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エッセイ465:ダヴィド ゴギナシュヴィリ「イデオロギーをめぐる考え」

~「どんな人が一番嫌い?」という質問から得られた示唆~

 

ある飲み会で、「どんな人が一番嫌い?」 と聞かれた。「〇〇主義者」が一番嫌いだと心の中で思ったが、そう答えても、相手が理解してくれないだろうと考えたため、反論を招かないように無難な回答をさがして、誰もが共感するであろう「裏表のある人が嫌いだ」という答えを選んだ。

 

理解してもらえないだろうと思った理由は、相手が日本人であり、私とは全く違うバックグラウンドを持っていたからである。私は、長い間様々な「〇〇主義者」によって苦しめられてきたジョージアという国で生まれ育ったのだが、そのような経験をしていない人間にとって「〇〇主義者が嫌いだ」というような発言は、すんなりと理解できないのは当然であろう。

 

ここで、そのように答えたかった私の気持ちの背景、この質問が私に提起した問題、そしてそこから導いた結論を説明したいと思う。

 

私が子供だった頃は共産主義者が人々の自由を抑圧しており、ソ連崩壊後は過激主義者と分離主義者、そしてその分離主義者を後押ししていた隣国(ロシア)の帝国主義者がジョージアを分断しようとしていたことが記憶に刻まれている。一方で、国を守ろうとしていた愛国主義者(彼らは私の憧れであった)もいた。ただし、その愛国主義者の中でも健全な愛国主義と偏狭な民族主義を区別できず、イデオロギーの名の下で内戦に火をつける人も多かった。そういった「〇〇主義者」と呼称されていた人たちのせいで私の国は政治・経済的な危機、そして戦争に直面してしまった。当時の混乱は、私と同じ世代のジョージア人なら誰もがよく覚えているはずだ。

 

21世紀に入ると、ジョージアは様々な改革を実施し、著しい発展を成し遂げたが、「〇〇主義者」によって痛めつけられた傷は未だ国中に強く影響を残している。

 

大学生になって海外留学や海外旅行をしていたら、ジョージアでは見たこともない様々な類の「〇〇主義者」に出会った。

 

例えば、アメリカの南部では白人至上主義者に襲われそうになったり(幸いに、私がコーカス地域出身である、すなわち、英語で白人の人種を意味する「コーカソイド」であると認められ、白くはない肌にもかかわらず見逃してくれた)、オーストリアのウィーン郊外のバスでは、ネオナチ主義者とトルコ人の殴り合いに巻き込まれそうになったり(何とか逃げ出すことができた)もした。また、ある時は、ネパールのカトマンズのレストランで、私が共産主義の悪口を言っていたせいでレストランを出た途端に、その話を聞いていた共産党毛沢東主義者の店員とその仲間に絡まれたこともある(幸いにも話し合いで問題を解決できた)。

 

一方で、上述の人々とは違う、非暴力的な平和主義者の類の人々にも会ったこともあるが、当然そうした「〇〇主義者」に対しては決して嫌悪を感じない。しかし、残念ながら平和主義のようなイデオロギーは極めて観念的、かつ非現実的な思想に基づいており、暴力的な現実から目をそらすことによって、むしろ間接的に悪の繁栄を促進しているのではないかという疑問が生じる。イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルが書き残したように、「悪人が成功を遂げるために必要なたった一つのことは、善人が黙視し、何もしないことである」(注)

 

まさに現代の世界では、いわゆるジハード主義者のボコ・ハラムやイスラム主義者の組織と呼ばれるISILが拡大し続けているし、または神政主義者と言われているジョゼフ・コニーが未だに子供を誘拐して、少年兵として利用している。このような事態を許している主な原因の一つには、国際社会がそれらの被害者の叫び声に十分に耳を傾けていないことである。

 

この21世紀においても人間は、宗教またはイデオロギーの名の下に、心の中にある悪を養い、人道に対する罪まで犯している。それにもかかわらず、この悪を阻止できるはずのアクターは、利己主義または平和主義の名の下で介入を回避しているという現実に鑑みると、「〇〇主義者が嫌いだ」という私の答えはもはや不自然ではないだろう。

 

しかし、上述の問題を生み出している原因をイデオロギーや宗教に求めるという考えは完全に間違っている。イデオロギーや宗教は、憎しみが生まれ育ちやすい周囲の教育や社会環境が存在する条件下において、偏狭な考えしか持ち合わせない人々により「憎しみを養うためのツール」として利用されているに過ぎない。つまり、問題の根源は人間の心の中に潜んでいる憎しみであり、その感情に対してはいかなる餌も与えてはいけないのだ。

 

以上のような考察を経た後で、「〇〇主義者が嫌いだ」という私自身の意見をもう一度よく考えてみると、私が間違っていたことに気がつく。つまり「嫌いだ」とずっと思い続けていたことこそが間違っていたのではないか。なぜなら憎しみは「さらなる憎しみ」しか生み出さないからである。

 

*筆者の訳。原文は下記の通りである:”Bad men need nothing more to compass their ends, than that good men should look on and do nothing”.

出所:Mill, John Stuart, Inaugural Address Delivered to the University of St. Andrews, London: Longmans, Green, Reader, and Dyer, 1867, p. 36.

 

<ダヴィッド ゴギナシュビリ David Goginashvili>

渥美国際交流財団2014年度奨学生 グルジア出身。慶応義塾大学大学院政策・メディア研究科後期博士課程。2008年文部科学省奨学生として来日。研究領域は国際政治、日本のODA研究。

 

2015年7月9日配信