SGRAかわらばん

エッセイ147:太田美行「グローバル時代におけるオリジナリティとは何か」

 

オリンピックが近づいてきてワクワクしている。このところ殺伐としたニュースが世の中を賑わせているし、遂に私自身も病気になってしまった(SGRAかわらばん124号「私の残業物語」をご参照下さい)だけに、各競技に専念する選手の姿や記録、そしてワクワク感が詰まったスポーツの祭典は(様々な問題が付随しているとはいえ)歓迎だ。

 

 
競泳や陸上競技なら数値で判定が出されるが、今回のオリンピックでは技術の他に芸術的要素が加わるシンクロナイズドスイミング(以下シンクロ)に私は注目している。芸術性は審査員にどのように評価されるのだろうか。そして各国はどのようなプログラム構成でそれを表現するのだろうか。

 

 
思い出されるのは前回のオリンピックでの日本のシンクロのデュエットのテーマがテクニカルルーティーンで「SAKURA2004」、フリールーティーンで「ジャパニーズドール」。そして団体では日本の阿波踊りを取り入れた演技をし、フリールーティーンでは「サムライinアテネ」のテーマで、かなり「欧米から見た日本色」を打ち出していたことだ。こうして改めて当時のテーマ構成を見ても独自性を出そうとしていること
がわかるが、アテネの時はテレビを見ながら、「審査員達は、これ見て面白いのかしらね」「それ以前に阿波踊りを見てわかるの?」と家族と言いながら見ていたものだが、結果はデュエット、団体戦とも銀メダルを獲得したのだから評価はされたのだろう。しかし同僚との間でも「ちょっとあのテーマは違うよね」と話題になったものだ。

 

 
オリンピックという正にグローバル、かつ一瞬で勝負が決まる場であり、独自性を評価してもらうことは至難の業だろう。それゆえ「わかりやすいオリジナリティの表現」に流されたのかもしれない。1980年代後半くらいから90年代にかけてワールドミュージックと名づけられた民俗音楽が流行したり、沖縄民謡風の音楽にも注目が集まったりした。アパレルの分野でもエスニック調の服やバック、アクセサリーなどが人気を集めている。「伝統」はグローバル社会においてオリジナリティを表現する有効な手段として捉えられているようだ。

 

 
しかし一方では、各国の現代文化がグローバルに評価されている例としてマンガ、アニメがある。確かにこれは直接的に伝統文化とは関係ない。また「Shall we ダンス?」、「インファナル・アフェア」等、アジア映画をハリウッドでリメイクするなど、アジアという一地域のヒット作品がグローバル市場で評価される動きもある(本当はオリジナル作品のままグローバル市場に参入できると良いのだが)。この場合に評価されているオリジナリティはどこにあるのか考えてみたが、いまひとつわからない。そんな時に女優のソフィア・ローレンのインタビュー記事の一節を読んではっとした。 

 

彼女は「宮崎駿のアニメーションを見たが、木々の描き方がヨーロッパの表現方法と違い、非常に興味深かった」と感想を述べていたのだが、表現方法の違いについて何と面白い捉え方をしているのだろうと、かつてヨーロッパの芸術家たちが日本の浮世絵の構図や表現方法に触発され、流行したジャポニズムに通じる感想だと思った。同じ事物への感性の違い、思想の違い。歴史や環境が育み、凝縮されて生まれた表現方法に加えて、個人の経験と歴史もある。それらが重ねられた薄い色紙の束から生まれた色彩。それを何かの形にしようとはさみで切っていくのが個人の感性。あるいはこう言い換える事ができるかもしれない。周囲の歴史と経験に、自分自身の経験と教育と歴史を、咀嚼し吸収された後に生み出されるもの。そのようにして出来上がったものがオリジナリティではないのか。そこに「普遍的な感性のツボ」と「衝撃」が加わった時に、グローバルレベルでのヒット作が生まれる、と考えてみた。だからシンクロで「さくらさくら」や「ラストサムライ」を選曲して殊更エスニックを強調しなくても、オリジナリティは表現できるのではないだろうか。

 

こう考えていた時に思い出したのがバルセロナオリンピックの時のシンクロで銅メダルを受賞した奥野史子選手(当時)が、1994年の世界選手権でそれまでの「シンクロは笑って演技をする」常識を覆した「笑わない演技」をし、世界選手権初となった全審査員からの芸術点満点を獲得したことだ。「笑わない演技」とは、怒りや情念が、時に能面のように無表情で表現されたりしながら、最後には昇華され、穏やかな表情となって演技が終了するプログラム構成である。インタビュー記事から本人も、シンクロ界に歴史を残したと誇らしげだった。能などをどこまで意識したかは不明だが、それなりに意識していただろうし、その配分と奥野氏のもつ個性と技術によって生まれた演技だろう。

 

 
残るはそれがグローバル市場でどう受け入れられ、広まるかだ。誰でも自分の作品がいつまでも「ハリウッドでリメイクされる」では嬉しくないだろう。戦略や流通経路の開発や仕掛けも必要だ。一部の知識人に評価されるのも嬉しいかもしれないが、作り手としてはやはり皆に受け入れられた方が嬉しいに違いない。そしてそこから先が真の才能の戦いになるのだろう。

 

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<太田美行(おおた・みゆき)☆Ota Miyuki>
東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。
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