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LIM Chuan-Tiong “Pandemic Propaganda”

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SGRAかわらばん815号(2020年4月16日)

【1】エッセイ:林泉忠「『記事撤回事件』と『パンデミック宣伝戦』」

【2】コラム紹介:平川均「『コロナ危機』で世界経済はどうなるか」
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【1】SGRAエッセイ#628

◆林泉忠「『記事撤回事件』と『パンデミック宣伝戦』」
(原文は『明報』(2020年3月23日付)に掲載。平井新訳)

香港における「抗疫大將(防疫作戦の将軍)」と称される香港大学微生物学系講座教授の袁国勇とその弟子である名誉助理教授龍振邦の両名が3月18日に『明報』に投稿した「17年前の教訓を全く活かせなかった武漢由来のパンデミック」の記事に関して「撤回声明」を出すに至り、香港全土を揺るがす「記事撤回事件」が起こった。では、記事撤回の決定はどのような経緯と圧力のもとに起こったのだろうか。事件の真相の詳細についてはまだよく分かっていない。確かに事件の背景に関しては諸説紛糾しているものの、中国の国内外で感染症の流行状況が逆転してしまった現状において、中国が今まさに戦いの火蓋を切って落とそうとしている宣伝作戦とこの「記事撤回事件」の関係にまず着目すべきだろう。

○二人を「記事撤回」に追い込んだきっかけ

新聞紙上に掲載された文章は、たとえ誤りを含んだものであったとしても、普通はメディアを通じて読者へ釈明したり、訂正を出したりすれば事足りるのであって、記事そのものを「撤回」するというのは珍しい出来事である。そもそも一度掲載してしまった内容を「撤回」などできるはずもなく、「撤回声明」で問題が一件落着するわけでもない。実際、「撤回声明」が出たことによって、多くの読者が興味をもって元の記事を探して読むことにつながってしまい、当該記事は『明報』のウェブサイトでもヒット数が激増し、記事の影響力はかえって増大することになった。

ここで、「記事撤回事件」の背景と原因を窺い知るためには、北京側のロジックから理解しなければならない。

そもそも、3月18日の「記事撤回事件」は、2段階の進展を見せていた。まず、第1段階は、記事が発表された当日の夕方だいたい5時から6時の間に、記事の筆者である龍と袁の両名が『明報』社に記事内の「中華民国」の文字を「台(湾)」に変更するよう要求した。この段階での問題は、北京からすれば「常識を欠く低レベルの間違いを犯した」というものであっただろう。中国に復帰した後の香港は、中華人民共和国の特別行政区である。たとえ香港と内地の言論の自由に関する規範が必ずしも一致せず、内地では掲載不可能な「台湾総統選」や「台湾総統蔡英文」など類似のこうした表現について、必ずしも内地における報道に合わせて「中国台湾」、「台湾地区」と呼称する必要はない。
とはいえ、括弧を付けずに「中華民国」と香港、マカオを並列にすることは、?台湾を一つの国家であると認めること、?台湾の国名は「中華民国」であると認めている、とはっきりと示すことになってしまう。こうした表現は、もっとも緩やかな基準に基づいて判断したとしても、北京から見れば、少なくとも「ポリティカル・コレクトネスに反する」となろう。

しかし、香港の言論、新聞、出版の自由は、香港『基本法』の保障を受けている。だからこそ、『基本法』にもとづき、『明報』の編集部も当初、記事の筆者に対してかかる台湾の名称に関する表記の変更を積極的に要求しなかったと、筆者は信じている。重要なのは、袁国勇は香港大学医学院教授であるというだけでなく、同時に中華人民共和国国家衛生健康委員会のシニアエキスパートチームのメンバーであり、かつ香港政府の防疫専門家顧問団のメンバーであるなど、現役「官僚」の身分をも有しているということである。こうした身分を持ちながら、自らが公開する文章において、台湾を「中華民国」と表現することの重大性は、すでに「不適切」の一言で済まされる問題ではなく、これこそ彼ら2名を記事の撤回に追い込むことになった原因といえるだろう。もちろん、当該記事の「問題」はこれだけにとどまらない。

○北京の新たな「宣伝戦」にも反する論調

記事の筆者である2人は、18日の夕方に「中華民国」の名称の訂正を求めた後、夜にはさらに『明報』に対して「記事撤回声明」を発表し、『明報』は当日深夜11時38分にニュースリリースを発表した。これが、「記事撤回事件」の第2段階目の展開であった。合理的に推察すれば、夜になって筆者両名が受けた圧力がさらに一歩強まり、「中華民国」という表現を訂正すれば良いという問題ではないということに思い及び、そこで夜中に再度新聞社に連絡してあまり見慣れない「記事撤回声明」を出すに至ったという経緯が考えられよう。言い換えれば、記事撤回の背景には、「中華民国」という呼称以外に文章内容も関係したということではないだろうか。

そもそも当該記事には、上述した台湾の呼称のほかに、論争を巻き起こす3つのポイントがあった。それは、第1に感染症の名称として「武漢肺炎」という呼称に正当なお墨付きを与える内容だったこと、第2に「ウイルスの発生地は武漢である」と主張したこと、第3に「中国人の陋習劣根」が「ウイルスの発生源」であると主張したことである。この3大論点は、それぞれ若干内容が異なるとはいえ、結局は中国における民族主義の逆鱗に触れたという点で、「世間の皆様に不快な思いをさせた」というばかりでなく、むしろ「中国人の民族感情を著しく傷つけた」という意味で、強い反発を招きやすく、中国大陸のネットユーザーの「出動」と炎上を触発する要因となりかねなかったのである。もちろん、こうした指摘の裏に潜んでいる真意は、当局の「野生動物の濫獲と食用に対する取り締まりの不行届」が招いた問題であるという意味で、民族感情レベルの問題だけではないと言えよう。

いわゆる「龍の逆鱗に触れたる者は必ず死に至る(「逆鱗」の故事成語)」となった当該記事が「炎上した」理由として、おそらく民族感情を害したことよりもさらに重大だったのは、公職にある香港随一の防疫専門家が、あろうことか「武漢肺炎」の用語を公然と肯定し、同時にさらに一?踏み込んで「ウイルスの発祥地は武漢である」という論まで展開したことだろう。

客観的には、3月に入って以降、中国内地における感染症の流行は次第に抑え込まれつつあった。習近平は3月10日に武漢を視察し「感染症との戦いには段階的な勝利を収めた」と標榜していた。これと同時に感染症の流行状況は中国国外において急激に拡大しつつあり、中国の国内外において状況が逆転し始めていた。

この段階に到って中国の官製メディアは、すぐに「パンデミック世論戦」を展開し始めた。一方では「中国の制度的優越性」によって「パンデミックとの戦い」に勝利できたと声高に喧伝し、他方では中国における感染症の流行のマイナスイメージを極力払拭しようとしたのであった。

これによって、感染症流行に対する中国政府の対応への中国国内外からの批判を和らげ、中国に対する責任問題の追及をかわそうとしていた。従って「武漢肺炎」という呼称を頑なに使用し続ける台湾当局や、トランプが連日に渡り「中国ウイルス」と呼び続ける事に対して、厳しく譴責していた。

この他にウイルスの発生源に関する問題について、中国世論ではこれを曖昧化し始めていた。中国とは関係がないと極力主張するばかりか、中国外交部のスポークスマンである趙立堅が、先日SNSメディアで表明したように、「新型コロナウィルス肺炎の感染症は米軍によって武漢に持ち込まれた可能性がある」とまで語っている。

簡単に言えば、中国側の世論において(コロナ騒動の原因と責任に関して)反転攻勢の宣伝が激しく展開されているまさにその時に、中国国家保健委員会シニアエキスパートチームの一員の身分を有する袁国勇教授が高らかに当該記事を発表したことは、北京側の宣伝の意向を無視し、中央政府の基本的な認識に真っ向から挑戦するという大禍を招いた事になるのである。このように顔に泥を塗られた北京当局が、記事の撤回だけでことを済ませ、袁国勇教授に対しその公職に引き続き留任させるというのであれば、中国内地の基準に照らせば、おそらく前代未聞の寛大な処置と言えるだろう。

○反転攻勢の「パンデミック世論戦」もほどほどに

公正を期して述べるならば、もし当該記事が発表されたのが、2月中旬のWHOが正式に新型コロナウィル肺炎の名前を「COVID-19」命名とする以前であれば、問題はここまで重大なことにはならなかっただろう。実際にWHOが正式に命名する以前の段階では、世界各国のみならず中国国内メディア及びネットユーザーですら「武漢肺炎」という呼称を便宜的に使用していたのであり、この呼称が「社会的スティグマ」であると公式に認定されたのちに、ようやく呼称が変更されたという経緯があった。この点から言えば、今回の事件は、当該記事の筆者には中国政治の「敏感(デリケート)度」に対する観察と対応能力が足りなかったために起こったと言わざるを得ない。

実のところ、「武漢肺炎」であれ「中国ウイルス」であれ、たとえウイルスの発生源が最終的に武漢からであったと確定されたとしても、こうした名称が人種差別の意味を含んでしまう誹りは免れない。特に、人類の文明が進歩し、人権への尊重が進むにつれて、こうした名称は極力避けられるべきだろう。しかし、これは「香港インフルエンザ」、「香港脚(水虫)」、「日本脳炎」など、地域の名称を冠したその他の疾病の呼称に対しても、同様に批判を展開すべきであり、ダブルスタンダードとなってはいけないだろう。

この他、中国はまさに反転攻勢型の「パンデミック宣伝戦」をこれからさらにおし進めようとしている。しかし、これは西欧世論の注目を広く集めるばかりでなく、反感さえ招いており、中国は自画自賛だと批判されている。中国政府が「当局のとった的確な防疫対応は人類の健康と安全を守るために大きな貢献となった」などと強調することは、当局が感染症の発生初期に真相を隠蔽して感染爆発を招いたという中国社会及び国際社会が有する負の記憶を抹消しようとするものだという批判である。中国の感染症への対応が的確であったかどうか、またその効果はいかなるものかについて、もちろん様々な見解が存在するだろう。

しかし、もし民意と国際世論の反応を無視して、当局が「パンデミック宣伝戦」を高らかに展開し続けるのであれば、おそらく「感恩論」(訳者註:3月初旬に武漢市の党書記王忠林が、武漢市民に今回の感染症拡大に対する政府の対応に感謝する「感恩教育」の必要性を説いたことに対して、中国のネットユーザーを中心に市民からの批判が殺到したため、当局はすぐにこれを撤回した)や、出版されずに回収となった『大国戦”疫”』(訳者註:中国共産党と政府宣伝部門が主導し、習近平指導部の新型コロナウィルス感染症への対応の成果と指導力をアピールする内容の書籍が2月下旬に出版予定だったが、市民からの非難が殺到したために販売予定の書籍は回収された)と同様に、逆効果となるため、ほどほどに慎むべきだろう。

<林 泉忠(リン・センチュウ)John_Chuan-Tiong_Lim>
国際政治専攻。2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員、国立台湾大学兼任副教授、2018年より台湾日本総合研究所研究員、中国武漢大学日本研究センター長を歴任。

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【2】コラム紹介

SGRA会員で浙江越秀外国語学院東方言語学院の平川均教授のコラムをご紹介いたします。

◆平川均「『コロナ危機』で世界経済はどうなるか」世界経済評論IMPACT No.1681

新型コロナウイルス感染症危機(以後、コロナ危機)で伝えられる国内外のニュースを聴きながら、ペストに襲われた中世ヨーロッパ、そしてユーラシアで起こった恐怖の光景が2重写しになって現代に蘇る。ヨーロッパを襲ったペスト禍は、その後の世界史を変えた。人口の激減がヨーロッパの政治形態、社会構造に影響を与え、また「大航海時代」をお膳立てし、回り回ってイギリスの産業革命とヨーロッパ中心の世界の形成を導いたとさえみなされている。他方、習近平国家主席が2013年に打ち出した「一帯一路」構想は、ユーラシア大陸を陸と海で繋ぐ対外政策である。イタリアはその参加国である。コロナ危機は、14世紀のペストの波及とその構図が似ている。そう考えると、数世紀後の超長期を見通せるはずはもちろんないが、ほんの少し先の危機後の世界経済を考えてみたくなる。

※全文を下記リンクよりお読みください。
http://www.world-economic-review.jp/impact/article1681.html

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