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エッセイ813:崔高恩「海のある街で考えること」
横浜に暮らしてずいぶん経つ。大学は都内にあり、通学にはおよそ1時間かかる。通えない距離ではないが、なぜわざわざ横浜なのかと訊かれることは少なくない。そのたびに「好きだから」としか答えようがない。韓国で学生だった頃、好きな小説や漫画の舞台にこの街がよく出てきた。海があって、どこか異国の気配が混じっていて、日常から少しだけずれたような空気がある。留学という目的だけを考えれば合理的な選択とは言いがたいが、フィクションのなかの横浜にずっと惹かれていた私にとって、この街に住むこと自体がひとつの動機だった。
だが、長く暮らすうちに、憧れの像は静かに書き換えられていった。実際に暮らしてみると、フィクションが切り取っていたのはこの街のほんの一面にすぎないことがわかってくる。1859年の開港以来、横浜には絶えず人と言葉が流れ込んできた。山下町の外国人居留地から中華街が育ち、繁華街の裏手には韓国語の看板が並ぶ一角がある。市内に暮らす外国人の数は年々増え続けており、中区では9人に1人が外国籍だという。山手の坂を上れば西洋館が並び、中華街を歩けば中国語が絶えず耳に届く。異なる時代に、異なる事情でこの港にたどり着いた人々の生活が、街の風景のなかに幾重にも折り畳まれている。そしてそのことは、数字には表れない部分にも作用しているように思う。住まいを探すとき外国籍を理由に断られることも比較的少なく、日常のなかで異邦人であることを強く意識させられる場面も少ない。開港以来この街に積もってきた他者との共存の時間が、空気のようにしみ込んでいるのかもしれない。
ただ、その重層性を手放しで祝うわけにはいかない。1923年の関東大震災の際、流言を信じた人々によってこの地域で多くの朝鮮人が殺された。そもそも横浜の近代化は、日本が西洋文明を受け入れ、やがてアジアへの植民地支配に向かっていく歩みと切り離せない。和洋折衷の美しい街並みを歩きながら、韓国から来た私の胸にかすかなざわめきが走ることがあるのは、たぶんそのせいだ。
好きな作家のひとりである中島敦は、1933年にこの街の女学校に赴任し、8年間教壇に立った。少年時代を植民地朝鮮で過ごし、横浜を経て南洋群島パラオへ渡ったこの作家の足取りには、近代日本の膨張と収縮がそのまま刻まれている。散歩でよく訪れる山下公園は震災の瓦礫を埋め立てて造られ、戦後は占領下に接収された場所であり、図書館に向かう途中で通り過ぎる街にはかつて闇市が立っていたという。現在の風景のすぐ下に、そうした地層がむき出しになっている街。それが、長い時間をかけて私が知るようになった横浜である。
そう考えると、この街に暮らしていること、翻訳の仕事をしてきたこと、そしていまの研究のテーマ――戦後の日本語文学における朝鮮の表象――を選んだこと。そのどれもが、どこかでつながっているような気がする。植民地の記憶と冷戦の影が交差する「戦後」という時間のなかで、日本語文学が朝鮮をどのように描いてきたのかを、私は読もうとしている。そこにはつねに、移動という経験と、場所をめぐる問いがあるはずだ。
こうして振り返れば、かつて虚構のなかの風景にすぎなかったこの街が、いつしか自分の足元になっているようだ。馬車道、伊勢佐木町、元町中華街、みなとみらい……。しかしどれほど住み慣れた街であっても、それは私のものではない。在留資格という制度のもとで、この街に暮らすことを許されているにすぎないからだ。人と場所の結びつきは、愛着だけでは成り立たないのだ。この先、いつまでこの街にいられるのかはわからない。それでも、いつか私もまた、この港町の風景の一部になれたらいい。
<崔 高恩(チェ・ゴウン)CHOI Go-eun>
2024年度渥美奨学生。韓国・ソウル生まれ。東京大学総合文化研究科・言語情報科学専攻博士課程。東京外国語大学国際日本研究センター 特任研究員。専門は、日本近現代文学、日韓比較文学。日本文学翻訳者として、東野圭吾、平野啓一郎、村田沙耶香、米澤穂信、有栖川有栖など日本現代文学の翻訳も行っている。
2026年4月9日配信




