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エッセイ602:解放「黄色い私の日本」

私は中国の東北部に生まれ、所謂「純粋」な「北方人」である。中国の東北部は、非常に乾燥して、春や秋という「温暖な」季節を持たない特殊な場所である。夏の昼間は30度を超え、逆に夜は冷え込み、温度差が激しいのである。冬はマイナス30度の日々が1ヶ月も続くことがよくあった。赤外線と乾燥の影響で、この大地で生活すること自体が、人間の知恵に挑戦するほど困難であった。こうした環境のお陰で、私は深刻な「東北訛り」に悩みながら、典型的な黄色い皮膚の持ち主となったのである。

 

しかし、自分の皮膚の色に気づいたのは、ずっと後のことであった。ある日、両親と一緒に首都・北京へ行った。私が小さな売店でスポーツ新聞を買おうとしたら、店員さんに上から目線で「あんた、東北の出身やろ、その皮膚の色で分かるよ」と言われ、私はその場から逃げ出したのだ。またある日、上海の地下鉄で電車を待っている時、駅員さんに「そこの、変な皮膚の色をしている人、そうだ、お前だ、お前東北から来ただろう、上海のような地下鉄は東北にはないだろう。下がれ、下がれ。」と言われた。私はその日、地下鉄に乗らずに、歩いて帰った。それ以降、私はこの2つの都市には、極力行かないようにしている。ただ、なぜ、私の「黄色い皮膚」という記号表現が、必ず「東北」という記号内容に象徴されている被差別部落につながるのか、ずっと理解できなかった。

 

小学2年生の時、父の仕事の関係で、私は日本で生活することになった。当時通うことになった某小学校の担任の先生は、中年のおじさんで、かなり怖い顔をしていた。私は真っ先に自分の皮膚が黄色であることを先生に言われるのではないかと心配した。しかし、先生は「今日から転校してきた解放くんだ、彼はとっても健康な皮膚の色をしているから、君たちも仲良く外で遊んで同じ色になろうね」と、みんなの前で私を紹介した。もちろん、当時の私は日本語が全く分からなかったので、先生の言うことを理解できたわけではなく、私が段々日本語を話せるようになった時に、同級生から聞かされたのだ。担任の先生には言葉では表せないほどの感謝の気持ちでいっぱいだ。

 

この事を境に、私は自分の皮膚の色を気にしなくなり、他人と同じであると思うようになった。日本で過ごした数年間は私にとって生涯この上なく幸せな時となった。この日本での楽しい記憶はいつになっても消えることがなかった。大学の専攻を日本語にしたのもこの実体験に影響されていると言ってよい。そして大学卒業後、日本の大学院に進学することを決めた。

 

大人になってから、黄色い皮膚が何を意味するか十分わかるようになった。黄色い皮膚が「被抑圧者」の表象であることを、この身で実感したことによって、人種差別がどれほど人間を傷付けるかも理解した。幸運なことに、私が在学している東京外国語大学は、海外からの留学生が非常に多く、私の黄色い皮膚は、多様な皮膚の色の中の一種にしか過ぎず、何も気にせずに学校で生活できている。日本に留学しているこの数年間、私は一度も、自分の皮膚のことや、訛りのある発音などを笑われたことはなかった。

 

もちろん、どこでも差別が存在することは否定できない。ただし、教育水準が高ければ高いほど、差別の発生確率が低いことが既に実証されている。一定の知識が共有されることによって、差別を完全に無くせないにしても、かなり抑制することは可能であると言える。日本が私を魅了したのは、和食でもなく、金閣寺でもなく、もちろんAKBでもない。私は、この教育と未来に投資する姿勢に惹かれたのである。これから、祖国も段々と発展していくと思うが、日本と同じように、未来に投資してほしいと願っている。

 

<解放(かい・ほう)Xie_Fang>

渥美国際財団2018年度奨学生。中国(大陸)出身。現在東京外国語大学博士後期課程在学中。研究分野は日本近代文学と比較文学。研究対象は引揚げ文学と震災後文学。

 

 

2019年7月11日配信