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エッセイ480:モハメド・オマル・アブディン「大学院生の苦悩」

初対面の人間に「お仕事は何ですか」と言われ、「研究をやっています」と苦しまぎれの返事をすると、「大学の先生ですか」と詰め寄られ、「いいえ、大学院生」とあまり明かしたくない事実の表明を余儀なくされる。そうしたら、これまで熱心に聞いてきた相手が、落胆して、「あぁ、学生さんですね」と声のトーンを急降下させるのだ。

 

日本は仕事をしていない人間にとって居心地の悪い国である。将来研究者として社会に還元しようと思っていても、さすがに30代半ばになって学生を名乗ると、周囲の冷めた視線は見えずとも感じられるのだ。長くて孤独な作業の博士論文執筆に嫌気がさしてしまいそうな毎日。その上に、周囲の評価がわかると寂しい思いをしてしまうことは、多くの大学院生が経験していることではないか。

 

「何の役に立つ?」と思われている、私のような人文社会科学系の研究をしている身としては、なおさらその冷ややかな視線を感じる。そして、その冷たい視線は一般人の間の共通認識に留まらない。数か月前に、文部科学省は、国立大学の人文科学系の学部の見直しを進めることを宣言している。卑屈になっている私からみれば、この動きは「コストばかりかかって、お金になる成果物を出せない学問はいらない」を意味している。それでは、人文科学、または社会科学系の学問は本当に役に立たないのか。私の友人Hさんの研究を例に挙げて考えてみたい。

 

Hさんは30歳ぐらいの女性研究者で、専門は文化人類学だ。これぞ、おそらく文科省がターゲットにしている研究分野だろうと思われる。Hさんの研究テーマは、南スーダンのヌエール族の預言者の語りである。「へー」と言いたくなるような研究分野。いったいこの研究は、誰の何のためにあるものだろうかと思われても仕方ない分野だ。本人も、いつも研究テーマについて聞かれると、顔をひきつったまま、「ヌエールの預言者」について調べていますと答え、聞き手を圧倒してしまう。彼女は10年もこのことについて調査し続けており、南スーダンの僻地と思われる街に2年ほど住み着いて、粘り強く一生懸命ヌエールの預言者について研究してきた。そのために、学術振興会の奨励費、あるいは、民間財団の研究助成金を獲得している。彼女は、研究の重要性を認識しつつも、やはり周囲の冷ややかな視線を感じて、あまり積極的に研究内容について発言しようとしてこなかった。だが、ある出来事をきっかけに、彼女の研究の重要性が認識されることになった。

 

それは、2013年末の南スーダン内戦のぼっ発である。南スーダンがスーダンから独立した2011年以降、日本の自衛隊が南スーダンの国連PKOミッション活動の一環として送り込まれ、道路補修などの業務を展開している。自衛隊員の安全は、当然ながら日本人の最大の関心事だと誰しも思うだろう。そして、隊員の安全を保障するためには、当然ながら、現地の情報をいかに正確に獲得するかが重要なポイントであろう。自衛隊の活動が始まってから2年たった2013年12月に、デンカ族出身のサルファ大統領派と、ヌエール族出身の元副大統領のマチャール派が、首都などで軍事衝突し、その後、瞬く間に暴力が南スーダン全土に広がっていった。Hさんが研究の対象としてきた「ヌエールの預言者」らの語りは、まさに、ヌエールの人々を戦争に先導する大きな役割を担ったという見方もある。今回は、日本の自衛隊の隊員には被害がなかったが、仮に、犠牲者が出た場合には、きっと国民は「何であんな危ないところに派遣したんだ」と政府を攻め立てただろう。

 

何が言いたいかというと、自衛隊の派遣をする前に、南スーダンの専門家に、政府がもっときちんと南スーダンの現状について聞き取り、かつ意見を求める必要があったにも関わらず、「ヌエールの預言者」についてのHさんの研究と紛争の可能性の関連性について、政府などは気付いていなかった。要するに、彼女のこの地味な研究が役に立たないのではなく、その研究を活用する工夫や努力が政府などになかったということだ。

 

10年間以上、地道に紛争と関連の強いヌエールの預言者について調べてきたHさんの研究成果は、まさに、この時でなければ活用される機会がなかったかもしれない。たまたま日本の自衛隊がスーダンに派遣されなければ、彼女の研究の意義を理解してくれる人はいなかったかもしれない。

 

つまり、ことが起きてから研究するのでは意味がない。若い研究者が様々な分野で研究を積み上げて、初めて、その研究が活用される可能性が出てくる。仮に、実用化されなかったとしても、その研究成果が全く無駄かといわれると、そうではない。いま役に立たなくても、今後10年、20年、あるいは、もっともっと後に、いつかその研究が何かのために重要な参考となるかもしれない。だからこそ、国は、目の前の利益ばかり追求するのではなく、どっしり構え、研究に太っ腹になるべきではないかと思う。

 

それとともに、人文社会科学などの分野の研究者側も努力する必要がある。自分の研究の内容、または重要性について、国民に分かりやすく発信していくことが急務となっている。

 

~日本政府へ~

経済協力開発機構(OECD)加盟30か国のうち、教育機関に対する公的支出比においては、日本は最下位周辺をうろうろしている。これで良いのでしょうか?様々な分野の若手研究者が、自身の研究に劣等感を感じることなく、堂々と研究できる環境を国が作っていくべきではないのでしょうか?

 

「無意味な研究には金を出せない」と決めつけているようでは、先進国としてあまりに寂し過ぎます。限られた資金が、幅広い研究分野に適切に配分されるよう、国と研究機関の間で、もっと建設的な議論がなされることを切に願うばかりです。

 

尚、本エッセイはすべて私の主観に基づいて考えを述べたもので、科学的調査に基づいていないことをご了承ください。

 

<アブディン モハメド オマル Mohamed Omer Abdin>

1978年、スーダン(ハルツーム)生まれ。2007年、東京外国語大学外国語学部日本課程を卒業。2009年に同大学院の平和構築紛争予防修士プログラムを終了。2014年9月に、同大学の大学院総合国際学研究科博士後期課程を終了し、博士号を取得。2014年10月1日より、東京外国語大学で特任助教を務める。特定非営利活動法人スーダン障碍者教育支援の会副代表。

 

*本エッセイは、渥美国際交流財団の奨学期間終了時のエッセイとしてご提出いただいたものですが、執筆者の了解を得てかわらばんで配信します。

 

 

2015年12月24日配信