Asia Cultural Dialogue

エッセイ624:平川均「社会倫理とグローバル経済:円卓会議『東南アジア文化/宗教間の対話』に参加して」

2020年1月、第5回アジア未来会議の円卓会議「東南アジア文化/宗教間の対話」がアラバン・ベルニューホテル(マニラ)とフィリピン大学ロスバニョス校を会場にして2日間にわたって行われた。テーマは「社会倫理とグローバル経済」。アジア経済が私の研究対象であり、発展途上経済、最近では新興経済と呼ばれる地域の経済発展に関心を持っていることもあり、円卓会議開催の趣旨説明を行った。そのため、特に円卓会議に参加する中で考えたこと、感じたことを述べることにしたい。

 

残念なことに私自身の語学力に加えて宗教や東南アジア社会に対する知識不足が加わり、その理解は限られている。そのため、会議の内容の紹介にはなっていない。これについては司会の労を取って下さった小川忠・跡見学園女子大学教授の報告で確認していただきたい。私自身も今後、記録が出された段階で、改めて経済学と宗教や社会倫理との関係について考えを深めたいと思う。

 

さて、本円卓会議を設けることの趣旨に関わって、私自身は、経済学が今日、発展途上社会に多大な影響を与えているにも拘らず、その社会への配慮が極めて不十分であると感じてきた。2001年のノーベル経済学賞の受賞者のジョセフ・スティグリッツ教授は、経済学を学ぶ学生の経済行動に関する公正の認識が一般の人々と掛け離れたものであることを、彼の同僚のシカゴ大学の経済学者リチャード・セーラー教授の経験を紹介する形で述べている。それによると、嵐の後に雪かき用シャベルの価格設定に関する調査で、値上げをアンフェアと考える回答が、一般の人々では82%であるのに対して、同大MBA受講生では24%に過ぎなかった。経済学の学生のフェアの認識は社会的なそれとは大きく異なっているのである。実際こうした事例は、現在進行中の新型コロナウイルス感染禍にあってマスクを高値販売する行為として身近で起こっている。スティグリッツ教授はまたアメリカ社会の所得格差の拡大で、富裕層と政治家の結託だけでなく経済学が一役買ってきたことを鋭く批判している。

 

経済学が社会問題に関心が薄い、あるいは利己的であるという問題提起に関しては、円卓会議の基調講演者であるバーナード・M・ヴィレガス・アジア太平洋大学副学長が言及した。ヴィレガス教授は経済学博士号を有する教育者として半世紀の経験に基づいて、経済学が過度の細分化と数量化を進めてきたこと、また経済学が経済現象の分析で数式の優雅さを競い、市場の自立性を強調し、正義や人間の社会的責任、そして国家の規制への配慮などを排除してきたことを客観的批判的に総括された。同時に、経済学は「社会科学」であるとして、フィリピンの貧困問題の解決のために諸科学の成果を採り入れて経済学教育を実践されてこられたことを説得的に述べられた。

 

フィリピンにおける貧困の女性化を扱われたフィリピンの聖スコラスティカ大学のシスター・メアリー・ジョン・マナンザン女史のご報告、タイにおける仏教の社会倫理認識とグローバリゼーションを報告された社会参画仏教ネットワークのソンブーン・チュンプランプリー氏の報告、そしてインドネシアにおけるイスラム運動の最新情報を報告されたシャリフ・ヒダヤツラ―州イスラム大学のジャムハリ・シスワント大学院長の報告は、いずれも東南アジアの宗教者の現在の課題を取り上げられた。

 

それらを聴きながら、私の知る経済学はそれらに真に応えられるのだろうかとの問いが浮かんでは消え、消えては浮かんだ。宗教者の社会活動は生身の人間を対象にしている。人々が様々な環境や条件の中で絶対的貧困や性差別を含む様々な差別と闘っていることに直接に関わっている。東南アジアの社会活動の多くが、貧困や性差別からの解放に向けられている。

 

考えてみるに、経済学は社会を明らかに異なる視点から捉えている。経済学は、複雑な社会関係を単純な抽象的市場のモデルで表し、その市場を通じて社会が「効率」を最大化できると捉える。ここでの市場は、理念と現実の区別を曖昧なままに社会を同一視している。その上、現在主流の経済学では、数学的モデルを通じて現実の社会が捉えられ、それ以外の社会科学は排除されている。もちろん経済学は現在大きく発展し、現実に近づくために様々なモデルが作られている。原理的なモデルは修正されている。

 

だが、こうした経済学が発展途上世界に適用されるとき、果たしてどうだろうか。開発の処方箋を書き上げる経済学者は発展途上社会に関する知識をほとんど持っておらず、そうして作られた処方箋が先進国や国際開発機関を通じて政策とされている。結局、そうしたモデルは単純な市場モデル、つまり原理的なモデルに依拠する政策でしかなかったと言えるだろう。政策が失敗する場合は、その原因は発展途上社会それ自体の中に求められてきた。1997年のアジア通貨危機への対応が好例である。

 

経済学では、あえて言えば経済と社会の区別はないように私には思える。経済のグローバル化の中で経済学は発展途上地域の開発に関わり、発展途上諸国に自由化、民営化を強制してきた。そのことで起こる様々な矛盾は弱者に押し付けられてきた。

 

話が少し飛躍するが、2008年のアメリカのサブプライムローン危機に発する世界金融危機、そして2017年のアメリカのトランプ大統領の誕生は、新自由主義経済学が推し進めてきた政策の失敗の帰結の面があるように思われる。また、成功するはずがないと思われた共産党政権下の中国が、驚異的な発展・成長を達成したことは痛烈な皮肉である。それは主流派経済学への現実社会の反撃と捉えられるのではないか。あらゆる社会にはルールが必要である。だが、過去半世紀の経済学はそれを規制と捉えることで社会のルールを壊し所得格差を拡大させ、社会的分断を深め、経済と社会を劣化させてきた。その付けがアメリカの外と内の両方における民主主義の危機なのではないか。

 

円卓会議で、私が経済学は抽象的な「モデル」を前提として厚生を考えていると発言した時、シスター・マナンザン女史が辟易とした表情を見せた。そのように私には感じられ、鋭く心に突き刺さった。

 

「経済学は科学である」という言葉も頭に浮かぶ。だが、社会科学としての経済学は抽象的モデルの現実社会への適用に関しては、自制的でなければならないし、諸科学との協力・協調の中で政策が作りだされなければならないのではないか。経済学がどれだけ学問的な優位性を主張しても、それだけでは独断であり傲慢でしかない。国際開発、貧困開発では自制的態度が、今まで以上に切実なものとして求められているのではないか。

 

経済学は確かに部分的、局所的分析、政策では有効性を持つ。それは間違いない。しかし、発展途上社会に適用しようとする時には、とりわけ慎重さ、自制が求められる。アジア通貨危機の頃だったと思うが、経済学者が発展途上国の歴史や社会を学ぶことは政策決定で判断を曇らせると、かつてある著名なアメリカの経済学者が語ったとの逸話を思い出す。経済学は現在、発展途上経済の開発に大きな影響力を持つ。経済学を学ぶ者は社会や歴史について真剣に学ぶ必要がある。2日間の円卓会議の場に身を置いて、社会との関係について考えさせられた。今後も両者の関係と持続可能な共有型成長について考えていきたいと思う。

 

最後に、このような円卓会議の開催は、私には経済学と宗教を考える貴重な契機となった。基調講演をお引き受け下さったビリエガス教授はじめ、報告者と参加者の皆様、開催と運営にあたって司会の小川忠教授、ランジャナ・ムコパティヤヤ博士、プロジェクトコーディネーターのブレンダ・テネグラ博士、フェルデイナンド・C・マキト博士、そして私の通訳もしてくれたソンヤ・デール博士ほか関係者すべての皆様に感謝を申し上げたい。

 

英語版はこちら

 

<平川均(ひらかわひとし)HIRAKAWA_Hitoshi>
京都大学博士(経済学)。東京経済大学等を経て、名古屋大学大学院経済学研究科教授/同国際経済動態センター長を歴任。現在、名古屋大学名誉教授、浙江越秀外国語学院特任教授、国士舘大学客員教授。渥美国際交流財団理事。主要著書に、平川均・石川幸一ほか共編『一帯一路の政治経済学』文眞堂、2019年、「グローバリゼーションと後退する民主化―アジア新興国に注目して」山本博史編『アジアにおける民主主義と経済発展』文眞堂、2019年、ほか。

 

※円卓会議『東南アジア文化/宗教間の対話』の報告は下記もご覧ください。

◇小川忠「経済学と宗教実践―壁を乗り越える試み

 

2020年3月19日配信