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エッセイ559:李暉「博士論文を書く日々のはなし」

(私の日本留学シリーズ#16)

 

 

「人はプレッシャーがあって前へ進むものだ」と誰かが言った言葉がある。もうすぐ30代が終わるアラフォー圏にいる自分は、もうプレッシャーでもどうにもならない年だと勝手に思い込んでいた。しかし、博士論文を書く最後の3か月、私はもう一度、プレッシャーの魔法で走っていたのだ。

 

今年の2月に入り、中国の旧正月も終わって、私にとって新しい1年が始まった。5月に博士論文の初稿を提出しなければならない。すでに締切りまで残り3か月を切っていた。予備審査も通ったし、論文に書きたいこともおおよそ決まっていて、残るは自分の考えを文字で表すことだけだと自分を安心させながらも、文字を増やしていくことは気が重い作業で、また1週間ほどいろんな口実を作って博士論文の原稿を開こうとしなかった。これではだめだと、頭の中の理性が厳しく言った。まず、指導教官のアポを取って、それをもっと近い締切りにしておこうと自分に大プレッシャーをかけた。

 

論文の進捗状況を2回に分けて先生に説明するアポを無事に取り、「よし!」と気合いが入った。家のことを主人と義理の母に任せて、私は論文に取り組むため東京へ出かけた。毎日大学の研究室に通い、少しずつ論文の文章を足していくように進んでいった。毎日進展があり、焦りが減り、軌道に乗るようになった。先生との1回目の相談の日がすぐにやってきて、内心ドキドキしながら会いに行ったが、自分の論点がほぼ通ったので、一安心だと嬉しく思った。すでに半月ほど家を出ていたので、少し休憩も兼ねて私は奈良の家へ帰省した。

 

駅の改札口で主人と3才の息子がすでに待っていた。「お~、ママ!ここだよ!!」と遠くから息子の声が聞こえて、喜んで飛び跳ねる息子が見えてきた。「ただいま」と息子が相変わらずの間違った挨拶をしたので、家族3人で笑った。家に向かう車のなかで、息子は私の胸に寄りかかって眠った。「ママと一緒にいると、すぐ眠れるんだ」と主人は感心したが、息子の安らいだ寝顔を見て、私は少し淋しく思った。2、3日したら、また別れるのだ。

 

上京の日。朝、保育園に息子を送った。小さな体が自分にくっついていて、どうしても部屋に入ろうとしなかった。自分を掴む手を無理矢理離して先生に渡した。そして、車に乗る前に振りかえると、部屋の窓側に涙をぼろぼろ流す息子が立っていた。「バイバイ」と私はなるべくいつものように笑顔で言った。「ママ、待って!ママ、待って!」、その言葉を繰り返しながら息子が窓から窓へ、去っていく自分の車を追いかけた。

 

大学で論文に打ち込む日々が続いた。「奈良に帰って作業できないか」と主人から連絡があった。息子の夜泣きがひどくて、主人も疲れた様子。その後、奈良の家にこもって論文を書くことにしたが、やはりペースダウンになった。少しでも時間を稼ぐために、息子は義理の母に連れていってもらい、週末はおばあちゃんの家で過ごさせることにした。ある日、息子を保育園へ送る車のなかで、「ママ、僕はもう一回おばあちゃんちに行くから、もう仕事を終わらせて!」と息子に言われた。私は言葉が出なかった。バックミラーに息子の真剣な顔が映っていた。彼はすべての事情を分かっていたのだ。

 

いよいよ5月に入り、論文の提出に向かってラストスパートをかける時期になった。ゴールデンウィークは、最終的な一頑張りだけど、保育園が休みだ。いまとなっては上京する準備さえ時間のロスだ。週末より長い期間だけど、やはりおばあちゃんの家に行ってもらうしかない。ただこの3か月間に数多くの別れを重ねてきて、自分も見送る勇気がなくなり、すべておばあちゃんに任せた。息子が出かける日、義理の母が保育園に迎えに行った。私は家の2階に隠れて、いない振りをする約束だった。母が保育園の荷物を玄関に置いてさりげなく「いってきます」と言って、2階にいる私に合図をし、カチャンと扉を閉めた音がした。私は表側の部屋に行って、窓から見送った。息子は母とバスに乗ることを楽しそうに話していたが、なぜかものすごく淋しく見えた。「ママも頑張るんだ」とバス停へ消えてゆく2人の後ろ姿を見送って私は決心した。

 

計画には常に予定外のことが起こるというが、緊急事態が発生した。義理の父が脳出血で倒れたと義理の弟から連絡が入った。少し混乱した私に「まず、今晩は論文の作業を続けて様子をみよう」と主人が話してくれた。私は何も言えなかった。論文の完成を頑張るしかないんだと自分に言い聞かせた。幸いなことに、義理の父の脳出血の手術は成功し、出血も収まったようだ。

 

今日は論文提出の締切日。私は予定通り上京し論文を提出した。論文提出の手続きを済ませ、鞄には論文の初稿一本を入れて、私は折り返す新幹線に乗った。義理の両親に見せたい!!、長く放置していた息子を抱きしめたい!!と、私はいま主人の実家へ向かう新幹線の中。(2015年6月記)

 

<李暉(り・ほい)Li_Hui>

2014年度渥美奨学生。2015年9月、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻より博士号取得。現在、奈良文化財研究所の客員研究員として在籍。研究分野は、建築史、特に大工道具及び大工技術。

 

 

 

2018年3月1日配信