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エッセイ109:キン・マウン・トウエ「ゴミの中から金」

最近日本では「おさがり」という言葉を聞かなくなったと思います。かつて家庭にたくさんの兄弟がいた時、「おさがり」は普通でした。お兄ちゃんが着たものを妹が着て、最後に弟が着る。そんなことは当たり前でした。でも日本では、そんなふうに古着を兄弟続けて着ることがなくなり、ゴミとして処分されていることがほとんどでしょう。でも、世界には国境を超えた「おさがり」があります。

 

私が日本に留学していた時、ミャンマーのリサイクルの状況について、よく質問を受けました。古いコンピューターを処分するけどミャンマーへ持っていけるか聞かれたことがありましたが、当時は、母国のIT技術のレベルの判断が出来なかったので進められませんでした。携帯電話機も同様でした。現在のミャンマー国内のリサイクル状況から言えば、いずれも大歓迎です。

 

古着も同様です。日本で衣料品が不要になった場合、
1)ゴミとして捨てる。
2)回収業者に持って行ってもらう。
3)町内会の資源回収に出す。
といったルートがあり、そのほとんどが古繊維業者に集まっていくのだそうです。そこで集められた衣料品の用途はおおまかに3通りあります。
1)綿などは適当な大きさに裁断されて工場用雑巾(ウェス)となり、工場の機械類の油汚れなどを拭き取るために使われる。
2)毛織物などはもう一回糸に戻され、再び毛織物になる。またその他の繊維も同様にフェルトや軍手などの製品として生まれかわる。
そして、
3)東南アジアへの輸出。つまり、国境を超えた「おさがり」です。

 

中古車も同様です。日本では、10年以上新車に乗っていると、車検の変更、車輌管理、排気ガスなどの問題がでてくるので、新車に買い替えることが多い。そこで、捨てられた中古車の市場ができて、先進国の日本から発展途上国へ中古車として輸出される産業が発達しました。主な輸出先は東南アジアです。

 

「ゴミ」は、見方によっては不要なもの、場所を取るもの、処分するのに困るものです。しかしながら考え方を変えて、ゴミを上手く管理し、「エコ活動」として、それぞれ必要な場所にその必要性によって再利用できれば「ゴミの中から金」ができるでしょう。実際、これは、ミャンマーでよく使われていることわざです。

 

昨年4月ごろ、出張でミャンマーの山岳地方に行きました。その地方で訪れたある小学校の校舎はぼろぼろで設備も貧しく、しかもその小学校にさえ行けない子ども達がたくさんいるということでした。ヤンゴンでは、金持ちの家族が多く、自分の子どもの学校の選び方は日本のようになってきています。学校の評判や、卒業生の就職先などによって、子どもの学校が決められます。しかしながら、山の貧しい村では、小学校へ行けるだけでも天国へ行くようなことでしょう。親ならば誰でも自分の子どもの将来を考えるはずです。しかし、学校のことまで考えられる余裕があるかどうかです。

 

特にミャンマーの場合、国の政治や経済の状況によって思うようにはならないことが多いです。昨年も国内政治で大変なことがありました。現在は元に戻っているという話があるかもしれませんが、世の中に表と裏の違いがあるのは当然でしょう。経済的には、ガタガタです。税金の決め方や取り方はめちゃくちゃですし、一部の「関係」のある人だけがよい仕事に就けますし、国民一般の経済状況は下がっています。人々は傷つき、生活には大きな被害が出ていますが、政府が国民の状況をどう思っているのか、我々一般人は読めません。表と裏の違いはあるでしょう。

 

そこで、山の子ども達のため、彼らの将来のために、政府に頼らずに、民間のボランティア活動として行うプロジェクトを計画しました。最初は資金集めです。まず、日本で支援してくださる方のお蔭で、日本ではゴミとして処分されているものの中でも、ミャンマーでは特に必要となっているもの、建設関係の中古車トラックの輸入・販売事業を始めました。さらに、今年は、日本でゴミとして処分されている古着を利用して、山の子ども達の将来に役に立つプロジェクトを始めています。

 

国の将来は、子ども達の将来であります。ミャンマーの将来は、ヤンゴンの子ども達だけでなく全国の子ども達にも関係しています。現在先進国である日本は、戦後の日本人の方々の努力の結果です。私も日本留学中には、たくさんの親切な方々にお世話をなりました。今度、私ができることを母国で行うことによって、その方々へのお礼ができると思っています。私が今携わっている「山の子どもたちの将来作りプロジェクト」に、日本の「ゴミの中から金」が得られる事を期待して頑張っています。

 

皆様のご支援とご協力をお願いいたします。

 

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<キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe>
ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。
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