SGRAかわらばん

エッセイ485:デール・ソンヤ「私にとっての『国際化』」

このコラムでは、大学の「国際化」について考えてみたい。そもそも、「国際化」というものは、どのようなことを指しているのだろう?本コラムは、文部科学省や大学で実際にある方針ではなく、単に自分が見たこと、経験したことを中心に「国際化」について考えていきたい。

 

「『国際化』イコール英語能力および外国人学生・研究者・教員の存在」であるという考え方は強いだろう。国際的な規模で研究を発信するため、英語能力は必須である。英語で学術的な論文を書くことと英語で国際的な学会で発表することは、研究者としても、大学の代表としても重要なことである。また、外国人が存在することで学生や教員が「異文化」と触れ合う機会が自然と増えるだろう。英語の重要性については賛成しているし、大学に属する外国人の増加は、悪いことだと思っていない。しかし、それだけで大学が「国際的」になるとは思っていない。そもそも、「国際化」とはどのようなものを目指しているか、「国際的」な大学というのはどういうものなのか、検討する必要がある。

 

国際的な規模で、他の大学と競争することは大学の国際化に必須である、という意見は多いだろう。しかし、私にとって大学の国際化に関する問題はもっと根本的で、大学に限られたものではない。私にとっての国際化は、大学のランキングや英語能力や外国人の存在よりも、考え方と態度の変容である。

 

「いつも授業で、日本人は後ろに座って、われわれ『外人』が前に座っているな。もはや私たちを怖がっているようにみえるね」。この会話は、日本の「グローバル30」の一つの大学で耳にした。この発言者は、アメリカ人の留学生で、同じ留学生の仲間と楽しくおしゃべりしていた。このような経験は、珍しいことではない。私も何回も授業で同じような風景を見たことがあり、留学生は積極的に授業に参加する一方、日本人の学生はあまり声を上げないことが講師の間でも当たり前のように語られている。また、違う大学で、二人の留学生とそれぞれの学生生活について話していた。大学で、日本人の友達を作ることはなかなか難しい、という話題になり、一人の学生が自分の経験について語った。数少ない日本人の友達の一人が、同じ日本人の友達に「なんでいつも外国人と一緒にいるの?」といわれたそうだ。国際関係という学部においても、「日本人」と「外国人」が分けられていることが残念ながら現実のようである。

 

日本人の学生はなぜ積極的に授業に参加しないと思われているのか、日本人の学生はなぜ外国人の学生に怯えているように見えるか、私にとってこの二つの質問は大学の「国際化」に根本的に繋がっている。そして、この二つの質問は大学の問題だけではなく、実は教育と「育ち」に関する全体的な問題である。

 

私は、日本で博士課程の教育を受ける側として現場を見たが、他の教育機関を経験する機会はなかった。しかし、話を聞くと生徒や学生が自分の意見を発信する機会はあまりないそうだ。例えば、歴史の問題では出来事を記憶することが優先されており、その出来事はなぜ歴史的に重要なのか、現在社会においてどのような影響を与えたのか、などの質問に対する答えもあくまでも記憶するべき一問一答になっているようで、生徒が考える機会はない。また、学校で政治に関する議論をすることが支援されていないようで、そのような意見を組み立てる経験もあまりできないように見える。他の人と違う意見を持ってもいい、しかもその異なる意見について話すこともいいことだよ、ということは、多くの人に身に付けられていないように思う。それは、日本人学生の消極的と思われる態度と繋がっていると思う。子どものころからこの態度と考え方に慣れていないため、いままでの習慣が大学に入ることでいきなり変わるわけではない。

 

これと関連する良くない習慣は、「外国人」は「日本人」と違うと考えることである。この前提として、「日本人」はみんな一緒という先入観がある。「日本人」はみんな一緒だから、ちょっと違う人は考え方が違うから仲良くできない、違うからきっとコミュニケーションするだけで面倒くさい、違うから怖い。このような意見は、実際に学生から聞いたものである。まず、「日本人」はみんな一緒という考え方が間違いである。単なる便利な神話であり、差別行動や民族主義を認めるために使われている。日本人の中でもさまざまな文化的な違いが存在しており、「日本人」という一体的な文化や人種があるというのは怪しいものである。しかし、そう信じている人は多い。社会的に、その神話を支えるための習慣や行動がたくさん存在している。そのため、帰化した在日韓国人が韓国語の名前を使わないようにしたり、「外国人」という理由で物件の賃貸を拒否されたりすることがある。

 

大学の国際化のために、大事なのは個人の違いを認めること、そして個人の意見の違いを受け止めることだと考えている。そうすれば、大学はもっと活発で、包括的な場になるだろう。国際化は大学の問題だけではない。小さいころから外の世界に目を向け、その世界に存在する多様性を受け止めることが一番大事なことではないだろうか。そうやって育つと、「国際化」が自然と来るのではないか。

 

<デール、ソンヤ Sonja Dale>

一橋大学社会学研究科特任講師。上智大学グローバル・スタディーズ研究科博士号取得。ウォリック大学哲学部学士、オーフス大学ヨーロッパ・スタディーズ修士。2012年度渥美奨学生

 

*本稿は、2014年度Global Voiced From Japan (GVJ)のコラムコンテストで優秀賞を受賞したものですが、著者およびGVJ関係者のご承諾を得て、転載させていただきます。

 

2016年3月3日配信