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エッセイ590:キン・マウン・トウエ「物理学者からホテル経営者へ」

人にはそれぞれの夢があり、その夢が実現できた方もいれば、異なった人生を歩んでいる方もたくさんいます。医者になりたい、エンジニアになりたい、芸術家、学者、ビジネスマン、様々な分野に興味を持ち、その分野に関する技能を磨いて、その世界で有名になろうという夢を持った子供が世界中にたくさんいます。私自身も子供の頃は飛行機のパイロットになりたいと思っていました。ところが今、私は、ミャンマーのピン・ウー・ルウィンという、日本の軽井沢のような高原観光地にあるホテル秋籾(あきもみ)の経営者になっています。

 

1988年10月にミャンマーから日本へ留学しました。父親はじめ兄弟たちが眼科医の家庭でしたが、私は、医学には興味がありませんでした。パイロットになりたかったけれど両親が反対でした。その結果、マンダレー大学で物理学を専攻し、卒業後に日本へ留学することになりました。留学中、旅行や学会発表、ゼミ合宿などの様々な機会で日本各地を訪れることができ、日本国内でもそれぞれの土地で異なった景色や文化を体験し、様々な日本食文化を楽しみました。

 

1970年代、私が子供の頃にミャンマー国内を旅行をした時には、ホテルや民宿ではなく、親戚の家や別荘、あるいは父親の仕事の関係で国営の招待所などで泊まることが多かったのです。当時、ホテルは外国人旅行者たちが使用することが殆んどでした。高校卒業後にカローと言う高原観光地へ行った時に、イギリス時代に創られたカローホテルに泊まったのが、私とホテルの出会いです。カローの町は、イギリス植民地時代に夏の別荘地があったところで、パインヒル(松山)とも呼ばれています。今でも外国人、特に欧米からの観光客が多く、トリップアドバイザーではトレッキング等で有名な町です。恋人との初めての出会いのように、ホテルで泊まった時の気持ち、部屋の準備や朝食の味、良い空気やイギリス植民地スタイルの環境などは、私の人生で忘れられない思い出になりました。しかしながら、その後カローに何回も行き、このホテルに泊まりたいと思いましたが、まさかホテルの経営者になるとは夢にも思いませんでした。

 

1997年に早稲田大学理工学研究科から博士号を取得し、応用物理学科で助手を1年間勤めた後ミャンマーへ帰国しました。帰国後は「物理学者」と言う立場はなくなり、「経営者」として日本で経験した様々な分野から応用できることをミャンマーのために実現してきました。「研究者」であった留学時代と同様に、ミャンマー帰国後は「工学博士の海老漁師」、「科学的な農家」、そして「異文化と環境保全を考慮したホテル経営者」として頑張っています。

 

私には現在の日本より、昔の日本のイメージが心に残っています。建造物にしても、伝統的な木造技術を駆使した建物に最も興味を惹かれます。ホテル秋籾を建てた時、日本のイメージを表したいので日本の伝統的な木造建築に造詣が深い70歳代の日本人建築家にお願いして、約2年間かけて私の夢の日本イメージを表現しました。日本食レストランは勿論、大浴場、屋台などの日本のイメージをミャンマーにある物を利用しながら再現しました。さらに、日本で経験した最高のサービス、最高の技術の移転を目指しました。その結果、今では宿泊した多くのお客様から「小さな日本人村」と評価されています。

 

国際的な評価として、トリップアドバイザーでは4~4.5/5、Booking.comでは8.3~8.7/10、Agodaでは8.0/10をいただいています。また、2018年1月には、ASEAN Green Hotel Standard Awardを受賞しました。この賞にはミャンマーの全ホテルの中から5つのホテルが選ばれ、ホテル秋籾はその中でトップでした。

 

新しいことに何でも挑戦できる自信、成功するまで続ける努力、お客様の反応を大切にする心、自分の仕事に関連することは常に調査することなどが「物理学者からホテル秋籾の経営者」になった人生の大きな自負です。

 

ホテルに関する情報は下記リンクをご覧ください。

 

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<キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe>
ホテル秋籾創設者、オーナー。ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手、Ocean Resources Production社長を経て、ホテル秋籾を創設。SGRA会員。

 

 

2019年3月21日配信