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Invitation to the 71st SGRA Forum “A Special Space Called ‘Green Ukraine'”.

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SGRAかわらばん968号(2023年5月11日)
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◆第71回SGRAフォーラム「『緑のウクライナ』という特別な空間」へのお誘い

下記の通り第71回SGRAフォーラムをハイブリットで開催いたします。参加ご希望の方は、事前に参加登録をお願いします。オンラインはカメラもマイクもオフのウェビナー形式で開催しますので、お気軽にご参加ください。

テーマ:「『緑のウクライナ』という特別な空間」
日 時:2023年6月10 日(土)午後2時~午後5時(日本時間)
方 法:会場参加(先着20名)とオンライン参加(Zoomウェビナーによる)のハイブリット開催
会 場:渥美国際交流財団ホール(プログラム参照)
言 語:日本語

※参加申込(クリックして登録してください)
https://us02web.zoom.us/webinar/register/WN_R5tHvBp_R8qo6r-uEIWyAQ#/registration

お問い合わせ:SGRA事務局([email protected] +81-(0)3-3943-7612)

■フォーラムの趣旨

ロシア帝国は中国とのネルチンスク条約、アイグン条約、北京条約によって極東の大きな領土を手に入れることができた。その極東の国境沿いの領土にはあまりにも人口が少なかったため、定住者を増やすことが政治地理的な大きな課題となった。ほぼ同時期の1861年に農奴解放令が発布され、当時ロシア帝国に付属していたウクライナの農奴はやっと農地を手に入れたものの、配給された土地は非常に小さく不満を抱く人が多かった。そこでロシア帝国政府は「帝国の南側から極東に家族ごと移住すれば、かなり大きな農地をもらえる」と宣伝し1870年からロシア革命までに大勢のウクライナ人が極東に移り住んだ。1918年1月にキーウで独立共和国の宣言が行われた時、極東のウクライナ人は「緑のウクライナ」という国を作ろうとしていた。1922年にソ連政権が極東に定着した時、その政権から逃れた100万人のウクライナ人がハルビンなどに移り住み1945年まで留まっていた。
本フォーラムでは、いろいろな民族が住み、さまざまな文化が存在し、新たなアイデアもたくさん生まれていた、20世紀前半の極東アジアに存在した特別な空間について話し合いたい。

■プログラム

◆講演1「『緑のウクライナ』という特別な空間」
オリガ・ホメンコ(オックスフォード大学日産研究所)

1918年1月にキーウで独立共和国の宣言が行われた時、極東のウクライナ人は「グリーンウェッジ」(森が多いので緑、ウェッジは農業ができるところ)と呼ばれていた地域に「緑のウクライナ」という国を作ろうとしていた。1922年にソ連政権が極東にやっと定着した時、その政権の下に住みたくない100万人のウクライナの人はハルビンなどに移り住み1945年まで留まっていたが、「緑のウクライナ」の夢を捨てられなかった。ロシア帝国でマイノリティ―だったウクライナ人は、極東に開拓民として移動し、初めていろいろな民族に対してマジョリティ―になり、初めて多くの今まで知らなった民族や文化に触れ合うことになった。新たなアイデアもたくさん生まれ、ウクライナのアイデンティティーを実感し、自分の国を作ろうとした。極東開発のプロセスで農民以外に、知識人の技師や鉄道関係者もウクライナからやってきた。第一次世界大戦と共に軍人の数も増えた。活発なボランティア活動のおかげで極東満州では20以上のウクライナ語のプリントメディアが出版された。
本フォーラムでは、そのメディアを起こした人達を紹介し、そこで想像されていた「緑のウクライナ」という特別な空間について考えたい。長らく忘れられていた人々―多民族国家の夢を見て「極東のウクライナ人」という新聞を自費出版していた技師のドミトロー・ボロウィックや「満州通信」の編集者だったイワン・スウィットの姿を見ながら「緑のウクライナ」について検討する。

◆講演2「マンチュリア(満洲)における民族の交錯」
塚瀬 進(長野大学環境ツーリズム学部)

マンチュリア(満洲)の範囲は時代によって一定ではなく可変的であった。また、そこに住む人々の移動も激しく、日本のように単一的な人々が長く暮らした時期は少なかった。領域の範囲が変動したこと、住民の移動が激しかった地域の歴史は、民族自決による国民国家の形成という過程を主軸に理解することは難しい。
通説的な理解は、マンチュリアはもともと人口稀薄な場所(「無主の地」とも称された)であったが、中国人の移住が20世紀以降増加し、中華人民共和国の東北三省となり現在に至っているというものである。かかる中華人民共和国の一地域へと収斂されていく方向性、言い換えるならば最終的にマンチュリアは中国に統合され、中国人の地になるという理解は、マンチュリアの多様性を取捨している。中国への統合という側面だけではなく、マンチュリアを主体にした歴史理解を本報告は追究している。こうした議論の方向性は、現在世界各国で生じている多くの紛争の基底にある、同質的な国民国家を形成することが難しい地域の歴史的要因の認識につながる。

◆話題提供1「中国東北地域における近代的な空間の形成:東北蒙旗師範学校を事例に」
ナヒヤ(内蒙古大学蒙古歴史学系)

ハルビン、長春、瀋陽を中心都市とした20世紀前半における中国の東北地域でモンゴル族は文化、教育、出版をはじめとする様々な活動を行なってきた。しかし、自力では強力な活動を展開するのが難しく、各地方政権と取引を行わざるを得なかった。張学良を理事長、メルセを校長とする東北蒙旗師範学校はその典型的な例である。

◆話題提供2「『マンチュリア』に行こう!」
グロリア・ヤン ユー(九州大学人文科学研究院)

20世紀前半のマンチュリア(満洲)には、ロシア・「極東」・モンゴリア、中国(特に華北地方)・朝鮮半島・日本から、さまざまな人々が移住してきた。また、鉄道の発展によって国境を越える旅も盛んに行なった。本コメントは、視覚資料、小説、紀行文などを取り上げ、「マンチュリア」の日常生活空間の多様性を描き出す試みである。また、この「越境する現場」の多様的な空間の視覚表象は、日本帝国の拡張(のちに満洲国の成立)によって取捨され、そして単一化されつつあったことを明らかにしたい。

◆自由討論
司会/モデレーター:マグダレナ・コウオジェイ(東洋英和女学院大学)

※プログラムの詳細は下記リンクからご覧ください。
https://www.aisf.or.jp/sgra/wp-content/uploads/2023/05/SGRAForam71Program.pdf

※ポスターは下記リンクからご覧ください。
https://www.aisf.or.jp/sgra/wp-content/uploads/2023/05/SGRAFo71PosterLITE2.jpg

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