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エッセイ825:尹 在彦「JR中央線ホームドア設置から思い出すこと」
私がほぼ毎日利用しているJR東日本中央(快速)線では、6月にホームドアの運用がいよいよ始まった。10年以上この路線を利用しているが、さまざまな理由による遅延は日常茶飯事だ。なかでも「人身事故」が多発する路線として知られ、運転見合わせや遅延を知らせるアプリの通知が届くたびに、「この問題は、いつ解決されるのだろうか」と疑問を抱いてきた。同時に思い出していたのが、いち早くホームドアの整備に踏み切った韓国の事例である(もちろん、東京メトロをはじめ、すでにホームドアを導入している鉄道会社がたくさんあることは承知しているが、本稿では中央線と韓国の事例に焦点を当てたい)。
韓国・ソウルの地下鉄のホームには、ほぼすべてホームドア(韓国では「スクリーンドア」と呼ばれる)が設置されている。ソウルを訪れたことのある読者なら、一度は目にしたことがあるだろう。ホームドアは天井近くまで設置されており、線路はほとんど見えない。多少窮屈に感じることはあっても、線路へ転落する不安を感じることはない。
韓国では、ホームドアの整備が短期間で急速に進んだ。2000年代後半から、ソウル地下鉄公社や韓国鉄道公社(KORAIL)は数百億円規模の予算を投じて設置を進めた。その背景には、一つの衝撃的な事件がある。偶然にも私は、その事件の遺族として社会的なキャンペーンを展開した当事者と直接会う機会があった。本稿では、その経験について紹介したい。
2003年、ソウル中心部の人気観光地、南大門市場最寄り駅である会賢(フェヒョン)駅で事件は起きた。当時、市場で店を営んでいた女性がホームで地下鉄を待っていたところ、駅に電車が進入した瞬間、後ろから男に背中を押された。女性は線路に転落し、進入してきた電車にはねられ、その場で死亡した。事件は韓国社会に大きな衝撃を与え、ホームの安全対策への関心が一気に高まった。すでに一部の駅で試験運用されていたホームドアにも注目が集まったが、この事件だけで設置が急速に進んだわけではない。
2011年、私は駆け出しの新聞記者としてソウル麻浦(マポ)警察署を担当していた。同署はソウル西部を管轄し、映画化もされた連続殺人事件の舞台となった地域でもある。そのため、(良い意味でも悪い意味でも)ニュースバリューの高い事件・事故が多く、個性的な警察官や刑事も少なくなかった。女性として初めて強力犯対策チームを率いた刑事や、後に国会議員となる女性幹部もいた。
その麻浦警察署で治安対策を担当していたのが、前述した会賢駅事件の被害者の夫、A氏だった。当時の私は、「ホームドア設置のきっかけとなった事件」という程度の認識しか持っていなかった。A氏を訪ねたのも、警察担当記者として幹部へ挨拶回り(韓国でもこれを「マワリ」と呼ぶ)をするためであり、事件について詳しく話を聞こうという意図は全くなかった。
雑談の中で話題はマスコミの役割に及び、A氏は「報道の力を実感した瞬間が何度もあった」と強調した。当初は、初対面の新聞記者への社交辞令のような話だと受け止めていた。しかし、その言葉からは並々ならぬ本気が伝わってくる。不思議なことに、最後まで彼がホームドアについて口にすることはなかったが、その場に漂っていた独特の空気は鮮明に覚えている。
記者室(日本の記者クラブが使用しているものと同様の空間で「記者団」のみ使用できる)に戻り、彼の名前を検索すると、会賢駅事件の被害者遺族でありながら、警察官として勤務を続ける一方、ホームドア設置を求める社会運動の中心人物として活動していたことを初めて知った。
もちろん、ソウル地下鉄公社などが彼の訴えにすぐ応じたわけではない(詳細はチョン・ドゥヨン「自殺手段へのアクセス制限政策の政策過程に関する研究―ソウル市地下鉄のホームドア設置事例を中心に―」(2016年)を参照)。事業者側は、「事件の責任は加害者にあり、莫大な費用や技術的な課題からホームドアの設置は困難」と回答した。国会やソウル市議会でも賛否が分かれた。それでもA氏は、損害賠償訴訟を起こす一方で、積極的にマスコミの取材に応じ、訴え続けた。2005年、ソウル高等裁判所はA氏の主張を認める判決を下し、確定した。地下鉄事業者の法的責任が初めて認められたのだ。
この判決はホームドア設置を大きく後押しした。2006年に就任した新ソウル市長は設置を公約に掲げ、2009年には市内すべての地下鉄駅への設置が完了する。その結果、地下鉄駅での死傷事故は大幅に減少した。2009年には46件だった事故は、2010年以降は年間0~2件まで激減し、人身事故は事実上ほぼ姿を消した。
ここで日本に目を向けたい。中央線で人身事故が発生するたび、私には二つの疑問が浮かぶ。一つは「事故の背景がほとんど報じられないこと」、もう一つは「改善を求める社会的な声が広がらないこと」だ。もちろん、多くの人身事故には事件性がなく、詳細な情報も公表されない。そのため報道が限定的になる事情は理解できる。しかし、中央線では今年3月だけでも6件の人身事故が発生したにもかかわらず、その原因や背景はほとんど語られず、件数だけが積み重なり、やがて忘れ去られてしまう。
中央線でホームドア設置が進まない理由として、予算や技術的な課題、特急列車と普通列車で停車位置が異なることなどが指摘されてきた。確かに現実的な課題だろう。しかし、人命を守ることが最優先課題であるという点に変わりはない。人身事故によって失われる命だけでなく、利用者への影響や鉄道会社が被る損失も決して小さくない。
中央線でもホームドアの設置が始まった現在では、こうした懸念は解消へ向かっているようにも見える。つまり「なせばなる」のだ。これまで鉄道での人身事故を「日常」の出来事として受け止め、その背景を十分に掘り下げてこなかった日本のメディアや、社会全体で改善を求める動きが大きくならなかったことには、いまも複雑な思いが残る。それでも、ホームドアの設置が始まったことは間違いなく前進だ。人身事故が一件でも減り、一人でも多くの命が守られること、それ以上の願いはない。
<尹在彦(ユン・ジェオン)YUN Jaeun>
東洋大学社会学部メディア・コミュニケーション学科准教授。延世大学(韓国)社会学科を卒業後、経済新聞社で記者として勤務(裁判所・警察なども担当)。2021年、一橋大学大学院法学研究科にて博士号(法学)を取得。同大学特任講師、慶應義塾大学メディア・コミュニケーション研究所非常勤講師などを経て2025年、現職。渥美国際交流財団2020年度奨学生。専門は国際関係論およびメディア・ジャーナリズム研究(政治社会学)。
2026年7月16日配信



