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エッセイ526:フランク・フェルテンズ「花国」

 

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」という文章で始まる川端康成の『雪国』は日本海にある。毎年冬になると白雪に沈む地方をごくポエティックに表現している。しかしながら、私にとっては、日本といえば雪国ではなく「花国」だ。私には日本人より「日本は四季がある」という大ニュースがよく伝わってくるのではないかと思う。言うまでもなく、四季はドイツ、アメリカ、北半球の大半にもあるが、日本の四季は特別で不思議だ。もちろん花は世界のどこにでもあるが、花国の日本では、花が驚くほど大きな役割を果たしていると気づいた。まず、どんな季節でも花が咲いている。どんな時でも自然の美しさが溢れる。冬は梅、春は桜、夏は桔梗、秋は菊、など。

 

出身のドイツや、学校のあるアメリカと比べたら、日本では季節の変わり目はあまりなく、温度の差もあまり激しくない。高校生の頃にしばらく住んでいたカナダでは、本当に季節の違いが感じられた。感じてしまったと言ってもよい。カナダでは、冬が終わって雪が溶けると、熊が冬眠から目覚めたごとく、みんなが家から出て、目を擦る。「あったかい〜!!」と叫びたいぐらいの嬉しさが溢れる時期だ。

 

季節の差が激しくない日本でも、同じような気持ちを感じる。日本在住の4年間、毎年春分になると、信じられないぐらいの嬉しさが体を包んでわくわくする。何故だろうと自問してきた。今年初めて、その答えがわかった。花だ。温度や日差しではなく、花で嬉しさを感じるのだと。今年の最も重要な発見だった。気温に関係なく、周りに花が咲くと、より気分が良く幸せに溢れるようになる。花国の日本は、暖かくなる間もなく花が咲き始める。枯れた枝に我慢して待っていた蕾は、春の最初の日差しで出てきて挨拶する。暖かい季節の到着を現す若葉よりも、花が祝われている。日本の春は緑ではなくピンクだ。

 

冬と春の境に梅の花が咲く。梅もまた不思議な花だ。何百年もそのままであったような、節くれだつ枝から咲いている梅の花は奇妙な美しさがある。梅の花といえば、初めて日本に留学した時に行った京都の北野天満宮をいつも思い出す。ただ、見るよりも匂うことで思い出す。2007年2月にふらっと北野天満宮に行ったら、天国に生まれ変わったような香りに飲み込まれた。「うめのはな、こすゑをなへて、ふくかせに、そらさへにほふ、はるのあけほの」という藤原定家が詠んだ和歌と同じように、風が運んだ香りが鼻に潜り込んだ。この経験から、私にとって日本は梅の香りの花国となった。今年の2月、駅のホームで電車を待っていた。突然、梅の親しい香りが飛び込んできた。梅の木はどこにも見当たらなかったが、贈り物としてその香りをもらったような気がした。

 

春は桜、という感覚が一般的かもしれないが、私には冬と春を結びつけている梅が季節の魅力を形にしている。日本の代表である桜は梅と違う。梅が春を開くのに対して、桜の、軽く、細雪のように渦を巻いて散る花は、雪国の冬を春にひっくり返し、季節を取り替える。桜吹雪で春と冬をスイッチする日本は、やはり不思議な四季の感覚だ。

 

花国のもう1つの不思議さは季節のタイミングだ。毎年春は定期的にやってくるが、この頃に桜が咲くぞという予報は、確かにその通りになる。梅はこのように注目されず、一人で頑張って、綺麗なものを産み出してくれる。梅こそ日本の本当の代表ではないだろうかと私は思う。ただ、日本は桜が優先されてしまうため、それぞれの季節の貴重さがたまに失われてしまう。平安時代から「花」といえば「桜」のことを指していたそうだが、各季節に違う花々に彩られているのが、日本という花国の最もアピールするところではなかろうか。地球温暖化のため、日本の季節も変わってくるかもしれないが、日本の心にはずっと花があることは変わらないだろう。

 

<フランク・フェルテンズ☆Frank_Feltens>
米国フリーア美術館特別研究員。ドイツのフンボルト大学で日本文学を学んだ後、米国コロンビア大学大学院で日本美術を学び、尾形光琳と江戸中期の美術をテーマにして2016年博士号を取得。学習院大学に文部科学省国費留学生として留学し、その後、客員研究員、立教大学非常勤講師等を務める。2016年夏より現職。

 

 

2017年3月23日配信