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エッセイ629:シム チュン・キャット「そして、除菌マニアに僕は変身しました」

 

たまに行く大学やスーパーあるいは近所の散歩などから家に戻ったら、まずは黙って洗面所に直行し、一心不乱にうがいをおこなった後、今度はハンドソープで徹底的に手洗いします。手についた菌を殺したら、抗菌衛生使い捨てポリ袋を手に嵌めてすぐにまた戸外に戻り、これまで取った行動をそっくり繰り返しながら、玄関デジタルロックのナンバーパッドとそのカバー、ドアの取っ手、電気スイッチ、洗面所の蛇口などなど手で触った所なら、消毒液をたっぷり沁み込ませた脱脂綿で良い菌も悪い菌も分け隔てなく無表情で皆殺しにします。それから、ポケットの中の財布、小銭入れ、鍵とスマホも満遍なく滅菌します。今なら罪を犯しても現場に残した指紋と証拠を全部綺麗さっぱり消して、絶対捕まらないようにする自信があります。そうです。冷徹な無差別殺菌者に僕はなりました。除菌マニアに僕は変身しました。

 

つい先月まで、何でも抗菌・除菌・滅菌・殺菌するような人を僕は笑って冷ややかに見ていました。そこまで潔癖になって疲れませんか?無菌状態になってどんどん免疫力が落ちて弱くなるだけです!今にノイローゼになりますよ!と、心の中でちょっと小バカにもしていました。しかし人生とはやはり面白いもので、新型コロナ禍の中、そのような「小バカ」に僕はなったのです。菌よりも非常に狡猾で質の悪い困った相手である以上、ゼロ・トレランスで殲滅しなければなりません。

 

自分が感染しないために、とりわけ他の人を感染させないためにも、すべての菌も含めて敵に回し宣戦布告をせざるを得ません。ほとんどの菌が無関係な良い菌だと知りつつも大義名分のもとで撲滅しなければなりません。まるで人間同士の戦争のようです。特に検査件数が極端に少なく感染経路不明のケースが非常に多い日本において、いつどこで誰に感染させられてもおかしくないことから、ある意味テロへの戦争とも変わりません。襲われる前に先手を打って菌殺しに取りつかれる除菌マニアに僕が変身してしまうのも仕方がないというものです。

 

大学の授業でよく引きこもり問題について語る僕は引きこもりにも変身しました。当事者の体験を追体験するようで、その気持ちが少しわかるようになった気がします。なるほど、出かけたくても出かけられない、行きたい所があっても行けない、会いたい人がいても会えない、という焦りと不安の心境はこのようなものだったかもしれませんね。外で陽光が燦燦と降り注いでいるというのに外出を自粛しなければならないなんて、「春なのにため息またひとつ…♪」という昔の歌の歌詞を思い出します。

 

ところで、日本語の「自粛」という言葉もまた曖昧かつ厄介なもので、「自分から進んで自分の言動を慎むこと」という辞書的な意味からもわかるように、進んで慎むかどうかはあくまで本人次第で、法的な強制力がない以上、「春だから外出またひとつ…♪」という人がいても不思議ではありません。このせいか、海外の様子とは違って、日本ではどこか緊張感・危機感に欠けていると思うのは僕だけでしょうか。

 

確かに海外のような罰則がなくても多くの人はちゃんとディシプリンをもって外出を控えており、新宿、渋谷、銀座などの繁華街では人出が激減しているようですが、逆に地元の商店街がにわか繁華街になったり、スーパーやホームセンターなどの「生活必需品売場」が子ども連れの遊園地に化してしまったりしています。学校にも通えない子どもを外に連れていきたい気持ちは痛いほどわかります。わかりますが、このままで日本は大丈夫でしょうか、というのが無差別殺菌者である僕の正直な心情です。朝通勤する人数の減少は目標値に達していませんし、スーパーのレジ前の列を見る限りソーシャルディスタンシングも海外のようにきちんと守られていません。このままで本当に大丈夫でしょうか。ため息またひとつです。

 

このような呑気さ・無警戒さは恐らくリーダーの原稿読み上げ・棒読みスピーチと質疑応答に関連しているのではないかと僕は考えます。日本のリーダーによる、他人事のような、人に伝わらない、心に響かない演説スタイルは僕の国シンガポールのメディアにも取り上げられたぐらい、今の世界状況では逆に際立って注目されています。うつむいて読み上げる単調でモノトーンな宣言が「発出」されるたびに、シンガポールの友人から心配なメールがたくさん届くのも無理はありません。そもそも、「やさしい日本語」が求められる昨今において、「発出」のような普段使わない、永田町・霞が関文学的な言葉はなんとかなりませんか。

 

あと、トップが発する丁寧すぎる言葉も気になります。「ご理解いただきますようにお願いいたします」はまだ良いとして、「ご協力を申し上げさせていただきます」はへりくだりすぎて逆に緊迫感が薄れてしまうのではありませんか。除菌する前に僕が「殺させていただきたいゆえ、ご理解とご協力を申し上げさせていただきます」と手に向かって言ったら、無差別殺菌者の気持ちも緩んでしまうのではないでしょうか。とにもかくにも、新型コロナに対する日本の旧型の生温い対応でもこのまま持ちこたえられることを切に祈るばかりです。

 

何はともあれ、いつになるかはわかりませんが、夜が明けて僕の除菌・引きこもり生活にも終わりが来るのでしょう。ポストコロナの時代について、世界パワーバランスの変化やら、グローバリゼーションの終焉やら、自由市場の後退やら、独裁政権の台頭やら、民主主義の崩壊やら、経済活動の再編やら、国家間・地域間・民族間・階層間の格差の拡大やら、SGRAも含めて世界中の知性がいろいろ語っています。人類にとって大きな試練であることは間違いはなく、今後壮大な政治的、経済的、文化的、そして社会的な実験、挑戦と選択を我々は迫られることになるのでしょう。何より、それらの変動によって、あるいはそれらの変転とは無関係に、新型コロナによって否応なしに新型人間が生まれるのか、歴史は果たして大きな転換点を迎えるのか、まずポストコロナの自分がまたどのような変身を遂げるのかと、今日も僕は在宅勤務と自宅菌務に励みながら思いを馳せています。

 

<シム チュン・キャット Sim_ChoonKiat>
シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。昭和女子大学人間社会学部・現代教養学科准教授。SGRA研究員。主な著作に、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年、「論集:日本の学力問題・上巻『学力論の変遷』」第23章(日本図書センター)2010年、「現代高校生の学習と進路:高校の『常識』はどう変わってきたか?」第7章(学事出版)2014年、「世界のしんどい学校-東アジアとヨーロッパにみる学力格差是正の取り組み」はじめに、第1章、第8章(明石書店)など。

 

 

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2020年4月23日配信