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エッセイ826:銭 海英「時代の徴(しるし)」
大ヒットSF映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を観た。
人類滅亡の危機を救うため、たった一人で宇宙へ送り出された科学者ライランド・グレースの物語である。太陽のエネルギーを捕食する未知の微生物「アストロファージ」の出現により、人類は滅亡の危機に瀕する。唯一影響を受けていない恒星「タウ・セチ」を調査するため「プロジェクト・ヘイル・メアリー(神頼み計画)」が立ち上がる。
グレースは突如参加を余儀なくされた、しがない研究者の一人だ。強制的に11光年先の片道切符の任務を託されてしまう。
タウ・セチで彼が遭遇したのは、別星系の惑星エリドを救うため飛来したロッキーだった。姿形も文化もまったく異なる異星人との「未知との遭遇」に二人は互いに驚くが、数学や科学を共通語とし、少しずつ意思を通わせ信頼を築いていく。互いの目的を理解し合った2人は、それぞれの故郷を救うという使命のため、命を懸けて協力することになる。
物語の終盤、彼らはついに故郷を救う方法を見つける。グレースはロッキーから帰りの燃料を分けてもらい(当初は片道燃料しかなくカプセルのみを地球へ送還する計画だった!)地球へ帰還できることになったが、帰路でロッキーが死の危機に瀕していることを知りヘイル・メアリー号の進路を反転させ「友」を救う道を選ぶ。
地球だけでなく、惑星エリドも救ったグレースはエリドで教師として暮らし、ロッキーやエリドの子どもたちと新たな人生を歩み始める。
誰もが幸福な結末だと思うだろう。私も映画館を出た直後はそうだった。
映画館を出た時、友人と「この映画は今どきだよね」と話した。恋人でも家族でもなく「友」のために世界を救う主人公。軍人でも英雄でもない、少し頼りない科学者。現代だからこそ共感される物語なのだと思ったのだ。
物理の「ぶ」の字も知らない私には、科学考証の面白さは分からない。スター・ウォーズのフォースと同じ「なんかスゴイ物質」でしかない。
それでも私は夢中になった。
何より、ロッキーという存在である。見た目は岩。5本脚で這い回る。初登場では、映画『エイリアン』のフェイスハガーかと思い、「キモッ」が率直な感想だった。しかし映画が進むにつれて、私はこの岩の塊を好きになっていた。知的で、ユーモアがあり、友のためなら命さえ投げ出す。
今ではロッキーのフィギュアが欲しくてたまらない。しかし日本ではなぜか売っていない。調べてみると、公式サイトではロッキーの3Dプリンター用データを無料公開していた。時代は変わったね。「まずは3Dプリンターからお買い求めください」と言わんばかりだ。一緒に映画を観た友人は、本当に20万円の3D プリンターを買ってしまった。
この映画について文章を書こうと思った理由は、ロッキーが可愛いからではない。私の中で最後まで消えなかった違和感があったからだ。
私の中で引っ掛かったのはラストシーンだ。映画館では幸福な結末だと思ったが、時間が経つほど、「本当に幸福なのか」という疑問が強くなった。私は批評を読み始めた。科学、異文化理解、孤独、現代社会論。どれも面白かった。しかし決定的だったのは、町山智浩氏による新約聖書からの解読だった。
英語圏の考察や原作小説へと読み進めるうちに、日本や中国ではあまり見かけないキリスト教に基づく解釈が行われていることを知った。「ヘイル・メアリー」とはカトリックの祈り「アヴェ・マリア」の英語表現で、アメリカンフットボールで「神に祈るしかないような最後の賭け」の意味で試合終了間際の一発逆転の超ロングパスを指すという。映画のテーマソングとして象徴的に使用されるHarry Stylesの『Sign of the Times』。2017年に一人のポップスターが歌った恋愛曲が、映画ではいかにもキリスト教的な「時代の徴(しるし)」という題名とともに、更なる意味を帯び始める。
興味深いのは、救済の描き方が一様ではないことだ。
劇中でプロジェクトを主導するリーダー「ストラット」の人物像には、彼女が人類を救う使命を最優先し、必要であれば個人の意思さえ切り捨てる。そこには、使命の完遂に邁進するプロテスタント的倫理観を見て取れる。一方、グレースとロッキーは互いのために犠牲を引き受け合い、人格的な交わりを深めていく。その姿は、どこかカトリック的な救済観を思わせる。
さらに面白いことに気付いた。ロッキーを救うため引き返すグレースの姿は、聖書外典『Quo Vadis』の逸話を反転させた構図にも読める。彼はキリストというより、その名の通りGrace(恩寵)そのものとしてロッキーのもとへ救済に向ったのではないか。
そのように読み始めると、映画は単なる英雄譚ではなく、「救済とは何か」を問い続ける物語へと姿を変える。「友のために命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」という新約聖書の言葉を知ったとき、「今どき」だと思っていたものは、2千年ものあいだ語り継がれてきた物語でもあったことに気付く。
それでもなお、ラストシーンの答えは出ない。
グレースは幸福なのか。
故郷を捨て、新しい世界を故郷として受け入れることは、本当に救済なのか。
音楽を消してあの場面を眺めたら、少し恐ろしい光景にも見えてしまう。異星でたった一人、異星人に囲まれて満面の笑みを浮かべる主人公の姿に違和感をもつのではないだろうか。
結局、私は映画館を出たときと同じ問いの前に立っている。
ただ一つ違うのは、あの日の私は、この映画を「今どき」の物語だと理解した。
しかし今では、その「今どき」という言葉そのものが、私には最も捉えがたいものになってしまった。
聖書から2千年語り継がれてきた物語が、これほど自然に「今」を語ってしまうのだとすれば、現在というものは、私が思っていたほど「今どき」という一言では語れないのかもしれない。
<銭 海英/QIAN Haiying>
2022年度渥美奨学生。中国出身。東華理工大学外国語学部卒業。明治大学院教養デザイン研究科博士前期課程・博士後期課程修了。博士(学術)。現在、成城大学文芸学部・日本大学法学部・神奈川大学外国語学部で非常勤講師を務める。明治大学リベラルアーツ研究所客員研究員。専門は近代中国教育思想史。
2026年7月23日配信



