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エッセイ562:太田美行「標準服あれこれ」

既にあちこちで報じられた東京都中央区立泰明小学校の標準服問題である。事の経緯は昨年11月に校長が新しい標準服を導入しようと父母向けのお知らせを出したことに始まり、同校が区立小学校であること、その標準服を一式揃えるのに8万円以上かかること、アルマーニ監修のデザインであること等から、是非をめぐって批判の嵐が吹き荒れた。大方は成長の著しい小学校生活6年の間に一着ではとても足りるはずがないにも関わらず標準服一式に8万円もかかるのは父母への負担が大き過ぎる、またアルマーニという高級ブランド服を子供の、それも公立校の標準服とするのはおかしいとの声が大半だ。まとめてみると高価格による経済的負担、高級ブランド、公立校であることが主たる論点だ。私の考えも大方の意見とほぼ同様なので、ここではやや違った角度から、校長が父母に宛てた通知と記者会見での発言に焦点を当てて論じてみたい。

 

問題認識は、「泰明小学校を選択してくださり、本校の教育方針に得心をしてくださり、そして、本校でお子様が自負をもって学んでくれたらと、期待なさって本校を選択されたのだと思うのですが、どうも、その意識と学校側の思いのすれ違いを感じ」生徒の「日常の振る舞い、言葉遣い、学校社会という集団の中での生活の仕方」などに思案に暮れるような態度があるという。そこで「泰明の標準服を身に付けているという潜在意識が、学校集団への同一性を育み、この集団がよい集団であって欲しい、よりよい自分であるためによい集団にしなければならない、というスクールアイデンティティーに昇華していくのだと考え」て、新しい標準服の導入を決めたそうだ。

 

まず「その意識と学校側の思いのすれ違い」を感じるような問題を起こしていたのが「泰明小学校を選択した」親の子供、つまり学区外から来た生徒に限ることなのか、その点が明確になっていない。泰明小学校は特認校なので学区外からの生徒を受け入れている。公立校である「泰明小学校を選択」するのは学区外の親であり、学区内の親は「選択」して子供を通学させているのではない。それにも関わらず校長は「泰明小学校を選択してくださり、本校の教育方針に得心をしてくださり」としており、この点を取り違えている。

 

次にアルマーニという高級ブランドについて、朝日新聞(2月16日)の報道によるとバーバリー、シャネル、エルメスにも打診したそうだ。同報道に打診されたすべてのブランド名が挙げられているかは不明だが、もし上記ブランドがすべてであるとしたら、そこにはやはり選択肢として不自然さを感じざるを得ない。後に三越と松屋にも打診したことがわかったもののあまり感想に変化はなかった。校長は、銀座には世界に名だたるブランドショップが立ち並び、泰明小学校もまた地域のトラディッショナル・ブランドである、また国際色の強い土地にある小学校としてきちんと装う大切さを感じることで国際感覚の醸成に繋がることをもって理由としているのだが、私にはこれを納得することができない。

 

銀座に海外ブランドの旗艦店が立ち並ぶようになったのはここ10年程度のことである。それ以前にもあったが銀座はやはり日本の老舗をはじめとする店舗が軒を連ねる場であり、そうした店が銀座という街を作り上げてきた。それなのにいわば新参者である海外ブランドを銀座ブランドとして採用する理由がどこにあるのか。「学校と子供らと、街が一体化する」ことを目指すなら、銀座にある(それこそ「銀座」を作り上げてきた)他の子供服店でもいいはずだ。そしてあまりにも当たり前のことだが国際感覚は海外ブランドの服を着ることで身につくものではない。そんな薄っぺらなものでないことは言うまでもないことだ。

 

疑問はさらに続く。今年2月9日の記者会見の場で記者からアルマーニの標準服を着られない子供たちにいじめが生じないかとの趣旨の質問に、校長は「そうしたことがないように学校で指導していく」といっている。しかしそもそも新標準服を導入しようとした理由が「思案に暮れるような」生徒の態度にあるのだから指導力が十分に及んでいないことは明らかで校長自身が認めていることだ。そのような中で見てすぐにわかる「経済力の差」をどのように乗り越えていくというのか。矛盾も甚だしい。

 

「(基本的な一式なら)本校保護者であれば何とか出せる」というが、公立校だ。どんな一等地でも経済的に貧しい、また何らかの事情がある人のいる可能性を十分に考慮する必要がある。この春入学予定の60人のうち2月中旬時点で48人は新標準服の入金を済ませたという。逆に言えば12人は入金していないということだ。必ずしも経済的な理由とは限らないものの2割に当たる生徒は新標準服を着ない可能性が高く、学校側はこの生徒たちの立場をどう守るのだろうか。

 

制服あるいは標準服の持つ意味を考えれば、その役割の一つに華美への一定の歯止めをかけることもあるだろう。個人的な話だが私の通学していた幼稚園では、通園時には制服を、園内ではスモックを着ていた。スモックにアップリケや刺繍をしている子もいたが、本来してはいけないことになっていた。その理由は「様々な事情でそうした事ができない家庭もあるため」である。それがあまり守られていなかったのは残念だが、理念として配慮があったことは評価できる。お洒落に気を遣うようになる女子高校生あたりになるとこうした配慮はさらに重要になってくる。有名私立女子高に通っていた友人によると、修学旅行の時に空港の荷物受け取りのベルトコンベアで出てくるバッグはブランドものばかり、その中でもランクがあり、ルイ・ヴィトンやエルメス級でない生徒は、受け取りの時に恥ずかしさのあまり顔が上げられないらしい。この話がどこまで真実かはわからない。だがこの話が示唆していることは明らかだ。入学式の時から子供を俯かせるのだろうか。

 

こうした世界や価値観が公立の小学校、しかも「顔を上げて生きていきなさい」と語るべき教師により入ってくる。そのことに違和感を覚えない人がいたら教えて欲しい。

 

このエッセイは2月上旬に書いたものだが、その後私は子供を俯かせるのではないかという自分の心配が杞憂だったことを知る。3月20日のTOKYO_MXの報道によると新入学予定だった7人が辞退した。私学への進学希望が4人、あとの3人は「泰明小学校の教育方針」などが理由という。残りは全員新標準服の購入手続きを済ませている。どうやら学校は子供を俯かせる以前に去らせてしまったようだ。

 

<太田美行(おおた・みゆき)Ota_Miyuki>
東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究科修士課程修了。シンクタンク、日本語・国際理解教育、製造販売、経営・事業戦略コンサルティングなどを経て2012年より渥美国際交流財団に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。

 

 

2018年3月22日配信