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エッセイ592:シム・チュンキャット「アクティブなシンガポール人が日本の大学でアクティブラーニングを進める奮闘記」

「僕はアクティブな人間です」と宣言したら、恐らく異を唱える人はいないでしょう。小学校ではマーチングバンド兼室内吹奏楽部のコルネット担当で、中高時代になると炎天下のシンガポールではマーチングバンドを続けるのがさすがに辛いということもあって、また劇場なら冷房が必ず効いているという理由で、今度は一変して演劇部の俳優・脚本担当・演出担当などを、日本の大学へ留学するまでずっとやっていました。留学後も国家公務員の仕事の傍ら演劇界に復帰し、再び日本の大学院に再留学するまでセミプロとして年2回ぐらいシンガポールの国立劇場などで長年舞台に立っていました。そのような隠れた(?)過去があることから、今でもステージや人前に立つと、自ずと姿勢を正したうえで声を張り上げたり注目を集めたり主役や主賓を立てたりする僕がいます。そして、演劇をやめて久しい今となっては、大学の教壇が僕のステージなのです。

 

さて、僕の新しいステージとしての日本の大学の教壇なのですが、それはそれはシンガポールで経験したものと雲泥の差がありました。何と言ってもオーディエンスの学生の反応が薄い、というか、能面をかぶっているかと思えるぐらいウンともスンとも言わない場合もあるのです。もちろん、学士・修士・博士の教育課程を、全部加算したら10年以上も日本の大学で授業を受けてきた僕ですから、日本人学生の「インアクティブさ」はとっくの昔に承知済みです。日本国内の最高学府と言われる東大大学院でさえ授業中に活発な議論が飛び合うことはほとんどありません。

 

日本人の奥ゆかしさを身をもって表現したいのか、もしくは自分の発言でバカだと思われたくないのか、はたまた実は何も考えていないのかは定かではありませんが、とにかく沈黙は金なりということで日本の大学の教室はとかくギンギラギンにさりげなく静かなのです。日本の文科省が学校や大学に対してアクティブラーニング、つまり「グループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワークなどによる課題解決型の能動的学修」を展開しなさい、と声高に唱え続けている所以がここにあります。

 

文科省に促されるまでもなく、そもそもアクティブな僕が能面の学生をそのまま放っておくはずはありません。というより、長年舞台の上で活躍してきた自分のプライドが許さないのかもしれません。ただ、相手も長年指定席の硬い椅子に座ったまま一方通行の学校教育を受けてきた学生であるゆえに、並大抵なことではその固い口を開かせることはできません。そこで、多くの大学教員がやるように、最初は授業後にリアクションペーパーにコメントを書かせることにしました。ただし、日本人学生が書きがちな「○○を初めて知ってびっくりした」「驚いた」「勉強になった」「面白かった」「楽しかった」など小学生並みの感想は禁止、減点の対象にし、質問、疑問、反論を書くように求めました。

 

そのうえ、次の授業で良いコメントを幾つかパワポで発表し、更なる議論の材料にしました。そうしたら、多くの学生は自分のコメントが次の授業で取り上げられることを目指して一生懸命書くようになったため、この方法は意外と功を奏したわけです。なんだ、皆言いたいことがちゃんといっぱいあるではないか、だったらこの場で言い合おうよと思った僕は、今度はマイクを直接に学生の口の前に持っていくことにしました。なぜなら、リアクションペーパーを書かせることはリアクティブラーニング、即ち反動的学修であって、能動的学修を目標とするアクティブラーニングではないと僕は考えたからです。

 

当然のことながら、マイクを向けられて顔を背ける学生、緊張してしまって何も喋れない学生や的外れな発言をする学生が続出しました。そこはもう即興演劇のように、どのような回答や反応が返ってきてもうまく受け止めて、どんな発言や応答でも大丈夫だよ~という雰囲気を作り上げながら、議論の本題につなげていくしかありません。だからこそ、教員がひたすら話すような一方通行の授業よりアクティブラーニングのほうが数段も難しいのです。しかしここで強調しておきたいのは、ディスカッションを行えばいい、学生が何か喋ればいいということでもありません。専門的な理論や知識に基づいて実のある議論が展開されないと、ただお互いに自分の考えを述べて終わりという意見交換的なパターンになりかねません。それではどうすればいいのか、このことについて紙面上で説明するのは簡単ではありません。演劇を通じて培われてきたノウハウが今大学の教壇というステージで活かされているとだけ言っておきましょう。

 

一方、数年前から、実のある議論があったとしても、話題を提供するのが教員の僕だけでいいのか、ググったらたくさんの情報が簡単に入手できるこの時代において教材を教員が一々用意するのは果たして必要なのか、などの疑問が僕の中で芽生えました。そこで幾つかの授業では、シラバスにおいてだいたいの流れは教員の僕が定めるとして、例えば「社会問題概観」の授業でどの課題を取り上げて問題提起するのか、あるいは「現代社会論」の講義でどの国のどの課題について発表するのかなど、具体的なテーマはすべて学生に決めてもらうことにしました。それから、発表するときは、間違えることを恐れているのか政治家や公務員までを含む多くの日本人が好む原稿読み上げスタイルはもちろん禁止、減点の対象になります。学生の主体性に任せると言って、これで僕の仕事が楽になったと思うことなかれ。どのようなテーマが選ばれようと対応できるようにしなければならないために、より広く深く準備することが重要となり、むしろ教員の僕がまず超アクティブになることが前提なのです。

 

さらにコンピュータ室で行われる授業では、もともと教科書を指定したことがない僕は、今度は講義資料を配ることもやめました。というよりは、講義自体をやめました。主な課題だけを出して、あとは学生がネットから信頼できる情報を集めて、新たな課題を発見しながら自分に一番適した教科書を作ればいいと判断したからです。一人で取り組んでもいいし、グループでわいわい話しながら資料をまとめていってもいいということにしました。僕はというと、教室内を歩き回りながら、良い資料を自分の言葉で整理した学生のことを皆の前で褒めたり、逆に理解もせずにネットからウソを含む情報をただコピペした学生には質問を投げかけたりします。簡単に想像できると思いますが、このような授業では教員がより忙しくなることは言うまでもありません。

 

紙幅の関係で僕の「奮闘記」をここで全部記すことはできませんが、嬉しいことに以上述べてきた授業スタイルに対する学生の評価が高かったりするのです。そのような授業を受けることによって学生も確実に変化していきます。多くの日本人学生が「インアクティブ」になってしまっているのは、長年の学校教育で慣らされてきたせいであって、国民性とか民族気質とかとは何ら関係ないと僕は考えます。一方通行の講義より、協働型・双方向型の授業が学生の興味関心をより引き起こすに決まっています。なぜなら、授業というのは教員と学生とが一緒に作り上げていくものになるべきだからです。

 

今年の9月から、米国ペンシルベニア州立テンプル大学の日本校が僕の勤務校のキャンパスに移転してきます。日米のキャンパスが同一敷地内に置かれるのは日本では初めてのことで、外国人大学生の増加だけでなく何より授業への男子学生の参加が見込まれる中で、僕の「奮闘」もさらにヒートアップしていきそうで、今からワクワクしている次第であります!

 

<Sim_ChoonKiat シム・チュンキャット>
シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。昭和女子大学人間社会学部・現代教養学科准教授。SGRA研究員。主な著作に、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年、「論集:日本の学力問題・上巻『学力論の変遷』」第23章『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』(日本図書センター)2010年、「現代高校生の学習と進路:高校の『常識』はどう変わってきたか?」第7章『日本とシンガポールにおける高校教師の仕事の違い』(学事出版)2014年、「東アジアにおける中等教育の大衆化:歩みを比較して(英文)」(New_York:Routledge)2019など。

 

 

2019年4月4日配信