SGRAかわらばん

エッセイ610:シュテファン・ヴューラー「やっぱり『被災者とはだれ?』『被災地とはどこ?』に還ってくる」

初めて福島に行ったのは、去年の5月だった。渥美財団のふくしまツアーに参加し、福島県・飯館村に2泊3日滞在した。行った先でもっとも印象に残って、ずっと気になって、そして今回もまた、CISV日本協会関東支部主催の「International_People’s_Project(IPP)ふくしま」に、SGRAのヴォランティア通訳者として参加し再び飯館村を訪れようと思った動機の一つとなったのは、責任の不平等な「分配」、負担の不平等な「分配」、「こっち」と「そっち」という線引きの恣意性を意識させる、もっと簡単に言ってしまえば、福島の再生とは誰の問題なのかという問いを投げかけてきた声だった。

 

いうまでもなく、印象に残ったことはその他にも様々にある。オーストリア東北部にある父の故郷を連想させた美しい森と畑の間に広がる、周りに溶け込むような深緑色、あるいは派手に目立つ不気味な黒のシートでカバーされている汚染土の山々の無視しようもない存在。その山々が現政府にとって「オリンピックで手がいっぱい」なゆえ、ずっと農業地を占領している問題。放射能汚染で農地として使えなくなった畑の一部に広がるソーラーパネルの何十パーセントかが大企業のもので、現地に届くのが借地料のみである問題。
そしてそんな状況の中で、原発事故と津波による被害が良くも悪くも若い世代にとって故郷を後にして別の場所で根を下ろす契機となった一方、年配の人が、自分が生まれ育って何十年間も生きてきた地域を再生させようと踏ん張っているという、ローカル・コミュニティを走る亀裂―ずっと東京に住んでいると、新聞やテレビでは3.11、福島第一原発事故、放射能汚染の問題はとっくに終わった話らしく、これらの問題について知る機会が少ない。だから、被災地、「現場」に身を置いてみてその場を生きている人たちの話を聞くことは、このようにもう少し具体的な問題意識を持たせてくれる貴重な経験だ。

 

去年そう思って感想をまとめたところ、一つの疑問が浮上してきた。「現場」とはおかしな表現なのではないかと。「現場」、被災地とはどこだ。放射能汚染で避難指示区域となった場所?帰還困難区域?復興作業、除染作業が行われている市町村?福島原発?それじゃ東京は?日本は?太平洋は?―「現場」はどこだ。今回もまた、実は飯館村に行く前に、まだ荷造りもしていない出発の数日前から、去年の飯館村での経験を思い出し、去年のこの疑問が浮かんできた。そのきっかけとなったのは、IPPふくしまの外国人参加者2人と一緒に、日本語が話せないこの2人の通訳者、コミュニケーションのサポートとして、1泊2日ホームステイすることとなったホストの星野さんがあらかじめ送って下さった、飯館中学校のある生徒による英語弁論大会のスピーチである。

 

CISVは平和で公正な世界の実現に貢献する地球市民を育成することを目標に、世界69カ国の国々で、11歳以上全ての年齢の人々を対象にした国際教育プログラムと地域プロジェクトを実施している民間非営利団体である。その教育プログラムの一つであるIPPは、19歳以上の参加者が地域の課題にその土地の人々、関係する団体と協力して取り組む2~3週間のプログラムで、今年の8月11日から24日まで福島県飯館村で開催された。前半は滞在している地域・飯館村について知ってインプット、後半は地域に貢献してアウトプットという2部構成のこのプロジェクトのちょうど真ん中の週末は、飯樋地区・佐須地区の有志のご家庭での1泊の村内ホームステイと、その次の日に、廃炉資料館と福島第一原発廃炉工事現場の視察があった。

 

他の渥美財団の元奨学生4人と一緒にこの3日間のプログラムに通訳サポートとして参加した。ホームステイは、小宮地区の山中にある、百数十頭飼っている牛舎を見学し、震災後の福島での農業について知ったり、真野湖へドライブして綺麗な景色に圧倒されながら真野ダムの歴史について学んだり、ホストが家の庭で、人が集まって交流できるもう一つの場所として作った石窯でピザを焼いて星空の下で食事したり、ホストの家にあった様々な楽器でジャムセッションもやったり、また飯樋町コミュニティーの協働草刈りを手伝ったりと、盛りだくさんの2日間だった。飯館村周辺のやはり今でも問題の多い現状を、しかし、この地域の自然の豊かさとこの地域の人たちの心の広さとともに、いくつか新しい視点から経験できた。それを可能にしてくれたホストの星野さんに感謝の気持ちしかありません。

 

その新しい視点の一つとなったのは、飯館村地域包括支援センターに保健師として勤めており、飯館村周辺のとりわけ年寄りの人のケアに携わっているホストが、「対話のきっかけとして」あらかじめシェアしてくれた、上述の飯館中学校の生徒による英語弁論大会のスピーチである。学生の名前は佐藤安美、スピーチのタイトルは「Don’t_Call_Us_Victims」(被災者と呼ばないで)。その中で、佐藤さんは次のように書く。

 

「私には口にしたくない言葉があります。それは『被災者』という言葉です。災害による被害を被った人のことを意味します。私はもう被災者ではありません。そう呼ばれることにうんざりしています。〔・・・〕多くの人はメディアから情報を得て、それを真実だと信じています。実際に私は震災についてテレビ番組をたくさん見ましたし、インタビューもたくさんされました。だから、私たちは一生懸命がんばっているという事実を皆さんに伝えようとしてきました。しかし〔・・・〕映像やインタビューは誇張した話で作られていました。私たちをただの被災者に仕立て上げるのです。彼らの望む通り、私たちは永遠に被災者であり続けなければいけないのでしょうか。確かに、被災者はみじめなものとして受け取られがちです。でも私はそうは思いません。被災者は必ずしもかわいそうではないのです。」(村の広報誌「いいたて」2017年12月号、8頁)

 

このスピーチを読んで、去年の疑問―被災地、「現場」とはどこだ―を思い出し、考え込んだ。「被災者」とは誰だ。というか誰かを「かわいそうに」と「被災者に仕立て上げる」こととはどういうことかと。思うに、それは「こっち」を「そっち」から分断するための恣意的な線引き、「そっち」の無責任な放置だったりするのではないか。ならば、「じゃ線引きやめよう」という訳にもいかない。他でもない「わたし」であろうとする人間である以上、いずれ線引きはするから。「こっち」と「そっち」と。線引きのない夢の世界へと浪漫飛行するより有意義なのは、だから、なぜ線引きがなされるのか、線引きのその機能について考えることである。そしてそれは、佐藤さんの「うんざり」、「現場」とはどこ?「被災者」とは誰?という私の疑問、福島の再生が誰の問題、誰の責任なのかという問いとも無関係ではない。

 

「現場」あるいは「被災地」という語は、特定可能な「そっち」に対しての「現場」、「被災地」でないどこかが存在しているという観念を前提に意味を持つのである。だから、東日本大震災や福島第一原発の事故などが話題になったとき、特定の地域や地区を指して「被災地」という言葉を―あるいはその地域に住んでいる人に対して「被災者」という言葉を―使ってしまえば、それと無関係な「非・被災地」「非・被災者」があるという線引きが想像上、含意として再生産される。「非・被災地」としての「こっち」、「非・被災者」としての「私」という幻想が抱けるわけである。
「~してあげる」とか「支援」とか、あるいはまた「かわいそうに」という「福島」とよくセットになっている表現と同じである。「~してあげる」は、借りと貸しの世界において、「そっち」の事情だけど「そっち」のために「こっち」は境界線を越えて―一時的に「現場に入って」―手を貸そうという「善意」を言葉にしたものである。えらい、えらい。だが、「してあげた」後は?やっぱり「こっち」は「こっち」、「そっち」は「そっち」?「支援」だって、する側と受ける側に世界が分かれる。その場合、「現場」はどっち?支援をする「こっち」?それとも受ける「そっち」? その上、「支援してあげよう」と言うとき、そもそも支援できるための資源や余裕が「そっち」ではなく「こっち」に属するものだという―線引きを通じてこそ可能な―自己肥大的な「優しい私」の演出も無意識に遂行されることにならない?

 

誤解しないでほしい。支援などやめようなんて言いたいわけではない。「かわいそうに」と「そっち」側を作っておいて、たまに「やってあげよう」と「優しい私」に陶酔しつつ責任逃れするのをやめようと言いたい。共振、共感、協働を。自分なりに、お互いの違いを尊重しつつ。というのも、3.11に起きた地震と津波による大規模な自然災害と福島第一原発事故による放射能汚染とそれらの後遺症は、間違いなく特定のニーズのある地域を生み出したが、それはわれわれの問題、われわれの責任だから。この国のどこに住んでいようが、原発でつくられたエネルギーを3.11以前から、そして3.11以後も使っている「わたし」。原発の建設と再稼働に賛成する政党に票を入れた「わたし」と入れなかった「わたし」。福島の再生よりオリンピックを重視する政府を支持する「わたし」と支持しない「わたし」。
これから海外に移住するかもしれない「わたし」でも、ずっと日本国内にいるだろう「わたし」でも、程度の差はあれど福島の再生は、これらすべての「わたし」、「われわれ」の問題と「われわれ」の責任である。「かわいそうに」と、勝手に「こっち」を基準にして「そっち」に憐れみに見せかけた無関心で対応するのではなく、「支援」の一時的な善意パフォーマンスでもない。被災地が奪われてきたあらゆる資源へのアクセスを再び可能にする。「こっち」でもなければ「そっち」でもなく、一人称複数の「われわれ」で。環境汚染と自然災害が国境や県境を跨ぐ問題であるためだけではない。原発が建てられた時点ですでに、建てられた地域に負担とリスクが一方的に押し付けられたためでもある。

 

去年、受け入れて案内してくださったふくしま再生の会のチラシに「共感」と「協働」という言葉が大きく載っていて、去年も今年も、飯館村で実際に聞いた話も、「共感」「協働」「共有」の必要性を訴える声が少なくなかった。互いのニーズや立場の違いを無視することなく、いかに「共感」「協働」「共有」が「わたし」にとって可能なのか―この問いに対する答えを模索していくことが、私が去年、そして今年再び、飯館村から持って帰った最大の課題であり、これからも取り組んでいきたい課題である。

 

<シュテファン・ヴューラー Stefan Wuerrer>
渥美国際財団2018年度奨学生。オーストリア出身。ウィーン大学の東アジア研究科と比較文学科卒業。在オーストリア日本国大使館推薦で国費留学生として、2015年東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻表象文化論コースで修士学位を取得。現在同大学の博士後期課程に在学中。武蔵大学人文学部グローバル・スタディーズコース非常勤講師。専門は戦後日本文学、女性文学、ジェンダー・スタディーズ、カルチュラル・スタディーズ。

 

 

2019年10月3日配信