思い知り、この圧倒的な営為の前では度々口をつぐむことになる。

 

それに、当然のことながら当事者としての私は決して誰かの代弁者になれるはずもなく、先行研究に当たることはもちろん、実際にフィールドに出かけて調査を進めていると、このことをより強く実感する。私が日本で暮らすことで見聞きし、感じてきたことは、あくまでもひとつの軌跡に過ぎず、同様に「日本で暮らす外国人」であっても、その経験や感性は千差万別である。そういった瞬間に遭遇する度に、当事者としての私は戸惑い、ときには落ち込み、傷つくこともある。調査は必ずしも「望ましい」答えを与えてくれないし、自己の一般化はただの驕りでしかない。

 

そうやって振り返れば、長い大学院生活を経て手に入れたのは、先人への敬意と、自分とは異なる他者への気付き、そしてそれゆえの慎重さであるように思われる。いまだに当事者としての自分と研究者としての自分の「ちょうど良い」距離感はうまく測れないことが多く、時に場面にそぐわず慎重すぎたり、感情的になりすぎたりすることもあるものの、おそらく他の多くの研究者もそれぞれの距離の取り方に悩み、試行錯誤しているのだろう、そんなふうに思って自分を奮い立たせる。「私は私」と言ってのけた遠い日の稚い勇気を少しばかり借りるならば、「私らしく」距離感を測り続けることにも意味があると思いながら、これからの研究生活を進めていければと願う。

 

<申惠媛(シン・ヒェウォン)SHIN_Hyewon>
渥美国際交流財団2019年度奨学生。東京大学教養学部附属教養教育高度化機構・特任助教。2013年東京大学教養学部卒、2015年東京大学大学院総合文化研究科修士課程修了、2020年同博士課程単位取得満期退学。専門は社会学、移民・エスニシティ研究。

 

 

2020年11月19日配信