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エッセイ820:陳希「言語教育はもっと『教習所』であってよい」

「まるで自動車教習所みたいだ」という言い方は、言語教育を批判するときによく用いられる。知識や技能をマニュアル化し、型通りに反復訓練するだけだ、という否定的な含意がある。単語や文法を機械的に暗記させる教育への不満、と言い換えてもよいだろう。

 

実際、「教養としての外国語」は実用的技能とは対極に置かれる。外国語とは本来、異なる文化や思考様式に触れ、自分の世界を広げるためのものと考えられるからだ。そのため、自動車教習所のような訓練的な学習は、表面的で貧しいものと見なされがちだ。

 

私自身も以前は教習所とは、決められた操作を受動的に身につける場所なのだろうと思っていた。しかし、通い始めてみると、印象は大きく変わった。そこでは、単純な操作技術の暗記以上のことが求められていたのである。

 

教習所では学科と技能に分かれている。交通ルールや標識、危険予測などについて学び、一定の暗記が必要となる。しかし、それらの知識は、技能教習のなかで初めて具体的な意味を持つ。たとえば、「十分な車間距離を取る」というルールも、実際に運転してみなければ、距離感を身体感覚として理解することは難しい。逆に、技能教習のなかで危険を体験することで、学科で学んだ注意事項が実感を伴って理解できるようになる。教習所では、学科と技能は別々に存在するものではなく、補完し合いながら結びついている。

 

実際の運転とは、固定された手順を機械的に再現する作業ではない。変化し続ける環境のなかで状況を判断し、知識と身体感覚を結びつけながら行動する営みだ。知識と実践は切り離されておらず、知ることと行うことが相互に結びつきながら深まっていく。その意味で、教習所の学習には「知行合一」に近い側面がある。

 

以前、私が目の前の操作に集中しすぎて周囲への注意が疎かになっていたとき、教習所の指導員に言われた)。「サッカーの試合を見たことがありますか。選手が見ているボールと、観客が見ているボールは違う。運転では、選手のようにボールだけを見るのではなく、観客のように全体を見なければならないのです」

 

この言葉を聞いて、運転とは単なる操作技術ではなく、状況全体を把握する営みなのだと気づかされた。もちろん、実際のサッカー選手も、ただボールしか見ていないわけではない。味方や相手選手の位置などを常に把握しているはずだ。それでも、指導員が言いたかったのは、「自分の車だけを見ていてはならない」ということなのだろう。

 

それは運転だけに限った話ではない。私たちはしばしば、目の前の作業や自分自身のことだけに集中してしまう。しかし実際には、周囲の環境や他者との関係のなかで行動している。自分だけを切り離して存在することはできない。

 

外国語を学ぶことも同じだ。単語や文法を暗記するだけではなく、その言語を使う人々の文化や価値観、社会との関係のなかに自分を置き直し、他者と関わりながら理解を深めていく営みだからだ。知識を得るだけでなく、それによって自分の振る舞いや考え方そのものが変わっていく。その意味で、言語を学ぶとは、単に情報を増やすことではなく、世界の見え方を変えることでもある。

 

だから、言語学習はもっと「自動車教習所」であってよいと思う。それは画一的な訓練を意味するのではない。知識を実践のなかで繰り返し用いながら、状況判断や身体感覚と結びつけ、少しずつ自分のものにしていくということだ。

 

運転が、実際に道路へ出ることでしか上達しないように、言語もまた、実際に使い、失敗し、言い直し、他者と関わる経験を通してしか習得することはできない。そこで重要なのは、「知っていること」と「使えること」との隔たりを、実践によって埋めていくということだ。

 

そう考えると、「まるで自動車教習所みたいだ」という言葉は単なる批判ではなく、言語学習の本質を言い当てた比喩として捉え直すことができる。

 

そして、もし新しい言語を学ぶことが、新しい世界の見方や新しい自分の在り方を獲得するプロセスでもあるのだとすれば、教習所のように、知識を実践のなかで繰り返し用いながら身体化していく学習こそが重要な第一歩なのではないだろうか。

 

<陳 希/CHEN XI>

中央大学経済学部助教。中国貴州省生まれ。天津外国語大学日本語学部卒業、同大学院修士課程修了、桜美林大学大学院言語教育研究科修士課程修了、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。東京大学東アジア藝文書院特任研究員を経て、2024年より現職。専門は近代中国の言語政策史・思想史。論文「労乃宣と切音字運動」(『現代中国』第96号、2022年)にて、第19回太田勝洪記念中国学術研究賞を受賞。

 

 

2026年6月11日配信