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エッセイ804:岩田和馬「巨大な都市の小さな話」
前近代の都市社会を研究するのは、登山道の無い山を登るようなものだと思う。地図はあっても信用できず、コンパスも働いているのか定かでは無い。特に、史料がほとんど存在しない前近代オスマン帝国のような地域の研究は、未開のルートを手探りで進むような感覚に陥る。私は18世紀イスタンブルの同業組合と都市社会を中心に研究している。普段は史料群を大量に読解しながら推論を立てる、という地味な作業を繰り返すだけで、楽しいこともほとんどない。しかしながらごく稀に、眼前の霧が晴れて山頂が見えた気がする瞬間がある。私が史料を読んでいて垣間見た、ある山頂の姿について説明したい。
前近代の都市における物流は、人力ないしは動物の力に担われていた。宮廷が存在し、大規模な人口を抱えていた前近代のイスタンブルにおいても、様々な商品を運搬したのはハンマール(hammâl)と呼ばれる荷役人だった。ハンマールには、人力で運搬する背負子荷役組合と、駄獣を利用する馬方荷役組合の2種がある。荷役人は市場や船着場ごとに「組(bölük)」と呼ばれる集団を形成し、イスタンブルに数十が存在した。さらに「組」は、大組合長と呼ばれる役職者によって統括される同業組合を形成していた。末端の荷役人は低所得であった一方で、大組合長は都市の運送業務を牛耳ることで大きな金銭的な利益を得ていたと考えられる。このため、18世紀の早い段階から、軍人が俸給を返納して荷役組合の大組合長職を「購入」する慣行があった。
1722年3月28日、馬方荷役組合の大組合長がアブデュルケリムからスレイマンに代替わりする。この時点で大きな問題が存在したことは確認できないが、その後9年に渡って続く係争の引き金となった。4年後の1726年10月、アブデュルケリムが現大組合長のスレイマンを告訴した。アブデュルケリムは、「私が大組合長の職を購入していたにもかかわらず、砲兵隊出身のスレイマンが大組合長の地位を不正に購入し就任してしまった」と述べ、自分か息子が大組合長になるべきであると主張した。しかし、馬方荷役組合の幹部たちは、「(アブデュルケリムは)年老いて良心を欠いており、自らの役割を果たす能力がないばかりか、混乱と不和をもたらす」と証言する一方で、スレイマンを「政府の御用を果たす能力があり、我々一同満足している」と評したことで訴訟は退けられた。
しかし、4年後の1730年10月23日に今度はアブデュルケリムの息子イブラヒムが大組合長職の任命を求め、認められた。1730年10月という日付はイスタンブルの歴史において非常に示唆的である。同年9月末にパトロナ・ハリルの乱と呼ばれる民衆騒擾が発生し、大宰相イブラヒム・パシャは処刑され、皇帝アフメト3世が退位に追い込まれた。スレイマンは大宰相の部下であるカラ・ムスタファの庇護を受けており、ムスタファも政変の中で権力を失ったと見られる。後ろ盾を失ったスレイマンは10月時点で大組合長職を解任されており、馬商人組合のハサンとユスフという人物が大組合長職を占有していた。イブラーヒムが展開した「(ハサンとユスフは)部外者であり、馬方荷役組合が被害を受けている」という主張はある程度正確であっただろう。しかしイブラヒムの真意は、混乱に乗じて父の遺志を継いで組合を搾取することにあったのではないか。
翌1731年1月にスレイマンは、「イブラヒムが馬方荷役組合の一部と結託することで不正に大組合長となった」と主張する嘆願書を提出した。組合の構成員への聞き取りで「スレイマンは有能で清廉潔白な人物」と証言された一方、「イブラヒムは私腹を肥やすことしか考えていない」と伝えられたことで、スレイマンが再び大組合長として認められることとなった。
一連の経緯からは、馬方荷役組合の大組合長職という巨大な都市社会の中ではごく小さな地位を巡って争う人々の姿を見ることができる。軍人出身の人物が大組合長職を「購入」する事例は他にも多数確認できるが、政権有力者とのパトロン関係が背景に示されていることは稀である。このような人的ネットワークを史料から確認することは非常に困難であるが、パトロナ・ハリルの乱という政変の影響により顕在化したと見ることができる。都市社会の「小さな出来事」の裏に広大なネットワークと政治の「大きな話」が横たわっていることを垣間見ることができる。特に政変で粛清された大宰相の係累にあったにもかかわらず構成員からの絶大な信頼を背景に大組合長に返り咲いたスレイマンと、親子揃って不信任を突きつけられたアブデュルケリムとイブラヒムの人柄を見出すことができるのは大変興味深い。普段、読解に取り組んでいる無味乾燥な行政文書において、300年前の一般人の人となりや行動原理を見出すことは難しい。この史料は研究の面白さを感じさせてくれる稀有な存在となった。
「単調な作業を繰り返し、楽しいと思うことも少ない」と冒頭で述べたものの、未開のルートを分からないながらに切り拓いていく面白さを感じることもできた。いち早く山頂からの景色を報告できるように研鑽を積み、次の高嶺を目指す準備を進めていきたい。
<岩田和馬(いわた・かずま)IWATA Kazuma>
東京外国語大学大学院総合国際学研究科世界言語社会専攻博士課程在籍。2020-2023年ボアジチ大学客員研究員。研究論文に「18世紀イスタンブルの荷役組合:内部構造に関する考察」『オリエント』vol.63-2,189-204(2020)。2024年度渥美国際交流財団奨学生。
2025年12月4日配信



