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エッセイ161:李 垠庚「韓流とともに歩む」

 

私が高校生の頃、我が家ではいわゆる「スポーツ新聞」を購読していた。主にスポーツ関連記事や芸能界のゴシップで埋められたスポーツ新聞を、店や会社でもない一般家庭で購読することは、韓国でスポーツ新聞が創刊された直後の20年前はもちろん、今も滅多にない。そのためか、ポストからスポーツ新聞だけが狙われてなくなることも度々あった。友達との飲み会でも、私がその事実(スポーツ新聞購読)を明かすと、聞いていた皆が唖然として、「あなたの芸能界に関する雑学の源泉がようやくわかった」といわんばかりの顔をしていたのを覚えている。

 

それから相当の時間が経過した21世紀の日本・東京、私はある韓国語塾の「上級韓国語クラス」の映画を用いた授業を行なっていた。10人弱の日本人に対し、毎週末に、毎回約10分程度の分量のディクテーションを中心とし、セリフの表現について説明し、使い方の練習を行った。すでに韓国語をマスターしていた人々なので、韓国語という語学だけでは十分ではなく、時には俳優の裏話、映画の秘話、韓国の時事ニュースに関しての説明を加えた。韓国についてかなり詳しい彼らでも、さすがに20年近く前から情報を蓄積して来た私には及ばなかった。「先生。先生の専攻は何ですか。何であっても、その専攻より、韓国の芸能界に関する文章や講演のようなことをした方が売れるんじゃないでしょうか」。ある日、授業後の飲み会の中で、真剣な顔でそう言われたことは今でもはっきりと覚えている。

 

その2年後、平日の夕方に社会人が通う大学の生涯センターで「初級韓国語クラス」を教えることになった。前の上級クラスとは違って、日本語を使って韓国語のイロハから教えるクラスであった。ほとんどが韓国ドラマを見てファンになって韓国語を学びに来た人々なので、私の芸能情報はそこでも非常に歓迎された。一日の仕事と厳しい韓国語の勉強に疲れ、眠くなっている彼らの目を覚ますためには何よりだった。

 

どちらも韓国語を教えるという仕事は同じであるが、二つのクラスの雰囲気の違いは、最近の日韓文化交流が活発になることによる、日本における韓国関心者の性質の変化を象徴している。すなわち、韓国に関心をもって交流しようとする日本人層がどのように変わったのかを表わしているのだ。上級クラスの学生たちは、日本で韓国文化が流行る以前から、各自の様々な理由による関心から、韓国経験をしていた。彼らは、いわゆる典型的な日本人とは異なっていた。彼らは、悪びれもせず授業に遅れたり、授業中に食べ物や飲み物(しかもアルコール)を持ち込んだり、無遠慮な言い方で無理やり飲み会に誘った。悪意のない彼らの態度は、かえって韓国人気質に似ているものだった。実際に、彼らは韓国での生活体験を懐かしがり、辛い食べ物や、ジェット・コースターを連想させる韓国の市内バスを恋しがった。そのクラスの中では、「先生(すなわち私!)がもっとも日本人らしい」とよく言われた。

 

それに比べると、初級クラスの学生たちは相当異なっていた。彼らは、日本社会の中流階級の平凡なおばさんや、会社員、管理職を退職した年配の方々だった。韓国のドラマを通じて韓国文化に出会うまでは、韓国に接したことがほとんどなく、今も映像に映る韓国の荒っぽい生活と刺激的な食べ物に、好奇心と恐怖心を半々に抱いていた。長い間勉強から遠ざかっていた人々が、まったく新しい外国語に向き合うことは容易なことではない。日本人にとっては、どうしてもし難しい発音のために、筋肉に微かな痙攣を起しつつ必死に頑張る様子からは、私も感動と励みを感じた(ある人は、韓国語の一部の発音が、日本の女性にとっては一生したこともなく、抵抗感を感じさせる発音なので、どうしても素直に出来ないと言訳をしたが、真偽は確かではない)。彼らは、非常に丁寧で(個人差はあるものの)私に対しても絶対に無礼な言動をしなかった。また、日本人は必ず一つ以上の特技を持っていると言われる通り、茶道、生け花、三味線、私が聞いたことのない外国のダンスなど、必ず一つ以上の趣味を持っていた。韓国では想像さえ出来ないほどのちっちゃなプレゼントを照れずにいただくことに慣れたのもこのクラスのおかげであった(一言では説明できないが、日本と韓国のプレゼントの文化はかなり異なっている)。

 

上級クラスの学生の中では、韓国の光州民主化運動(1980)を見たことや、「在日」問題に関わることになったことがきっかけで、韓国に関心を持ちはじめたという「重い」動機から韓国と付き合うようになったケースが多かった。韓国旅行の計画をのぞいてみても、私でも行ったことのない歴史的な遺跡地と地方文化探索を試みるものだった。その反面、初級クラスからは、韓国芸能人の日本内活動やファンクラブの動向に関する情報を得ることができた。

 

この対照的な二つのクラスは、私個人の偶然な体験だけとは言い切れない。昔、日本で韓国に興味を抱いて学ぼうとした人々は大抵、日本社会に息苦しさを感じ、それとは対照的な韓国人気質や歴史に興味を抱き始めた人々、ある意味では「変わり者」やアウト・サイダーが多かった。ところが、最近、新たに現れた韓流ファンは、平凡な日常生活を送りながら、黙々と家庭と社会を支えてきた人々である。昔は、韓国語を教えるところが少なかったゆえに、韓国語を勉強しようとすれば、必ず(前述した塾をはじめ)いくつかの限られた場所にたどり着くようになっていたが、昨今では、韓国語を教えるところが「雨後の筍のように」出来たので、伝統あるところは「古臭い」と度外視されている。その結果、韓国に対する関心があまりにも軽く、興味本位へと傾いてしまうのではないか、と懸念する声もある。日韓交流におけるこのような変化の意義はともかく、私の在日期間中にこのような変化が起こり、自分のもっとも身近なところでそれを目の当たりにできたことを非常に意味深く感じている。

 

高校時代、夜遅く家に帰り、疲れを抱えて、間食を食べながらスポーツ新聞を読むことを一日の楽しみにしていたあの頃は、まさか21世紀、東京の片隅で、自分が日本人の前に立って、その新聞で得た情報をもとにして韓国の言葉と文化について教える日がくるとは想像すらしなかった。今でもたまに不思議な気持になる。そして今、21世紀初頭の日々を東京の隅っこで過ごしながら見聞きし、考えたことが、また想像も出来ない「何か」で実ることを期待する。

 

2001年、韓流のはじまりと共に始まった私の留学生活は、そのうねりとともに歩み、そのかげりが見え始める今、そろそろ終着地点が見えようとしている。偶然か必然かは、今後、開かれる道によって証明されるだろう。

 

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<李垠庚(イ・ウンギョン)☆ Lee Eun Gyong>
韓国の全北全州生まれ。ソウル大学人文大学東洋史学科学士・修士。現東京大学総合文化研究科博士課程。関心・研究分野は、近代日本史・キリスト教史、キリシタン大名、女性キリスト者・ジャーナリスト・教育者など。現在は、韓国語講師を務めながら「羽仁もと子」に関する博論を執筆中
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*このエッセイは、2007年度渥美国際交流奨学財団年報に投稿していただいたものを、筆者の許可を得て再掲載しました。

 

(2008年9月30日)