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エッセイ818:姜錫正「諦めさえしなければ、なんぼうでもなる -3名の大恩人との出会い-」


登下校時にいつも目にする女子大の桜(著者撮影)

 

2026年3月26日、文化庁による国宝・重要文化財指定の報道発表が行われた。マスコミは新指定の文化財のみを大きく取り上げる慣例があるが、この指定には新指定のみならず、複数回に亘って追加指定を受けた文化財も含まれている。今回国宝に決まった「醍醐寺文書聖教」の文献史料群の94192点は、その追加指定の1つである。

 

私は2017年度から総本山醍醐寺霊宝館学芸員として、学業の傍らこの国宝指定業務に携わってきた。京都醍醐寺霊宝館に一括所蔵されている「醍醐寺文書聖教」という文献史料は、大正3年(1914)から文化財調査が行われ、平成元年(1989)に初めて国の文化財指定を受けて以来、今回で5回目の追加指定が行われた。その結果、約10万3千点の史料の内、合計94192点が国宝となった。特に今回の追加指定は、現状としては最後の指定であるため、私はアルバイト時代から数えれば醍醐寺の文化財調査歴史の最後の17年間を共にしたとも言える。そして、この指定の年度が私にとって特に意味深いのは、この史料群を用いて執筆した博士論文が合格となった年でもあるためだ。

 

そこで、今回のエッセイには醍醐寺の国宝指定と博士学位修了の同時達成の節目として、史料調査・歴史研究との出会いに大きく関わった3名の大恩人との思い出を綴りたい。

 

博士課程で在籍していた日本女子大学(以下、女子大)は、学部の時から「史学」専攻の学生としてお世話になっていたところであり、日本在住の約19年の内18年を共にした場所だ。博士修了となった今も女子大歴は増えつつあり、2/3以上の学科の先生よりも長く居続けることで周りからは「女子大の地縛霊」と称されている。一見、「地縛霊」が皮肉で恐ろしい表現に思われるかもしれないが、「女子大の史学科の居心地良さで長くいてくれている奇特な人」という良い意味で付けられたものなので、個人的には愛着のあるあだ名である。

 

しかしながら、このように居心地良さを感じている女子大史学科に受験を決めたきっかけは、実は大変意味シンプル(もしくは適当だったかもしれない)だった。韓国で高校生活を送っていた頃、たまたま日本留学経験のある世界史の先生からたくさんの日本の話を聞かされたことをきっかけに、日本史を本場で学びたいという夢が芽生えた。そこで、「日本で骨を埋めるつもりで行きなさい」という父との約束を守るべく、高校卒業と同時に単身で日本へ渡ってきた。最初の1年間は大学選びの年であり、たまたま女子大のホームページで目にした史学科教授(当時)の「永村眞」先生の寺院史研究の紹介文に魅力を感じ、ただそれだけで出願した。女子大に向いてなさそうとの周りからの声もあるぐらい当初は共学志願が強く、女子大は滑り止めで受けようという気持ちの方が大きかった。軽い気持ちで受けた女子大とのご縁が、その後の長い日本での生活において重要な3名の大恩人に出会えるきっかけになるとは思いもせずに。

 

最初に出会ったのは史学科の近世史・博物館専門教授の吉良芳恵先生で、面接官と受験生の関係だった。吉良先生は面接の場を忘れたかのように、ホワイトボードに博物館名や地域名を書きながら「今度ここに一緒に行こうね」、「永村さんを紹介してあげるわ」といったいろんなお話をしてくださった。その面接の内容に心地よさを感じて、まだ結果も出ていない帰り道で本命の大学の受験は諦め、女子大に行こうと決心した(その後、無事に合格通知を受けた)。女子大に入学した後は、吉良先生のもとで博物館の学芸員が備えるべき知識を学んだ。

 

吉良先生は面接の場でお話されたことを守るべく、2人目の大恩人であり、「日本のお父さん」でもある永村先生に「せっかく外国からあなたに学びに来た娘なのだから、きちんと面倒を見てあげなさい」と、裏で「私の養育」を押し付けたようだ。吉良先生の強いプッシュのおかげで、気づけば女子大で1年目を終える頃に永村先生の前で寺院史料調査とデータベース構築のアルバイトの面接を受けていた。面接では「漢字は読めるか」のただ1つの質問だけで合格となり、すぐに京都醍醐寺調査の撮影補助業務を任された。その後は永村先生の調査チームの一員として、醍醐寺をはじめとする奈良東大寺・三重専照寺・和歌山根来寺・大阪金剛寺・青森円覚寺・東京増上寺・京都智積院等の多くの寺院調査に参加し、時には文献史料群の国及び地域文化財指定業務にも携わるようになった。永村先生は博士課程1年目を過ごした後に定年退職されたが、その後も陰で博士論文の指導をしてくださった永遠の指導教員でもある。

 

初めての醍醐寺調査に際して、今は「日本のお母さん」として大活躍の3人目の大恩人、藤井雅子先生との顔合わせがあった。藤井先生は、永村先生が約40年前に女子大に着任された際の最初のお弟子さんであるので、私の姉弟子であると同時に、永村先生の定年退職後からの指導教員でもある。藤井先生は第2子の産休復帰直後だったが、博士論文指導だけでなく、同じ女性研究者の先輩として、自分の研究とどのように向き合うべきか、そして学生や後輩たちをどのようにサポートしていくべきかなど、お姉さんとしての姿勢をたくさん伝授してくださった。

 

この3名の先生方は、自分がイメージしていた日本人、そして大学教員像とは異なり、厳しい指導をくださりつつも、東日本大震災や日韓情勢の悪化、あるいは体調を崩した時に安否を気遣う電話や差し入れで、心身共に支えてくださった。このように女子大の地縛霊としてすくすくと育てられている中で、とある理由で「途中で学業を諦めなければいけないかもしれないです。わははは。」と軽い気持ちで口にした私の一言を受け、その場で3名の先生に囲まれ、緊急4者会議が始まった。議題は「この娘(私)をこれからどのようにして日本に残せるか」であり、会議の末に永村先生から「諦めさえしなければ、なんぼうでもなる(=諦めさえしなければ、後はなんとでもなる)」との一言をいただいた。実の娘のように必死に考えてくださる3名の先生方の姿と、永村先生からの一言は色々悩んでいた私の胸に深く響き、家に帰ってから涙と共に「もっと頑張ろう」という新たな覚悟を決める契機となった。そして、この言葉は今でも人生の最も重要な座右の銘となっている。

 

振り返ってみると、醍醐寺の国宝指定と博士学位取得を同時に達成できたのは、この3名の先生方との出会い、そしてあの4者会議のおかげであると強く思う。その感謝の気持ちを込めて大恩人の吉良・永村・藤井先生にこのエッセイを捧げる。そして、先生方から授かった「諦めさえしなければ、なんぼうでもなる」というこの言葉をもって、次の世代を担う後輩たちを支える先輩としても精進してまいりたい。

 

<姜錫正(カン・ソクジョン)KANG Suk-Jung>

韓国ソウル市出身。2013年日本女子大学文学部史学科卒業、2015年同大学院文学研究科史学専攻博士課程前期(修士)修了、2018年同博士課程後期満期退学、2023年同課程再入学、2026年3月博士修了。2010年より、醍醐寺・東大寺・根来寺・河内長野金剛寺・専照寺・智積院・中台延命寺等の諸寺院における文書・聖教・記録の文献史料の調査及びデータベース(DB)入力のための研究調査員として、国や地域の文化財指定業務を遂行。なお、2017年から醍醐寺霊宝館学芸員、及び2026年4月からは日本女子大学PDも兼任。

 

 

 

 

2026年5月21日配信