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エッセイ018:ボルジギン・フスレ 「ウランバートルの宴会」

8月にウランバートルで行われた国際モンゴル学会(IAMS)主催の第9回国際モンゴル学者シンポジウムの開会式に出席したモンゴル国のナンバリン・エンフバヤル(Nambaryn Enkhbayar)大統領は、自分の別荘で盛大な歓迎宴会を開いて、参加者全員を招待した。宴会は3時間以上つづき、大統領は、参加者の要求に応じて、一人ずつ握手し記念写真をとらせた。これまで、数回、国際シンポジウムに参加したことがあるが、一国の最高指導者が開会式に出席し、歓迎宴会を開き、そして一緒に記念写真をとるのを許したのは、私にとっては、初めてのことだった。これは、モンゴル国がこのシンポジウムを、どれほど重視しているのかを示していると同時に、大統領の親切さも切実に感じられた。

 

大会2日目の夜は、アメリカ在モンゴル大使館とアメリカモンゴル研究センターが、シンポジウムの参加者全員を歓迎する宴会を共催した。宴会の前、一部の研究者はわざわざホテルにもどって、よそゆきの服に着替えた。宴会場に行くバスの中で隣に座った中国のエリート大学のC教授が、スーツを着てネクタイもちゃんとしめているので、「暑くありませんか?」と聞いてみた。彼は、「アメリカ大使館の招待なので、きちんとしないと」と真面目に答えた。私はTシャツを着ていたので、自分の服装は失礼なのではと少し心配した。

 

宴会場に着いて30分ほど待った後、やっと会場に案内された。立食の宴会が始まった。私は、まず飲み物をもらう列に並んだ。自分の前に並んだ人は10数人しかいなかったにもかかわらず、たくさんの人が割り込んできたため、結局、ビールを手にしたのは30分後のことだった。ビールをもって、料理のテーブルへ行ってみたら、そこには食べ残しのお皿しか残っていなかった。「テーブルの前に立って待てば、料理はちゃんと来るよ」と隣の人が教えてくれた。話している間に、ピザやフライドチキンなどの料理が運ばれてきた。しかし、紙皿も全部使用済みだったので、私は他の人を真似て、手元のフォークでチキンを刺して、少し空いているところに行って食べようと思った。そこへ、日本人のO教授が来て、「フスレ君、まだ帰らないのか?」と聞いてきた。彼はちょうど帰るところだった。「えー、まだ“始まったばかり”ではないですか」と私は答えたが、「日本人の研究者はもういないよ」と彼は教えてくれた。会場を見渡してみたら、来場した日本人の研究者のほとんどは、すでに姿を消していた。

 

ちょうどその時、内モンゴル大学のオラスガル教授が招待してくれたので、O教授の案内で、わたしたち3人は、スフバートル広場のそばにある日本人経営の居酒屋に行った。小さな居酒屋だったが、小泉首相(当時)のモンゴル訪問を報道する日本人の記者がたくさんいたので満員だった。店長はなんとかして、私たち3人も入れてくれた。料理は確かに本当の日本料理なので結構人気があるようだった。店内も日本の雰囲気だったが、入り口の左側にはレーニン像、右側にはスターリン像が並べられており、わたしたちの席のとなりの本棚には毛沢東の像が置かれていた。食事をしながら、さきほどの宴会が話題になった。私は「よそゆきじゃなくて、Tシャツのままで、あのアメリカ的なユーモアを経験したのは幸いだった」と言った。

 

3日目の晩餐は、主催者(IAMS)側の招待だった。宴会場で、ヘルシンキ大学のA氏が、「今日は、日本大使館が日本の研究者を招待することになっているではないですか」と不思議そうに言った。確かに当日まで、日本大使館の人が来て、招待状を配っていた。招待されたのは、日本人の出席者のみだった。アメリカ人のやりかたと比べて、日本人のやりかたははるかに賢い。20数ヵ国400人以上の出席者を招待するより、数十人の日本人の研究者のみを招待する方がだいぶ節約できる。
「知っているけど、招待されたのは日本人の研究者だけだよ」と私は答えた。
「あなたは日本の研究者ではないのか」と彼はまた聞いた。
「内モンゴルから日本に行った者なので、日本人の研究者とはやはり違う」。
「でも、あなたは日本の大学で働いているのではないか」と彼はとことん尋ねてきた。
「まあ、内モンゴル人なので、日本国籍ではないし、日本の大学で働いているとはいえ、私個人は非常勤なので、招待されるわけはないよ」。
わたしの答を聞いても、彼は首を振ってなかなか納得できなかったようだった。

 

その時、2年前の夏に中国で行われたある国際シンポジウムのことを思い出した。私を含めた数人の日本から来た内モンゴル出身の研究者は、受付で、200ドルの参加費を請求されたのだ。中国国内の研究者ならこの金額の約3分の1だった。私たちは、主催側の責任者の一人に「なぜ私たちを外国研究者として扱うのですか」と聞いてみた。
「あなたたちは、日本から来たのだから、200ドルを払うのは当然だ」と彼は言った。
「私たちは中国から日本に行った者で、国籍も中国なのに」と言ったら、相手は、
「でも、あなたたちは、現在日本で生活し、日本の大学で働き、給料をもらい、日本の大学を代表しているではないか」と答えた。日本大学の非常勤講師B氏が大変怒って、
「私たちは日本でのシンポジウムに参加するとき、いつも外国人として扱われている。自分の国に戻ってきても、外国人として扱われる。私たちはいったいどこの国の者なんだ」と言った。口論は続いたが、結局、私たちは、日本の研究者として、200ドルの会議費を支払わざるを得なかった。

 

ウランバートルの宴会の話に戻ろう。閉会の日、シンポジウムに出席した研究者のリストがくばられた。シンポジウムに参加した内モンゴル出身で、日本の大学で働いている人の名前は、すべて中国の研究者リストに並んでいた。数年前、内モンゴルからイギリスに行き、ケンブリッジ大学で博士号を取得し、現在アメリカのニューヨーク市立大学ハンター・カレッジ準教授のE.B氏の名前も中国研究者のリストに入っていた。実は、アメリカ国籍になっている彼は、現在、中国のビザを申請するのも困難だという。彼は日本にも数回来たことがあり、日本では、内モンゴル出身のアメリカ人研究者として知られている。閉会式後の宴会は、モンゴル国の女優と結婚したドイツ人の企業家がつくったホテルでおこなわれた。私はE.B氏に、「あなたは、まだ中国の研究者になっていますよ」と、そのリストについて話した。
「そうか、祖国はまだ私を忘れていないのか」と、彼は大いに笑った。

 

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ボルジギン・フスレ(BORJIGIN Husel)
博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「内モンゴル自治運動における内モンゴル人民革命青年同盟の役割(1945~48年)」など論文多数発表。

 

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