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エッセイ394:李 鋼哲「日本の大学教育、これで大丈夫?」

最近の『日経ビジネス』インターネット版に下記のような記事が掲載された。 「厳しくも暖かい早稲田大学の熱血教授、カワン・スタント」、サブタイトルとして「『教育機関』としての大学を考える」。

 

その記事は次のように始まる。 「名優リチャード・ジェンキンスが主演し、2009年に公開された映画「扉を叩く人」。彼が演じたのは、気力を失った大学教授だった。毎年同じ講義をひたすら続け、シラバスは表紙の「年度の数字だけ」を変える。その大学教授が1人の青年との出会いをきっかけに、情熱を取り戻していくヒューマン・ドラマだ。日本の大学でも、このような光景は多々見られる。教育改革が叫ばれて久しいが、日本の大学のレベルの凋落は深刻な問題と言えよう。世界の大学ランキングを見ると、東京大学ですらトップ20には入れていないのが現状だ。」

 

その続きは、教育に情熱を注ぐカワン・スタント教授の事跡を紹介している。それを読んで筆者も全く同感だし、深い感銘を受けた。

 

実は、スタント教授とは昨年8月末に中国の延吉でお会いした。氏は日本の「華人教授会議」の故郷訪問団の一員として延吉を訪問していて、延辺大学副学長の招待晩餐会の時に私の隣の席だったので初対面の挨拶をしながらいろいろなお話しをすることができた。私は訪問団には入っていなかったが、延吉市政府の広報大使を任命されて、一足先に延吉入りし、教授会の依頼を受けて、彼ら一行の延辺での訪問、および北朝鮮の羅津・先鋒経済貿易地帯訪問の手配をしていた。

 

スタント教授の名刺を見てびっくりした。なんと日本と米国で4つの博士学位をとっているではないか。それも工学、医学、薬学、そして教育学という幅広い異分野の学位を!何という天才だろうと思った。また米国の2つの学会でFellow賞をとったという。氏は、自分はなぜ4つの博士学位を取ったのかについて私に語ってくれた。その勉学の精神に私は心を打たれた。自分なりに一所懸命勉強に頑張ったと今まで思っていたのに、彼に比べると足下にも及ばないと、恥ずかしささえ感じた。スタント教授は「心を育てる教育や感動教育」を実施し、カワン・スタント・メソッドも開発しているという。彼の事跡は「早稲田大学研究者紹介」にも掲載されている。

 

それはともかく、本題に戻りたい。 その早稲田大学の商学部に私の息子が昨年入学した。おめでたいことで、周りの人々から祝福を受け、親としてもこれでひと安心した。ところが、入学してから2ヶ月くらい経って、息子は「大学を辞めてアメリカのカレッジに入って一からやり直したい」と言ってきた。「何言っているんだ。早稲田は日本では入りたくても入れない人がたくさんいるんだよ」。「授業がつまらないし、刺激がない」と息子は言う。「でも早稲田の学歴は日本では大変役立つのでは?」と私が言ったら、「自分にとってはここで勉強するのは時間の無駄になる」と息子は言い張る。実は「国際教養学部の授業が面白いから、転学部したい」と言っていたが、申請時期を逸したので実現できなかった。もし国際教養学部のスタント教授のような方に出会えたら、彼の考え方はちょっと変わったかも知れない。

 

その後、周りの方々と相談しても、私と同じような考え方だった。しかし、息子の考え方は変わらない。そして、今年の8月には自費でアメリカ各地を1ヶ月くらい回って、いろんな大学に潜り込んで講義を聴いたり、友達と交流したりしてきた。「アメリカの大学は日本より百倍楽しいよ」と。これが息子の結論だった。親としては反論する余地はなくなったが、しかし、一からやり直すことは「世間的な」親としては同意できない。結局、息子は妥協して大学を辞めるのではなく、交換留学にチャレンジすることにした。その後に次のステップを考えようと。

 

私はアメリカの大学が全て良いとは思わないが、しかし、「百聞は一見に如かず」で、息子が自分で体験してみて判断したことだから、それを信じたい。アメリカの大学教授は如何に競争の中で教育開発に情熱を注ぐのか、ということはよく聞く話である。

 

そして日本の大学に目を転じると、確かに大学の教育に大きな問題があることを改めて感じる。私も日本の大学院で10年くらい勉強したが、「やむを得ない選択だった」と言わざるを得ない。魅力ある講義が少なすぎると感じたことは一回だけではない。もちろん、中国でも同じで、大学に入ったからには将来のために勉強せざるを得ないだけのことだった。

 

最近、2012年の世界大学ランキングを調べて見てびっくりした。東大がやっと27位にランキングされ、早稲田と慶應はなんと351~400位にランキングされている(2013年の発表では2つの大学は400位圏から外されたという)。20位まではほとんど米国、英国の大学である。アジアでこそ、東大は1位を保っているが、早稲田と慶應は54位と57位。その代わりに台湾、韓国、シンガポール、香港(かつての「4匹の龍」)の大学、そして中国などの大学がランキングを上げている。これが現在の日本とアジア、そして世界の教育状況の変化である。

 

もちろん、日本の大学がまだある程度の底力があることは否定しないが、人々の観念のなかの東大、早慶が日本やアジアでトップ・レベルであるという考え方はもう古いのではないか。リクルート進学総研所長・小林浩氏(早稲田出身)も、「早稲田大学は関東ではまだイメージが高いが、関西では東大の滑り止め程度のイメージである」と言い切る。実は息子も東大の滑り止め。知名度は高いが実力が衰えているのが実情だろう。

 

それでは、なぜ日本の大学教育はここまで低落しているのか。理由はさまざまあるだろう。「今の学生は駄目だ、勉強しない」と、20数年前に日本に来てから良く聞く話だ。もちろん、時代が変わり、環境が変わると若者も変わるだろう。生活満足度が高いからハングリー精神がなくなり、勉強しない若者が増えているのも事実であろう。

 

しかし、若者のせいにするだけでは、日本の教育は変わらないと思う。変化する環境と時代に相応しい教育体制と教育方法を見つけることが大学としての責務ではないだろうか。そのためのイノベーションを積極的に進めるべきではないだろうか。

 

日本の大学教育に問題があるとしたら、学生のやる気が弱くなったのも確かであるが、根底には「先生が駄目である」と私は言いたい。有名な大学では、先生は教育より研究にかなり力を入れていると言われている。つまり教育能力の開発、授業法の開発や工夫にはそれほどエネルギーを注いでいないと思われる。私の知っている地方の私立大学では「研究より教育を重視しろ」、「愛情と情熱をもって教育しろ」と絶えず言われているが、実際の教育現場ではその通りにならないそうだ。だからといって教員が研究に熱心かといえば、必ずしもそうでもなさそうである。学生の定員割れが深刻であるが、それへの危機感を持って真面目に教育に従事しているとは思えない。

 

ビジネス・コンサルをしているある友人が、「日本の大学教員は腐っている」、「だから自分は大学の先生になる道を選ばなかった」と話してくれたことがある。私も「なるほど」と頷いた。だからと言って私自身どれくらい優れた教育をしているだろうかと問えば、恥ずかしながらスタント教授に比べると足下にも及ばない。

 

それでは、なぜ「大学教員は腐っている」のかを考えなければならない。私の浅見では、その根底には日本社会の組織風土に問題があると思っている。毎日「改革」とか叫びながらも、保守的で、古臭くて、既得権益者の利益だけが守られているのが、大学も含めた日本の多くの組織ではないだろうか。日本国の政治家や官僚、巨大企業などにも似たような現象が起きているのではないか。「改革」、「イノベーション」、「維新」というきれいごとの言葉は良く使われているが、それが既得権益に触れるとき、何も進まない。

 

大学の教員や経営者もある意味では既得権益者であり、自分たちの利益を犯してまで改革をしたいとは思わないだろう。いくつの大学で、競争システムやインセンティブ・システムが制度的に整備されているのだろうか。頑張っても頑張らなくても評価や待遇はあまり変わらないし(その面では「社会主義」と言われる)、頑張っている人が逆に足を引っ張られることもある。

 

最近のOECD諸国の「知力調査」では日本がトップにランキングされているが、大学の教育レベルは下がる一方であることは何を物語っているのだろうか。日本の大学教育は本当に大丈夫なのだろうか。

 

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<李 鋼哲(り・こうてつ)Li Kotetsu>

1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。

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2013年12月4日配信