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エッセイ595:ハリタイパン・ラリター「博士学生の私が体験したこと」

(私の日本留学シリーズ#30)

 

博士課程の学生2人に1人は心理的苦痛を経験し、3人に1人は精神病のリスクがある。これは3000人以上の博士学生を対象とした調査の結果である。この調査によると、よくある症状としては、持続的な過労、憂鬱、心配による不眠などが挙げられる。この事実から、博士学生が抱えている問題を軽視してはいけないと言えるだろう。それで、私は生き残った1人の博士学生として、自分の3年間の経験を述べたい。決して全ての博士学生に同じような問題があるわけではないが、共感できる部分は少なからずあると思う。

 

私は子供の頃から勉強の面では成功していた学生だったが、博士課程の途中で気づいたら自信をどこかに失っていた。立場はまだ学生のままでも、勉強のプロセス・責任感が前と全く異なっていた。修士までは、試験でも研究でも与えられた問題を解決することに過ぎなかった。しかし、博士の研究は問題を見つける段階から全て自分の責任になった。また、その実績の判断手法も変わった。過去問があればできる試験問題のような学部生活はもうなかった。研究で何とか結果を出せば修了できる修士の生活ももう終わった。私の大学では、互いに面識のないレビュアーに論文を読ませて、納得させることができたら、論文を投稿できる。この論文数が修了要件である。つまり、勉強などの自分がコントロールできるものだけではなく、論文審査時間・レビュアー個人の意見などの自分でコントロールできないものもある。私のストレスの原因は主に自分でコントロールできないものだった。

 

論文を投稿するためには、提出先のジャーナルを選択することがとても大事だと体験した。私の分野では、ある程度有名なジャーナルだと、審査期間が短くて3ヶ月、長い時は6ヶ月以上もかかるのが普通である。審査期間の長いジャーナルに出してしまったら、博士課程の修了期間内に間に合わない。しかし、平均審査期間の情報は公開されないことが多い。しかも、私の論文をジャーナルに提出する前に、元指導教員による確認期間が9ヶ月以上もかかったので、最終的に提出できたのは、去年のはじめ頃だった。この確認期間を待っていたことが、私にとってストレスだった。元指導教員に何回聞いても「確認している」という返事ばかりだった。それでもなお私は先生の言葉を信じ続けていたが、ある日、突然海外に異動することを伝えてきた。その時、やっと自分が修了したいならもう自分でやるしかないと気付いた。

 

結局、私は指導教員を途中で変えることになった。しかし、この転機こそが修了できた理由だと考えている。自分でできることはやるしかないと考えを改めた私は、その後、自分でコントロールできないものはもう運に任せて、自分のコントロールできるものだけに集中し、投稿できる論文数の確率を稼ぐために、何本も論文を書き出した。審査中の論文を待ちながら、別の論文を書くか別の実験をするようにした。新指導教員の専門は、私の以前の研究と分野が同じではなかったものの、ありがたいことに論文の理論的な相談や面倒を見て頂いた。また、私が置かれていた状況についても理解してくださって、国際会議の出席許可と予算も出して頂いた。初めはめちゃくちゃだった博士論文も最終的には全体の筋が通るようになった。

 

この期間、私は全ての時間を研究や論文に使ったわけではなく、休みや遊ぶ時間もあった。しかし、気持ち(心情)的にはずっと疲れていた。遊んでいる時も、心から楽しめなかった。休んでも、まだ研究についての不安が頭の中のどこかにずっとあった。自分のやりたいことを始めようとしたら、罪悪感を感じてしまう。結局、携帯をいじって、時間を無駄に過ごし、スッキリした休みも取れず、罪悪感も感じる。このような悪循環の繰り返しだった。このような経験で、途中で諦めようという考えも数回よぎったが、私は期間内にもし自分の出来ること全てやったとしても、それでも修了できないなら自分のせいではないと心を決めてから、自分にかける圧力を減らすことができた。

 

博士修了と言っても単なる博士号だけなので、人によっては博士修了証明書がただの使わない紙になるかもしれない。学位よりも有意義なのは、学位を取得するための道の途中での経験である。研究で発見した知識より、新しい知識を発見するための方法の方が大事だ。人生において最も困難な経験かもしれないが、一生懸命に頑張って、障害を乗り越えたことは、教科書を超えた貴重なレッスンだと信じている。

 

最初に紹介した調査は以下からご覧になれます。

Levecque, K., Anseel, F., De Beuckelaer, A., Van der Heyden, J., & Gisle, L. (2017).

Work organization and mental health problems in PhD students.

Research Policy, 46(4), 868-879.

 

<ハリタイパン・ラリター Lalita_ Haritaipan>

2009年母国タイの高校卒業直後来日、1年間日本語勉強して、2014年東京工業大学制御システム工学科を卒業。2016年同大学大学院機械物理工学専攻修士課程修了。2019年同大学工学院機械系エンジニアリングデザインコース博士課程修了(工学)。現在、株式会社リブ・コンサルティング勤務。将来タイの現地法人に異動予定。

 

 

2019年5月16日配信