SGRAかわらばん

エッセイ591:宋晗「元号雑感」

このエッセイを執筆している2019年3月の時点で、巷では元号選定がトピックの一つである。改元の社会に及ぼす影響は色々とあるようだが、漢文学を専門としている筆者からすれば、日本の古典からの出典を検討、とのニュースが興味深い。中国の古典を出典とするのが元号選定の慣例だが、今回は『古事記』や『日本書紀』からの引用も俎上にのぼっているとのこと。ネットを見る限りではなかなかに活発な議論を引き起こしている。やれ、『古事記』や『日本書紀』は漢籍をベースにして漢文で編纂された史書なので、この二つの古典から引用しても結局は漢籍由来になってしまうので不毛。やれ、そんな細かいことはどうでもいいから日本の古典から引用しろ。――日本文化の独自性が争点のようである。元号選定は日本の問題であり、外国人の筆者がしゃしゃり出る幕はない。出る幕はないのだが、元号は中国由来の文化制度なので、雑感を述べたいと思う。

 

そもそも元号は、今の私達が当たり前のように使っている西暦と同じように、年数を計算するための紀年法の一種である。清代の歴史家・趙翼の考証によれば、漢の武帝が紀元前140年に制定した「建元」が中国最古の元号であり(『二十二史札記』)、ということは東アジア最古の元号ということにもなる。漢の武帝といえば、中国史上屈指の専制君主であり、武帝の治世下で統一帝国としての漢王朝の支配体制が確固たるものになったとされている。元号を話題にしているのに本筋からずれた話をしているように思われるかもしれないが、実は大いに関わりがある。ちょうど紀元前45年にユリウス暦がカエサルによって制定されたように、古代国家は領土(=空間)だけではなく、時間をも支配する。それも当然のことで、当時の農民にとって農事を計画的に行うための暦が必要不可欠であり、古代の世界では国家だけが毎年の暦を計算し布告する技術力を持っていた。つまり、元号は統一帝国の時間に対する支配権を象徴する制度だった。

 

古代中国社会における元号の政治的意味は、三国時代を例とするとわかりやすい。英雄・曹操の後継者である曹丕は後漢最後の皇帝の献帝から帝位を譲り受け(禅譲という)、魏王朝を創始した。曹丕は帝位に即くにあたって元号を「黄初」としたのだが、魏に対抗する呉の孫権は後漢王朝を正統と仰ぎ、献帝の元号である「建安」を使用し続けたのが、出土文献によって明らかとなっている。つまり、孫権は魏王朝の支配権を認めなかったのである。このケースを応用するとすれば、古代東アジアにおいて独自の元号をもつことが独立国家としての表明に等しかった。例えば東アジアにかつて存在していた高句麗・高昌・新羅といった古代国家は独自の年号をもっていた。

 

だいぶ遠回りしてしまったが、日本の元号に話を戻す。日本最古の元号は、大化の改新で知られる孝徳天皇の「大化」である。当時の首脳陣は元号の意味を精確に理解していたであろうから、この時に日本は独立国家としての立場を内外に表明したと考えられる。以降、短期間の断絶を挟みながら、元号は現代まで日本に生き続けている。このような歴史的経緯をふまえた上で、今の元号選定問題を考えると、やはり興味深い。古代においては漢籍から引用された元号を持つのが独立国家としての意思表示だったが、今や漢籍を出典とすること自体が日本文化の独自性の観点上、一部の有識者から不都合だと思われている。してみると、時を経ても不変と認識されがちな文化の独自性というものも、結局は時々の価値観次第でいかようにも変わるのである。それは元号だけに、日本だけに限った話ではない。どの国の文化にも言えることだろう。

 

もっとも自分自身が、そして自分の所属する共同体、社会、国家が、本質的に独創的であることを望まない人間はいない。口先ではどうとでもこの主張に反論できるが、ふとしたきっかけでナショナリスティックな態度を人は見せるもの(筆者もまたしかり)。ただ、文化の独創性をつきつめると、文明の揺籃であるイラク・シリア・エジプトあたりが最もオリジナリティがある、ということになりはしないか。いや、人類が誕生したアフリカではないのか。こう考えてみると、なんとも味気ない議論である。味気ないついでに、芥川龍之介がぼやいたようにぼやいてみよう。文化は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。しかし重大に扱わなければ危険である。

 

<宋晗(そう・かん)Song_Han>
2017年度渥美奨学生。2018年東京大学大学院人文社会系研究科博士号取得(文学)。現在、フェリス女学院大学文学部日本語日本文学科助教。専門は平安朝漢文学を中心とする日中比較文学研究。

 

 

2019年3月28日配信