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SGRAニュース
 


第31回SGRAフォーラム「水田から油田へ〜日本のエネルギー供給、食糧安全と地域の活性化〜」報告 Posted 2008.5.23 by imanishi
 
2008年5月10日(土)、昨日の暑さを一掃したかのような冷たい雨のなかで、東京国際フォーラムガラス棟G610会議にて第31回SGRAフォーラム「水田から油田へ:日本のエネルギー供給、食糧安全と地域の活性化」が開催された。SGRA環境・エネルギーチームにとって、久々の東京国際フォーラムでの開催でありながら、現在地方都市で大問題とされている「農業」を取り上げた。近年、世界中で叫ばれている地球温暖化温室ガスの削減、石油等のエネルギー価格の高騰、そしてそれが一因とされている食糧価格の高騰を背景に、長年不振が続いている日本の地方都市、特に農業にとって、植物から油を作るバイオマスは「水田から油田へ」転換する1つのチャンスとして捉えることができるのか、2人の講師を招き、活発な議論が行われた。
 
フォーラムでは、今西淳子(いまにし・じゅんこ)SGRA代表による開会の挨拶に続き、2人の講師による講演が行われた。まず東京農工大農学部准教授の東城清秀(とうじょう・せいしゅう)先生より「エネルギー、環境、農業の融合を考える―バイオマス利用とエネルギー自給・地域活性化―」という演題で、様々な植物系から廃棄物までを原料に作られているバイオマスのプロセスを紹介し、CO2を増加させないクリーンなエネルギーであることを明らかにした。さらに、自然と共生し、自然の恵みを享受してきた日本の農業の活性化をめざして、1万人の町をモデルに食料からエネルギーまで、すべて自給自足できる環境に優しい地域モデルの試算例を紹介しながら、今後のエネルギー・環境・農業の展開とバイオマス利用について考えた。
 
次は地方都市の中の小さな町である福岡県築上町を対象に、町の産業課資源循環係である田村啓二(たむら・けいじ)氏より「福岡県築上町の米エタノール化地域モデル:水田を油田にするための事業構想」が紹介された。田村氏は日本農業とりわけ稲作農業が、お米の消費の減退で転作率40%を越える中で危機に瀕し、全国240万haの水田のうち100万haでお米の生産が出来ないあるいは放棄されている現状を指摘したうえ、迫力のある写真と生々しい現場の話で、水田農業の衰退の一途を食い止めるための、新たな需要としてお米から燃料用のバイオエタノール化への取り込みを紹介した。お米からエタノール化の目的は、食料だけでなく飼料化、燃料化によって、お米の新たな需要と役割を水田がになうことで、減産から増産への新たな道程を確保することである。
 
2人の講師による講演を終え、本日のコメンテーターSGRA顧問である埼玉大学経済学部教授の外岡豊(とのおか・ゆたか)先生も交え、近年の地球温暖化問題から発した世界規模のエネルギーと食糧価格の高騰、日本農業の活性化問題など、様々な角度からバイオマス利用の是非について活発な議論が行われた。特に米国のトウモロコシ等を原料に石油代替燃料であるバイオエタノールの大量生産政策や、バイオエタノール需要拡大への期待から投機資金の穀物市場への流入は、近年の食糧価格の高騰を招き、アフリカの低所得者たちは著しい食糧不足に見舞われ暴動も引き起こし、日本でも飼料の高騰で畜産家はきわめて深刻な打撃を受けている一方、米国ではバイオエタノール向けのトウモロコシで農家は潤うという富の偏在が際だっている厳しい現実が指摘された。バイオエタノールは自動車燃料として使われているのであり、つまり「クルマ」が農産物を食べ始めたために、「人」が農産物を食べられない事態を生んでいることに警鐘をならした。
 
フォーラム終了後、当東京国際フォーラム地下2階にあるカフェテリアで懇親会が行われた。会場で議論しつくせなかった問題等を含めて、3時間にも及んだ活発な私的交流を経て、次の第32回SGRAフォーラム in 軽井沢「オリンピックと東アジアの平和繁栄」へバトンタッチした。

運営委員の足立さんが写した当日の写真は、下記URLよりご覧いただけます。

http://www.aisf.or.jp/sgra/photos/

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<李 海峰(り・かいほう)☆ Li Haifeng>
中国北京出身。1991年来日、早稲田大学理工学部建築学科に入学し、学部、修士、博士課程を経て、現在、北九州市立大学国際環境工学部特任准教授・早稲田大学理工学術院客員講師、SGRA環境・エネルギーチームのサブチーフ。
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第7回日韓アジア未来フォーラム「東アジア協力の過去、現在、未来: 日韓アジア未来フォーラムのあり方を念頭に置きながら」報告 Posted 2008.3.21 by imanishi
2008年2月23日(土)、季節を忘れて、グアムのシェラトンホテルで「東アジア協力の過去、現在、未来: 日韓アジア未来フォーラムのあり方を念頭に置きながら」をテーマに第7回日韓アジア未来フォーラムが開催された。7年目を迎え、一種のsabbatical leaveという性格もあわせもった今回のフォーラムでは、日韓両国で3回ずつ行われたこれまでのフォーラムの成果と意義、問題点などについて振り返りながら、東アジア協力の過去、現在、未来について議論を行った。また、これからのフォーラムの進め方についても自由に意見を交わした。

グアムという場所の制約やテーマの性格などを考え、今回のフォーラムは非公開で行われた。米国領のグアムを訪れる観光客の7割以上が日本人であるが、近年は韓国人が増えているという。また、地理的には東南アジアに近く、日韓アジア未来フォーラムを開催するのにぴったりであった。

フォーラムでは、韓国未来人力研究院の李鎮奎(イ・ジンギュ)院長と今西淳子(いまにし・じゅんこ)SGRA代表による開会の挨拶に続き、4人の研究者による研究報告が行われた。まずSGRA研究員であり北陸大学の 李鋼哲(り・こうてつ)氏の研究発表は「北東アジア経済協力の展望 」をより具体的に明らかにするものであった。SGRA研究員のマックス・マキト氏は、「東アジア地域協力におけるアセアンの役割」について力説した。東京大学の木宮正史(きみや・ただし)氏は「東アジアの安全保障と共同体論」について、そして最後の発表者として延世大学の韓準(ハン・ジュン)氏は「東アジア協力におけるソフトパワーの役割」について発表を行った。

3時間に及ぶ報告と討論の後の第2セッションでは、嶋津忠廣(しまづ・ただひろ)SGRA運営委員長により、これまでの日韓アジア未来フォーラムの成果について報告が行われた。10ページほどの写真付の資料をもとに、これまでの楽しく有意義な研究交流活動を振り返る良いきっかけとなった。

嶋津氏の報告を土台に、これからのフォーラムのテーマや進め方などについて様々な提案があり、議論が交わされた。とくに注目すべきは、SGRAと未来人力研究院が異なるアプローチを互いに尊重しつつ、それぞれの強みを生かしながら、これまでのパターンを守り続けていくことで一致しているのが確認できたことである。また、「東アジア協力」と「ソフトパワー」というキー概念を念頭に置きながら、これからのテーマを決めていくことにも合意が得られ、次のテーマは、東アジア協力の大きなファクターとなる中国に対する見方の日韓の違いに注目し、今後具体的に検討していくことにした。

フォーラム終了後の夕食会は、市内の韓国料理店で、野菜もない牛肉だけの焼肉に焼酎バクダンを一気飲みするというややタフな食事会であった。前回の葉山フォーラムと同じく、まもなく「狂乱」の飲み会に変わってしまった。週末ということもあって店の人は呼んでも来ないし、お酒とお肉以外には殆ど品切れ状態だったのでそれが最善だったようにも思われる。2次会は音楽の賑やかなホテル内のバー、そして3次会はフィリピン海を見おろすプールサイドであった。

24日(日)は、自信満々の韓国系グアム人のガイドさんの案内で3時間ほど市内ツアーを楽しむこともできた。とくにツー・ラバーズ・ポイントは、「2回目のハネムーン」中の宋復理事長ご夫妻に思い出の場所となったに違いない。渥美財団主催の夕食会では主催側のご配慮でバーベキューにちょっと贅沢な日本酒を楽しんだが、前日の食事会に比べたらほんとうに穏健だった。この夕食会で「『次の7年目(=第14回日韓アジア未来フォーラム)』にはハワイでまた『3回目のハネムーン』を!」というすばらしいご提案があった。
次の第8回日韓アジア未来フォーラムは、2009年2月に東京で公開で開催する予定です。

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<金 雄熙(キム・ウンヒ)☆ Kim Woonghee>
ソウル大学外交学科卒業。筑波大学大学院国際政治経済学研究科より修士・博士。論文は「同意調達の浸透性ネットワークとしての政府諮問機関に関する研究」。韓国電子通信研究院を経て、現在、仁荷大学国際通商学部副教授。未来人力研究院とSGRA双方の研究員として日韓アジア未来フォーラムを推進している。
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第30回SGRAフォーラム「教育における『負け組』をどう考えるか」報告 Posted 2008.2.1 by imanishi
第30回SGRAフォーラムは、素晴らしい晴天に恵まれた2008年1月26日(土)、東京国際フォーラムG610会議室にて晴れ晴れと開催されました。「教育問題」が世間やマスコミを賑わしている昨今のご時勢において、「教育における『負け組』をどう考えるか 〜日本、中国、シンガポール〜」という今回のフォーラムは非常にホットなテーマであると言わざるを得ません。SGRA「グローバル化と地球市民」研究チームが担当する6回目のフォーラムとなりますが、一般的な教育問題を扱ったフォーラムは初めてだそうです。

発表者および発表の流れは以下の通りです:

【発表1】佐藤 香 (東京大学社会科学研究所准教授)
「日本の高校にみる教育弱者と社会的弱者」
【発表2】 山口真美(アジア経済研究所研究員)
「中国の義務教育格差 〜出稼ぎ家庭の子ども達を中心に〜」
【発表3】シム・チュン・キャット(東京大学大学院教育学研究科博士課程)
「高校教育の日星比較 〜選抜度の低い学校に着目して〜」

基調講演を担当していた佐藤先生は、まず近代教育システムの特徴を説明しつつ、日本の教育モデルとメリトクラシー(meritocracy 能力主義)の現実を明らかにした後、日本におけるメリトクラシーの緩和および教育弱者の厳しい現状について説明しました。そして、教育弱者が社会的弱者になりやすい傾向の中で、彼らが社会に拡散してしまう以前に教育現場において集中的に支援を行なったほうが効率的であると主張しました。非常に濃い内容を簡潔にまとめられた佐藤先生の発表が素晴らしかったこともさることながら、SGRAフォーラムの講演者としては初めての着物姿もとてもステキでした。

二人目の発表者であった山口さんは、中国の都会に住む出稼ぎ労働者の現状とその子どもたちの教育問題に着目し、中国における義務教育の格差問題について報告しました。山口さんはまず中国の教育制度と各教育段階の就学率の推移について説明し、経済発展が著しい中国において国内出稼ぎがどのように発生・拡大していったのか、そして出稼ぎ家庭の子どもの義務教育を受ける権利がいかに草の根レベルでの解決によって制度化されるように至ったのかを詳述しました。データと写真を表示しながら、丁寧に且つ力強く中国の教育現状を訴えた山口さんの発表はとても印象に残るものでした。

最後の発表者の私は、日本とシンガポールにおける選抜度の低い学校に焦点を当て、教育の「負け組」への両国の対処のあり方を比較しながら、教育が果たすべき社会的役割について検討しました。日星両国の高校生を対象とした質問紙調査のデータをもとに、私はまず両国ともに選抜度の低い下位校には学力も出身階層も低い生徒が集まることを示したうえ、シンガポールの下位校生徒が、学校の授業や先生を高く評価し、高い学習意欲と進学アスピレーションを持っているのとは反対に、日本の下位校生徒は授業や先生に対する評価が低いだけでなく、意欲にも欠けていることを明らかにしました。そして、日本の下位校の厳しい現状を言及しつつ、どの国でも下位校が教育的・社会的セーフティネットとなるべく、下位校への投資と改革が急務であると強く主張しました。

「教育問題」は非常に身近でホットなテーマであるだけに、フォーラム当日には会議室の席がほぼ全部埋まるほど参加者が集まりました。パネル・ディスカッションのときも、フロアから質問とコメントが引っ切り無しに出され、会場は盛り上がりました。教育弱者への支援の重要性について意を同じくした参加者もいれば、学力以外にも「生きる力」を柱とした教育の必要性を強く訴えた参加者もいました。教育のあるべき姿を考えるヒントとして、自国の教育制度や自らの体験を熱く語ってくれた参加者もいました。そして、ディスカッションの熱気は冷めることなくそのまま大盛況の懇親会へと持ち越され、最後の最後まで熱い議論が交わされる一日となりました。

当日、SGRA運営委員の足立さんとマキトさんが撮った写真は、下記URLからご覧ください。

http://www.aisf.or.jp/sgra/photos/

(文責:シム・チュン・キャット)



第29回SGRAフォーラム「広告と社会の複雑な関係」報告 Posted 2007.11.24 by imanishi
第29回SGRAフォーラムは、2007年11月18日、東京国際フォーラムG510会議室にて、「広告と社会の複雑な関係」というテーマで開催されました。SGRA「人的資源・技術移転」研究チームが担当する4回目のフォーラムでしたが、広告をテーマとしたフォーラムとしては初めてであったともいえます。東京経済大学コミュニケーション学部教授・博報堂生活総合研究所エグゼクティブフェローの関沢英彦先生の基調講演の後、(株)中国市場戦略研究所代表取締役・SGRA人的資源と技術移転研究チームチーフの徐向東さんが『中国における社会変動と企業のマーケティング活動』について語り、また早稲田大学国際教養学部訪問学者、学術振興会外国人特別研究員、SGRA研究員のオリガ・ホメンコが『ウクライナにおける広告と社会の複雑な関係〜広告がなかった時代からグローバル化の中へ〜』という発表をしました。

今回のフォーラムでは、日本、中国、ウクライナの広告と社会の関係が歴史的な流れの中で紹介され、お互いの共通点と違いについて考えさせられました。

関沢先生は、日本の高度成長期の小津安二郎の映画やテレビCMや雑誌広告など様々な資料を通して、その時代に形成されていた生活モデルについて語りながら、商品広告と人々の意識とのつながり、社会の中での選択の自由とのつながりを説明しました。そしてオイルショック以後、高度成長期の生活モデルが破壊し始める傾向について語りました。さらに、2000年以後の「生活モデル」はテレビや雑誌広告から町のイベントや町の中にある広告やものに転換し始めていることを指摘され、とても面白いと思いました。

徐向東さんは、来年北京五輪を開催する高度成長期の中国で、インターネットや携帯電話の使用者の急増について語りながら、中流階級を形成する一人っ子世代の若者の文化や新しいライフスタイルについて語りとても勉強になりました。それを聞いて社会主義崩壊後の東ヨーロッパとの共通点を考えました。ウクライナでも同じように、政治に無関心で消費に大きな関心を持つ若者が多いのです。まさに彼らの思想は消費主義であり、「心中階層」ともいえます。そして中国の国内の事情をよく理解できないため中国市場で失敗する外資系企業のことも聞いてとても勉強になりました。

私はロシア革命以前、それからソ連時代中の広告、また独立以降のウクライナの広告と人々の新しいライフスタイル形成のプロセスについて話しました。日本の戦後、高度成長期、また今の中国との共通点を考えながら、ウクライナの広告が女性にすすめる「偉大な母親像」と「モダンな女性」という二つの狭いモデル、またポストモダンなインターネットやメディアにあふれる情報世界に生きる人々の「個人性」をもとめる旅、またものや思考の選択の難しさについて考えました。

当初あまり参加者が集まらないのではないかと心配しましたが、結果的には51人もの参加者を得て、会場がいっぱいになりました。ディスカッションの時も、とても興味深い質問がたくさんでて大変盛り上がりました。大量生産や大量消費が生み出す環境問題や自然破壊は三つの国の広告や社会でどのように考えられているか、インターネットの力が増えて紙の新聞や雑誌を読まなくなると広告はどう変わっていくのか、また、商品購入と階級意識がその三つの国でどのように考えられているか話し合いました。商品の「可愛さ」が求められる日本の消費者に対して、「格好良さ」が求められている中国とウクライナの消費者の違いを考えながら、ものを売るための市場、文化、趣味、世代間の意識の違いやその願望の違いについての理解することの必要性について語り合いました。市場調査に加えて、文化的な理解や消費者の世界観を理解すればその市場で成功する可能性が高いということがわかりました。

今回のフォーラムは大変面白くて発表者や参加者にも大変勉強になり、広告と社会の関係をより深く考えさせられたと思います。

当日の運営委員のマキトさんと足立さんが写した写真は、下記URLよりご覧いただけます。

http://www.aisf.or.jp/sgra/photos/

(文責:オリガ・ホメンコ)



第2回SGRAチャイナフォーラム「黄土高原緑化協力の15年」報告 Posted 2007.9.26 by imanishi
■ 講演:高見邦雄(緑の地球ネットワーク)
「黄土高原緑化協力の15年:無理解と失敗から相互理解と信頼へ」

中国における第2回SGRAフォーラムは、2007年9月14日(金)に北京大学生命科学学院報告庁にて、9月17日(月)に新彊大学図書館二楼報告庁にて開催されました。昨年10月、「若者の未来と日本語」というフォーラムを、中国で初めて、北京大学の同じ会場で開催しましたが、今回からは、NPOやNGO等の市民活動を紹介するフォーラムを中国で開催することにしました。今年は、まず、中国で緑化協力の活動をしている日本のNPO法人「緑の地球ネットワーク」事務局長の高見邦雄さんに講演をお願いしました。朝日新聞で見つけた高見さんの文章がとても面白かったので、是非お話を伺いたいと思ったのがきっかけですが、その後、SGRA会員の中村まり子さんにご紹介いただき、このように北京とウルムチで実現できたのは、大変嬉しく思います。また、日本語学習者ではない中国の学生さんたちにも聞いていただくために、北京大学日本言語文化学部を通じて最高水準の同時通訳をお願いしました。

緑の地球ネットワーク(GEN)は1992年以来、山西省大同市の農村で緑化協力を継続しています。大同市は北京の西300kmほどのところにあり、北京の水源、風砂の吹き出し口でもあります。そこでは深刻な沙漠化と水危機が進行しています。高見さんはパワーポイントで写真をたくさん見せながら1)沙漠化防止のための植林、2)小学校での果樹園作り、3)自然林の保護という大同で展開する事業を紹介してくださいました。また、非常に厳しい自然条件の上、歴史問題をかかえた大同で活動することの難しさを話してくださいました。初期は失敗つづきでしたが、その後、日本側の専門家や中国のベテラン技術者の参加をえて、だんだんと軌道に乗ってきたということです。また、日本側も中国側も失敗と苦労を通じ、お互いを理解し、信頼しあうようになり、いまでは「国際協力の貴重な成功例」とまで評価されるようになっています。高見さんのお話は、参加者を引き込み「3時間があっという間にたってしまった」というコメントをいただいたほどでした。

その他にも、「黄土高原の厳しさを再認識、日本を再認識できた」「民間協力の実態を知った。一般の日本人の友好的な心がわかった。緑化に関する国際協力の大切さを知った」「高原の水不足の実態を知った。水を節約しなかったことを恥ずかしく思う。今までそのような土地があることすら知らなかった。今後何かしてあげたい」「環境問題はどんどん深刻化している。フォーラムを通じてハイレベルの教育者たちが努力されていることを知り、希望が見えた」などの感想が寄せられており、参加した北京大学と新彊大学の学生さんに対して、大きなインパクトを与えたと思います。

北京では、珍しい大雨にもかかわらず、協賛をいただきました国際交流基金北京事務所の小島寛之副所長はじめ、中国で植林活動をされているJICAのみなさん、GEN大同事務所所長、渥美財団理事長、そして北京大学の学生さん等、100名を越える参加者が集まりました。また、ウルムチでは、新彊大学化学学院長をはじめ、教員の皆さん、そして大勢の学生さんが集まり、300用意した同時通訳用のヘッドセットが足りなくなりました。ふたつのフォーラムを実現してくださったお二人のSGRA会員、北京大学の孫建軍さんと、新彊大学のアブリズさんに感謝いたします。(今西淳子)

○「土地の行政を超えた協力はあり得ない」と講師の高見さんは言いました。せっかくはるばる外国から協力に来たのに、現地の人々の心だけでなく、行政の「心」も捕まえなければならないという心労は並大抵のものではなかったでしょう。村民と寝食をともにし、心と心のふれ合いができても、いわゆる政府の幹部の妨害に会っては、堪らないものです。初期の失敗はこのような「無理解」から来たものが多かったかもしれません。行政との付き合いは、中国人ですら難しいのに、外国人の高見さんの努力に頭が下がります。

「賢い順に消えていく」日本のパートナー。事の始まりは簡単なものだったようですが、持続の難しさを語る高見さんは、実は持続の大切さを教えてくださいました。事を成功させるには、困難に向かって、一歩一歩、続けなければなりません。言葉の勉強はさることながら、人生そのものに生かしたいものです。北京会場には、多くの日本語学科の学生が来ていました。日本語そのもの、或いは小説、ドラマ、アニメ、ゲームのような日本文化にしか触れていない学生にとって、高見さんの講演、高見さんの行動は異様なものだったかもしれません。日ごろほとんど接する機会がないからです。でも、質疑応答の時に出た質問から見れば、彼らの心に相当な衝撃を与えたように思えます。「大同から脱出した人をどうすれば大同に呼び戻せるのか」という質問は、実は自分に言い聞かしているように思えました。少し離れたところから見ることによって、改めて自己を認識できるという意識の芽生えにつながるといいと思います。(孫 建軍)

○今回のフォーラムを通して感じたことは多いですが、それを読み易い文章にすることは理科系の研究ばかりやっている私にとって難しすぎます。3日間同行させて頂き、講師の高見さんは、植物を研究する大学教授のように思えました。緑化は自然環境を取り戻すための唯一の手段です。高見さんが15年間続けて来た緑化運動の貴重な経験は元々乾燥地域で、砂漠化が段々酷くなっている新疆ウイグル自冶区に取っても宝ものであると強く感じました。

フォーラムが開くまでは、会場がいっぱいになるか、最後までどのぐらい人が残るかなど色々心配していました。今日、院生から受け取った参加者名簿を見てびっくりしました。なんと391名のサイン!そのなかには新疆大学化学学院、資源環境学院、人文学院、新聞学院、生命学院、物理学院などの教官と学生、日本人留学生、新疆教育学院で研修している高校の先生などがいました。この講演を通して、若い学生が中日両国の民間人の相互理解、国際交流と国際協力に深い関心を持っていることがわかりました。

高見さんの講演は、新疆大学の学生にとって、非常に強い印象を与えたと感じました。フォーラムの後で学生や教官たちが講演内容も通訳も素晴らしかったと私に語ってくれました。今回のフォーラムは新疆大学の歴史では初めて同時通訳で行われたフォーラムとなりました。またSGRAフォーラムでも参加者が一番多いフォーラムになりました。またこの交流活動を続けていくことを願っています(疲れますが)。(アブリズ)

ふたつのフォーラムの写真は、下記URLよりご覧いただけます。
http://www.aisf.or.jp/sgra/photos/index.php?spgmGal=2nd_SGRA_China_Forum_2007

新彊日報の記事は、下記URLよりご覧いただけます。
http://www.aisf.or.jp/sgra/photos/index.php?spgmGal=ChinaNews

また高見さんが「黄土高原だより」にトルファン旅行記を書いていらっしゃいます。
http://blogs.dion.ne.jp/koko_tayori/



第28回SGRAフォーラム in 軽井沢「いのちの尊厳と宗教の役割」報告 Posted 2007.8.1 by imanishi
2007年7月21日(土)、第28回SGRAフォーラム in軽井沢が、鹿島建設軽井沢研修センター会議室で開催された。今回は、SGRA「宗教と現代社会」研究チームが担当する第2回目のフォーラムで、テーマは「いのちの尊厳と宗教の役割」であった。

まず、東京大学文学部宗教学宗教史学科教授の島薗進先生が「いのちの尊厳と日本の宗教文化」というテーマの基調講演を行った。医療技術の発展によって安楽死、臓器売買、代理出産などが可能になり、人の生命が道具のように扱われている。一方、自殺者数は減らず、教育の現場では、子供たちが自分より弱いものをみつけていじめる、さらには「社会を掃除するために」ホームレスを虐待するという社会問題がおこる。これらの現象は根元で繋がっているのではないか。「生命の尊厳」の問題に対して欧米では様々な議論がなされており、カトリック教会などははっきりした立場を示している。しかし、日本の宗教やアジアの宗教文化の立場からの対応はまだ欠如している。アジアの宗教文化の観点から生命倫理を考える必要があるのではないかという問題提起がなされた。

島薗先生の発表に対して兵庫県立大学看護学部心理学系准教授・韓国出身の金外淑さんの質問は、いのちの尊厳をどのように教えることが出来るのかということであった。島薗先生は、いのちの大切さは様々な分野で教えられているが、いのちを尊重する文化を育むことが必要であり、そこで宗教の役割が重要になると回答した。

富山大学経営法学科教授の秋葉悦子先生は「カトリック<人格主義>生命倫理学の日本における受容可能性」について発表を行った。秋葉先生は、中絶問題や生命の誕生(初期胚)や臓器移植について、受精卵を新たな人の命としてみなすカトリック教会のいわゆる人格主義的生命倫理について、ヴァチカンの公式見解を説明した。そして、このような生命倫理的価値観は、生物学の科学的な研究と第二次世界大戦後の国際法の精神に基づく合理的な結論であり、日本での受容の可能性は高いと語った。

秋葉先生に対する東京医科大学大学院博士課程在学生・中国ウィグル出身のアブドジュクル・メジテさんの質問は、ES細胞から人工的に器官を作ることは可能で、それによって様々な病気を直すための実験を行うことができるが、受精卵を新たな人の生命としてみなすというカトリック教会の立場はこの分野の研究を妨げているのではないかということであった。秋葉先生の回答は次の通りであった。ナチス時代には人体が医学実験のために使われていた。カトリック教会が示す生命倫理は科学や技術的発展のために人間の命や人権が奪われないように守ろうとしている。カトリック教会は死後の臓器移植を認めている。

コーヒー休憩の後、高野山大学文学部スピリチュアルケア学科准教授の井上ウィマラ先生による「悲しむ力と育む力:本当の自分に出会える環境づくり」というテーマの発表で、人間は悲しいことをどのように育む力に変えることが出来るのかという内容のものであった。フロイトの対象喪失理論やボウルビィの愛着理論などを紹介し、悲しみを充分に体験しながら人は許しや思いやりなどを獲得し、いのちを育む力を培ってゆくと論じた。井上先生によれば母子関係には人間を育む力があり、それを証するように中島みゆきの「誕生」という曲を聞かせた。

日本社会事業大学大学院博士課程在学生・中国出身の権明愛さんからは、子供ころの精神障害やトラウマは大人になっても残る可能性があるが、それを解決するためにもどのように自分の体験に向かい合うことが出来るのかという問いだった。井上先生は子供への様々な方法でのスピリチュアルケアの必要性を強調した。

最後の発表者は立命館大学産業社会学部教授の大谷いづみ先生だった。「『尊厳ある死』という思想の生成と『いのちの教育』」という題名の発表で、まず尊厳死と安楽死の相違について説明した。そして、様々な事例を通じて欧米や日本社会における「尊厳死」と「安楽死」の受けとめ方について述べた。尊厳死は当事者の自己決定によるものであるとされている。しかし、その自己決定には様々な問題があり、それは「いのちの教育」において課題とされるものであると論じた。

大谷先生の発表に対して東京大学大学院博士課程在学生・韓国出身の李垠庚さんは、韓国では「消極的安楽死」という言葉が使われることを紹介し、尊厳死が安楽死と区別され肯定的に取られてしまう可能性があるのではないかと問いかけた。大谷先生の答えは、死に関する自己決定は「科学的ヒューマニズム」とされており、日本でも道徳的行為とみなされていることに問題を感じると再度強調した。

当フォーラムの前半はこのように4人の講演者による発表と約定質問者による質疑であった。後半(夕食休憩の後)には、フロアからの質問を踏まえながら、「いのちの尊厳と宗教の役割」というテーマのパネルディスカッションが行われた。4人の講演者がパネリストとなり、名古屋市立大学准教授のランジャナ・ムコパディヤーヤが進行を務めた。フロアから様々な質問があった。いのちに関する教育は可能か、そのような教育をどのように行うべきか、文化によって死生観や「いのち」に対する考え方が異なるのに共通な生命倫理は可能か、個人主義を重視するキリスト教的・西洋的な「いのち」観は「無我」を説く仏教的考え方やアジアの文脈において適用しうるのか、宗教的文化的特徴を尊重しながら「いのち」の尊厳を訴えることは出来るのかというような質問があった。パネリストらによる回答がパネルディスカッションをさらに盛り上げ、フォーラムは大盛況であった。

フォーラムの写真は以下のURLをご覧ください。
http://www.aisf.or.jp/sgra/photos/

(文責:ランジャナ・ムコパディヤーヤ)



第27回SGRAフォーラム報告「アジアの外来種問題:ひとの生活との関わりを考える」 Posted 2007.6.8 by imanishi
2007年5月27日(日)、秋葉原UDX南6階カンファランスにて、第27回SGRAフォーラム「アジアの外来種問題―ひとの生活との関わりを考えるー」が開催された。同会場でのSGRAフォーラム開催は初めてであり、生物学の分野での開催も初めてと、初めてづくしの記念すべき開催であった。また、ブラックバス問題に代表されるように、現在、熱く議論されている問題をテーマとして、今をときめく電脳空間アキバでフォーラムを行うという、その画期的な試みに、気分は否が応にも盛り上がった。

開演時間の午後2時半が近くなるにつれ、用意されていた椅子も徐々に人で埋められていき、会場はほぼ満席となった。

フォーラムは、多紀保彦教授(自然環境研究センター理事長、東京水産大学[現東京海洋大学]名誉教授)の講演「外来生物とどう付き合うか:アジアの淡水魚を中心に」で始まった。多紀教授はご自身がなじみの深い東南アジアの自然環境、魚、養殖、人々のくらしについて、個人的な体験も盛りこみ、ユーモアをまじえながら話してくださった。60年代から今日にかけて、東南アジアをときにきびしく、ときに暖かい目で見続けてきた多紀教授の見解は多くの示唆に富んでおり、魚を専門とされていながら、常に“初めに人間ありき”の視点で世界を見てきた教授ならではのものである。

次に講演を行ったのは加納光樹氏(自然環境研究センター研究員)である。氏は、「外来生物問題への取り組み:いま日本の水辺で起きていること」と題して、外来種をとりまく日本の現状についていくつかの例を用いてわかりやすく説明してくださった。外来種はけっして生物学だけの問題ではなく、文化や経済や政治的な利害も含めた、正に “社会”問題であることが氏の講演からひしひしと伝わってきた。氏のわかりやすい洗練されたプレゼンテーションによって外来種問題の深刻さ、一筋縄ではいかない難しさをはじめて理解した人も多かったのではないだろうか。氏は、「アジアの外来種問題」をテーマとしたフォーラムは初めての試みであり、今後このような場を増やすことが必要と強調された。

最後の講演者はSGRA研究員でもある私、プラチヤー・ムシカシントーン(タイ国立カセサート大学水産学部講師)の「インドシナの外来種問題:魚類を中心として、フィールドからの報告」であった。私は恩師の多紀教授が見守るなかでの講演であったこともあり、緊張しつつ、主に私自らの観察によるインドシナ地域での外来魚問題の現状について話した。講演の後半は最近調査を行ったミャンマーのインレ湖に関してのもので、インドシナの貴重な数少ない古代湖の一つであるインレ湖に現在多くの外来魚が定着しているという現状の報告であった。

コーヒーブレイクをはさみ、フォーラムの後半は講演者全員がパネリストとなり、今西淳子氏(SGRA代表、渥美国際交流奨学財団常務理事)を司会にむかえ、パネルディスカッションを行った。今西氏がパネルディスカッションの進行役を勤めるのも初めての試みであったが、客席との活発なやり取りが行われた。経済を専門にする参加者からの意見もあれば、工学専門の研究者からの意見もあった。いろいろな分野の方々の間での意見交換が行われたことも今回のフォーラムのよかった点ではないだろうか。本フォーラムが、参加者全員にとって、アジアの外来種問題を考えるきっかけになったとしたら、本フォーラムの目的は達せられたのではないかと思う。
(文責:P.ムシカシントーン)

当日、運営委員の足立憲彦さんとF.マキトさんが写した写真は、アルバムよりご覧いただけます。



第5回SGRAマニラセミナー「マイクロクレジットと観光産業クラスター」報告 Posted 2007.4.25 by imanishi
第5回SGRAマニラセミナー「マイクロクレジットと観光産業クラスター」報告
マックス・マキト(SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ)

2007年4月16日(月)午後2時から5時まで、フィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)にてUA&P・SGRA日本研究ネットワークが主催する共有型成長セミナーが開催された。今年が5回めとなるこのセミナーの主な目的は、今回のテーマである「フィリピンにおけるマイクロクレジット(小額融資)と観光産業クラスター」に関する研究をスタートさせることであった。主催者は、このセミナーにおける議論を土台にして研究計画をまとめ、日本やその他の財団に研究助成を申請する予定である。

SGRAの今西代表が開会の挨拶をしてから、SGRA研究員のマキトは以上のようなセミナーの目的を説明して、UA&P・SGRAの共同研究として行った製造業経済特区の研究成果を、今度はマイクロクレジットと観光産業クラスターにどのように適応できるかという研究枠組みを提案した。この後、この特区研究のパートナーであるピーター・リー・ユ博士(UA&P経済学部長)はフィリピンの観光産業についてマクロレベルの概説をした。その次に、UA&Pの観光産業アナリストのスタン・パドヒノッグ教授が、観光産業をよりミクロのレベルで語った。フィリピンの海外からの観光者数は、タイなど他の東南アジア諸国に比べればまだ少ないが、出稼ぎフィリピン人が休暇に一時帰国するのを含めて、フィリピンの観光客は毎年増えている状況だと二人とも強調した。実はこの増加率が現地の開発業者では追いつけないほどであり、大手企業が海外のディベロッパーと手を組むケースも増えているようである。休憩を挟んでUA&Pのマイクロクレジットのアナリスト、ビエン・ニト教授が、フィリピンにおけるマイクロクレジットの現状について最近の研究報告を踏まえて説明した。地方の町づくりにも観光産業への繋がりが伺える。

このセミナーには、フィリピンの地方でマイクロクレジットを行うNPOの役員たちが参加しており、フリーディスカッションでは期待通りの活発な議論が行われた。早速、地方でも同様のセミナーを開催して、地方政府に働きかけをしたいという要望もあった。もう一つ印象的だったのは、研究者からもNPO役員からも、このマイクロクレジットと観光産業クラスターを結びつけた研究が、新しく、大変面白い発想だと評価されたことである。皆さんから、積極的にこの共同研究に参加協力する意思を表明していただいた。

セミナーの後、発表者は今西代表を囲んで、これからのこの共同研究を具体的にどのように行うか話合った。とりあえず、マキト研究員が、研究提案書のたたき台を作成して、UA&Pの研究者と共同で編集していくことで合意した。また、次回は同様のセミナーを観光地として開発が進む地方で開催するという暫定的な計画が立てられた。楽しみにしている。



第26回SGRAフォーラム報告 「東アジアにおける日本思想史―私たちの出会いと将来―」 Posted 2007.2.28 by imanishi
2007年2月17日(土)午後2時半より、東京国際フォーラムG棟610号室にて、SGRA「グロバール化と地球市民」研究チームが担当する第26回SGRAフォーラム「東アジアにおける日本思想史―私たちの出会いと将来」が開催された。この日は、ちょうど旧正月の除夜、日本でいう大晦日に当たるので、参加者を集めるのが大変だったが、42名が参加した。「日本思想史」がテーマのSGRAフォーラムは初めて。

フォーラムは、SGRA「グロバール化と地球市民」研究チームのメンバーである藍弘岳さん(東京大学大学院)の総合司会で始まった。SGRA研究会の今西代表による開会挨拶の後、日本思想史研究者である黒住真氏(東京大学総合文化研究科教授)が「日本思想史の<空白>を越えて」と題するゲスト・スピーチを行った。

黒住真氏は、まず「日本思想史」の定義を、「思想」、特に「倫理」思想史の角度から簡明に説明し、そして自分自身が精神医学・生命学から日本思想史、とくに日本思想史にある思想性・宗教性に関心を持つようになったきっかけを話した。さらに、黒住氏は自分の「日本思想史」との出会いについての紹介から、近代以来の「日本思想史」のあり方、近年の変化・傾向を話した。そこから、近代以来の、欧米中心主義的傾向と屈折した形でその裏がえしとなっている自国・自文化中心主義的傾向を紹介しつつ、そのような思想史の自国=東洋が実際は「空白」であることを説きつつ、それへの「問い」を発した。さらに、思想史研究の現場で活躍している中堅研究者の一員
として黒住氏は、1970年代ごろから20世紀末までの大きな思想史的背景・状況・問題の変化について分かり易く紹介した。これらの変化自体はいわば日本思想史研究としての現代日本思想(史)の言説そのものでもあろう。黒住氏は「空白」を克服するための多元性・複数性回復として思想史研究分野の70年代以来の変化を高度に評価しつつ、解体されすぎることによって生じた新たな「空白」にも注意深く注目した。さらに、黒住氏は、日本思想史における「空白」として「近代」において重要視されなかった日本独特の重要概念として「人間」「世間」「空気」などの概念を取り上げ、複数思想・宗教の習合としての日本思想の特徴を紹介した。同時に、黒住氏は、明治以後の倫理・道徳の国民国家化を倫理道徳の限界化=「空白」化として捉えた。最後に現在にだけでなく将来にもつながる日本思想史の可能性として、日本倫理思想史・宗教思想史と女性問題や環境問題、平和問題などとの対話の可能性を提示した。即ちそれは「空白」を乗り越えるための日本思想史の可能性でもある。

続いて、3名の方による研究報告が行われた。

最初に中国の東北師範大学歴史文化学院院長の韓東育氏が「東アジアにおける絡み合う思想史とその発見」という題の研究発表をした。韓氏は東京大学で学位を取得後帰国し、日本思想史・中国思想史を跨りながら研究してきた。今回は旧正月の休みを利用してわざわざフォーラムに参加するために来日したのである。韓氏は、自分と日本思想史の「出会い」を語るより、近代以来の「中国」と「日本思想史」との出会いについて語った。彼の紹介によれば、東アジアの思想史は本来相互に絡み合っているものであるが、近代まで中国側からはそれは無視されてきた。近年になって初めて、遅ればせながら、「発見」されたのである。そのような遅い「発見」はかつて「華夷秩
序」「朝貢システム」等によって形成された中国側の盲点によるものだと韓氏は指摘した。近代以降、東アジアの問題を解決する鍵は、表面的には、西ヨーロッパの「万国公法」「国民国家」等の原則にあったかのようであるが、しかし実際は、「盲点」=「縦=歴史」の問題を十分に解決しているとは言えない。開放的な視点でこのような「縦=歴史」の問題に直面し、「横=現実」の問題を適切に解決するようにと韓氏は東アジアの思想史の視点から説いた。そしてこのことは単なる地政の問題だけでなく、さらに、東アジアにおける絡み合う思想史の課題でもあると強調した。

次に中部大学人文学部助教授の趙寛子氏は、「『もののあわれ』を通じてみた『朝鮮』」という題の発表をした。趙氏は、中国への旅行をやめてわざわざ名古屋からフォーラムに参加してくれた。彼女は、最初は韓国現代文学を専攻したが、日本へ留学に来た初期に、本居宣長の思想を勉強した。現在、日韓のナショナリズムの研究などで活躍しているが、彼女が日本思想史を研究したきっかけは宣長とナショナリズム問題との関連に対する注目であった。宣長は、儒学を批判し、漢意によって汚れる以前の、古道における和(みやび、もののあわれ)を日本的なものとして提示していた。このような思想は、18世紀後半の町人・宣長が、日常の美的趣味として毎日、和歌を楽しんでいるなかで生まれた。ところが、似たような事情は前近代の朝鮮の文
化、芸術、文学にも見られる。宣長のように漢文を中心とする規範的な文化に抗し、「実情」(もののあわれ)を表現するような歌人の存在を、趙氏は朝鮮の文化・文学にも見出そうとした。美術や文学などの実例を挙げながら、同時代の朝鮮の平民文学・美術の多様性を紹介した。趙氏の発表は「儒教国としての朝鮮」という平面的な像を相対化しようとした試みである。

最後にSGRA研究員である林少陽氏が「越境の意味:私と日本思想史との出会いを手がかりに」という題目の発表をした。林氏は日本近代文学を専攻したが、かたわら中国の近代文学も研究してきた。彼自身の留学後における日本思想史との出会いを紹介し、そのような出会いによって、自分の研究分野にもたらした新しい可能性について紹介した。林氏の発表は主に批判的に近代的な人文社会科学の学的制度を捉え、そのような制度が西洋中心的と自国中心主義的なものを一体化する形でいろいろな知的可能性を閉鎖した、と紹介した。「近代」、近代的な「文学」「哲学」の概念を疑問視した発表でもある。

4人の講演と報告が終わった後、「グロバール化と地球市民」研究チームのメンバーである孫軍悦さん(東京大学大学院)が進行役を務め、パネルディスカッションが行われた。フロアからの質問に基づき活発な質疑応答が行われ、予定時間を20分ほどオーバーして、フォーラムは終了した。懇親会でも議論・交流が盛んであったことは印象的だった。

今回は、SGRA「グロバール化と地球市民」研究チームのチーフである高煕卓氏が急用で来られなかったが、高氏ははるばる韓国から色々な形で応援してくれた。若干準備時間が不足していたかもしれないし、タイミング的にも旧お正月のような時期と重なってしまった。今後これを避けるべきであろうが、ゲスト・スピーチの黒住真先生をはじめとする発表者の努力とSGRA研究会の今西代表や運営委員長の嶋津氏の強いサポートでフォーラムは無事に成功した。

「日本思想史」という、一見やや堅苦しいテーマであるが、黒住氏のゲスト・スビーチが残した「空白」を今後のフォーラムがいかに埋めてゆくべきなのか、大きな重みと可能性を感じている。いろいろなテーマそのものをSGRA「グロバール化と地球市民」研究チームに残してくれたような気がする。

(文責:SGRA「グロバール化と地球市民」研究チーム・サブチーフ 林少陽)

当日SGRA運営委員の足立憲彦さんと全振煥さんが写した写真は、ギャラリーをご覧ください。



第6回日韓アジア未来フォーラム in 葉山「親日・反日・克日:多様化する韓国の対日観」 Posted 2006.11.25 by imanishi
秋の3連休、その最終日の11月5日、海のきれいな葉山で「親日・反日・克日:多様化する韓国の対日観」をテーマに、第6回日韓アジア未来フォーラムが開催された。日韓をひんぱんに往来しながら活躍する若手の研究者に、近代における韓国人の日本留学と人的ネットワークの形成、韓国における歴史認識/論争、「独島/竹島」と反日、韓流と日韓関係についての最近の研究成果を発表してもらい、その後、自由に意見交換を行うフォーラムであった。複雑な日韓関係における敏感なテーマだけに、今回のフォーラムは非公開で行われた。

韓国未来人力研究院の李鎮奎(イ・ジンギュ)院長と今西淳子SGRA代表による開会の挨拶に続き、4人の研究者による研究報告が行われた。まずSGRA研究員の金範洙(キン・ボンス)氏の研究発表は、朝鮮留学生運動の再評価の必要性や、これまで研究課題として残されていた朝鮮留学生の実体を解明し、また日本留学を媒介とする人的ネットワークの形成と朝鮮民族運動への関わりをより具体的に明らかにするものであった。中部大学の趙寛子(チョウ・クァンジャ)氏は、最近の韓国における歴史認識をめぐる党派的「思想戦」の淵源を体系的かつ歴史的に説明した。東京大学の玄大松(ヒョン・デソン)氏は、日韓両国において独島/竹島がいかに語られるのかについてつぶさに考察し、日韓の市民社会とマス・メディアが構築した「公共圏」、「言説空間」にみられる偏りを調整する必要性を力説した。最後の発表者として静岡県立大学の小針進氏は、韓流を日韓関係の文脈から捉え、韓流の経済効果ばかり強調したり国威発揚として強調したりすべきではないと指摘した。

2時間に及ぶ発表(お勉強の時間)が終わり、休憩を挟んで、韓国国民大学の南基正(ナム・キジョン)氏の進行でフリーディスカッションが行われた。熱のこもった討論ではあったが、案外研究報告や発言などをめぐる「攻撃的な」(aggressive)コメントや感想は寄せられなかった。日韓においては、対立や葛藤が浮沈するなかでも、草の根のレベルでの価値や認識の共有が着実に深まってきていることが確認できたフォーラムでもあった。

今回のフォーラムのタイトルに「親日・反日」の文字を入れたのは、日本と関わる多くの中国人、韓国人のためにも、この「図式」に正面から取り組むことこそ大事なことだという主催者側の意図があったからである。勿論、向かうべき方向性は「多様化」であると思われるが、日韓関係の専門家ではない大多数の人々にとって、「多様化」だけをだしてもインパクトが足りないように思ったからである。「同時に、この『図式』を一般の日本人も理解すべきです。日米関係では『親日』という言葉が文字通りに使われており、私も留学交流の仕事を始める前には、日中・日韓関係におけるこの言葉の意味を知りませんでした」と今西氏。

フォーラム終了後の懇親会では、すばらしい葉山の海産物やおいしいお酒を思う存分楽しむことができた。案の定、優雅な懇親会はまもなく「狂乱」の飲み会に変わってしまった。消費したアルコールの量に驚いたが、消費量を見込んで十分に用意した主催側の「配慮」には感動を覚えた。その晩の一気飲み、ラブ・シャット、次の日の二日酔いは当分の間忘れられないであろう。

酔いつぶれる前にどこかで次のような提案と合意がなされたような気がする。
「次回の日韓アジア未来フォーラムは延辺でしませんか」
「いいですよ」

(文責:金雄煕)

SGRA運営委員の足立さん、マキトさん、許雷さんが写した当日の写真のアルバムは、下記URLからご覧いただけます。
http://www.aisf.or.jp/sgra/photos/

尚、このフォーラムの講演録は、後日、SGRAレポートとして会員の皆様に送付いたします。



SGRAフォーラム in 北京「若者の未来と日本語」報告 Posted 2006.11.2 by imanishi
去る2006年10月21日(土)、北京大学生命科学学院報告庁にて、「北京大学日本言語文学科設立60周年記念シンポジウム特別企画」として、SGRAフォーラム in 北京『若者の未来と日本語』が盛大な雰囲気の中で開催されました。

中国で初めてのSGRAフォーラムでしたが、参加者は予想外に100名を越え、会場を熱気で包んでくれました。テーマが『若者の未来と日本語』だけあって、参加者のほとんどは、北京大学、北京語言大学、北京外国語大学など、北京市内の大学から来た学生でしたが、中でも北京語言大学の学部生がもっとも多かったのです。これは、たぶん本フォーラムが実用日本語を中心に翻訳通訳者の養成に力を入れている北京語言大学の学生のニーズに合ったからではないかと思われます。

フォーラムは、午後2時から5時までの予定でしたが、4人のパネリストの熱気に溢れるスピーチの後、フロアーの参加者との真摯なディスカッションが続き、時の経つのも忘れ、5時50分になってやっと惜しい気持ちで閉会を告げました。

総合司会の孫建軍先生(北京大学日本言語文化学部助教授、SGRA研究員)の開会の言葉がよいスタートとなり、引き続き、開会の挨拶として、今西淳子代表(SGRA代表、渥美国際交流奨学財団常務理事)が、素晴らしいデザインのパワーポイントでSGRAを紹介して、参加者の人気を集めました。その好調子に乗って、パネリストが登壇し、自己紹介お後、パネルディスカッションのための主題講演が、池崎美代子先生(JRP専務理事、SGRA会員)の「ビジネス日本語とは」から始まり、続いて武田 仁先生(富士通(中国)有限公司副董事長(兼)総経理)の「グローバル企業が求める人材」、張潤北先生(三井化学北京事務所所長代理)の「日本文化と通訳の仕事」、徐向東先生(キャストコンサルティング代表取締役、SGRA研究チーフ)の「『日本語』の壁を超える」といった順で行われました。最後にSGRA運営委員長の嶋津忠廣氏がフォーラムをまとめ、閉会の辞を述べました。

パネリストの主題講演には、それぞれ特徴があって、それに対するコメントとともに、フォーラムに異彩を放ってくれました。というのも、フォーラムのテーマ自体が「若者の未来」と「日本語」という二つの意味を含んでおり、パネリストの主張も主に「ビジネスマナー」としての「美しい日本語」と、「ビジネスセンス」として『日本語』の壁を越えた「中身のある言葉」の二つが議論のテーマになっていました。池崎先生と張先生の講演では、「美しい日本語」、「文化としての日本語」とつながるものが多く覗われ、武田先生と徐先生の講演では、「若者の未来」を提示した「企業が求める人材」についての内容が多く覗われたのです。

池崎先生は「ビジネス日本語」の特徴として「美しい日本語」を強調し、「ビジネスセンス」と「日本語能力」を外国人高度専門人材像の備えるべき大切な資質としてあげました。一方、武田先生は「企業の求める人材」像について「人格(職員の魂)、センス(マナー)、能力(目標評価)、個性(自分だけのもの)」といった総合的立場から概括し、それに続いて徐先生が「ビジネスキャリア、知識(母語のレベルも含めて)、創造性(チャレンジ精神)」を「企業の求める人材」像の条件として付け加えました。張先生は、文化的要素の重要性について生き生きとした翻訳の例を挙げて興味深く説明し、また、コミュニケーションにおける「文化」的要素を「企業の求める人材」の条件の一つとして強調しました。

閉会後、参加者に「どうでしたか」と聞いたら、「とても勉強になりました」「励まされました」「日本語の勉強の目標を見つけました」「日系企業や日本社会の求める人材像が分かりました」などなど、評判の声が多かったです。

残念なのは、参加者の中に北京大と北京語言大以外の学生が少なかったことです。もっと多くの大学に声かけて、日本語を無難に駆使できる大学高学年生や大学院生に来てもらえたらもっとよかったのに・・・。

本フォーラムは、急増している中国での日本語学習者のニーズに合わせて、日本語学習者を対象に、日本語教育の現状や日系企業を含む社会のニーズや先輩の経験談を紹介し、日本語を学ぶことによって広がる未来へのビジョンを提供することで、若者の期待に応えるためにはどのような教育が必要とされているか提案することを目標として開催されましたが、予想通りの成果を上げたと思います。なお、今回のように、SGRAフォーラムを世界中に広げていくことは、われわれのこれからの仕事ではないかとも思います。

文責:朴貞姫(北京語言大学助教授、SGRA研究員)

☆足立憲彦さんと石井慶子さんが撮ってくださった写真は、アルバム1アルバム2から覧いただけます。



第25回SGRAフォーラム「ITは教育を強化できるのか」報告 Posted 2006.10.7 by imanishi
2006年9月23日(土)、秋分の日に相応しい天高く馬肥ゆる秋晴れ。運動会に没頭する子どもたちの情熱に負けじと、有楽町の東京国際フォーラムにて第25回SGRAフォーラムが開催された。テーマは「ITは教育を強化できるのか」という奥深さを感じるものだった。

総合司会のSGRA研究員ナポレオン氏(ヤマタケ研究所研究員)が開会を宣言し、SGRA代表の今西淳子氏から開会の挨拶があった。今西氏は、第9回SGRAフォーラムで「デジタルデバイド」について検討した時、IT化により先進国と途上国の格差が広がる懸念があるのではないかという問題意識で企画したが、むしろ後進国が追いつき追い越すのに非常に有効な手段であると感じたと述べた。また、近日下されたオーム真理教教祖麻原被告の死刑判決にヒントを得て、優秀な理系の研究者がどうして才能を誤ったところに使ってしまったのか、これは社会の情報化と関係あるのか、そもそも教育とは何なのか、ITは価値の教育に貢献できるのかという問題を提起した。このフォーラムでは、これらの疑問点を@技術の面、A人的な面の二つの側面から考えた。

フォーラムの前半では3人の講師を迎えご講演いただいた。特に、今回のテーマを考慮に入れ、それぞれの専門分野の中で、どのようにITが教育に生かされているのかについても検討していただいた。後半のパネルディスカッションはSGRA研究員の江蘇蘇氏(株式会社 東芝)の司会の下、3人の講師により熱い討論が行われた。

一人目の講演者である横浜国立大学教授の高橋冨士信氏は、「途上国へのE-learning技術支援とオープンソースソフトウェア教育強化〜南太平洋大学におけるJICAプロジェクト活動を中心に」をテーマとして、日本と途上国においてのIT教育への取り組みの違いなどについて講演した。理工系離れが深刻化している日本と対照的に、途上国では理工系への関心が極めて強い。高橋氏はリーダーとして2年間にわたり南太平洋大学(USP)のIT強化プログラムを遂行したが、この間にインド系学生が多いUSPでは情報系学科への志望者数が3倍になった。ハングリー精神をもって最先端の仕事に従事していこうとする途上国の学生と対照的に、ITが空気のようになっている日本においてはかえって学生の学習意欲が低いなど、教育効果に大きな相違が生じていると力説した。最後に、日本では若者を叱るだけではなく、団塊の世代も含めた「大人」がもっと途上国に出かけるべきで、他の文化を理解し分析した上で自国の長所や短所が初めて見えてくるし、そうすることが若者にも良い影響を与えるだろうと主張した。

次に、「伝え合うことで学ぶ『交流学習』と支援のあり方」について目白大学専任講師の藤谷哲氏が講演した。藤谷氏も高橋氏と同様、教師同士のコミュニケーション不足や新しいことへ挑戦する時の壁などの問題点が挙げられ、教師から学生に情報を十分に発信することができないと述べた。そして、「では、どんな学習活動ができたらよいと言えるのか?」という疑問を提起し、その答えを探るべく行ってきた二つの試み、@技術的な面から<ネットワークをツールとした技術者と子供たちの交流活動>とA人的な面から<国際交流・国際理解教育をテーマに教育実践>を紹介した。@では新しい科学技術の紹介ページや質問ページの開設、高校生によるプレゼンテーションなどを通して先端科学技術に関する発展的な学習・関心の深化を目指している。Aでは主に教師向け研修で国際教育・学校間交流学習の手法紹介、教員の招聘などを通して多国間での情報交換および国際理解教育実践を行っている。このようなプロジェクトにおいてはITを利用したネットワークの役割はますます大きくなっていると指摘した。

最後に、「Mobile-Learningが教育を変える?!」と題して台湾国立中央大学助教授の楊接期氏が講演した。楊氏の研究実例の一つに学生一人ひとりにレスポンスパッドを待たせ先生の質問に対し全員がレスポンスパッドを用いて回答するというものがある。先生はサーバーで管理された一人ひとりの答えを確認し、統計と比較することにより、生徒個々人の学習レベルや学習姿勢、モチベーションなどを把握でき、適切な指導ができるようになるというコンセプトである。また、学生同士でモバイル機器を用いたFace-to-face探求的な学習活動もあり、モバイル機器に搭載されているさまざまな植物や動物のデータベースを用い、自分たちが観察した生物について詳しく理解しレポートにまとめるという、「調べる・書く」練習がある。これらにより、先生が一方的に学生に教えるのではなく、学生自身が自ら学習をコントロールし積極的な姿勢を養うことができる。また、楊氏は「『成績がいい』と『子供が育つ』ということは必ずしも一対一の関係ではない」と唱え、モバイルテクノロジーを用いた英語学習実践例を挙げ、テストの成績はあがらなかったが、子供たちの英語を話す自信が倍増したことを示した。

10分の休憩を挟み、パネルディスカッションでは聴講者からの質問をもとに討論を広げた。

「IT化は子供たちにどういう影響を与えたのか」という問いかけに対して、楊氏は興味深いデータを示した。過去10年のコンピューターによる勉強成果統計によると、PCを持つことによって成績が下がった学生が過半数だという。一方で観察力および情報収集の力は向上した。賛否両論といったところだ。「人と接する機会を多く与えるために、小学校ではむしろパソコンを使わせないほうがよいのでは」という意見に対して、印象深かったのは「人と接する機会を多く与えるという意味では、『幼稚園児にテレビを見させないほうがよい』」に置き換えられるという藤谷氏の意見だ。肝心なのは「本当に必要なことは何か?それらをどのようにして見つけるのか?」ということで、いままでのBlack Box化した学習ではなく、目的は何か、それを達成するためには何が必要なのかという大枠をまず考える必要がある。高橋氏も同意見で、何かを習得するには@思索段階、A必要な材料(情報)を集めるという二段階のプロセスが必要で、思索段階ではIT技術は全く必要なく、想像力や経験などでオリジナリティを出す。それによりできた案に必要な材料をいかに集中力をもって集めるかという段階になるとIT技術は必要不可欠な道具となってくると指摘した。また、冒頭の「優秀な理系の大学院生がどうして才能を誤ったところに使ってしまったのか?」という問題提起に関連するが、米国と日本では理系の研究者に対しての見方に違いがある。米国ではいわゆる「ハッカー」の才能を見込んで、積極的に企業に取り込んでいっているのに対し、日本では「おたく」は暗いイメージを持ち重宝されない。こういった社会背景の中、世界有数のストレス国でもある日本では精神的におかしくなることも不可思議ではないといえるかもしれない。

いずれにせよ、ITは使い方次第で教育に役立つという結論になったのではないかと思う。「では、適切な使い方はどのようなものなのか」という次のステップの問題は、次回のフォーラムに残して、一時間半のパネルディスカッションを終えた。最後にSGRA運営委員長の嶋津忠廣氏がフォーラムをまとめ、閉会の辞を述べた。
(文責 江蘇蘇2006/10/05)



第24回SGRAフォーラム「ごみ処理と国境を越える資源循環」 Posted 2006.7.26 by imanishi
第24回SGRAフォーラムin軽井沢
「ごみ処理と国境を越える資源循環〜私が分別したごみはどこへ行くの?〜」

時は平成18年7月22日、日本全国で大雨が降り続く中、軽井沢は晴れ!という日に鹿島建設軽井沢研修センター会議室にて、第24回SGRA(関口グローバル研究会)フォーラムが開催された。

総合司会のSGRA研究員全振煥氏(鹿島技術研究所主任研究員)が開会を宣言し、SGRA代表の今西淳子氏から開会の挨拶があり、フォーラム開催の趣旨について説明があった。地球温暖化、異常気象、砂漠化、廃棄物処理等々、環境問題は、人類が地球規模でとりくむべき課題となった。その中で最も身近な問題であるごみ処理は正しく行われているかどうか、また、日本から中国を含むアジア諸国・地域への再生資源(廃棄資源)輸出が拡大しているが、国際間移動の現状はどうなっているのか。各国の法制度や施策の実情はどうなっているのか。何が問題か、今後どうすれば良いか、国際協調は可能か、等々検討するため、このフォーラムを開催することにした。ごみという身近な問題から一緒に考えたい。

フォーラムの前半では4人の講師を迎え、それぞれ専門分野について講演を頂いた。また後半のパネルディスカッションでは、4人の講師を含み、5人の先生により熱い討論が行われた。

最初に、「廃棄資源の国際間移動の現状と今後:アジアを中心として」を題とし、エックス都市研究所取締役鈴木進一氏が、日本の廃棄物資源の循環利用の取り組みを紹介しながら、リサイクル資源の国際間の移動の背景や状況について詳細なデータを用いて紹介した。日本とアジア諸国との国際資源移動のイメージを模索し、さらに具体化的な対策について提案を行った。廃棄物資源の循環利用の取り組みに各国相互の理解や協力が不可欠だと結論づけ、地球市民を目指すSGRA会員にそれらの取り組みへの協力を要請した。

次に、「EUの再生資源とリサイクル:ドイツを中心として」を題とし、鹿島技術研究所上席研究員間宮尚氏から、自身の留学体験から、環境先進国であるドイツの廃棄物処理の政策、法律について紹介し、ごみ処理について日本とドイツの相違点を明らかにした。ドイツでは積極的にリサイクル行為にインセンティブを与えて、廃棄物のマネージメントを最優先に考える。また、廃棄物処理は税金ではなく、手数料を通して解決する手段をとっており、日本にとって、大いに参考になると力説した。

3番目の講演では、「アジアにおける家電リサイクル活動に関する調査報告」を題とし、SGRA研究員の李海峰氏(北九州市立大学)が台湾、韓国、中国を中心としたアジア諸国における家電リサイクルの取り組みを紹介し、各国の家電リサイクル法の相違及び国際資源循環の背景及び問題点を指摘し、豊富な写真から中国における家電製品リサイクルの流れ、問題点を述べた。またアジア、特に中国における家電リサイクルの実践について、回収ネットワークの整備、リサイクル費用の負担及び適正処理技術の開発等に多くの問題が存在していることを明らかにした。

最後に、「廃棄物問題と都市の貧困:マニラ貧困層のコミュニティ資源の活用」を題とし、東京大学総合文化研究科教授の中西徹氏が、「幸せとは何か」の問いから貧困が環境にもたらす問題、また環境が貧困に与える影響を述べ、被害者として環境劣化が貧困を激化させるが、同時に、不法投棄など、環境問題への加害者となっている面もあり、環境保全と貧困緩和の両立を目指すための事例を提案した。また循環システムの構築をするために、コミュニティ資源を活用するのが先決で、コミュニティのネットワークにより、生ごみ回収の効率化や協力体制もできるのではないかと提案された。資源循環社会構築による貧困層の改善に期待したい。

夕食を挟んで、午後7:30時、4人の講師に埼玉大学教授外岡豊氏を交えて、パネルディスカッションが始まった。
まず、司会SGRA研究員の高偉俊氏(北九州市立大学助教授)が、以下のように共通認識をまとめた。@ゴミは資源であると同時に、不純物や有害物等を含む混合物でもある。だから無害化と資源化という矛盾を同時に扱わなければならない。A資源循環が国境を越えていく。有価物、例えば、古紙等がすでに商業ベースに乗って国際間で売買されている。処理費用の削減を求めるために、先進国から途上国に安い処理場や工場を探し、ゴミが国境を越える。また、無責任な処分企業が有害物の最終処分を途上国に転嫁させる例もある。このような問題へは、個人レベル、国レベル、国際レベルで総合的に対処していかなければならない。ゴミ問題の決め手は、基本的にはわれわれ消費者であり、物を長く使っていくことが先決である。国レベルでは法整備を含め、経済性のある資源循環社会の構築に力を入れる必要がある。また、廃棄物資源の循環が国際化している以上、国家間の信頼関係、ビジネスとしてのWin-Win関係、そして先進国からの技術供与や支援が求められる。

パネルディスカッションでは、最初にパネリストで埼玉大学教授の外岡豊氏が4人の講師の講演に対し感想を述べ、その意義を総括した。共通して現場を深く理解し問題の解決に向けた意識を持った研究であり、このような試みが社会の新しい状況に対応した問題解決への基礎になる。地球全体が一つの生命体であるというラブロックのガイア仮説になぞれば、人類社会全体が一つの生命のようなものであり、この国境を越えたリサイクルとゴミ問題に対処するシステムを構築する試みは、社会が柔軟に対応できる能力をそなえ、人類社会に命を吹き込む重要な営みである。アジア各国のさまざまな違いを融合させて国境を越えた新しい解決策を打ち立てるためにSGRAの活動は重要な意義がある。

「自国のゴミは自国で処理すべきと思うか」との問いに対して、参加者の間では賛成40%に対して反対60%との結果が出た。原則としては自分が発生(製造)したものは自分で処理すべきではあるとしても、私にとってはゴミかもしれないが、別の人に対して資源になる場合もあり得るので、グローバルになった今日には国境を越えた廃棄資源移動を止めることができないとパネリストたちは共通的に認識している。しかし「途上国はゴミ箱ではない!」公害輸出等の悪いケースもあり、廃棄物資源の中に有害物も含まれるという現実から、製造者(生産者)責任でそれらの問題を真剣に取り込むべきであり、情報公開や処理技術供与等の基本モラルが必要であると指摘された。国際的な廃棄物資源循環モデルを構築するために、@排出側と受け入れ側での責任体制の確立;A双方のWin-Winとなるビジネスモデルの構築;B情報公開等による事業の透明性の確保;C国民の間の信頼関係の構築;Dそして双方の協力体制の確立等を早急に取り込むことが必要だとパネルディスカッションは結ばれた。SGRA会員はこのような環境作りに大いに活躍することができるではないかと期待され、1時間半のパネルディスカッションに終止符を打った。最後にSGRA運営委員長の嶋津忠廣氏がフォーラムをまとめ、閉会の辞を述べた。
(文責:高偉俊)

マキト運営委員の写したSGRAフォーラムの写真は、ここをご覧ください。



第23回SGRAフォーラム「日本人と宗教―宗教って何なの?―」 Posted 2006.5.28 by imanishi
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第23回SGRAフォーラム報告
「日 本 人 と 宗 教― 宗教って何なの?―」
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SGRA「宗教と現代社会」研究チームチーフ
名古屋市立大学大学院人間文化研究科助教授
ランジャナ・ムコパディヤーヤ

 2006年5月14日(日)午後2時から5時半まで、第23回SGRAフォーラムが東京国際フォーラムにて開催された。今回のフォーラムは、今年新設されたSGRA「現代社会と宗教」研究チームの第1回目のフォーラムであった。近年、原理主義運動、宗教紛争などの宗教をめぐる様々な問題が世界各地で発生している一方、ニューエイジ運動やスピリチュアル・ケア活動の興隆にみられるように宗教に癒しを求めている人も少なくない。現代社会及び現代人をよく理解するために「宗教」に対する知識を高める必要があるのではないかという発想からSGRAの新しい研究チームが発足した。当然の関心として挙げられたのが、日本人にとって「宗教」とはどういうものでしょうかという問題だった。日本人は「無宗教」であるのか、「多宗教」であるのか。日本人の宗教観への理解を目指して、当フォーラムのテーマは「日本人と宗教」となった。

 東京大学宗教学の島薗進教授が「日本人にとっての『宗教』と『宗教のようなもの』」というテーマの基調講演を行った。島薗家は代々医師であったが、なぜ島薗教授は医学を捨てて宗教学を選んだのかというところから日本人の宗教観について語りはじめた。島薗家は浄土宗であるが、お母様がカトリックに信仰したり、教授自身がプロテスタント系の幼稚園に通っていたり、また神道式の葬式に共感するなどのことがらが指し示すように日本人の宗教観念は包容的で多元的である。日本人は、同時に様々な宗教を信仰しながらも、なぜ「無宗教」だというのか。その説明として、島薗教授は「自然宗教」と「創唱宗教」の概念を紹介した。自然宗教とは、神道、ヒンドゥー教、道教など、創始者をもたない宗教である。創唱宗教は、キリスト教、イスラム教、仏教のように、創始者をもち、その教説に拠る宗教である。日本の民族宗教(神道)はアニミズムのようなものであり、それが日本人の宗教心の根底をなす。日本人の「無宗教」を課題とした著作として阿満利麿著『日本人はなぜ無宗教なのか』が紹介された。日本人の宗教に対する考え方が学問的に、そして一般的にも注目を浴びるきっかけになったのはオウム事件である。その後、日本の宗教状況に関する多数の図書が刊行された。例として橋本治著『宗教なんかこわくない!』、梅原猛、山折哲雄共著『宗教の自殺―日本人の新しい信仰を求めて』などの書籍が挙げられた。さらに、日本人の宗教観念を表すもう一つの概念は「道」である。神道や道教に「道」の文字が含まれているように日本人にとって宗教は「道」のようなものである。宗教学を研究する者には、茶道、華道などの芸道、剣道、弓道などの武道を学んでいる人が多い。最近は武士道がリバイバルであり、宮本武蔵を主人公とする漫画が大人気になっている。

 続いて、日本で宗教研究に従事している4人の外国人研究者がどのような経緯で宗教・宗教学に関心をもつようになったのか、日本留学のきっかけ、とりわけ日本の宗教を研究することに至ったのかという内容の自己紹介を行った。國學院大學神道文化学部助教授のノルマン・ヘィヴンズ氏は、ベトナム戦争の時、アメリカの兵士として沖縄に来て、初めて異文化と触れる機会を得た。それが、日本の宗教や文化に関心をもつきっかけとなった。その後、神道をはじめ、日本の巡礼、とりわけ幕末時代の「お陰参り」、「ええじゃないか」などの日本宗教の諸相について研究をすすめてきた。名古屋市立大学大学院人間文化研究科助教授のランジャナ・ムコパディヤーヤ氏(SGRA研究員)が日本の仏教に関心をもったきっかけは、インドにおける原理主義問題であった。また、家族が信心深いの職業軍人であったことにも影響を受けた。様々な国・文化における宗教状況を比較考察する目的でムコパディヤーヤ氏が宗教学そして日本宗教の研究に着手した。来日以来、日本仏教の社会活動(「社会参加仏教」)に関する研究に取り組んできた。ミラ・ゾンターク氏(SGRA研究員)は、富坂キリスト教センター研究所において「宗教と教育」という研究を担当している。旧東ドイツに生まれ、19歳の時、ベルリンの壁が破壊し、社会主義体制が終焉に向った際、ゾンターク氏はキリスト教に関心をもちはじめた。また、美術、言語学そして柔道にも関心があったことから、大学で日本学を専攻することにした。最後に、京都のイスラム文化センター代表のセリム・ユジェル・ギュレチ氏(第2期渥美財団奨学生)が湾岸戦争の時、報道機関の人々にイスラムについて質問された際、日本人のイスラムに対する知識の浅さに驚き、日本でイスラムに関する知識を広げることを「天命」として受けとめた。その後、トルコ政府の支援による東京都渋谷区にモスクを建設し、現在は京都でイスラムセンターを設立して活動に励んでいる。

 休憩を挟んで、フロアからの質問を踏まえながら、「日本人と宗教」というテーマのパネルディスカッションが行われた。4人の研究者はパネリストを、島薗教授はコーディネーターを務めてくださった。最初の質問者は、SGRA会員の玄承洙氏であった。韓国のキリスト教の家に生まれ、牧師を目指していた玄氏は、ある時期からその宗教に疑問を抱く一方、イスラムに関心をもつようになった。現在東京大学大学院博士課程でチェチェン紛争について研究している玄氏の質問は、「宗教は平和思想を生み出すと思われているが、実際は戦争や暴力の原因ではないでしょうか」というものだった。4人のパネリストがそれぞれの立場から回答した。人類の長い歴史のなか、宗教理念によって正当化された戦争や暴力の事例は少なくない。宗教の重要な役割は社会秩序を維持することであり、そのために権力者による暴力や戦争を正当化してしまう場合がある。近代以降、政教分離によって、戦争が政府側の権力として認められ、平和活動が宗教の領域になったのである。その後、宗教が精神的内面的なものであるのか、社会的なものであるのかということについて意見が交わされた。 

 次の質問は、今もっとも注目されている靖国問題に関連するものであった。戦没者の慰霊祭が宗教的行為であるか否かという質問だった。パネリストの答えは、日本の宗教文化においては追悼式や慰霊祭、つまり魂を祭ることが宗教的な行為として認識されている。そして、靖国神社は宗教施設であり、そこで行われる慰霊祭が宗教と無関係であるとはいい難い。続いて、「政教分離」がパネルディスカッションの話題となり、各パネリストが、それぞれの国における宗教と国家との関係をめぐる諸問題を日本の状況と対比しながら、政教分離の理念を賛否する意見を述べた。

 宗教と自殺に関する質問もあった。日本人の自殺率が高いのは宗教と関係があるかという質問だった。その質問に対するパネリストの反応も様々であった。イスラムやキリスト教においては、自殺する人が地獄に落ちるという見方に対して、仏教では、死によってこの苦の世界から解放され浄土に生まれ変わることができるという考え方がある。ここでは、宗教によって「死」に対する考え方が異なっていることを窺うことができた。その関連でパネリストから宗教と道徳についての発言があった。人間の行為が(習慣としても)宗教によって規定されうるので、宗教が人々のモラル(道徳観)をどのように育むことができるのか、ということについて真剣に検討する必要がある。

 最後に、貿易関係の仕事をしている会社員から「外国人に貴方の宗教は何かと聞かれたら迷ってしまうことがあるので、外国人に日本人の宗教についてどのように説明すれば良いでしょうか」という質問があった。パネリスト側の回答としては、日本で近代以降出現した「宗教」という言葉が、日本の多元的包容的な宗教状況を把握するために必ずしも適切な概念であるとはいえない。日本人の宗教観をより正確に表す概念を模索することは今後の課題であるということだった。この質問が求めていた回答はまさに本フォーラムの趣意であった。日本で長く生活し、日本宗教の研究に取り組んでいる外国人研究者たちは、日本の宗教をどう見ているのかという視点から当フォーラムが日本人の宗教観について理解の深めようとしたのである。

このフォーラムの様子は、「仏教タイムズ」第2217号(2006年5月18日)にも掲載されました。その記事と当日の写真は、ここをご覧ください。



第4回共有型成長セミナー in マニラ報告 Posted 2006.5.16 by imanishi
SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ
マックス・マキト

2006年4月18日(火)午後2時から5時まで、マニラ市にあるアジア太平洋大学(UA&P)のPLDTホールにて、UA&P・SGRA日本研究ネットワークの第4回セミナーが開催された。セミナーの主な目的はEADN(東アジア開発ネットワーク)やSGRAの支援を受けて行ったフィリピンの経済特区についての研究報告であった。経済特区管理局(PEZA)の積極的な支援をいただいて、予想を上回る71名の参加者があった。

まず、アジア太平洋大学のヴィリイェガス常任理事より開会挨拶があり、効率性だけではなく所得分配も重視する開発戦略、いわゆる共有型成長が必要であることが強調された。

研究報告は経済学部長のピーター・ユー教授が分析枠組みの説明をし、その後に、私が実証研究報告を行った。この研究は数年前から続けており、今年は対象期間と特区の範囲を拡大したが、以前の研究結果がこの拡大した研究でも立証された。つまり、雇用の安定性、現地調達の割合、日本経済との統合が高ければ高いほど輸出生産性が高まるという結果が得られたのである。要するに、私たちの研究結果が示しているのは、共有型成長を目指すことは経済特区の効率性に貢献するということである。

最後の報告として、トヨタ(フィリピン)産業関係部のジョセプ・ソッブルベガ部長より、トヨタ経済特区におけるクラスタ化の活動についての発表があった。クラスタ化は現地の中小企業の育成を目指す活動であり、私たちの研究で取り上げた現地調達との関係が深い。このような活動にトヨタが力を入れていることは大歓迎である。セミナーの後、ジョセプ氏は、私たちの研究を聞いて初めて彼の活動のマクロ的な意味を把握できたと言ってくれた。今後もお互いに連絡を取り合うことになった。

その後、会場からの意見を聞いた。UA&P・SGRA日本研究ネットワークの将来的な活動として、NGOとしての第三者の視点を持ちながら、企業と政府の間の話し合いの場が提供できればと思う。最後に、今西淳子SGRA代表が、閉会の挨拶の中で、日本とフィリピンの友好50周年記念の活動のひとつとして、このセミナーを開催できたことに対し関係者の皆さんに感謝の意を伝えた。



第22回SGRAフォーラム「戦後和解プロセスの研究」報告 Posted 2006.2.20 by imanishi
第22回SGRAフォーラム
「戦後和解プロセスの研究」

2006年2月10日(金)午後6時30分から9時まで、第22回SGRAフォーラムが東京国際フォーラムにて開催された。SGRA「東アジアの安全保障と世界平和」研究チームが担当した今回のフォーラムには、市民や学生ら48名が参加し、東アジアの平和を願う人々の高い関心を示した。

「戦後和解プロセスの研究」というテーマで、山梨学園大学法学部助教授の小菅信子先生が日本と英国の民間レベルで行われた戦後和解活動について、またSGRA研究員で桜美林大学国際学部助教授の李恩民先生が花岡和解をテーマに講演を行った。二つの主題は、戦後和解の観点から東アジアの平和の道を展望するもので、「歴史清算問題」をめぐって対立している東アジアの和解の可能性を模索したテーマでもある。

SGRA代表の今西さんは、開会挨拶の中でフォーラムの主題を「戦後和解」にした主旨や意義について説明したが、渥美財団の母体ともいえる鹿島建設が訴訟対象となった花岡裁判をフォーラムのテーマとして扱う難しさが感じられた。「八方ふさがりの状況に対して何かできることはないか探りたい」という今西さんの言葉は、今の東アジアの現実を何とか打開しようとする強い思いがうかがえた。「戦後和解」という、人類普遍的な平凡なテーマが、それを願う人々の心に重くのしかかるのは、東アジアにおける相互理解と平和の定着がいかに難しいのかを物語っている。

英国との関係修復を中心に戦後和解のプロセスを紹介した小菅先生の講演では、日本と英国の戦後和解の思想・歴史的背景を踏まえ、その影響や成果など、「和解」をめぐる総合的な考察が行なわれた。民間交流を通じての相互の理解、さらにそのプロセスに関する研究は、国家間の交渉では解決し得ない人々の感情的な対立を解消していく実例を提示した点に大きな意義がある。過去の「敵国」であった日本と英国の和解のように、東アジアの国々も普遍的相互理解の観点からの共有認識が必要であるとした小菅先生の見解は、国家間の相互不信や葛藤が根強い日・中、日・韓の関係に示唆するところが大きい。もちろん、日本と英国との戦後和解のプロセスが、中国や韓国
との関係で同様に適用されるとは言いがたい。この問題については、英国と東アジアは異なる歴史的背景を持っており、より慎重な問題への取り組みが必要であるという旨の指摘を懇親会で小菅先生からいただいた。しかし、日本と英国との和解のプロセスは、政治的交渉による「歴史清算」が限界を露呈している東アジアがその突破口を考究するに当たり、参考に値する十分な価値があるのではなかろうか。その意味で、小菅先生の講演は、東アジアにおける平和構築の可能性を、和解に達した成功例を通じて提示できたといえる。

引き続き、李恩民先生から花岡裁判の和解のプロセスに関する研究報告がされた。日本民間企業の戦時中の責任問題を取り扱った花岡裁判は、中国のみならず、日本との間に同様の問題を抱えている韓国でも関心を集めた。そのため、花岡和解がもつ意義や影響は極めて大きい。強制連行や過酷な労働と弾圧によって多くの犠牲者を出した悲劇的事件の戦後和解は、単に日・中の二国間の問題ではなく、韓国を含む東アジアの「歴史清算」と平和共存の可能性を模索している人々に示唆するものがある。一方で花岡和解については、憎悪と不信を乗り越えて和解に至ったという肯定的な評価とともに、「和解」という結果にたどり着いたことに対する批判的な意見も存在する。
李先生はこの点について、この和解がすべての訴訟当事者を満足させることはできなかったと言及する。しかし、第2次世界大戦中の日本企業の責任をめぐる「歴史清算」の問題が、当面の課題として東アジア社会の平和構築に影を落としていることを鑑みると、花岡和解を捉える意見の相違はあるにせよ、そのプロセスや成果までを看過してはいけない。その点で、李先生の研究は高く評価できる。

フォーラム参加者は、東京国際フォーラムの地下1階にあるレストランで開かれた懇親会に場を移して意見交換を行った。今回のフォーラムは、東アジアが過去の呪縛を解き解していく可能性を提示したことで重要な意義がある。敵対や憎悪に満ちた対決、もしくは自己の主張を一方的に貫徹させようとする解決策は、双方において相当な反発を招きかねない。加害者と被害者という二分的な認識に、人類の普遍的な幸福と共存のための努力が加えられるとき、東アジアの真の平和はもたらされるのである。忘却なき平和を願う多くの参加者がその解決策をともに考えたことは、今回のフォーラムの大きな成果といえる。(文責:金 範洙)

尚、SGRA運営委員のマキトさんが取った写真のアルバムは、
ここからご覧ください。



第21回SGRAフォーラム「日本は外国人をどう受け入れるべきか―留 学 生―」報告 Posted 2005.12.28 by imanishi
第21回SGRAフォーラム
「日本は外国人をどう受け入れるべきか― 留 学 生 ―」

第21回SGRAフォーラム「日本は外国人をどう受け入れるべきか― 留 学 生―」は、2005年11月23日、勤労感謝の日の午後に、東京国際フォーラムで開催された。今回は、SGRA「人的資源と技術移転」研究チームが担当する「日本は外国人をどう受け入れるべきか」についての3回目のフォーラム。第1回は、事実上の移民大国となった日本の現状と研修生の問題、第2回は、外国人児童の不就学問題がテーマであった。今回は、日本の留学生受け入れについて検討することとなった。

日本政府は1983年に日本に留学生を10万人受け入れようという政策を打ち出し、当初1万人に過ぎなかった在日留学生は2004年5月には117,302人に達した。数は順調に伸びたが、受入れ体制の整備が不十分だったために、学問を成就できない留学生も相当数存在し、また犯罪が起きて留学生のイメージが悪くなったり、留学生の対日観が悪くなったり、多くの問題を抱えている。一方、アジアを中心に留学はますます盛んになり、欧米、オセアニア、東アジア諸国では積極的な留学生誘致が繰り広げられている。日本国内では、国立大学は独立行政法人化され、私立大学は少子化による学生数の減少により経営難が激化すると見込まれ、大学は生き残りをかけて改革を進めているが、往々にして国際化もその戦略として取り込まれている。このように混沌とした状況の中、政府は10万人計画以後の積極的な政策を打ち出していない。グローバル化と地域化とナショナリズムがうずめくアジアの一員である日本は、今後どのような理念に基づいてアジアを中心とした各国からの留学生を受け入れるべきなのかは、日本にとってきわめて重要な課題であることはいうまでもない。

今回のフォーラムは、SGRA代表の今西淳子氏の挨拶で始まり、まず、一橋大学留学生センター教授、JAFSA副会長の横田雅弘先生が、「アジア諸国の留学生事情と日本のこれから」と題するゲスト講演を行った。横田先生は、昨年実施したアジア諸国(シンガポール、香港、マレーシア、オーストラリア、ニュージーランド、中国)の留学生政策の調査から、現在のアジア諸国で展開されている戦略性のある留学生政策を比較して報告するとともに、日本の留学生政策はどのような方向に歩むべきかについて問題提起をしていた。なかでは、ヨーロッパ統合によるEU市民形成のためのEU域内留学の報告は、なかなか面白いく、示唆に富んでいる。そして、講演の最後には、グランドデザインの確立や留学生戦略のための専門機関の設立など、きわめて建設的な提言があった。

アジア学生文化協会 教育交流事業部長、SGRA会員白石勝己氏は、「外国人学生等の受入れに関する提言:留学生支援活動の現場から」と題するゲスト講演を行った。白石氏の講演は入国管理に関する問題、留学生の犯罪とその報道に関する問題についてデータを使いながら、これから日本がとりうる方法について考える材料をいろいろ提供してくれた。また、具体的な統計データを並べながら、マスコミにおける外国人犯罪の報道がいかに誇張的であると分析するなど、独特な視点で留学生支援活動を論じていた。現場の実務家らしく、留学生や日本人との交流に実に役に立つ提言を多く挙げられた。

筑波大学大学院人間総合科学研究科助教授の鄭仁豪先生は、「韓国人元留学生は日本での留学をどう評価しているのか−日・欧米帰国元留学者に対する留学効果の比較から−」という研究報告を行った。鄭先生の報告は平成15年12月中央教育審議会による「新たな留学生政策の展開について」の答申にみられた新たな留学生政策の趣旨を意識して、韓国における日本と欧米地域の元留学生を対象にとした留学効果の調査をもとに、両地域における留学の傾向や特徴を分析しながら、日本における韓国人留学生は、日本での留学に、何を求めて、どのような認識を持っているのかを分析していた。日本留学の経験者の7割以上が、再留学希望として英語圏を希望している、などといった調査結果は、非常に興味深かった。

名古屋大学大学院国際開発研究科講師のカンピラパーブ・スネート先生は、「日米留学の実態から日本の留学生受け入れ体制を検証する−タイ人留学経験者の追跡調査を踏まえて−」と題する報告を行った。先生は、2001年9月に行ったタイに帰国した日本留学および米国留学経験者に対する追跡調査をもとに、日本の留学生受け入れ体制を検証した。日本留学経験者よりも、米国留学経験者のほうが昇進が早いなどの内容を聞くと、タイというより、アジアでの普遍的な課題が浮き彫りにされたと感じる報告である。

研究報告を行う3人目はSGRA研究員で應義塾大学政策・メディア研究科博士課程在学中の王 雪萍氏である。王氏の報告・「改革・開放後中国政府派遣した元赴日学部留学生の日本認識」は、1980年から1984年までの間に5回に分けて、日本に留学派遣された379人の中国人学部留学生に対するインタビュー調査などを通して、日本と日本人に対する認識の変化状況を解明しながら、留学生の日本認識の向上という重要なテーマを検討した。

ゲスト講演や研究報告の後、休憩を挟んで、横田雅弘、白石勝己両先生に加えて、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科助教授の黒田一雄先生、朝日新聞社会部大塚晶氏、SGRA研究チーフでキャストコンサルティングの徐向東などが、1時間ほどのパネルディスカッションを行った。進行役のアジア21世紀奨学財団常務理事角田英一氏は、前半の講演を総括して、アジア域内における留学の活発化を踏まえながら、アジアにおける「知の共同体」の形成という重要な問題を提起された。黒田先生は、それに応えるような形で、東アジア共同体を留学交流の理念として掲げるべきだと提言した。黒田先生が提唱した「欧米偏重からアジアへ」、「東アジアエリートの育成」などに対して、大塚晶氏は、ジャーナリストの視点から、人と人のふれあいが、お互いの摩擦と誤解を解消する最も有効な方法であることを論じながら、人の受け入れが、いかに日本にとって重要であることを力説した。さらに、徐向東は、元・留日学生が、日本で起業し上場まで果たした実例を挙げながら、留学生受け入れ政策は、日本の国益に寄与する重要な戦略として、日本がより積極的に取り組むべきだと話した。

今回のフォーラムは、報告者やコメンテータがいつもより人数が多かった。そのため、どの報告者やコメンテータも極めて早いスピードで自分の論点を展開した。しかし、一人一人にして時間が短いとはいえ、これまでのどのフォーラムよりも濃密な内容が報告され、意見交換が行われた。日本への留学を論じることにとどまらず、留学交流が盛んに言及されたことは、経済発展に伴ってアジア全域における人と知識の相互交流の活発化という新時代の到来を、実感させられた。研究者や官僚など、日本の一部の“知的エリート”と話すとき、まだまだ欧米偏重の感を否めない。しかし、最近、ネット上のブログなどを見ても分かるように、日本の若い世代の中では、明らかにアジアに対する意識が向上している。飛躍的な経済発展を遂げるアジアでは、日本の若者にとってチャレンジするチャンスに満ちている。少子高齢化する日本は、アジアとの共生共存を抜きにして更なる発展はない。否応なく、アジアとの人的交流が進み、日本を含むアジアの知の共同体が形成されるのであろう。このような未来が、ますます目に見えるようになりつつあると感じたのは、私だけでなく、今回のフォーラムのすべての参加者であろう。いや、むしろアジアや日本の明るい未来を切に願い、そして信じているすべての人々であろう。(文責:徐向東)

SGRA運営委員のマキトさんが撮った写真のアルバムをご覧ください。



第5回日韓アジア未来フォーラム in ソウル報告 Posted 2005.12.13 by imanishi
第5回日韓アジア未来フォーラム「東アジアにおける韓流と日流:地域協力におけるソフトパワーになりうるか」が韓国高麗大学仁村記念館にて11月4日(金)に開催された。前回のフォーラムのテーマを広げ、これまでの東アジア国際関係史に見られなかった画期的な出来事である韓流と日流の文化経済的・国際的意義について考えるフォーラムであった。日韓アジア未来フォーラムは、SGRAと韓国未来人力研究院が共同で2001年より進めてきている日韓研究者の交流プログラムで、毎年交互に訪問しフォーラムを開催している。

韓国未来人力研究院の院長、高麗大学の李鎮奎(イ・ジンギュ)教授による開会の挨拶に続き、ソウル大学人類学科の全京秀(ジョン・ギョンス)教授が「いわば韓流文化論の可能性と限界」という演題で基調講演を行った。 全教授は韓流文化論の可能性と限界について、文化論は技術−組織−観念の三拍子がうまくかみ合うときに成り立つものであるとしたうえで、韓流文化論においてみられる三拍子間の格差、すなわち文化遅滞(cultural lag)現象は韓流の衰退につながる恐れがあると指摘した。このような認識から韓流と日流をめぐる文化論は窮極的には自分を見出す鏡探しであり、三拍子がうまくかみ合ういい鏡を探すべきであると力説した。

基調講演に引き続き韓国中央大学の孫烈(ソン・ヨル)氏の司会で第一セッション「文化交流現象としての韓流と日流」が始まった。最初の発表者である富山大学の林夏生(はやし・なつお)氏は、日韓文化交流政策の政治経済について発表した。韓流と日流が一般にはまるで「最近になって唐突に」出現した現象のように受け止められているが、実は「そうではない」とし、政策的には規制されながらも、海賊版が大量に流通するなど非公式な側面も含む「文化交流現象」が存在したこと、そしてそれへの対応がせまられたこともまた、近年の急激な変化をもたらす重要な要因のひとつであったと指摘した。

『韓国を消費する日本』 という著書が韓国で注目されている延世大学社会学科博士課程の平田由紀江(ひらた・ゆきえ)さんは「食の韓流」というテーマで発表を行った。韓国側の代表ということで日本人でありながらも流暢な韓国語で発表した。平田さんは日本国内における韓国食文化の形成が在日韓国・朝鮮人の移動土着化によるものであるとすれば、最近の韓国飲食の象徴的な意味の変化は両国間のいろいろな双方向的な交流によるものであると主張した。そして韓国ドラマ「ジャングム」に触発された韓国「伝統」飲食に対する関心などの社会現象を調べ、人的流れおよびメディアの流れと日本国内の韓国飲食との関係を考察し、日本国内の韓国飲食文化に現れている変形されたナショナリズムとその多層的意味について論じた。

「香港のハヤシ」さんである琉球大学法文学部の林泉忠(リム・チュアンティオン)氏は、「哈日」や「韓流」のいずれも、意外に知られていないかもしれないが、中華圏で始まってまた現在も中華圏を中心に、東アジア全体そして東南アジアの一部まで拡大してきている現象であると指摘した。そして「哈日」と「韓流」現象は中華圏のどこから動き始め、如何に中華圏全体に拡大して変遷してきたか、それぞれの特徴と中華圏内外への影響ついて見解を述べた。

第一セッションの3人の発表が終わり、「韓国のハヤシ」さんである全北大学東洋語文学部の林慶澤(イム・ギョンテク)氏と延世大学社会学科の韓準(ハン・ジュン)氏はそれぞれ文化人類学、社会学の観点から理論的なコメントを兼ねた討論を行った。

休憩を挟んで第二セッションでは国民大学の 李元徳氏の司会で「東アジア地域協力における韓流と日流」というテーマについて議論が行われた。ベトナム社会科学院人間研究所のブ・ティ・ミン・チーさんは、ベトナムにおける日本ブーム・韓国ブームについて、日本ブームと韓国ブームは、日韓両国ともに過去にベトナムに与えた悪い印象を解消し、しだいにいい印象をもたらすようになったと指摘した。そしてこうした文化的交流はソフトパワーとなって、物的・人的交流につながる経済的・社会的インパクトを与えてきたと肯定的に捉えた。

NHKエンタープライズの山中宏之(やまなか・ひろゆき)氏は、「東アジアにおけるエンターテインメント相互交流」について、東アジア各国でライブを開催した経験を紹介し、今後の東アジアのエンターテイメント相互交流の展望を探った。また、北京のテレビ局で仕事をしていた時に見た、大金をかけてプロジェクトをする日本対し、草の根から人脈を築いていた韓国のやり方が今の韓流を導いたと語った。

最後の発表者として韓国情報文化振興院の趙k俊(ジョ・ヨンジュン)氏は、「デジタル韓流のブルーオーシャン」について、時の経過によりレッドオーシャン(既存市場)に変貌しているIT産業の熾烈な競争の中で、韓国がどうすればレッドオーシャンでの優位を保ち、ブルーオーシャンを創出できるか、その解決策を提示した。また、次第に立場が縮小しているように思われる韓流との総合的な比較分析を通じ、「デジタル韓流」が韓流の新たな可能性であることを逆説した。

第二セッションの3名による発表が終わり、東京大学の木宮正史氏とグローカル・カルチャー研究所の高煕卓(コウ・ヒタク)氏による討論で第2セッションが幕を閉じた。その後、ディスカッションはフロアーに開放されたが、同時通訳を入れても5時間にも及ぶ長い会議で議論が尽くされたためか、述べ80名にも及ぶ参加者の中からコメントや感想は寄せられなかった。

最後にSGRA代表の今西さんによる閉会の挨拶では、日韓アジア未来フォーラムが内容と形式両面において立派なものに一歩前進を見せたことについてのお祝いの言葉があり、拍手で締め括られた。フォーラムの講演録は、日本語版とハングル版でそれぞれ発行される予定である。尚、今西さんから、次回の日韓アジア未来フォーラムについて、「環境」をテーマに東京か軽井沢で開催しましょうという提案があった。(文責:金雄煕)

SGRA運営委員の足立さんが撮った写真の
アルバムをご覧ください。



第20回SGRAフォーラムin 軽井沢「東アジアの経済統合:雁はまだ飛んでいるか」報告 Posted 2005.7.30 by imanishi
「第20回SGRAフォーラムin 軽井沢」報告

F.マキト
SGRA「日本の独自性」研究チームチーフ
フィリピン・アジア太平洋大学研究助教授

渡り鳥の飛ぶ季節にはまだ早いけれども、「東アジアの経済統合:雁はまだ飛んでいるか」というテーマで、20回目のSGRAフォーラムが、2005年7月23日に、鹿島建設軽井沢研修センター会議室で開催されました。

まず、開催の趣旨説明のなかで、私は、日本で生み出された開発経済学の「雁行形態ダイナミックス」理論を、SGRAの担当研究チームが取り組んでいる研究課題「日本の独自性」に関連する経済学として位置づけました。そして、雁行形態論の理念・実行手段・結果を参考とする日本独自の開発経済学についての共同研究を、フォーラムの参加者に提案しました。

さらに、経済学者赤松要氏が提唱した雁行形態ダイナミックス理論の3つのパターンを簡単に説明しました。第1パターンは基本形態であり、ある産業が輸入→輸入代替(現地生産)→輸出→逆輸入というように発展します。第2パターンは副次形態1であり、ある国の産業の高度化が図れます。第3パターンは副次形態2であり、先発国の産業の一部の産業が後発国へ進出します。

趣旨説明の後半では、名古屋大学の平川均教授(SGRA顧問)が、「今あえて『雁はまだ飛んでいるか』を議論する意義」について語られました。東アジアを囲む環境は劇的な変化を遂げつつありますが、特に次の4要素が強調されました。すなわち、(1)中国を「磁場」とする統合化の進展、(2)金融協力の進展、(3)FTAを通じた経済統合の深化、(4)地域協力から「東アジア共同体」への議論の転換です。環境の変化に応じる体制が不十分という懸念を抱きながらも、雁行形態によるデ・ファクト(事実上)の統合は既に進んでおり、今後、このダイナミックスが継続するのか、ポスト雁行形態か新雁行形態の時代が到来するのか、あるいは到来すべき
なのかを、この変革の時代において議論すべきであると提案されました。

基調講演をお引き受けくださった拓殖大学の渡辺利夫学長は、東アジアのデ・ファクトの経済統合についての興味深い最近の動きを取り上げられました。貿易の面において、日本を含む東アジアの世界経済に占める存在は高まりつつあります。渡辺教授ご自身が命名された「中国のアジア化―”Asianizing” China」でも象徴されるように、東アジアの域内貿易や海外直接投資の依存度が急増しています。EUとNAFTAに匹敵する勢いです。しかし、北東アジアには、政治的な難題があるため、「地域共同体」までの発展の可能性は低いと主張されました。

一方、早稲田大学のトラン・ヴァン・トウ教授は、 22ページにも及ぶフル・ペーパーで、東アジアを意識するベトナムの視点から、雁行形態ダイナミックスを中心に検証されました。東アジア地域では、雁行形態の工業化が続いているが、国の資本・労働などの資源の状況が似てきており、分業の中身が従来と異なってきています。中国経済の台頭にいかに対応するかということが、ベトナムにとって大きな挑戦となっています。そのために、貿易や海外投資の面においても雁行形態ダイナミックスを利用するべきだという分析を発表されました。

上海財経大学の範建亭さん(SGRA研究員)は、雁行形態ダイナミックスの分析手法によって、中国の家電産業を分析しました。その結果は、渡辺教授が指摘された、中国の産業の海外直接投資への高い依存度の具体的な事例として考えることができます。韓国産業研究院(KIET)の白寅秀さん(SGRA研究員)も雁行形態ダイナミックスの手法で、韓国の化学産業をとりあげ、中国や日本と関連させる分析を行いましたが、日本・韓国・中国の三カ国が絡む雁行形態戦略が綺麗に描かれていました。環日本海経済研究所(ERINA)のエンクバヤル・シャグダルさんは、東北アジアの三カ国へのモンゴルの依存度が高まりつつあると指摘しました。特に、1990年から始めた市場経済への平和的移行で、貿易、海外投資、観光においてモンゴルと東北アジアとの経済関係が深まっています。最後に、私が、フィリピンの経済特区に雁行形態ダイナミックスを適用することによって、フィリピン全体に共有型成長を達成するための分析枠組みを説明しました。

後半のパネル・ディスカッションでは、総合研究開発機構(NIRA)の李鋼哲さん(SGRA研究員)が進行役を務め、東アジア経済統合と雁行形態ダイナミックスについて、パネリストから追加意見を伺ったあと、会場からの質問や発言を受け付けました。とくに印象的だったのは、北東アジアにおいて雁行形態型開発があまり知られていないという指摘に対して、トラン教授が「ベトナムでは皆知っている」という堂々とした反応があったことでした。あとでトラン夫人からお聞きしたのは、トラン教授ご自身が雁行形態理論の発信源だったそうです。トラン教授まではとても及ばないが、私も、フィリピンにおいて同じ存在になれればと思うようになりました。パネル・ディスカッションの議論は面白い反面、もう少し整理が必要だという印象も受けました。とてもここで纏められるものではないので、詳細はSGRAレポートに譲りたいと思います。

代わりに、主催者の不手際で当日に実現できなかったことを2点お伝えします。まず、パネル・ディスカッションでトラン教授から2つの鋭いご指摘がありましたが、その2つ目は私に向けたものだったのに、ちゃんと答える時間がありませんでした。トラン教授は、私の「共有型成長」の分析が、「成長」に偏っており、「共有型」の方があまり強調されていないと指摘されました。真に先生のおっしゃる通りです。研究はまだ進行中なので、後日、先生にちゃんとした答えを報告できるように頑張ります。 
 
もう一つ大変残念だったのは、アンケート結果の報告ができなかったことです。食事前に提出していただいたアンケートを食事中に集計して、食後のセッションでお見せする予定でした。SGRAのチームメートのナポレオンさん(ヤマタケ研究所)がプログラムを作って、私と一緒に、夕食をとらずにがんばって集計したのですが、その後の手違いがあって、時間切れでお披露目できませんでした。そこで、この場を借りてご報告したいと思います。

回答者の国別プロフィールは中国(36%)、日本(32%)、韓国(13%)、その他(19%)になりました。雁行形態の役割についての5番目の質問に対する回答は「凄く重要」・「やや重要」が大半でした。実は、アンケートの設計時、この質問に対する答えが前の2、3、4番目の質問と一致(あるいは矛盾)しているかどうかチェックできる仕組みにしました。結果をみると「一致している」という結論になると思います。2番目の質問「日本が発展途上国からの安い物を輸入することの是非」に対する回答は「やや賛成」や「凄く賛成」というのが大半でした。3番目の質問「日本の空洞化の是非」に対する回答も同様でした。4番目の質問「日本の次世代産業への転換の是非」に対する回答は「凄く遅い」や「やや遅い」というのが大半でした。

アンケート集計の詳細は下記URLここをご覧ください。

最後に、軽井沢で休暇中だった王毅駐日中国大使が、フォーラムの途中に立ち寄ってくださり、「日本という雁も、中国という雁も、一緒に飛んでいきましょう」というご挨拶をしてくださるというビッグ・サプライズがあり、参加者全員の大きな励みとなったことを付け加えさせていただきます。

尚、SGRA運営委員の全振煥さん(鹿島建設技術研究所)が撮った写真を集めたアルバムを、ここからご覧いただけます。



第19回SGRAフォーラム「東アジア文化再考」報告 Posted 2005.5.23 by imanishi
第19回SGRAフォーラム報告
「東アジア文化再考:自由と市民社会をキーワードに」

2005年5月17日(火)午後6時半から9時まで、東京国際フォーラムG棟にて、SGRA「地球市民」研究チームが担当する第19回SGRAフォーラム「東アジア文化再考:自由と市民社会をキーワードに」が開催された。SGRA「グローバル化と地球市民」研究チームが担当する5回目のフォーラムである。今回は63名もの参加者が集まり、大盛況なフォーラムとなった。参加者はSGRA会員と非会員がそれぞれ半分ずつという構成であった。

SGRA研究会の今西代表による開会挨拶が行われた後、講師の宮崎法子氏(実践女子大学文学部教授)が「中国山水画の住人達―「隠逸」と「自由」の形」という題でゲスト講演を行った。宮崎氏は中国絵画史に深い造詣のある方で、一つ一つの絵の事例で簡潔でありがなら感性的な形で山水画の歴史を紹介してくれた。いわば4世紀から19世紀まで1500年以上もの山水画の歴史をわずか45分間で紹介したわけで講演方法もかなり洗練された印象を受けた。普通の絵画史の紹介とは違い、氏の講演は、絵画のモチーフを社会的思想的な文脈において解釈したことが特徴である。なかでも「漁夫」、「旅人」などのイメージから「自由」な境遇、「自由」な境界を求める結晶としての山水画を例に、東アジアの「自由」というものを実例で以っていきいきと紹介してくれた。

続いて、東島誠氏(聖学院大学人文学部助教授)が「東アジアにおける市民社会の歴史的可能性」いう題でゲスト講演を行った。東島氏は歴史研究者の視点から、近代のliberty, freedom翻訳語としての「自由」、そして「公共性」という社会学のキー・ワードを念頭に、江戸時代にあった災害事件後のボランティア活動を例に、江戸時代の江戸の災害救済現場という前近代の公共的空間のあり方を紹介した。そして「自由」というキー・ワードとの関連で、中世日本のある禅僧の逡巡を例に、公的秩序にある「公方」との対照にある「江湖」という思想を説明した。二つの例を通して氏は、前近代の「公共性」なるものとそれと関連している「自由」、「江湖」なるものを紹介した。「市民社会」というキーワードをめぐって西洋中心/東アジア伝統中心という二項対立的な考えがあるが、そのような構造から脱出するために、アジアであれ、ヨーロッパであれ、それを特権化しない形でそれぞれを完成形として見ずに新しい社会を目指すこと自体が重要であるということを、氏は講演の冒頭部と結語の部分において繰り返し説明した。

2人のゲスト講演が終わった後、SGRA「グローバル化と地球市民」研究チームのチーフである高煕卓氏(韓国グローカル文化研究所首席研究員)が進行役を務め、パネルディスカッションが行われた。時間があまり残っていないため、4名しか質疑できなかったが、講演者が非常に上手く纏めるような形で答えてくれた。「意なお尽くさず」のためか、フォーラム終了後に沢山の参加者が地下一階の懇親会にも参加し、ディスカッションの場をレストランに移したような感じであった。

二つの講演が、「自由」「東アジア」「前近代」などのキーワードで、お互いに高い関連性があったことが印象的であった。この講演会が、現在一つのネーション内部にだけ「自由」、「民主」、「人権」が認められ、それ以外の範囲の人々に対しては普遍的であるはずの「自由」、「民主」、「人権」そのものが戦争まで許容するという世界的な背景で行われたことも改めて注意していただきたい。今はこのような重い課題を東アジアの歴史の深部から考える機会かもしれない。ここからも「地球市民」なる理念を考えることが、多少理想的な面があるとはいえ、如何に重要な意味を持つか垣間見られよう。今日はなにはともあれ、63名もの方々が参加してくれたことで司会者・進行役のわれわれが多大に励まされた。今後のフォーラムもこのような新しい「江湖」でありつければと願っているばかりである。
(文責:林少陽)

当日、SGRA運営委員のマキトさんと全振煥さんが撮った写真を集めたアルバムをご覧ください

 
SGRAレポートの紹介
 


レポート第43号 「鹿島守之助とパン・アジア主義」 Posted 2008.4.11 by imanishi
レポート第43号


渥美奨学生の集い講演録(2008年3月1日発行)
平川 均 「鹿島守之助とパン・アジア主義」

○講演要旨

鹿島守之助博士は、今日、鹿島建設元社長として昭和期を代表する卓越した実業家であると同時に、政治家、外交史研究者でもあった人物として知られている。日本の外交研究とそれに関する活動にも多大な貢献を果した。しかし、彼が1920年代後半以降、生涯を通じて、独特なアジア主義者として「アジア連盟」あるいは「アジア共同体」の理想を追求した人物であったことを知る人は少ない。彼が73年に、かつての生家・永富家の一角に「わが最大の希願は、いつの日にか パンアジアの実現を見ることである」と刻んだ碑を建立していたことを知れば、意外に思う人がほとんどであろう。実際、彼の国際政治や外交に関する膨大な著作や政治活動の軌跡を辿るならば、彼は確かに「汎(ハン)アジア」「パン・アジア」を悲願としており、大戦後の多彩な社会活動も彼の思想と深く関っている。
彼のアジア主義はどのような思想であり、その思想に駆り立てたものは何か、彼の思想が「大東亜共栄圏」によって象徴される日本のアジア侵略の試練とどう関り、その試練をどう潜り抜けてきたか、彼の構想が戦後むしろ省みられないできたのは何故かなどである。
東アジア共同体への関心が21世紀に入って急速に高まっている現在、鹿島博士のパン・アジア論に改めて光を当てることによって、今日の東アジア共同体に資する何かを発見できるのではないか。報告ではほぼ時代に沿って鹿島のパン・アジア論の生成と変遷をみた後、その思想と論理の特徴を確認したい。そのことによって上述の疑問の幾つかに回答を試みたい。



レポート第41号「いのちの尊厳と宗教の役割」 Posted 2008.4.11 by imanishi
レポート第41号

第28回SGRAフォーラム in 軽井沢講演録(2008年3月15日発行)

○もくじ

【基調講演】島薗 進(東京大学文学部宗教学宗教史学科教授)
「いのちの尊厳と日本の宗教文化」

【発表1】秋葉 悦子(富山大学経営法学科教授)
「カトリック<人格主義>生命倫理学の日本における受容可能性」

【発表2】井上ウィマラ(高野山大学文学部スピリチュアルケア学科助教授)
「悲しむ力と育む力:本当の自分に出会える環境づくり」

【発表3】大谷いづみ(立命館大学産業社会学部教授)
「『尊厳ある死』という思想の生成と『いのちの教育』」

【パネルディスカッション】進行:ランジャナ・ムコパディヤーヤ
(名古屋市立大学大学院人間文化研究科助教授、SGRA研究員)



レポート第42号「黄土高原緑化協力の15年」 Posted 2008.2.26 by imanishi
SGRAレポート42号(日本語版)

SGRAレポート42号(中国語版)

講演録:高見邦雄(緑の地球ネットワーク事務局長)
「黄土高原緑化協力の15年:無理解と失敗から相互理解と信頼へ」
2008年1月30日発行

緑の地球ネットワークは1992年以来、山西省大同市の農村で緑化協力を継続している。大同市は北京の西300kmほどのところにあり、北京の水源、風砂の吹き出し口でもある。そこで深刻な沙漠化と水危機が進行している。「ゼロからの出発」とよくいうが、歴史問題をかかえた大同ではマイナスからのスタートだった。初期は失敗つづきだったが、その後、日本側の専門家や中国のベテラン技術者の参加をえて、だんだんと軌道に乗ってきた。協力の双方も失敗と苦労を通じ、お互いを理解し、信頼しあうようになってきた。いまでは「国際協力の貴重な成功例」とまで評価されるようになっている。その経験と教訓を話したい。



レポート第39号「東アジアにおける日本思想史」 Posted 2008.2.26 by imanishi
SGRAレポート第39号

講演録「東アジアにおける日本思想史:私たちの出会いと将来」
2007年11月30日発行

第26回SGRAフォーラム

【基調講演】黒住 真(東京大学大学院総合文化研究科教授)
「日本思想史の『空白』を越えて」

【発表1】韓 東育(東北師範大学歴史文化学院院長)
「東アジアにおける絡み合う思想史とその発見」

【発表2】趙 寛子(中部大学人文学部准教授)
「『もののあわれ』を通じてみた『朝鮮』」

【発表3】林 少陽(東京大学大学院総合文化研究科特任助教授、SGRA研究員)
「越境の意味:私と日本思想史との出会いを手がかりに」

【パネルディスカッション】
進行:孫 軍悦(東京大学大学院総合文化研究科博士課程、SGRA研究員)
パネリスト:上記講演者



レポート第38号「親日・反日・克日:多様化する韓国の対日観」 Posted 2007.9.28 by imanishi
SGRAレポート第38号

講演録「親日・反日・克日:多様化する韓国の対日観」
2007年8月31日発行

第6回日韓アジア未来フォーラム in 葉山

総合司会: 金 雄熙(仁荷大学副教授、SGRA研究員)

【開会の辞】今西淳子(SGRA代表、渥美国際交流奨学財団常務理事)

【挨拶】李 鎮奎(未来人力研究院院長、高麗大学経営学部教授)

【発表1】金 範洙 キン・ボンス(東京学芸大学講師、SGRA研究員)
「近代における韓国人の日本留学と人的ネットワークの形成」

【発表2】趙 寛子 チョウ・クァンジャ(中部大学人文学部助教授)
「北朝鮮の戦時体制と韓国の歴史認識/論争」

【発表3】玄 大松 ヒョン・デソン(東京大学東洋文化研究所助教授)
「独島/竹島と反日」

【発表4】小針 進 こはり・すすむ(静岡県立大学国際関係学部助教授)
「韓流と日韓関係」

【フリーディスカッション】
進行:南 基正(国民大学助教授、SGRA研究員)
フォーラム参加者全員(未来財団日本研究チーム、SGRA研究員、ゲスト等、約25名)



レポート第37号 「若者の未来と日本語」 Posted 2007.6.29 by imanishi
SGRAレポート第37号


講演録「若者の未来と日本語」
2007年6月10日発行

SGRAフォーラム in 北京
パネルディスカッション「若者の未来と日本語」

総合司会:孫 建 軍(北京大学日本言語文化学部助教授、SGRA研究員)

【パネルディスカッション】

進行:朴 貞 姫(北京語言大学 助教授、SGRA研究員)

■「ビジネス日本語とは」
池崎美代子(JRP専務理事、SGRA会員)

■「グローバル企業が求める人材」
武田春仁(富士通(中国)有限公司副董事長(兼)総経理)

■「日本文化と通訳の仕事」
張 潤北(三井化学北京事務所所長代理)

■「『日本語』の壁を超える」
徐 向東(キャストコンサルティング代表取締役、SGRA研究チーフ)



レポート第36号 「ITは教育を強化できるのか」 Posted 2007.6.29 by imanishi
SGRAレポート第36号

第25回SGRAフォーラム講演録「ITが教育を強化できるのか」
2007年4月20日発行

-----------もくじ------------

【基調講演】
「途上国へのE-learning技術支援とオープンソースソフトウェア教育強化〜南太平洋大学におけるJICAプロジェクト活動を中心に〜」
高橋 冨士信(横浜国立大学大学院工学研究院教授)

【研究発表1】
「伝え合うことで学ぶ『交流学習』と支援のあり方」
藤谷 哲(目白大学経営学部経営学科専任講師)

【研究発表2】
「Mobile-Learningが教育を変える?!」
楊 接期(台湾国立中央大学情報工学部助教授、SGRA研究員)

【パネルディスカッション】
進行:江蘇蘇(東芝セミコンダクター社、SGRA研究員)
パネリスト:上記講演者



第5回共有型成長セミナー in マニラ 「マイクロ・クレジットと観光産業クラスター」 Posted 2007.3.7 by imanishi
UA&P・SGRA日本研究ネットワーク主催

第5回共有型成長セミナー
「マイクロ・クレジットと観光産業クラスター」

日時:2007年4月16日(月)午後2時〜4:30
会場:フィリピン、マニラ市
   アジア太平洋大学(UA&P)

■セミナーの内容
このセミナーは「マイクロ・クレジットと観光産業クラスター」というテーマを紹介し、このテーマについての研究を開始させることを目的とする。当セミナーは、UA&PとSGRAが共催する、フィリピンの経済特区に関する5回めのセミナーである。この共同研究の基本的な目標は、フィリピンの経済特区開発戦略を通して、日本が達成した「共有型成長」を、いかにフィリピンでも実現できるかを探求することである。製造業の経済特区に関する研究はほぼ終了し、IT特区に関する共同研究は始まったばかりである。当セミナーでは、第3の課題として観光産業特区に関する研究の土台を築くことが期待されている。尚、当セミナーは英語で行われ、通訳はつかない。

■プログラム
1. フィリピン経済特区と観光の概要
by Dr. Max Maquito
(Visiting Researcher, Sekiguchi GlobalResearch Association)
2. 観光と地域経済の展望
by Dr. Peter Lee U
(Dean, School of Economics, UA&P)
3. ローカル・コミュニティーに活気を与えるマイクロ・クレジットの役割
by Prof. Bien Nito
(Micro Credit Industry Analyst, School of Economics, UA&P)
4. 観光産業クラスターの観点からみるマイクロ・ファイナンス
by Prof. Stan Padojinog
(Toursim Industry Analyst, School of Economics, UA&P)
5. 質疑応答



レポート第35号 「ごみ処理と国境を越える資源循環」 Posted 2007.3.6 by imanishi
SGRAレポート第35号


第24回フォーラム講演録「ごみ処理と国境を越える資源循環:私が分別したゴミはどこへ行くの?」2007年2月10日発行

------- もくじ ---------------

【講演1】
「廃棄資源の国際間移動の現状と課題:アジアを中心として」
 鈴木 進一(潟Gックス都市研究所 取締役)

【講演2】
「EUの再生資源とリサイクル:ドイツを中心として」
 間宮 尚(鹿島建設葛Z術研究所上席研究員)

【講演3】
「アジアにおける家電リサイクル活動に関する調査報告」
 李 海峰(北九州市立大学、SGRA研究員)

【講演4】
「廃棄物問題と都市の貧困:マニラ貧困層のコミュニティ資源の活用」
 中西 徹(東京大学総合文化研究科教授)

【パネルディスカッション】
 進行:高偉俊(北九州市立大学助教授、SGRA研究チーフ)
 パネリスト:
  鈴木 進一(潟Gックス都市研究所 取締役)
  間宮 尚(鹿島建設葛Z術研究所上席研究員)
  李 海峰(北九州市立大学、SGRA研究員)
  中西 徹(東京大学総合文化研究科教授)
  外岡 豊(埼玉大学経済学部社会環境設計学科教授)



レポート第34号「日本人と宗教:宗教って何なの?」 Posted 2006.11.17 by imanishi
SGRAレポート第34号
第23回フォーラム講演録「日本人と宗教:宗教って何なの?」、2006年11月10日発行

---もくじ-----------------

【基調講演】「日本人にとっての『宗教』と『宗教のようなもの』」島薗 進(しまぞの・すすむ)東京大学教授(宗教学専攻)

【パネリスト自己紹介】「日本と宗教と私」

○日本と神道
ノルマン・ヘィヴンズ (國學院大學神道文化学部助教授)

○日本人と仏教
ランジャナ・ムコパディヤーヤ
(名古屋市立大学大学院人間文化研究科助教授、SGRA研究員)

○日本人とキリスト教
ミラ・ゾンターク (富坂キリスト教センター研究主事、SGRA研究員)

○日本人とイスラーム教
セリム・ユジェル・ギュレチ (イスラム文化センター事務総長)

【パネルディスカッション】「日本人と宗教」



レポート第33号「戦後和解プロセスの研究」 Posted 2006.11.17 by imanishi
SGRAレポート第33号
第22回フォーラム講演録「戦後和解プロセスの研究」、2006年7月10日発行

---もくじ-----------------

【講演1】「戦後和解:英国との関係修復を中心に」小菅信子(こすげ・のぶこ)山梨学院大学法学部教授

【講演2】「花岡和解研究序説」李 恩民(り・えんみん)桜美林大学国際学部助教授、SGRA研究員

【フロアーとの質疑応答】



レポート第32号「日本は外国人をどう受け入れるべきか:留学生」 Posted 2006.6.3 by imanishi
SGRAレポート第32号
第21回フォーラム講演録「日本は外国人をどう受け入れるべきか:留学生」横田雅弘、白石勝己、鄭仁豪、K.スネート、王雪萍、黒田一雄、大塚 晶、徐 向東、2006年4月10日発行

---もくじ-----------------

【ゲスト講演1】「アジア諸国の留学生事情と日本のこれから」横田雅弘(よこた・まさひろ)一橋大学留学生センター教授、JAFSA副会長

【ゲスト講演2】「外国人学生等の受入れに関する提言:留学生支援活動の現場から」白石勝己(しらいし・かつみ)アジア学生文化協会、SGRA会員

【研究報告1】「韓国人元留学生は日本での留学をどう評価しているか:日・欧米帰国元留学生に対する留学効果の比較から」鄭 仁豪(チョン・インホ)筑波大学大学院人間総合科学研究科助教授

【研究報告2】「日米留学の実態から日本の留学生受け入れ態勢を検証する:タイ人留学研究者の追跡調査を踏まえて」カンピラパーブ・スネート 名古屋大学大学院国際開発研究科講師

【研究報告3】「改革・開放後中国政府派遣の元赴日学部留学生の日本認識」王 雪萍(ワン・シュエピン)慶応義塾大学政策メディア研究科博士課程

【パネルディスカッション】
進行:角田英一(アジア21世紀奨学財団常務理事、SGRA顧問)
横田雅弘(一橋大学留学生センター教授、JAFSA副会長)
白石勝己(アジア学生文化協会、SGRA会員)
黒田一雄(早稲田大学大学院アジア太平洋研究科助教授)
大塚 晶(朝日新聞社会部)
徐 向東(キャストコンサルティング代表取締役、SGRA研究チーフ)



レポート第29号「韓流・日流―東アジア地域協力におけるソフトパワー―」李 鎮奎、林 夏生、金 智龍、道上尚史、木宮正史、李 元徳 Posted 2005.11.30 by imanishi
SGRAレポート第29号
第18回フォーラム講演録「韓流・日流―東アジア地域協力におけるソフトパワー―」李 鎮奎、林 夏生、金 智龍、道上尚史、木宮正史、李 元徳
日本語版 2005年5月20日

---もくじ-----------------

【ゲスト講演】「韓流の虚と実」李 鎮奎(イ・ジンギュ)未来人力研究院院長、高麗大学経営学部教授、SGRA顧問

【主題発表1】「日韓文化交流政策の政治経済学」林 夏生(はやし・なつお)富山大学人文学部国際文化学科助教授

【研究報告2】「冬ソナで友だちになれるのか」金 智龍(キム・ジリョン)文化評論家

【パネルディスカッション】
進行:金 雄熙(キム・ウンヒ)仁荷大学助教授、SGRA研究員
パネリスト:講演者3名に加えて
   道上尚史(みちがみ・ひさし)内閣府参事官(元在韓国日本大使館参事官)
   木宮正史(きみや・ただし)東京大学大学院総合文化研究科助教授
   李 元徳(イ・ウォンドク)国民大学副教授 



レポート第28号「日本は外国人をどう受け入れるべきか―地球市民の義務教育―」宮島 喬、ヤマグチ・アナ・エリーザ、朴 校煕、小林宏美 Posted 2005.11.30 by imanishi
SGRAレポート第28号
第17回フォーラム講演録「日本は外国人をどう受け入れるべきか―地球市民の義務教育―」宮島 喬、ヤマグチ・アナ・エリーザ、朴 校煕、小林宏美
日本語版 2005年7月30日

---もくじ-----------------

【ゲスト講演】「学校に行けない子どもたち:外国人児童生徒の不就学問題」宮島 喬(立教大学社会学部教授)

【研究報告1】「在日ブラジル人青少年の労働者家族が置かれている状況と問題点:集住地域と分散地域の比較研究」ヤマグチ・アナ・エリーザ(一橋大学社会学研究科博士課程、SGRA研究員)

【研究報告2】「在日朝鮮初級学校の『国語』教育に関する考察:国民作りの教育から民族的アイデンティティ自覚の教育へ」朴 校煕(東京学芸大学連合大学院博士課程)

【研究報告3】「カリフォルニア州における二言語教育の現状と課題:ロサンゼルスの3つの小学校の事例から」小林宏美 (慶應義塾大学大学院法学研究科、静岡文化芸術大学非常勤講師)

【パネルディスカッション】進行:角田英一(アジア21世紀奨学財団常務理事、SGRA顧問)



レポート第27号「東アジア軍事同盟の過去・現在・未来」竹田いさみ、R.エルドリッヂ、朴 栄濬、渡辺 剛、伊藤裕子 Posted 2005.11.30 by imanishi
SGRAレポート第27号
第16回フォーラム講演録「東アジア軍事同盟の過去・現在・未来」
竹田いさみ、R.エルドリッヂ、朴 栄濬、渡辺 剛、伊藤裕子
日本語版 2005年7月30日

---もくじ-----------------

【基調講演】「対テロ戦争にみる安全保障の新展開」竹田いさみ(獨協大学外国語学部教授)

【研究報告1】「日米関係における『日米同盟』―過去、現在、今後」ロバート・エルドリッヂ(大阪大学大学院国際公共政策研究科助教授)

【研究報告2】「ポスト冷戦期における米韓同盟の持続と変化」朴 栄濬(韓国国防大学校安全保障大学院助教授、SGRA研究員)

【研究報告3】「台湾内政の変動と台米同盟」渡辺 剛(杏林大学総合政策学部専任講師)

【研究報告4】「米比同盟と冷戦・ナショナリズム・対テロ戦争」伊藤裕子(亜細亜大学国際関係学科助教授)

【パネルディスカッション】進行:南 基正(東北大学法学部教授、SGRA研究員)



レポート第26号「この夏、東京の電気は大丈夫?」中上英俊、高偉俊 Posted 2005.11.30 by imanishi
SGRAレポート第26号
第15回フォーラム講演録「この夏、東京の電気は大丈夫?」
中上英俊、高偉俊
日本語版 2005年1月24日

---もくじ-----------------

【ゲスト講演】「この夏、東京の電気は大丈夫?」中上英俊(住環境計画研究所長)

【研究報告】「この夏、上海の電気は大丈夫?」高 偉俊(北九州市立大学国際環境工学部助教授、SGRA研究チーフ)

【パネルディスカッション】進行:李 海峰(建築研究所客員研究員、SGRA運営委員)



レポート第25号「国境を越えるE-learning」斎藤信男、福田収一、渡辺吉鎔、マキト、金雄煕 Posted 2005.11.30 by imanishi
SGRAレポート第25号
第14回フォーラム講演録「国境を越えるE-Learning」
斎藤信男、福田収一、渡辺吉鎔、F.マキト、金雄熙
日本語版 2005年3月31日発行

---もくじ-----------------

【基調講演】「Asia E-Learning Networkと大学の国際戦略」斎藤信男(慶応義塾大学常任理事)

【ゲスト講演1】「ネットワークを介したGlobal Project Based Learning―都立科学技術大学とスタンフォード大学の協調授業を事例として―」福田収一(都立科学技術大学工学部長、教授、SGRA会員)

【ゲスト講演2】「日中韓3大学リアルタイム共同授業の可能性と課題―慶応・復旦・遠世大学の国際化戦略とオンライン共同授業―」渡辺吉鎔(慶応大学総合政策学部教授)

【研究報告1】「オンライン授業の可能性と課題〜私の場合〜−フィリピンアジア太平洋大学(UAP)−名古屋大学、及びテンプル大学ジャパン(TUJ)でのオンライン授業を事例として−」F.マキト(フィリピンアジア太平洋大学研究助教授、SGRA研究員)

【研究報告2】「韓国の大学における国際的E-Learningの現状と課題」金雄煕(韓国仁荷大学校国際通商学部助教授・SGRA研究員)

【パネルディスカッション】
進行:王溪 Wang Xi(東京大学新領域創成科学研究科研究助手・SGRA研究員)
パネラー:斎藤信男、福田収一、渡辺吉鎔、F.マキト、金雄熙



レポート第24号「1945年のモンゴル人民共和国の中国に対する援助―その評価の歴史―」投稿レポート フスレ Posted 2005.11.30 by imanishi
SGRAレポート第24号「1945年のモンゴル人民共和国の中国に対する援助―その評価の歴史―」
フスレ(東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程・昭和女子大学非常勤講師)
日本語版 2004年10月25日発行

---はじめに-----------------

 20世紀、モンゴル国は2回にわたって大規模に軍隊を派遣して内モンゴルに進出した。第1回目は1913年 、第2回目は1945年のことである。ソ連が日本に宣戦を布告した翌日の8月10日、モンゴル人民共和国も日本に宣戦布告したことを発表し、チョイバルサン元帥がモンゴル軍を率いてソ連軍と一緒に中国に進入した。その間、1920年代、30年代の初期にもモンゴル人民共和国は内モンゴル、ひいては中国の革命を援助したことがある。内モンゴル人民革命党はモンゴル人民革命党の援助のもとで設立され、しかも終始同党の援助を受けていた。内モンゴル人民革命党は数度にわたって学生や幹部をモンゴル人民革命党中央党校へ留学させた。同党の執行委員会は1927年からウランバートルに移転した。同時に、コミンテルンとソ連の了解のもとで、モンゴル人民共和国は政治・経済・軍事面から馮玉祥の国民軍を援助し、ウランバートルは中国共産党、内モンゴル人民革命党とコミンテルン、ソ連共産党の中継地の一つとなった。
 1920年代のモンゴル人民共和国の内モンゴルに対する援助やその性格などについては、二木博史氏、郝維民氏、ザヤータイ氏、及び拙稿などがすでに論述したことがあるので、ここでは繰り返さない。本稿ではモンゴル国、中国共産党・国民党などの史料を利用し、1945年のモンゴル人民共和国の内モンゴルへの出兵に焦点をあて、モンゴル国、中国共産党・国民党、そして内モンゴルの学者がどのようにこの出兵をみてきたのか、その評価の歴史をさぐってみたい。この研究は1945年の東アジアの歴史の一側面の理解にとどまらず、世界で民主化が進む中、中国が国家統合を強調し、「中華民族多元一体論」をうたっている今日、どのように歴史をみるのか、どのように国と国の関係、民族問題を認識するのかを考える上でも有益であると思われる。



レポート第23号「日本はどう外国人を受け入れるべきか」宮島喬、イコ・プラムディオノ Posted 2005.11.30 by imanishi
SGRAレポート第23号
第13回フォーラム講演録「日本はどう外国人を受け入れるべきか」
宮島 喬、イコ・プラムディオノ
日本語版2004.3.

---もくじ-----------------

【ゲスト講演】「移民国日本へ?ヨーロッパとの比較の中で考える」宮島 喬(立教大学社会学部教授)

【活動報告】「研修生制度の現状と問題点ーインドネシア研修生を事例として」イコ・プラムディオノ(SGRA研究員・東京大学工学部博士課程)

【講演者と参加者による自由討論】進行:角田英一(アジア21世紀奨学財団常務理事)



レポート第22号「民族紛争:どうして起こるのか、どう解決するか」明石康 Posted 2005.11.30 by imanishi
SGRAレポート第22号
渥美奨学生の集い講演録「民族紛争:どうして起こるのか、どう解決するか」
明石 康(スリランカ問題担当日本政府代表・日本紛争予防センター会長)

---講演報告--------------

2003年11月11日(火)午後6時より、渥美財団評議員で日本紛争予防センター会長の明石康氏をお迎えして「渥美奨学生の集い」が開催されました。明石氏は、今後国際協調のために留学生の役割がますます大切になることを提起された後、元国連事務次長時代にカンボジアと旧ユーゴスラビアで地域紛争の平和調停を務め、現在は日本政府代表としてスリランカ調停にあたられているご自身の体験に基づき「民族紛争―どうして起こるか、どう解決するか」というお話をしてくださいました。「民族」とは主観的なものである。カンボジア、旧ユーゴスラビア、ソマリア、ルワンダなどの事例から原因はさまざまであるが、貧しいことだけでは紛争は起こらず、格差がある場合に問題が起こる。解決へ向ける方法もたくさんあり、スリランカでは経験豊富なノルウェイの専門家と一緒に、いろいろなことを試してみている。国連は当該国の協力がある場合に効果的な問題解決ができる。そして、現在は、紛争が起きる前に対処するためにODAが使えるようにしようとしていること等を教えていただきました。また、今後の懸念としてメディアをとりあげ「正しく報道されるのは2割くらい」と指摘されました。その後の質疑応答では、紛争の原因としては経済格差と同時にいじめや恨みも考えなければならないこと、国連の地位をあげるために安全保障理事会の改革が検討されていること、ODAを各国政府に与えるとますます格差が増すので現
在はNGOへの支援が進んでいることなど、丁寧にお答えいただきました。

(文責:今西)

 
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第7回UA&P/SGRA共有型成長セミナー in マニラご案内 Posted 2008.4.16 by imanishi
第7回UA&P/SGRA共有型成長セミナー in マニラご案内

テーマ:「フィリピンの自動車産業を通して共有型成長のロードマップを考える」
日 時:2008年4月30日(水)午後1時半から5時まで
場 所:マニラのフィリピンのアジア太平洋大学にて
言 語:英語

■セミナーの概要
2007年12月7日のセミナーに引き続き、このセミナーでは共有型成長に対するフィリピンの自動車産業の潜在力を発揮させることを目的とする進行中の研究の最新結果を報告する。現在、生産・販売・投資における実績、または貿易に関する取組について、フィリピン自動車産業とその他の東アジア諸国と比較している。このような比較分析は共有型成長の原理をテコに自動車産業の国際競争力を高めるために、フィリピン自動車産業の開発ロードマップの設計の土台になる。このセミナーでも、産業界(組み立て企業+部品生産者)からのフィードバックやより広範な支援を得ることも目的としている。

■プログラム
より詳しい英語版のプログラムは下記URLよりご覧いただけます。
http://www.aisf.or.jp/sgra/schedule/ManilaSeminar7.pdf

13:30 受付
13:50 今西淳子SGRA代表による開会挨拶
14:00 研究報告1「東アジアとの実績比較」
    平川均教授(名古屋大学経済学研究科教授)
14:30 研究報告2「自動車産業の開発プログラムの比較分析」
    ピター・リー・ユ博士(アジア太平洋大学経済学科学長)
15:00 休憩
15:15 研究報告3「政策提言」
    フェルディナンド・C・マキト博士(SGRA研究員)
15:45 産業界の代表者とのパネル・ディスカッション
    又は質疑応答(進行:マキト)



第32回SGRAフォーラム in 軽井沢「オリンピックと東アジアの平和繁栄」 Posted 2008.3.21 by imanishi
■日 時: 2008年7月20日(日)14時〜18時、19時半〜21時

■会 場: 鹿島建設軽井沢研修センター会議室

■フォーラムの趣旨: 

国家と国家の間で平和と安定が維持されるためには何が必要となるのか。この問題に関して国際政治学の世界では、様々な研究がなされてきた。その一つとして、経済や文化、あるいはスポーツの交流が国家間関係の安定と地域秩序の平和に重要な機能を果たすという理論がある。いわゆる機能主義的な平和理論である。その理論は冷戦時代に米ソ関係、米中関係、そして東西ドイツ間の関係に適用され一定の成果をあげることができた。実際にこれらの関係においては、文化やスポーツの活発な交流が体制の安定に寄与したといわれている。激しい戦争なしに冷戦構造を溶かすことができたのは、両陣営の間で推進されてきた文化やスポーツ交流の影響もあったのではないだろうか。

東北アジアは、歴史や領土問題をめぐる葛藤などによって、世界的にも不安定な要因が多数残されている地域の一つとして指摘されてきた。韓半島での南北対立は依然変わらない状況である。日本と中国の間でも、歴史問題をはじめ、ガス田開発競争など葛藤の火種が伏されている。しかしこの地域でも、文化とスポーツの交流は互いの誤解と葛藤を溶かす鍵になるのではないだろうか。

注目すべき点は、1964年には日本が、1988年には韓国がオリンピックを開催した経験を持ち、今年は北京オリンピックを控え、東北アジアの主要な国家が世界的なスポーツ交流の場を提供し、また提供しようとする事実である。ほぼ20年ごとにこの地域で開かれる世界のスポーツ祭典・オリンピックは、果たしてこの地域に何をもたらしたのか。そして今、開かれようとする北京オリンピックは何をめざすべきなのか。その目標はいかに達成できるのか。
 <東アジアの安全保障と世界平和>研究チームでは、日中韓の研究者を招いて、上記のような問題を共に議論していきたい。この地域で開かれたオリンピックが、各国家の発展のみならず、地域秩序の変化に及ぼした影響を検討し、文化やスポーツ交流のあるべき姿を探る機会にしたい。

■プログラム

【基調講演】清水 諭(筑波大学体育専門学群教授)
「オリンピック・スタディーズと東アジア」

【講 演1】池田慎太郎(広島市立大学国際学部准教授)
「日本からみたオリンピック−東京オリンピックと1960年代の東アジア」

【講 演2】朴 榮濬(韓国国防大学校副教授、 SGRA研究員)
「韓国からみたオリンピック−ソウル・オリンピックと冷戦」

【講 演3】劉 傑(早稲田大学社会科学総合学術院教授)
「中国からみるオリンピック−北京オリンピックと東北アジアの未来

【パネルディスカッション】進行:南基正
(韓国国民大学国際学部副教授、SGRA研究員)



第28回SGRAフォーラム in 軽井沢 「命の尊厳と宗教の役割」 Posted 2007.3.7 by imanishi
第28回SGRAフォーラム in 軽井沢
「命の尊厳と宗教の役割」

日時:2007年7月21日(土)14時〜18時、19時半〜21時
会場:鹿島建設軽井沢研修センター会議室
主催:関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)
協賛:(財)鹿島学術振興財団(財)渥美国際交流奨学財団

■フォーラムの趣旨:
先端生命科学にともない命にかかわる様々な技術が出現しているが、それがこれからの人間の生活にどのような影響を与えるか未だ不明です。このような状況において、宗教はどのような役割を果たせるでしょうか。宗教は生命倫理的な規範を築くための理念を提供することができるでしょうか。このフォーラムでは、世界各国の様々な事例を通じてこの問題を考えてみたいと思います。

■プログラム:  
詳細は:プログラム をご覧ください。

【基調講演】島薗 進(東京大学文学部宗教学宗教史学科教授)
【講 演1】秋葉 悦子(富山大学経営法学科教授)
【講 演2】井上ウィマラ
     (高野山大学文学部スピリチュアルケア学科助教授)
【講 演3】大谷いづみ
     (立命館大学産業社会学部教授)
【パネルディスカッション】 
  進行:ランジャナ・ムコパディヤーヤ
    (名古屋市立大学大学院人間文化研究科助教授、SGRA研究員)



第26回SGRAフォーラム「東アジアにおける日本思想史〜私たちの出会いと将来〜」 Posted 2006.12.5 by imanishi
下記の通りSGRAフォーラムを開催しますのでふるってご参加ください。参加ご希望の方は@氏名A所属B連絡先C懇親会の出欠をSGRA事務局
(sgra.office@aisf.or.jp)へご連絡ください。SGRAフォーラムはどなたにも参加していただけますので、ご宣伝いただけますようお願いいたします。

■第26回SGRAフォーラム
「東アジアにおける日本思想史〜私たちの出会いと将来〜」

○日時:2007年2月17日(土)午後2時30分〜5時30分 その後懇親会

○会場:東京国際フォーラム ガラス棟会議室510号室
http://www.t-i-forum.co.jp/function/map/index.html

○会費: フォーラムは無料、懇親会は会員*1000円、非会員3000円
(*年会費を納入していただいている正会員と学生会員)

○フォーラムの趣旨
SGRA「グローバル化と地球市民」研究チームが担当する6回めのフォーラムです。日本(人)思想は、現在、東アジアとの関係において、重要な局面に出会っていると思います。ただ、そのあたりは「表の政治」等では見えません。もっとそれをよく捉えるならば、そこから、21世紀の思想世界が見えるだろうとも思います。それは現在、大きな形で起こっている、思想・宗教の国際化・グローバル化の問題でもあるからです。そこで、この問題を、日本からのみならず、中国と韓国からの視点を加えながら、過去から学び、現在を分析し、将来を考えてみたいと思います。中国・韓国のことを研究しながら日本のことに関心をもつ日本人学生、日本のことを研究しながら自国のことに関心をもつ中・韓の留学生が増えて来ています。そういう人たちから、何かよいものが出て来ることを期待しています。

プログラム(発表要旨と講師略歴は下記URLからご覧ください)

【基調講演】 黒住 真(東京大学大学院総合文化研究科教授)
「日本思想史の『空白』を越えて」

【発 表1】 高 煕卓(韓国グローカル文化研究所首席研究員、SGRA研究員)
「江戸の思想とその未来的な可能性」

【発 表2】 林 少陽(東京大学大学教養学部特任助教授、SGRA研究員)
「越境の意味:私と日本思想史との出会いを手がかりに」

【パネルディスカッション】
進行:孫 軍悦(東京大学大学院総合文化研究科博士課程、SGRA研究員)



第25回SGRAフォーラム「ITは教育を強化できるか」 Posted 2006.8.19 by imanishi
2006年9月23日(土)14:30〜17:30
東京国際フォーラムG510会議室

趣旨: 第4回「IT教育革命:ITは教育をどう変えるか」、第9回「情報化と教育」、第14回「国境を越えるE-learning」に続く、SGRA「ITと教育」研究チームが担当する4回めのフォーラム。IT技術は教育を強化することができるか。国際教育の現場において、ITが教育を支援している事例を紹介し、ITによる教育強化の可能性について考える。

プログラム

【基調講演】「途上国へのE-learning技術支援とオープンソースソフトウェア教育強化-南太平洋大学におけるJICAプロジェクト活動を中心に−」
講演者:高橋 冨士信(Takahashi Fujinobu)
所属:横浜国立大学工学部教授

【研究発表1】伝え合うことで学ぶ「交流学習」と支援のあり方
講演者:藤谷 哲( Fujitani Satoru)
所属:目白大学経営学部経営学科(専任講師)

【研究発表2】Mobile-Learningが教育を変える?!
講演者:楊 接期(Yang Jie Chi)
所属:台湾国立中央大学情報工学部(助教授)

【パネルディスカッション】
進行:江蘇蘇(Jiang Susu)
所属:(株)東芝セミコンダクター社・SGRA研究員
パネリスト:上記講演者



第24回SGRAフォーラム in 軽井沢「ごみ処理と国境を越える資源循環」 Posted 2006.7.12 by imanishi
第24回SGRAフォーラムのお知らせ
「ごみ処理と国境を越える資源循環〜私が分別したゴミはどこへ行くの?〜」

■ 日時: 2006年7月22日(土)
午後2時00分〜9時00分

■ 会場: 鹿島建設軽井沢研修センター会議室

■ 会費:無料

■ プログラム
 
総合司会 全振煥(鹿島技術研究所主任研究員、SGRA研究員)

【発表1】鈴木進一(エックス都市研究所取締役)
「廃棄資源の国際間移動の現状と課題:アジアを中心として」  
   
【発表2】間宮 尚(鹿島技術研究所上席研究員)
「EUの再生資源とリサイクル:ドイツを中心として」

【発表3】李 海峰(北九州市立大学、SGRA研究員)
「アジアにおける家電リサイクル活動に関する調査報告」

【発表4】中西 徹(東京大学総合文化研究科教授)
「廃棄物問題と都市の貧困:マニラ貧困層のコミュニティ資源の活用」

【パネルディスカッション】進行:高偉俊(北九州市立大学助教授)

詳細はプログラムをご覧ください



第23回SGRAフォーラム「日本人と宗教:宗教って何なの?」 Posted 2006.3.26 by imanishi
第23回SGRAフォーラムのご案内
「日本人と宗教:宗教って何なの?」

■日 時: 2006年5月14日(日)午後2時〜5時30分

■会 場: 東京国際フォーラム G棟610号室
 http://www.t-i-forum.co.jp/function/map/index.html

■参加費: 無 料
(フォーラム後の懇親会は、会員1000円・非会員3000円 要予約)

■フォーラムの趣旨
 多くの日本人にとって宗教とは何か理解しにくい。イスラーム過激派によるテロ事件が起き、ますますその思いはつのる。日本人は「無宗教」と言われるが、では何も信じていないのか。外国で「無宗教」と言うと野蛮人のように見られる。宗教がないと社会に秩序がなくなると言われる。しかし、日本ほど規範意識が高く、秩序を尊ぶ社会も少ないのではないか。神道では、木や山や川や海、どこにでも神がいる、死んだ人は皆神様になるから祖先をお祀りすると言うと、原始的な信仰のように思われる。初詣を神社(神道)で、結婚式を教会(キリスト教)で、葬式をお寺(仏教)で行うのはおかしい?宗教が暴力的な対立を容認する現代において、多様な宗教が混在する日本から何か発信できるのか。一方、創価学会・立正佼成会をはじめとする新宗教の興隆も、現代の日本人と宗教を考える時に無視できない。オウム真理教の起こした事件は、私たちに何を問いかけているのか。
 新しいSGRA「宗教と現代社会」研究チームが担当する最初のフォーラムでは、日本で宗教の研究をする日本人や外国人の学者の方々をお招きして、このような疑問に率直に答えていただきます。

■プログラム

【基調講演】島薗 進(東京大学教授)
「日本人にとっての「宗教」と「宗教のようなもの」
「宗教」というとアレルギーを起こしたり、無関心になったりする日本人は多い。しかし、「宗教のようなもの」と話を広げてみるとどうだろうか。たとえば「道」である。茶道、華道などの芸道、剣道、弓道などの武道。最近は武士道がリバイバルだ。神道にも「道」の文字が含まれている。教育勅語も人としての「道」を説くものだった。また、近年は「霊性」とか「スピリチュアリティ」、また「精神世界」や「アニミズム」も人気がある語だ。これらを考え合わせて、日本人にとっての「宗教」の意義を考えたい。

【パネルディスカッション】
○日本人と神道について
   ノルマン・ヘィヴンズ (國學院大學神道文化学部助教授)
○日本人と仏教について
   ランジャナ・ムコパディヤーヤ
   (名古屋市立大学大学院人間文化研究科助教授、SGRA研究員)
○日本人とイスラーム教について
   セリム・ユジェル・ギュレチ
(イスラーム文化センター事務総長)
○日本人とキリスト教について
   ミラ・ゾンターク
(富坂キリスト教センター研究主事、SGRA研究員)

詳細はプログラムをご覧ください



第22回SGRAフォーラム「戦後和解プロセスの研究」 Posted 2006.1.11 by imanishi
下記の通り第22回SGRAフォーラムを開催いたします。参加ご希望の方は、ファックス(03-3943-1512)またはemail(sgra-office@aisf.or.jp)でSGRA事務局宛ご連絡ください。よろしければ最後の申込欄をお使いください。SGRAフォーラムはどなたにも参加いただけますので、ご関心をお持ちの皆様にご宣伝いただきますようお願い申し上げます。

■ 日時: 2006年2月10日(金)
午後6時30分〜8時30分まで、終了後懇親会

■ 会場: 東京国際フォーラム ガラス棟G602会議室
http://www.t-i-forum.co.jp/function/map/index.html

■ 会費:フォーラムは無料。懇親会は会員1000円、非会員3000円

■ フォーラムの趣旨

「和解」とは、一般に、争いや対立を止めるために当事者間で行われる歩み寄りや譲歩をさす。「和解」の対義語は「復讐」である。復讐は、人が愛するものや大切ものを失ったときに抱く、自然で強烈な衝動である。一方、和解は、復讐、怨恨、憎悪や怒りが、自らの社会にとっても、かつての敵との関係にとっても、有害で、究極的には混迷と無秩序につながることを学習してはじめてとり得る行動とされる。「戦後和解」を、講和後あるいは平和が回復された後も旧敵国間にわだかまる感情的な摩擦や対立の解決と定義する。「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」という一文がユネスコ憲章の前文にあるが、人の心にはじまった戦争を、人の心をもって終わらせるためには、政治はもとより市民社会や有志の個人が、戦争がもたらした偏見や憎悪について、政策上の課題として、あるいは市民交流に際しての懸案として、意図的かつ意欲的に取り組んでいく必要がある。こうした努力は、共有すべき未来の平和と共存とを担保に、双方向からなされることが望ましい。戦後和解は、平和を強化するためのプロセスのひとつである。その目的は、偏見の払拭と相互理解の促進を通した、さまざまなレベルにおける国際交流の調和と柔軟性の醸成にある。(小菅信子「戦後和解」より)

これまで日本では、第二次世界大戦中の問題行為について、戦後和解という観点から議論を試みること自体に或る種の躊躇があった。本フォーラムでは、その障壁を乗り越える2つの報告をお願いし、東北アジアにおける「戦後和解」にむけた「双方からのとり組み」の可能性について考えたい。

■ プログラム
http://www.aisf.or.jp/sgra/schedule/forum22program.doc

○講演1: 「戦後和解:英国との関係修復を中心に」
 小菅信子(山梨学院大学法学部助教授)

日本と英国の民間レベルで展開されてきた<戦後和解>活動について具体的に検証する。<戦後和解>活動のエッセンスは、旧敵同士の再会、忘却を拒否した許し、喪失を相互に認め悼むことによって得られる癒し、修正できない過去をふまえた未来の協働のための高潔な妥協であるといえる。報告者は1996年から約10年間にわたって日英和解活動に主体的に関わってきたが、本報告では、とくに、活動の前提となる戦後和解の発想、歴史的・政治的文化的脈絡、具体的な和解活動とそれを可能にした人的・物的条件と環境、活動によって引き起こされたさまざまな波紋や反発、活動によって得られた成果・挫折・摩擦について考察する。

○講演2:「花岡和解研究序説」
 李 恩民(桜美林大学国際学部助教授、SGRA研究員) 

5年前の2000年11月、東京高等裁判所において花岡事件訴訟の和解が成立した(略称「花岡和解」)。花岡事件訴訟は、第二次世界大戦中、鹿島組(現鹿島建設株式会社)の強制連行・強制労働により被害を受けた中国人が初めて損害賠償を求めて提訴した訴訟で、民間企業の戦争責任を追及する最初の訴訟でもある。花岡和解において「自主交渉」「裁判所勧告」「信託方式」「基金方式」「一括解決方式」といった戦後補償裁判の中であまり類のない大胆な試みが行われ、世界の注目の的となった。本報告は花岡事件の経緯を簡単に紹介した上で、受難者と鹿島建設との交渉から裁判を経て、和解に至るプロセスと、その後の中国赤十字会・「花岡平和友好基金」の活動を究明し、花岡和解が内包する戦後和解の意義と普遍性について分析したい。

■ 講 師 略 歴

○小菅信子 ☆ こすげ・のぶこ ☆ Kosuge Nobuko
1960年生まれ。上智大学文学部卒業、同大学院文学研究科史学専攻博士課程修了満期退学。ケンブリッジ大学国際研究センター客員研究員を経て、現在、山梨学院大学法学部政治行政学科助教授。著書に『戦争の記憶と捕虜問題』(共著、東京大学出版会)、『東京裁判ハンドブック』(共著、青木書店)、『戦争の傷と和解』(編、山梨学院大学生涯学習センター)、『Japanese Prisoners of War』(co-edition, Hambledon and London)、『戦後和解:日本は<過去>から解き放たれるのか』(中公新書1804)。訳書に『GHQ日本占領史5:BC級戦争犯罪裁判』(共訳・解説、日本図書センター)、『忘れられた人びと』(シャリー・フェントン・ヒューイ著、共訳、梨の木舎)他。

○李 恩民 ☆ り・えんみん ☆ LI Enmin
1961年生まれ。1983年中国山西師範大学歴史学系卒業、1996年南開大学にて歴史学博士号取得。1999年一橋大学にて博士(社会学)の学位取得。南開大学歴史学系専任講師・宇都宮大学国際学部外国人教師などを経て、現在桜美林大学国際学部助教授、SGRA研究員。著書に『中日民間経済外交』(北京:人民出版社1997年刊)、『転換期の中国・日本と台湾』(御茶の水書房、2001年刊、大平正芳記念賞受賞)、『「日中平和友好条約」交渉の政治過程』(御茶の水書房、2005年刊)など多数。現在、日本学術振興会科研費プロジェクト「戦後日台民間経済交渉」研究中。



第4回日韓アジア未来フォーラム Posted 2005.9.30 by imanishi
テーマ:「東アジアにおける韓流と日流:地域協力におけるソフトパワーになりうるか」

日 時: 2005年11月4日(金)午後1時〜6時

会 場: 高麗大学校 仁村(インチョン)記念館

主 催: (財)韓国未来人力研究院

協 賛: (財)渥美国際交流奨学財団、高麗大学校労働研究院

後 援:「日韓友情年2005〜進もう未来へ、一緒に世界へ〜」実行委員会


フォーラムの趣旨:

ここ数年広がりをみせている東アジアにおける「韓流」はこれまでの東アジア国際関係に見られない画期的なできごとである。また、この地域において日本の大衆文化が若者の高い関心を集めたのは決して最近のことではない。このような韓流・日流を媒介とした密度の高い人的・文化的な交流の進展はもはや東アジア地域に共通する現象ともいえよう。今回のフォーラムでは政治的あるいは軍事的な「ハードパワー」においては様々な問題をかかえる東アジア地域にとって、急成長する「ソフトパワー」はどのような意味と意義があるのか考えてみたい。具体的に東アジアの視座からソフトパワーとしての韓流・日流の展開にともなう様々な現象、それがもたらす政治的、経済的、社会的インパクトなどについて考えてみることにする。


プログラム: 
総合司会: 金 雄煕(仁荷大学国際通商学部助教授、SGRA研究員)

【開会の辞】 李 鎮奎(未来人力研究院院長、高麗大学経営学部教授)

【基調講演】 「東アジアにおける韓流・日流:地域協力におけるソフトパワーになりうるか」全 京秀(ソウル大学人類学科教授)

  
【講演】
@韓国における日本ブーム 林 夏生(富山大学人文学部国際文化学科助教授)
A日本における韓国ブーム 平田由紀江(延世大学社会学科博士課程)交渉中
B戦後中華圏の「哈日」「韓流」現象の歴史とその背景 林 忠泉(琉球大学法文学部助教授)
Cベトナムにおける日本ブーム・韓国ブーム ブ・ティ・ミン・チー(ベトナム人間科学研究所)
D東アジアにおける日本企業のマーケティング戦略 山中宏之(NHKエンタープライズ)
E東アジアにおける韓国企業のマーケティング戦略 趙 k俊(韓国情報文化振興院)

【パネルディスカッション】
進行: 李 元徳(国民大学国際学部副教授)
パネリスト:発表者6人、木宮正史(東京大学)、林 慶澤(全北大学)
木宮、林氏にはそれぞれ日韓関係、東アジア協力を中心に議論していただく。

【謝  辞】 今西淳子(SGRA代表、渥美国際交流奨学財団常務理事)
【閉会の辞】 宋 復(未来人力研究院理事長)



第20回SGRAフォーラム「東アジアの経済統合:雁はまだ飛んでいるか」 Posted 2005.6.25 by imanishi
下記の通り今年も軽井沢フォーラムを行いますので、奮ってご参加ください。参加ご希望の方は、7月15日(金)までに、SGRA事務局宛(Email:sgra-office@aisf.or.jp; FAX: 03-3943-1512)お申し込みください。7月24日(日)の昼に、渥美財団理事長別荘で懇親会を行いますので、よろしければご参加ください。軽井沢での宿泊ご希望の方は、ホテルをご紹介いたしますので、ご相談ください。尚、軽井沢フォーラムは、SGRA会員限定ですが、会議のみの参加は外部の方も受け付けます。

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第20回SGRAフォーラム in 軽井沢
「東アジアの経済統合:雁はまだ飛んでいるか」
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■日時:2005年7月23日(土)午後2時〜9時(夕食を含む)
■会場:鹿島建設軽井沢研修センター会議室
    長野県北佐久郡軽井沢大字軽井沢1323-310
    TEL:0267-42-4000
    (ご希望の方には地図をお送りします)
■会費:無料

■主催:関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)
■協賛:鹿島学術振興財団、渥美国際交流奨学財団
■協力:朝日新聞アジアネットワーク

■フォーラムの趣旨:
戦後の東アジア経済の急速な発展は、日本と東アジア諸国との国際分業による緊密な相互依存関係の中で実現したという、いわゆる「雁行型開発」(赤松要の第3パターン)論が一時期広く注目を集めた。しかし、冷戦後の世界経済のグローバル化とリージョナル化の二つの大きな潮流のなか、東アジアにおける経済統合(緊密な相互依存関係)プロセスはEUやNAFTAなどに立ち後れ、各国経済が分散状態にあるため世界市場に対等な立場で参加することが難しくなってきた。したがって、近年東アジア地域でも「経済統合」や「東アジア共同体」という議論が盛んに展開され、遅れを取り戻そうとする動きが活発である。そのなかで、今まで東アジア地域の経済的ダイ
ナミズムの源泉とも言われた雁行型開発は、現段階においても依然として続いているのか、それとももはや崩れているのか。続いていないとしたら、どのような新モデルが考えられるのか。また、それが東アジアの経済統合とどのような関わりを持つのか。以上のような問題意識に基づき、その疑問点や問題点を解明すべく、SGRAでは東アジア諸国の学者や専門家をお招きしながらも、一般の方々を対象としたフォーラムを開催します。

■詳しくは
プログラム をご覧ください。

(午後2時開会)
総合司会:李 鋼哲(総合研究開発機構NIRA研究員、SGRA研究員)
挨拶:今西淳子(SGRA代表)

開催の趣旨:平川 均(名古屋大学大学院経済学研究科教授、SGRA顧問)、F.マキト(フィリピン アジア太平洋大学研究助教授、SGRA
研究員)

基調講演:渡辺利夫(拓殖大学学長)「東アジア共同体への期待と不安」

ゲスト講演:トラン・ヴァン・トウ(早稲田大学教授)「東アジアの雁行型工業化とベトナム」

研究報告1:範 建亭(上海財経大学国際工商管理学院助教授、SGRA研究員)「中国家電産業の雁行型発展と日中分業」

研究報告2:白 寅秀(韓国産業資源部産業研究院副研究委員、SGRA研究員)「韓・中・日における分業構造の分析と展望―化学産業を中心としてー」

研究報告3:エンクバヤル(環日本海経済研究所ERINA研究員)「モンゴルの経済発展と東北アジア諸国との経済関係」

研究報告4:F.マキト(フィリピンアジア太平洋大学研究助教授、SGRA研究員)「共有型成長を可能にする雁行形態ダイナミックス(フィリピンの事例)」

(夕食)

パネルディスカッション(フロアーからの質疑応答)
総括:平川 均(名古屋大学大学院経済学研究科教授、SGRA顧問)

(午後9時閉会)



第19回SGRA「東アジア文化再考:自由と市民社会をキーワードに」 Posted 2005.4.8 by maquito
下記の通りSGRA第19回フォーラムを開催いたしますので、万障お繰り合わせの上ご出席いただきますようご案内申し上げます。参加ご希望の方は、ファックス(03-3943-1512)またはemail(sgra-office@aisf.or.jp)で5月16日(月)までに事務局宛てご返送ください。よろしければ最後の申し込み欄をお使いください。また、SGRAフォーラムはどなたにも無料でご参加いただけますので、ご宣伝いただきますようお願い申し上げます。

■日 時:2005年5月17日(火)午後6時半より8時半まで、終了後懇親会

■場 所:東京国際フォーラム ガラス棟G602会議室
http://www.t-i-forum.co.jp/
(JR東京駅より徒歩5分、JRおよびメトロ有楽町駅より徒歩1分)

■会 費:フォーラムは無料。懇親会は会費1000円。

■フォーラムの趣旨:
SGRA「グローバル化と地球市民」研究チームが担当する5回めのフォーラム。
「自由と民主主義」が軍事介入まで許容する「正義」とされる世相の中で、東アジアにおいて千年以上追究されてきた自由や市民社会を考え、それが現代においてどのような社会的意味と意義をもつかを探りたい。現在、学問の分野では、特に日本の歴史研究において、東アジア文化圏全体を見渡し、かつてそれが存在したようにとらえようとする試みが始まっている。私たちが忘れてしまった、あるいは忘れさせられてしまった、高い精神性を有した当時の中華文明を求心力とした東アジア文化圏を、かつてあったように把握し、それによってよりよく自分自身を認識した上で、この地域のさらなる発展の可能性を検討することは、経済分野において加速する東アジア地域協力を進める上にも欠かせない作業であると考える。

■プログラム:
司会: 林 少陽 (SGRA「地球市民研究」サブチーフ、東京大学大学院総合文化研究科助手)
開会挨拶: 今西淳子 (SGRA代表)

◇ゲスト講演(1): 宮崎法子 (実践女子大学文学部教授)
『中国山水画の住人たち−「隠逸」と「自由」の形』
日本を含む東アジア文化圏は、かつて中国を中心に形成されてきた。宋代(10世紀)から、清時代(20世紀初頭まで)の長きにわたり、中国の社会や文化をリードした知識人(士大夫)層の価値観は、東アジア全体の精神世界や趣味世界に大きな影響を与えた。宋代に成立し、その後大きく発展した水墨山水画は、そのような東アジアの知識人たちの理想世界を表わしており、単に自然美だけを描くものではなかった。そこには、儒教的枠組みのなかに生きざるをえない人々が、一方で常に抱き続けた精神的自由への希求や隠逸への思いが反映している。山水画とはまさにそのような思いを反映した造形世界であり、そこに繰り返し描かれた漁父などの点景人物は、隠逸の思いを託された精神的自由の象徴であった。今回は、そのような山水世界の住人について、そこに映された中国の人々の価値観を具体的に作品に即して読み解き紹介したい。

◇ゲスト講演(2): 東島 誠 (聖学院大学人文学部助教授) 
『東アジアにおける市民社会の歴史的可能性』
第一の論者は、東アジアには西欧型の市民社会など育つ余地が無かったと言い、第二の論者は、東アジアのなかに西欧型市民社会を発見しようとした。これに対して第三の論者は、西欧世界の普遍性に破産宣告を下し、アジア固有の論理の中に市民社会の可能性を探求しようとした。しかし第四の論者は、その第三の論者をも、東アジアの固有性が西欧世界と対になる形で形象化されているとして、これをナショナリズムの言説と批判した。このように、「東アジアにおける市民社会の歴史的可能性」という所与の課題には、いくつかの危ういトラップが仕掛けられている。このトラップを潜り抜けながら、いったい何が論じられるだろうか?この問題を考える上での素材提供ができれば幸いである。

◇ フロアーとの質疑応答
進行: 高 熙卓 (SGRA「地球市民研究」チーフ、世界文化総合研究所副所長)
閉会挨拶: 嶋津忠廣 (SGRA運営委員長)

■講師略歴:
◇ 宮崎法子(みやざき・のりこ)
1979年東京大学大学院人文科学研究科、美術史学専攻修士課程修了。その後京都大学人文科学研究所助手、三重大学人文学部助教授を経て、1995年から実践女子大学文学部美学美術史学科教授、現在に至る。その間に、中央美術学院(北京)留学、ハーバード大学イエンチン研究所・台 北故宮博物院博物院などの客員研究員。
専門分野:美術史 中国絵画史
著書: 『故宮博物院5 清の絵画』(編書、日本放送協会、1999年)、『世界美術大全集 東洋編8 明』(責任編集・著、小学館、1999年)、『花鳥・山水画を読み解く―中国絵画の意味―』(角川叢書、2003年、サントリー学芸賞受賞)ほか
論文: 「中国花鳥画の意味」上・下(『美術研究』363-364号、國華賞受賞) ほか

◇ 東島 誠(ひがしじま・まこと)
1999年 東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了、博士(文学)。現在:聖学院大学人文学部助教授
著書:『公共圏の歴史的創造─江湖の思想へ』(東京大学出版会、2000年)
論文:「交通の自由、思想の運輸」(『東京大学日本史学研究室紀要』第5号、2001年)、「近代的読書公衆と女性-『君子』から『読者』へ」(三谷博編『東アジアの公論形成』東京大学出会、2004年)ほか



第4回日韓アジア未来フォーラム・第18回SGRAフォーラム「韓流・日流:東アジア地域協力におけるソフトパワー」 Posted 2005.1.19 by imanishi
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第4回日韓アジア未来フォーラム・第18回SGRAフォーラム
「韓流・日流:東アジア地域協力におけるソフトパワー」
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下記の通りフォーラムを開催いたしますので奮ってご参加くださいますようお願い申し上げます。お知り合いの皆様にもご宣伝いただけますと幸いです。参加ご希望の方は、ファックス(03-3943-1512)またはemail(sgra-office@aisf.or.jp) で、SGRA事務局へ2月17日(木)までにご連絡ください。
尚、日韓アジア未来フォーラムは、2001年より始めた韓国(財)未来人力研究院とSGRA/渥美財団の共同事業で、研究者が毎年交互に訪問しフォーラムを開催しています。

■日時:2005年2月20日(日)午後1時半より5時半まで

■場所:東京国際フォーラム ガラス棟G502会議室
    東京都千代田区丸の内三丁目5番1号
http://www.t-i-forum.co.jp
    ●JR線 東京駅より徒歩5分(地下1階コンコースにて連絡)
          有楽町より徒歩1分
    ●地下鉄有楽町線有楽町駅より徒歩1分

■会費:無料

■フォーラムの趣旨

日本では、数年前より韓国料理ブーム、ワールドカップに伴うサッカーブーム、韓国映画ブームがおこり、今年の「ヨン様ブーム」に至って「韓流(韓国ブーム)」が爆発した。これは今までの日韓交流史に見られない画期的なできごとである。同様に、韓国においても、日本の音楽や漫画やゲームに対する若者の関心は非常に高い。このように密度の高い人的・文化的な相互交流の増進は、程度の差こそあれ、東アジア各国に共通する現象といえよう。政治的あるいは軍事的な「ハードパワー」においては様々な問題をかかえるこの地域にとって、急成長する「ソフトパワー」はどのような意味と意義があるのか考えたい。

■プログラム

総合司会:全 振煥(鹿島建設技術研究所主任研究員、SGRA運営委員)
【開会挨拶】今西淳子(SGRA代表、渥美国際交流奨学財団常務理事)
【基調講演】「韓流の虚と実」
        李 鎮奎(未来人力研究院院長、高麗大学経営学部教授)
【主題発表1】「日韓文化交流政策の政治経済学」
        林 夏生(富山大学人文学部国際文化学科助教授)
【主題発表2】「冬ソナで友だちになれるのか」
        金 智龍(文化評論家)
 休 憩 
【パネルディスカッション】
進行:金 雄熙(仁荷大学副教授、SGRA研究員)
  パネリスト:講演者3名に加えて
   道上尚史(内閣府参事官、元在韓国日本大使館参事官)
   木宮正史(東京大学大学院総合文化研究科助教授)
   大橋久美子(J.ウォルタートンプソン勤務)
   李 元徳(国民大学副教授) 
【閉会の辞】嶋津忠廣(SGRA運営委員、渥美国際交流奨学財団事務局長)

詳細なプログラムはこちらからダウンロードしてください。



第17回SGRAフォーラム「日本は外国人をどう受け入れるべきか:地球市民の義務教育」 Posted 2004.9.21 by imanishi
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第17回SGRAフォーラム
「日本は外国人をどう受け入れるべきか:地球市民の義務教育」
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■日時:2004年10月23日(土)午後1時半より5時半まで

■場所:東京国際フォーラム ガラス棟G610会議室
    東京都千代田区丸の内三丁目5番1号
    http://www.t-i-forum.co.jp
    ●JR線 東京駅より徒歩5分(地下1階コンコースにて連絡)
          有楽町より徒歩1分
    ●地下鉄有楽町線有楽町駅より徒歩1分

■会費:無料

参加ご希望の方は、ファックス(03-3943-1512)またはemail(sgra-office@aisf.or.jp) で、10月20日(水)までに事務局宛てご返送下さい。

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■フォーラムの目的

SGRA「人的資源と技術移転」研究チームが担当するフォーラム。昨年11月に開催した同テーマのフォーラムでは、実質的に移民受入大国となっている日本の実態と、研修生制度について考えた。今回は、日本の小中学校における外国人児童生徒の不就学問題を紹介し、「全ての子どもたちが教育を受ける権利」について考え、日本の公立学校は彼等彼女等にどのような教育を提供すべきかを検討したい。

■プログラム

司会:徐 向東(SGRA「人的資源・技術移転」研究チームチーフ / 日経リサーチ研究員)

【ゲスト講演】 「学校に行けない子どもたち:外国人児童生徒の不就学問題(仮題)」
宮島 喬(立教大学社会学部教授)

【研 究 報 告1】
「在日ブラジル人青少年の労働者家族が置かれている状況と問題点:集住地域と分散地域の比較研究」
ヤマグチ・アナ・エリーザ(SGRA研究員/一橋大学社会学研究科博士課程)

【研 究 報 告2】
「在日朝鮮初級学校の『国語』教育に関する考察:国民作りの教育から民族的アイデンティティ自覚の教育へ」
朴 校煕(東京学芸大学連合大学院博士課程)

【研 究 報 告3】
「カリフォルニア州における二言語教育の現状と課題:ロサンゼルスの3つの小学校の事例から」
小林宏美 (慶應義塾大学大学院法学研究科、静岡文化芸術大学非常勤講師)

【パネルディスカッション】
進行:角田英一(アジア21世紀奨学財団常務理事)

詳細はプログラムをご覧ください。



第16回SGRAフォーラム in 軽井沢 Posted 2004.6.16 by imanishi
第16回SGRAフォーラム in 軽井沢
「東アジア軍事同盟の過去・現在・未来」

下記の通り開催いたしますので、ご案内申し上げます。参加ご希望の方は、7月16日(金)までにSGRA事務局(sgra-office@aisf.or.jp)へお申込みください。会場の都合上、参加は原則としてSGRA会員に限らせていただきます。

■主 催: 関口グローバル研究会(SGRA) 

■協 賛: 鹿島学術振興財団、韓国未来人力研究院、渥美国際交流奨学財団

■後 援: 朝日新聞アジアネットワーク(AAN)

■日 時: 2003年7月24日(土)午後2時〜6時、7時半〜9時

■場 所:鹿島建設軽井沢研修センター会議室
長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢1323-310  0267-42-4000
(ご希望の方には地図をお送りします)
(軽井沢駅からタクシーで10分、1100円程度です)

■会 費: 無料 (夕食を含む)

■フォーラムの意義

SGRA「東アジアの安全保障と世界平和」研究チームが担当するフォーラム。韓国・日本(沖縄)・フィリピン・台湾と米国との二国間同盟条約体制の形成の経緯を明らかにし、その問題点を現状の中で把握したあと、これを越える多国間(地域)安全保障システムの可能性について考えてみたい。その際には、東アジアに散らばる米軍基地の問題も併せて考えてみたい。したがって、「軍事基地と市民」、「市民の安全保障」、「市民連帯の運動」などもテーマとして含まれることになる。

■:プログラム

コーディネーター:南 基正(東北大学法学研究科教授、SGRA研究員)

【総  論】竹田いさみ(獨協大学外国語学部教授)

【日米同盟】
講演者:ロバート・エルドリッヂ(大阪大学国際公共政策研究科助教授)
質問者:林 泉忠(琉球大学法文学部助教授、SGRA研究員)

【韓米同盟】
講演者:朴 栄濬(韓国国防大学校安全保障大学院助教授、SGRA研究員)
質問者:(検討中)

【台米同盟】
講演者:林 成蔚(台湾総統府国家安全会議)予定
質問者:李 恩民(桜美林大学国際学部助教授、SGRA研究員)

【比米同盟】
講演者:伊藤裕子(亜細亜大学国際関係学科助教授)
質問者:(検討中)

【パネルディスカッション】 講演者全員



第15回SGRAフォーラム Posted 2004.2.9 by imanishi
「この夏、東京の電気は大丈夫?」

■主催:関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)
 協力:(財)渥美国際交流奨学財団

■日時:2004年5月13日(木)
18時受付開始・18時30分開演・20時30分終了予定

■会 場:日本記者クラブ10階ホール
東京都千代田区内幸町2-2-1
日本プレスセンタービル
TEL 03-3503-2721/FAX 03-3503-7271
地図はこちらへ

■フォーラムの目的
SGRA「エネルギーと環境」研究チームが共同で担当するフォーラム。
カリフォルニア電力危機、ニューヨーク大停電は他国で起きたことと安心してはいられません。冷夏で救われた昨年は単に運が良かっただけかもしれません。このフォーラムでは電力自由化の是非を含む、正しい電力供給を市民レベルで考えたいと思います。また、上海を中心に、中国の電力事情も豊富なデータによってご紹介します。

■プログラム)詳細はこちらへ


【基調講演】この夏、東京の電気は大丈夫?
 中上 英俊(住環境計画研究所所長)詳細はこちらへ


【研究報告】この夏、上海の電気は大丈夫?
 高 偉俊(北九州市立大学環境情報学部助教授、SGRA研究員)詳細はこちらへ




第14回SGRAフォーラム (in お台場) 「国境を越えるE-learning」 Posted 2004.1.30 by maquito
■主催:関口グローバル研究会(SGRA:セグラ)
協力:(財)日本国際教育協会・東京国際交流館(国際研究交流大学村)
    (財)渥美国際交流奨学財団

■日時:2004年2月7日(土)
13時受付開始・13時半開演・18時終了予定

■会 場:国際研究大学村東京国際交流館・プラザ平成3階メディアホール
地図はこちらへ

・新交通ゆりかもめ「船の科学館駅」下車、徒歩約4分、「テレコムセンター駅」下車、徒歩約7分
・東京臨海高速鉄道りんかい線「東京テレポート駅」下車 徒歩15分

■フォーラムの目的
SGRA「ITと教育」研究チームが担当するフォーラム。特にアジア各国を中心とした大学と提携して進められているオンライン授業の事例を紹介し、国境を越えるE-learningによって、大学、学生、あるいは社会に何を与えることができるかを探ります。
 
■プログラム:
プログラムはこちらへ


司会 J.スリスマンティオ(千葉大学電子光情報基盤技術研究センター講師、SGRA研究員)
1:30 開会挨拶 今西淳子(SGRA代表) 

【基 調 講 演】Asia E-Learning Networkと大学の国際戦略
 斎藤信男(慶應義塾常任理事、SGRA顧問)

【ゲスト講演1】ネットワークを介したGlobal Project Based Learning
 〜都立科学技術大学とスタンフォード大学の協調授業を事例として〜
 福田収一(都立科学技術大学工学部長、教授)

【ゲスト講演2】日中韓3大学のリアルタイム共同授業の可能性と課題
 〜慶応・復旦・延世大学の国際化戦略とオンライン共同授業〜  
 渡辺吉鎔(慶応大学総合政策学部教授)

3:20-3:50 休憩

【研究報告1】外国語としての英語でおこなうオンライン授業の可能性と課題
 〜フィリピンアジア太平洋大学(UAP)と名古屋大学、
 及びテンプル大学ジャパン(TUJ)でのオンライン授業を事例として〜 F.マキト(フィリピンアジア太平洋大学研究助教授・SGRA研究員)

【研究報告2】韓国の大学における国際的E-learningの現状と課題
 金 雄熙(韓国仁荷大学校国際通商学部助教授・SGRA研究員)

【講演者と参加者による自由討論】
 進行:王溪(東京大学電子情報工学研究員・SGRA研究員)

 6:00 閉会挨拶 嶋津忠廣(SGRA運営委員長)



第13回フォーラム「日本はどう外国人を受け入れるか:共生をキーワードに」 Posted 2004.1.30 by maquito
 2003年11月14日(金)午後6時半より、第13回SGRAフォーラム「日本は外国人をどう受け入れるべきか」が、東京国際フォーラムG棟402号室で開催された。今回のフォーラムは、「人的資源と技術移転」研究チームの研究活動の一環として行われたものでもある。会場には、非会員30名も含む70名近くの方々が集まり、このテーマに関する関心の高さを示した。

 SGRA研究会の今西代表による開会挨拶の後、2人の講師による講演が行われた。ゲスト講師として迎えた立教大学社会学部の宮島喬教授は、「移民国日本へ?ヨーロッパとの比較の中で考える」というテーマで講演を行った。宮島先生は、日本を代表する社会学者で、特に文化社会学の領域においては、第一人者的な存在である。かつてヨーロッパで研究生活を送った宮島先生は、ヨーロッパ社会における移民問題に詳しく、近年、ヨーロッパとの比較の視点で、日本の外国人問題の研究も行われ、外国人問題や移民政策に数多くの提言を行われた。宮島先生の講演は、日本における外国人受け入れの文化、意識、社会制度の問題点を浮き彫りにし、そして具体的な提言を含めて、日本が移民国として成立する可能性を検討された大変興味深いものであった。

 宮島先生の講演要旨をまとめると以下の通りになる。

・加速する少子高齢化の日本社会は、21世紀の早い時期に、海外から人の受け入れを図らねばならないが、日本社会の制度改革が立ち遅れている。
・日本の人口構造は、すでに事実上の「移民国」に近い。このことを直視し、制度、意識の両面でヨーロッパの移民先進国に学ばなければならない。
・技能実習制度の弊害からみえたように、世界から優れた人材を受け入れるという短期国益中心のロジックは必ず失敗する。
・日本における外国人を受け入れるという意識、施策が極めて貧困である。
・日本は「移民小国」からの脱却を意識し、難民受け入れなどを含めた国際義務も果たすべきである。
・さらに、長期ビザの導入、年金脱退一時金制度の改善、配偶者ビザの永住者ビザへの切り替え、血統主義を改め出生地主義の考え方の導入、帰化手続きの簡素化と透明化、外国人の子供の教育体制の改善、国民への啓発などの外国人受け入れ問題を再検討する必要がある。

 SGRA研究員で東京大学工学研究科博士課程のイコ・プラムティオノさんは、「研修生制度の現状と問題点――インドネシア研修生の事例として」と題する報告を行った。イコさんは東大で電子情報工学の研究を進めながら、1999年から、外国研修生ネットワークの一員として研修生問題に取り組み、2000年にインドネシア研修生相談フォーラム(KFTI)を設立し、以降代表としてインドネシア人研修生を中心にアドボカシー活動を従事してきた。イコさんはこうした体験を交えながら、「研修という名のもとにおける単純労働力の導入」という、日本で働く外国人研修生の厳しい現実を紹介してくださり、聴衆にとっては大変刺激的な報告だった。イコさんの講演の前半は、主に日本における外国人研修生制度の経緯と受け入れ状況の紹介で、後半は、研修生制度の問題点を指摘し、いくつかの政策提言を行った。イコさんが指摘した問題点と提言を要約すると主に以下のようになる。

・研修生制度の「建前」は、技術・技能または知識の開発途上国への移転を図り、それらの国などの経済発展を担う人作りに貢献することであるが、「本音」は、日本社会が必要とする単純労働者の導入である。実態としては、中小零細企業など日本人労働者の集まりにくい分野を補完するものである。
・研修生制度は、技術・技能などの移転による国際貢献としても、また、外国人労働者の活用方法としても、きわめて不備な制度であり、かつ多くの人権侵害を伴っている。
・一元的に対応できる政府機関が責任を果たすこと:強制帰国措置の廃止、本来の目的に基づき、労働ビザの支給などを真剣に検討する必要がある。

 以上の2人の講演と報告が終わった後、国連組織の勤務経験をもつ財団法人アジア21世紀奨学財団常務理事の角田英一氏が進行役・コーディネーターとして、二人の講師をパネラーに、パネルディスカッションが行われた。予定時間を超過してまで、たくさんの熱気溢れる質問とコメントが行われ、講師と参加者の間には、有益な意見交換が行われた。質問とコメントをすべて紹介できないが、最も印象に残った一つは「外国人の受け入れは政治家がよく口にする日本の“国益”に利するか」である。宮島先生やイコさんのコメントを聞きながら、“国益”を定義するのは難しいが、今の日本における外国人受け入れの制度や意識の遅れこそ、日本の“国益”を損なっているのではないかとの印象をもった。この点、難民受け入れに対しても同様である。現状は決して楽観すべきではないが、宮島先生からは、日本社会における日本人の意識の変化も紹介され希望も見えている。

 フロアからは、マスメディアが意識的に作り上げた外国人イメージの虚像が指摘され、さらに留学生からは、日本からの人口流出も併せて考えたり、最近の北東アジアにおける激しい人口移動の一環として考えるなど、問題意識を変えれば物事がまったく異なる視点からも捉えるという刺激的な発想法も紹介された。

今回のフォーラムで取り上げられた「日本社会は外国人をどう受け入れるべきか」という問題は、われわれ「人的資源と技術移転」研究チームが取り組んでいる課題に大いに参考になるものであった。グローバル化が進み、国境を越えた人の移動がますます活発化する中で、国益と人権、差別と平等、グローバル化の中における国と人間のあり方、文化の独自性と普遍性、自国文化の保護と他者への関心・思いやりと尊重、そして、日本と東アジア、日本と世界の共栄共存などを考える上で大変大きな示唆を得た。2時間にわたって行われた第13回SGRAフォーラムは、午後8時半に幕を閉じた。

(文責:徐向東)



第12回フォーラム「環境問題と国際協力:COP3の目標は実現可能か」 Posted 2004.1.30 by maquito
 2003年7月18日(金)及び19日(土)、鹿島建設軽井沢研修センター会議室で、第12回SGRAフォーラムが開催された。今回のフォーラムにおいては、18日午後8時から10時までの分科会で、ベトナム・タンロン大学のフィン・ムイ先生からベトナムの廃棄物問題を含めた様々なベトナムの事情についての報告がなされた。また、19日午後2時から6時までの本会議では、「環境問題と国際協力:COP3の目標は実現可能か」というテーマについて、基調講演と研究報告さらにアジア各国の状況調査報告があり、その後有益な議論とディスカッションが行われた。以下は、その概略である。

「ベトナムからの報告」 by フィン・ムイ

 ベトナムの環境問題に長年携わってこられたムイ先生から、最近のベトナムの廃棄物問題について、先生の個人的な経験を中心に報告があった。ベトナムはまだ発展途上国であり、日本のような先進国が直面している廃棄物問題とは違う性質の廃棄物問題、一言で言えば、「衛生問題としての廃棄物問題」に直面している。この問題を解決するために、ムイ先生は、適切な廃棄物の処理施設を整備することが重要だと主張し、自ら地方政府を説得して、衛生的な処理施設を建設した経験を紹介してくださった。

 一方、途上国の直面するもう一つの重大な問題は「貧困と環境破壊の悪循環」という問題である。ムイ先生は、ベトナムの少数民族の事例を取り上げて、貧困がもたらした環境破壊の実態、すなわち、従来の農法によって進行する砂漠化、砂漠化によって深刻化する生活の厳しさについて、詳しい報告がなされた。と同時に、このような悪循環を断ち切るための住民自らの試み、すなわち、我慢強い植林活動についての紹介もあった。また、このような悪循環を断ち切るためには教育が重要であると強調された。

「環境問題と国際協力:COP3の目標は実現可能か」 by SGRA環境・エネルギー研究チーム

 地球温暖化を防止するための国際協力をテーマにした今回のフォーラムにおいては、埼玉大学の外岡豊教授をゲストに迎え、「地球温暖化防止のための国際協力」というタイトルで基調講演をしていただいた。地球温暖化は20世紀後半のビジネス社会が招いた人類最大の問題であることを強調しながら、この問題を解決するためには、それぞれの考え方や慣習を持つ国々が互いに理解を深め、協同作業を積み重ねるしか方法はないと熱く語られた。

ゲスト講演の後、SGRA環境・エネルギー研究チームの3人の研究員からの研究報告がなされた。まず、李海峰研究員は、東京におけるヒートアイランド現象の深刻さについて、具体的なデータや図を見せながら、地球温暖化とヒートアイランドによって大都市の住居性が著しく損なわれる可能性が高いと警告した。鄭成春研究員は、排出権取引制度の事例として「カリフォルニア州のRECLAIMプログラム」を取り上げ、排出権取引制度が成功するためにはきめ細かい制度設計が必要である点を強調した。高偉俊研究員は、中国抜きでは地球温暖化問題の解決はできないと主張しながら、中国における温室効果ガスの排出及び対策についての報告を行った。最後に、ベトナム、韓国、モンゴル、フィリピンにおける各国の地球温暖化対策の現状についての報告があった。

 以上の基調講演、研究報告を踏まえながら、約1時間にわたるパネル・ディスカッションが行われた。そこでの結論は、今できることを一つ一つ実践しながら、その実績を積み重ねていくことが最も大事である、という点であった。今回のフォーラムは、この面から見ると、各国の研究者たちが集まり、地球温暖化問題についての議論を重ね、互いに理解を深める貴重な場としての意義を持つと思われる。

(文責:鄭成春)



第11回フォーラム「地球市民研究:国境を越える取り組み」 Posted 2004.1.30 by maquito
 2003年5月26日(月)午後6時半より、東京国際フォーラム・ガラス棟G602会議室にて、第11回SGRAフォーラム「地球市民研究:国境を越える取り組み」が開催されました。今回は、SGRA研究会「地球市民」研究チームが主催する4回目のフォーラムですが、駐日欧州委員会代表部調査役・高橋甫氏と国境な医師団日本でプログラムマネージメントを担当されている貫戸朋子氏をゲスト講師として迎えての開催で、SGRA会員をはじめ、約50名が参加しました。

高橋甫氏からは「市民とEU」のテーマで以下の諸点についてお話し頂きました。
・欧州統合は二度にわたる世界大戦への反省がその原点にある。
・武力衝突のきっかけになった石炭や鉄鋼に対する共同管理ため、まず6カ国でこの石炭や鉄鋼に限られた分野での主権委譲を伴った統合(石炭鉄鋼共同体)に着手。
・統合の深化と拡大の半世紀(欧州経済共同体、欧州共同体)を経て、現在(欧州連合)に至る。
・その特質として、連邦国家でもなく、また伝統的な国際機構でもない。加盟国から主権の委譲を伴う「共同体システム」(経済)と主権委譲が伴わない「政府間協力制度」(外交・安全保障)の二重構造をもつ存在。
・そのプロセスにおける現実的漸進主義や言語・宗教などの文化的多様性を承認しながらの推進。
・欧州における国境を越えた「他者との連帯」、またその統合の主体は、単に政府ではなく、欧州市民であるという理想・信念。
・「市民のための欧州」を目指して、欧州市民のアイデンティティ確立(共通のパスポート、EUの旗・歌)、欧州市民権・欧州基本権憲章、欧州議会・欧州憲法。
・EUの構造的特質、経過、理念などへの分かりやすい説明。とくに「市民のため」「市民による」連帯や協働の重要性を他地域との比較で説明。

貫戸朋子氏は「国境なき医師団的発想とは」という演題で、自分の体験を交えながら、国境なき医師団の結成経緯・性格・活動などを紹介してくれました。写真による現場の生々しい光景は、過度に日常平穏に過ごしている私達にとって良い刺激になりました。氏の講演の要旨は以下の通りです。
・3人のフランス人医師の決意から生まれた。
・既存の国際的医療組織が政治によって強く左右されている現状をふまえたうえで、医療援助がもっとも切実なのに、国際社会において看過・無視されている地域の人々を優先的な対象として医療行為を行なう。
・政治的中立・公平、人道主義的普遍倫理にもとづきながら、自らの奉仕・犠牲によって成り立つ。
・それを支えるものとして、弱者の救済・それへの献身というヨーロッパの一種の精神的貴族主義。
・自らの権力化を防ぐため、組織状態を自発的結社として、運動的存在として定位。

 質疑の時間において、質疑者から「EUの統合は一つの巨大国家の出現にすぎないのではないか」や「欧州統合における宗教問題への対処」、「国境なき医師団にはどうして日本の参加者が少ないか」や「現地人とのコミュニケーションの取り方」などの質問がありました。

 今回のフォーラムで取り上げられたEU市民社会や「国境なき医師団」のことは、「地球市民」研究チームが取り組んでいる「地球市民とはなにか」の課題に大いに参考になるものでした。欧州統合における強い意志と信念・確固たる実践、多様性への配慮や長期的な枠組みの中での漸進的プロセス、しかも共有部分のシステム化などの経験は、最近活発化した東アジアでの国際協力において大きな参考材料になることでしょう。さらに、国境を越えた連帯と協働、国境を越えた他者への関心・思いやり、自己犠牲による奉仕・献身などは地球市民の形成における徳性の問題とも深くかかわる気がしました。とくに東アジアの将来を考える上で大変大きな示唆になると思われました。 

(文責:薬会、高煕卓)



第10回フォーラム「21世紀の世界安全保障と東アジア」 Posted 2004.1.30 by maquito
 2003年2月8日(土曜日)午後2時、第10回SGRAフォーラム「21世紀の世界安全保障と東アジア」が、お台場の東京国際交流館で開かれた。今回のフォーラムは、SGRA研究会「世界平和と安全保障」研究チームが企画及び準備段階から関わったものであった。「世界平和」研究チームは、元渥美国際奨学生を中心とした留学生同士が、世界平和と安全保障のための議論を一緒にしようという目的をもって、昨年作られたばかりの研究チームである。今回のフォーラムはその最初の仕事であり、チームの南基正チーフが発表者の一人として、そして幹事の筆者が司会者として役割を分担した。こうした留学生による試みに対して日本国際教育協会と東京国際交流館、中島記念国際交流財団、朝日新聞アジアネットワーク、渥美国際奨学財団が、協賛・支援して下さった。記して謝意を表したい。

 フォーラムが開かれた国際交流館のプラザ平成メディアホールでは、SGRA会員25名を含むと80名の方々が駆け付けた。日本人のみならず、交流館に住んでいる留学生の姿も少なくなかった。国際交流館が開館した2年前に最初に入館した筆者の記憶から、これぐらいの人数が集まったのは、昨年のワールドカップ共同応援以来初めてではなかったろうか。改めて、我々が作った「世界平和」研究チームが立ち上げた目的に、顔の知らなかった世界各国からの留学生が、国籍と専門分野の壁を越えて共感してくれるのだと感じた。

 研究チームの設立とフォーラム開催に至るまで、すべての仕事を担ったSGRA研究会の今西代表による開会挨拶の後、四人の発表者による講演が行われた。

 京都大学東南アジア研究センターの白石隆教授は、「日本とアジア」というタイトルで基調講演をしていただいた。白石先生は、東アジアという概念を政治経済的システムとして捉え、こうしたシステムがどのような歴史的な過程の中で形成され始めているのかを説明しつつ、1980年代の後半から東アジアの範囲で地域秩序形成の動きが活発になっている背景として、日本と韓国による直接投資の要因が働いていると分析した。しかしこうした東アジアにおける地域秩序形成の過程を、ヨーロッパにおける地域秩序の現実と比較してみると、ナショナリズムの過剰や、共同体に向けた政治意識の欠如、共通規範の不在、政治経済体制の差異などの、地域秩序の形成を妨害する要因が少なくない。従って、東アジアにおける共同体に向けては、諸国家共同の利益と規範の共有、特に強大な力を持つアメリカの関与如何が重要な鍵を握っていると展望した。白石先生の基調講演は、大変幅広い歴史的且つ比較政治的アプローチに基づいて、東アジアにおける地域共同体成立の可能
性とその現実的な条件を検討して下さった、興味深いものであった。

 最初の講演は、東北大学法学部の助教授であり、「世界平和」研究チームのチーフでもある南基正先生に「朝鮮半島の平和構築と日本の役割」というテーマでお話し頂いた。南先生は、2002年9月17日に行われた日本と北朝鮮の首脳会談とその後の情勢を分析しつつ、日米関係が日朝交渉に臨んでいる日本の外交を拘束しているのか、或は米朝関係が日本の存在なしに機能しているのかに関する仮説を各々検討した。結論として南先生は、日米関係が北朝鮮に対する日本の外交従属性を意味するものではない、そして米朝関係は日朝交渉の制約要因であると同時に促進要因でもあると述べつつ、東アジア地域の安全保障のためにも日本政府が日朝交渉により積極的に取り組むことを提案した。

 二番目の講演は、「中国の台湾戦略を解く」というタイトルで、宇都宮大学国際学部の外国人教師であり、SGRA研究会「歴史問題」研究チームのチーフである李恩民さんに発表して頂いた。李先生は台湾に対する中国の基本政策を、江沢民時代の「平和統一」や「一国二制度」政策を中心として説明した後、現在展開されている両岸の動きを軍事・経済・政治などの分野に関する具体的なデータに基づいて紹介した。そして今後の提案として、台湾が中国との平和統一を通して中国の全体的な民主化を促してくれること、中国側からも「一国二制度」に拘らず、平和統一への意思を徹底することを打ち出した。

 三番目の講演は、「ブッシュ政権の東アジア戦略」というタイトルで、同志社大学法学部助教授の村田晃嗣先生にお話しして頂いた。村田先生は冷戦後のアメリカが軍事的な側面から断然他国を圧倒しうる超大国になっていることを説明しつつ、現在のブッシュ政権が、イメージとは異なって、レトリックと実際の行動を異にしていると分析した。そうしたアメリカ認識に基づいて同盟国として日本が何をすべきかという問いに対して、村田先生は、只の反米感情は、反中や反ロの感情と同様、日本にとって、望ましい選択肢にはなれないと強調した。先生は、今こそ更なる日米同盟の再定義と国際協調が求められていると結論づけられた。

 四人の先生による熱い講演の後、第二部では参加者による質問が続けた。お台場に住んでいる日本人RAの富川英生さん(東京大学経済学研究科)と金子光さん(東京大学経済学研究科博士課程)、留学生の和愛軍さん(中国出身、東京大学農学生命科学研究科博士課程)及び李明賛さん(韓国出身、慶応大学法学研究科博士課程)が各々発表者に対して質問を投げかけた。その他、インドネシア、台湾、中国などから来た留学生や研究者が予定した時間を遥かに過ぎてまで、熱気溢れる質問を問いかけた。長々4時間にわたって行われた第10回SGRAフォーラムは、午後6時半、嶋津忠廣SGRA運営委員長の閉会挨拶を最後に、盛会の幕を閉じた。

 日本に来た留学生同士が、SGRAのお陰でこの「世界平和」研究チームを作ったきっかけは、20世紀の東アジアに対する反省からであった。20世紀のアジアは、日ロ戦争、第一次世界大戦、満州事変、日中戦争、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、中国-ベトナム戦争など、戦争の絶えない時代であった。21世紀を迎えた今も、これら戦争の傷は、講演にも触れられたように、朝鮮半島や中国-台湾の間でまだ残っている。そうした戦争の連続で、加害者も被害者も、戦争の犠牲者になった。戦争の責任を問うこ
と、どちらが悪かったかを問うことは、勿論大事な問いである。しかし21世紀を生きている我々は、20世紀を生きていた先輩の世代が避けられなかった戦争の時代を超えて、何とかして、協力と平和の時代を切り開けなければならないと思う。

 武器を溶かして平和の材料を作る作業は、一国の国境を越えて、各国が協力しなければならない。特に各国の若い世代同士が共に力と知恵を合わせなければできない。そうした意味で、SGRA研究会の「世界平和」研究チームが、各国の留学生が一緒に住んでいるお台場の東京国際交流館で試みた本フォーラムは、まさに東アジアの平和と協力に向けた小さな一歩であろう。元々お台場は、150年前の幕府時代に海を渡って来た西欧の黒船を防ぐために作られた砲台であった。世界に「閉じられた鎖国」のシンボルでもあったお台場で、150年の時間が過ぎて各国の研究者と留学生が集まって、「21世紀の世界安全保障と東アジア」というテーマのもとで共に議論する場を設けたことは、その意義が少なくなかったと思われる。

(文責:朴栄濬)



ウランバートルで開催する国際シンポジウムのご案内 Posted 2008.6.18 by imanishi
下記の通り、SGRAでは初めてモンゴル国ウランバートル市でシンポジウムを共催いたします。プログラムと発表要旨集をご希望の方
はSGRA事務局までご連絡ください。

■国際シンポジウムinウランバートル

「アーカイブズ・歴史・文学・メディアからみたグローバル秩序―北東アジア社会を中心に―」

主催: モンゴル国家文書管理局
関口グローバル研究会(SGRA)
    モンゴル科学アカデミー歴史研究
モンゴル日本センター

後援: 在モンゴル日本大使館
モンゴル国立大学
モンゴル国際研究所
東京外国語大学

協賛: 渥美国際交流奨学財団
守屋留学生交流協会
高澤三次郎国際奨学財団
三菱商事
三井住友銀行
鹿島建設

○日程:2008年6月23(月)〜25日(水)

○会場:モンゴル・日本センター
モンゴル国家文書管理局
(モンゴル国ウランバートル市)

○開催の趣旨:

近現代北東アジア地域の社会秩序の再編において、旧ソ連、日本、アメリカ、中国はきわめて大きな役割を果たしてきました。一方、冷戦後の北東アジア社会においては、グローバル化が急速に進められているものの、同地域内の各国は政治、経済、民族、文化等多くの面で矛盾や葛藤を抱えており、相互関係はますます複雑になっています。本シンポジウムは、20世紀以降、激変する北東アジア社会の複雑な状況を視野に入れながら、歴史、文学、メディア、アーカイブズという社会の基礎的な情報源から得られるデータの分析過程の中に、この地域の一元化と多元性の葛藤という今日的であると同時に歴史的である問題を取り込み、現代北東アジア社会のグローバル秩序の歴史的背景とその今日的意義を考え直し、北東アジアの地域秩序はどのようなプロセスをへて構築されたか、これからどのように構築していくか等をめぐって、特色ある議論を展開することを目的とします。同時に、こうした議論、対話を実現するために、関係諸国のアーカイブズ情報の資源化とネットワークの形成をめざしています。

○テーマ:

セッション1:歴史・メディア・アーカイブズからみた北東アジアの社会秩序:過去・現在と課題
セッション2:北東アジア文学の中の社会像・世界像
セッション3:アジア主義論からアジア共同体へ
セッション4:北東アジア地域アーカイブズ情報の資源化とネットワークの形成にむけて

○参加者:
日本、中国、韓国、オーストラリア、ドイツ、ロシアなどの国、地域からの研究者約25名、モンゴル国からの研究者約25名。

■公用語:
モンゴル語、英語、日本語、ロシア語。



SGRAフォーラム in 北京「パネルディスカッション『若者の未来と日本語』」 Posted 2006.8.22 by imanishi
「パネルディスカッション『若者の未来と日本語』」へのお誘い

下記の通り、北京大学日本言語文学科設立60周年記念シンポジウムの一環として、SGRA北京フォーラムを開催いたします。参加ご希望の方は、SGRA事務局までご連絡ください。

日 時: 2006年10月21日(土)午後2時〜5時
会 場: 北京大学生命科学学院報告庁
主 催: 関口グローバル研究会(SGRA)、
協 力: 北京大学日本言語文学科、ジャパーン・リターン・プログラム(JRP)
協 賛: (財)渥美国際交流奨学財団

■フォーラムの趣旨
中国で日本語学習者が急増しているが、必ずしも学習者のニーズと教育方針が一致しているとはいえないようである。本フォーラムは、日本語学習者を対象に、先輩の経験談や日本における日本語教育の現状、日系企業を含む社会のニーズを紹介し、日本語を学ぶことによって広がる未来へのビジョンを提供することを第一の目標とする。そして、そのような若者の期待に応えるためにはどのような教育が必要とされているか提案することを第二の目標とする。

■プログラム
詳しくは http://www.aisf.or.jp/sgra/schedule/forum26program.doc をご覧ください

総合司会:孫 建軍(北京大学日本言語文化学部助教授、SGRA研究員)

【パネルディスカッション】

進行:朴 貞姫(北京語言大学助教授、SGRA研究員)
・池崎美代子(JRP専務理事、SGRA会員)「ビジネス日本語とは」
・武田 仁(富士通(中国)有限公司副董事長(兼)総経理)「日本企業が求める人材」
・徐 向東(キャストコンサルティング代表取締役、SGRA研究チーフ)北京で日本語を学び日本で活躍する先輩
・(交渉中)北京で日本語を学び中国で活躍する先輩



SGRAフォーラム in 北京「パネルディスカッション『若者の未来と日本語』」 Posted 2006.7.12 by maquito
日時:2006年10月21日(土)午後

会場:北京大学英傑交流センター
(2006北京大学日本学研究国際シンポジウムの一環として)

趣旨:中国で日本語学習者が急増しているが、必ずしも学習者のニーズと教育方針が一致しているとはいえないようである。本フォーラムは、日本語学習者を対象に、先輩の経験談や日本における日本語教育の現状、日系企業を含む社会のニーズを紹介し、日本語を学ぶことによって広がる未来へのビジョンを提供することを第一の目標とする。そして、そのような若者の期待に応えるためにはどのような教育が必要とされているか提案することを第二の目標とする。フォーラムは日本語で行い、中国語への通訳はつけない。レポートは、助成金を得られれば、日本語から中国語に翻訳して2ヶ国語で発行する。

【パネルディスカッション】
総合司会: 孫 建軍(北京大学東語学部日本語学科講師、SGRA研究員)

進行:朴 貞姫(北京語言大学外語学院日語教研室主任、SGRA研究員)

パネリスト
@池崎美代子(JRP専務理事、SGRA会員)・・・ビジネス日本語とは
A在北京日系企業人事担当者・・・日本企業の求める人材
B徐 向東(キャストコンサルティング代表取締役、SGRA研究員)
...北京で日本語を学び日本で活躍する先輩
C北京で日本語を学び起業して成功した先輩、あるいは中国企業で成功した先輩



第24回SGRAフォーラム「ごみ処理と国境を越える資源循環」 Posted 2006.3.26 by imanishi
第24回SGRAフォーラムのお知らせ
「ごみ処理と国境を越える資源循環〜私が分別したゴミはどこへ行くの?〜」

■ 日時: 2006年7月22日(土)
午後2時00分〜9時00分

■ 会場: 鹿島建設軽井沢研修センター会議室

■ 会費:無料

■ プログラム
 
総合司会 全振煥(鹿島技術研究所主任研究員、SGRA研究員)

【発表1】鈴木進一(エックス都市研究所取締役)
「廃棄資源の国際間移動の現状と今後:アジアを中心として」(仮題)  
   
【発表2】間宮 尚(鹿島技術研究所上席研究員)
「EUの再生資源とリサイクル:ドイツを中心として」(仮題)

【発表3】李 海峰(北九州市立大学、SGRA研究員)
「アジアにおける家電リサイクル活動に関する調査報告」

【発表4】東南アジアの事例?

【パネルディスカッション】進行:高偉俊(北九州市立大学助教授)

詳細は企画書をご覧ください



第21回SGRAフォーラム「日本は外国人をどう受け入れるべきか:留学生 Posted 2005.9.30 by imanishi
テーマ:「日本は外国人をどう受け入れるべきか:留学生」

日 時: 2005年11月23日(水・祭) 午後2時30分〜5時30分 

会 場: 東京国際フォーラムG棟602会議室

主 催: 関口グローバル研究会 (SGRA:セグラ)

協 賛: (財)渥美国際交流奨学財団

協 力: 朝日新聞アジアネットワーク

後 援(交渉中):JAFSA(国際教育交流協議会)、JISSA(留学生奨学団体連絡協議会)留学生教育学会(JAISE)、日本留学生宿舎財団法人協議会


フォーラムの目的:

SGRA「人的資源と技術移転」研究チームが担当する「日本は外国人をどう受け入れるべきか」についての3回めのフォーラム。第1回は事実上の移民大国となった日本の現状と研修生の問題、第2回は外国人児童の不就学問題について考えたが、今回は、日本の留学生受け入れについて検討する。日本政府は1983年に日本に留学生を10万人受け入れようという政策を打ち出し、当初1万人に過ぎなかった在日留学生は2004年5月には117,302人に達した。数は順調に伸びたが、受入れ体制の整備が不十分だったために、学問を成就できない留学生も相当数存在し、また犯罪が起きて留学生のイメージが悪くなったり、留学生の対日観が悪くなったり、多くの問題を抱えている。一方、アジアを中心に留学はますます盛んになり、欧米、オセアニア、東アジア諸国では積極的な留学生誘致が繰り広げられている。日本国内では、国立大学は独立行政法人化され、私立大学は少子化による学生数の減少により経営難が激化すると見込まれ、大学は生き残りをかけて改革を進めているが、往々にして国際化もその戦略として取り込まれている。このように混沌とした状況の中、政府は10万人計画以後の積極的な政策を打ち出していない。グローバル化と地域化とナショナリズムがうずめくアジアの一員である日本は、今後どのような理念に基づいてアジアを中心とした各国からの留学生を受け入れるべきなのか考えてみたい。


プログラム:

ゲスト講演1:「アジア太平洋諸国の戦略的留学生政策」
横田雅弘(一橋大学留学生センター教授、JAFSA副会長)

ゲスト講演2:「外国人学生等の受入れに関する提言:留学生支援活動の現場から」
白石勝己(アジア学生文化協会、SGRA会員)
        
研究報告1:(韓国人元留学生の追跡調査)
鄭 仁豪(筑波大学助教授)

研究報告2:(タイ人元留学生の追跡調査)
カンピラパーブ・スネート(名古屋大学講師)

研究報告3:(中国人元政府派遣留学生の追跡調査)
王 雪萍(慶応大学博士課程、SGRA会員)

パネルディスカッション
    
進行:角田英一(アジア21世紀奨学財団、SGRA顧問)
   今西淳子(SGRA代表)

パネリスト:
   横田雅弘(一橋大学留学生センター教授、JAFSA副会長)
   白石勝己(アジア学生文化協会、SGRA会員)
   大塚 晶(朝日新聞社会部)
   徐 向東(キャストコンサルティング代表取締役、SGRA研究チーフ)



UA&P/SGRA 日本研究ネットワーク 共有された成長セミナー#3 Posted 2005.1.30 by maquito
テーマ:カビテ経済得区:共有された成長の観点からの分析
セミナー案内書(2005年1月26日現在)

日時:2005年4月20日(水)午後1時半から5時まで

会場:フィリピン、カビテ州ロサリオCEZIAクラブハウス

協賛,フィリピン側:Asia United Bank
協賛、日本側:三橋正明(P.IMES社長);藤井伸夫(SAN TECHNOLOGY社長);今西淳子(SGRA代表)

プログラムの概要
1. 開会挨拶
 藤井伸夫(SAN TECHNOLOGY 社長)
 トマス・アキノ博士 (フィリピン通産副大臣)
2. 経済特区レベルの分析:
「CEZ ベンチマークを利用する自己評価」
by フェルディナンド・C・マキト(UA&P 研究助教授;
SGRA 研究員; 東京大学経済博士)
3. 産業・地域レベルの分析:
「電子産業における企業環境分析」
by ピター・リー・ユウ (UA&P 産業経済プログラム ディ
レクター; パデュー大学経済学博士)
4. ネットワークのオンライサービス紹介
5. フィードバック・アンケート等

参加費: 3,000 ペソ
英語と日本語のスライドや配布資料を用意いたします

問い合わせ
Max Maquito (マックス・マキト): maquito@aisf.or.jp (英語・日本語)



UA&PとSGRA第2回共同セミナー Posted 2004.4.27 by maquito
テーマ:共有された成長を目指せ(フィリピン経済特区日系企業を通して効率性と平等性の向上を探る)
セミナー案内書(2004年4月27日現在)

日時:2004年3月26日(金)午後1時半から5時まで

会場:アジア太平洋大学(UA&P)PLDT会議室 Pearl Drive, Ortigas Center, Pasig City

プログラム
午後1:00 to 1:30:受付
午後1:30 to 1:40: 開会挨拶 (フィリピンに関する日本の観点) 今西淳子関口グローバル研究会(SGRA)代表、渥美国際奨学金財団常務理事
午後1:40 to 2:10: 経済特区分析の報告、 Dr. Ferdinand C. Maquito (フェルディナンド・C・マキト博士)アジア太平洋大学研究助教授、SGRA「日本の独自性」研究チームチーフ
午後2:10 to 2:40: 産業分析の報告、 Dr. Peter Lee U(ピター・リー・ユウ博士)アジア太平洋大学 産業経済プログラム ディレクター
午後2:40 to 3:00: 休憩
午後3:00 to 3:30:マクロ経済分析の報告、Dr. Bernardo M. Villegas (ベルナルド・M・ヴィレガス博士)アジア太平洋大学、副総長
午後3:30 to 4:00:国際リスク分析の報告、Prof.Victor Abola (ヴィクター・アヴォラ教授)アジア太平洋大学 戦略ビジスネス経済プログラム ディレクター
午後4:00 to 5:00: オプーン・フォー ラム

参加費: 3,000 ペソ
英語と日本語のスライドや配布資料を用意いたします

問い合わせ
Peter Lee U(ピター・リー・ユウ): peteru@uap.edu.ph (英語)
Max Maquito (マックス・マキト): maquito@aisf.or.jp (英語・日本語)



UA&P-SGRA共催日比経済研究セミナー Posted 2004.3.2 by maquito
Aiming for Shared Growth
共有された成長を目指せ
Enhancing Efficiency and Equity through Japanese Companies in Special Economic Zones
フィリピン経済特区日系企業を通して効率性と平等性の向上を探る

■日時:2004年3月26日(金)午後1時半から5時まで
■会場:アジア太平洋大学(UA&P)PLDT会議室
Pearl Drive, Ortigas Center, Pasig City
■プログラムは別紙参照ください。このセミナーでは、経済特区の日系企業の評価だけでなく、UA&Pのエコノミストが、フィリピン経済の展望や中国ファクターの評価についても発表いたします
■参加費:3000ペソ(受付でお支払いください)
■参加申込み・お問い合わせ:
Ms. Arlene Idquival  637-0912 to 26 ext. 362(英語)
Dr. Peter Lee U  peteru@uap.edu.ph (英語) 
Dr. Ferdinand Maquito maquito@aisf.or.jp (英語・日本語)


■プログラム

1時 (受付開始)
1時30分  開会挨拶 今西淳子 
関口グローバル研究会(SGRA)代表、渥美国際奨学金財団常務理事

1時40分 「2004年のフィリピン経済展望」
Dr. Bernardo M. Villegas (ベルナルド・M・ヴィレガス博士)
アジア太平洋大学、副総長

2時10分 「フィリピンにおける経済特区の評価」
Dr. Ferdinand C. Maquito (フェルディナンド・C・マキト博士)
アジア太平洋大学研究助教授・SGRA「日本の独自性」研究チームチーフ
2時40分 「2つの産業の物語:フィリピンにおける電子と自動車産業」
Dr. Peter Lee U(ピター・リー・ユウ博士)
アジア太平洋大学 産業経済プログラム ディレクター

3時10分 「中国に関する脅威と機会」
Dr. George Manzano (ジョージ・マンザノ博士)
アジア太平洋大学 応用ビジスネス経済プログラム ディレクター
Dr. Victor Abola (ヴィクター・アヴォラ博士)
アジア太平洋大学 戦略ビジスネス経済プログラム ディレクター

3時40分(休憩)

4時  研究内容と将来の研究課題についてのオープン・フォーラム
5時(閉会予定)

■英語と日本語のスライドや配布資料を用意いたします。

■SGRAの「グローバル化における日本の独自性」研究チームの活動の一環として、マキトによる下記の記事をご参照ください。

「日本の尊い非軍事技術」2002年12月6日の朝日新聞朝刊に掲載
(オンライン版は次のURLをご参照ください)
http://www.asahi.com/international/aan/column/021206.html
「『古い日本』の良さに学ぶ 」2002年8月2日の朝日新聞朝刊に掲載
(オンライン版はつぎのURLをご参照ください)
http://www.asahi.com/international/aan/column/020802.html



第7回日韓アジア未来フォーラム「東アジア協力の過去、現在、未来:日韓アジア未来フォーラムのあり方を念頭に置きながら」 Posted 2008.2.1 by imanishi
■日時:2008年2月23日(土)午後2時〜6時

■会場:グアムの大学会議室(調整中)

■主催: (財)韓国未来人力研究院

 協賛: 関口グローバル研究会、(財)渥美国際交流奨学財団

■フォーラムの趣旨:

2001年始まった日韓アジア未来フォーラムが今年度で7年目を迎えた。本フォーラムではこれまで日本と韓国をはじめアジアの平和と繁栄、共通の文化、そして望ましい国際交流のあり方などについて幅広く話し合ってきた。今回のフォーラムでは日韓両国で3回ずつ行われたこれまでのフォーラムの成果と意義、問題点などについてふりかえながら、東アジア協力の過去、現在、未来について議論するとともに、これからのフォーラムの進め方などについて考えることにする。具体的にはフォーラムの成果、政治安保、経済、文化分野における東アジア協力の展開と新たなビジョンについて報告としてお願いし、その後、自由に意見交換を行いたい。必要に応じ日韓逐次通訳つき。

■プログラム: 

総合司会: 李 元徳(国民大学副教授)(調整中)

【開会の辞】 李 鎮奎(未来人力研究院院長、高麗大学経営学部教授)

【挨拶】 今西淳子(SGRA代表、渥美国際交流奨学財団常務理事)

【報告1】これまでの日韓アジア未来フォーラムの成果
       (韓国開催分)金 雄煕(仁荷大学、未来人力研究院)
       (日本開催分)嶋津忠廣(SGRA)
【報告2】東アジアの協力と競争:新たなビジョンを求めて
       孫烈(調整中)
【報告3】北東アジア経済協力の展望
       李 鋼哲(北陸大学、SGRA研究員)
【報告4】東アジア地域協力におけるアセアンの役割
       F.マキト(SGRA研究員)
【報告5】東アジアの安全保障と共同体論
       木宮正史(東京大学)
【報告6】東アジア協力におけるソフトパワー
       韓 準

【パネルディスカッション】「日韓アジア未来フォーラムのこれから」



第31回SGRAフォーラム「水田から油田へ:日本のエネルギー供給、食糧安全と地域の活性化」 Posted 2008.2.1 by imanishi
下記の通り第31回SGRAフォーラムを開催いたしますのでご案内いたします。参加ご希望の方は、ファックス(03-3943-1512)またはemail
(sgra.office@aisf.or.jp)でSGRA事務局宛ご連絡ください。当日参加も受付けますが、準備の都合上、できるだけ事前にお知らせくださいますようお願いいたします。SGRAフォーラムはどなたにも参加いただけますので、ご関心をお持ちの皆様にご宣伝いただきますようお願い申し上げます。

日時:2008年5月10日(土)午後2時30分〜5時30分 その後懇親会

会場:東京国際フォーラム ガラス棟G610会議室
http://www.t-i-forum.co.jp/function/map/index.html

参加費:無料(フォーラム後の懇親会は、会員1000円・非会員3000円)

申込み・問合せ:SGRA事務局
Email: sgra.office@aisf.or.jp
TEL: 03-3943-7612, FAX: 03-3943-1512

■フォーラムの趣旨

現在、石油に代わるエネルギーとして、農地から収穫されるバイオエタノールに世界中の熱い視線が集まっています。バイオエタノールは、サトウキビや穀物などの農産物をアルコール発酵させて製造します。また、木材や農産物の茎葉などに含まれるセルロースを原料にする方法も研究されています。石油などの化石燃料と異なって永続的な生産が可能であり、CO2を増加させないクリーンなエネルギーです。

一方、日本では、コメ余りによる生産調整で、水田の約4割が転作を強いられています。多くの農山村では高齢化が進み、集落の維持すら困難になってきたところもあります。もし、バイオエタノール用のコメ栽培という仕事ができれば、年々増える農地の荒廃を防ぐとともに、稲作技術の伝承を図ることができ、村に人が残ります。崩壊寸前の地域の暮らしから、国のありよう、地球規模での環境問題にまでつながるバイオエタノールですが、それですべてが解決されるわけではありません。世界60億人のうち、飢餓人口が8億人いる時代に、食料を燃料として使うことの是非や、エネルギーの大量消費に支えられたライフスタイルの見直しなど、世界横断で論議すべき課
題がたくさん含まれています。

農林水産省は大規模製造プラントのモデル事業を公募し、昨年6月初旬に、福岡県築上町など6地区の中から候補地を選びました。これから本格生産の一歩を踏み出す運びですが、構想実現までには数多くの壁があります。

本フォーラムは福岡県築上町の米エタノール化地域モデル−水田を油田にするための事業構想を紹介しながら、エネルギー、環境、農業の融合を考えます。

■プログラム

詳細は下記URLをご覧ください。
http://www.aisf.or.jp/sgra/schedule/forum31program.doc

○基調講演:東城 清秀(東京農工大農学部 准教授)

「エネルギー、環境、農業の融合を考える:バイオマス利用とエネルギー自給・地域活性化」

自然と共生し、自然の恵みを享受してきた日本の農業は、戦後の高度経済成長期を経て、専作化と大規模化を進め、肥料やエネルギーを大量に消費する多投多収型の生産構造に変わった。また、1985年プラザ合意後は高い円の為替レートを背景にして、海外から輸入する穀物飼料や食料を増加させ、それらの国内自給率を低下させた。また、長く続いた減反政策や転作奨励によって、農業従事者の農業生産意欲は薄れ、高齢化とともに多くの耕作放棄地や不作付け地を生じさせている。この結果、農村地域で窒素等の栄養物質のバランスを維持させることはできず、生産基盤である農地の循環機能の低下を招き、同時に河川や地下水等の汚染を増大させてきた。しかし、1997年京都会議や2000年循環型社会基本法の制定を機に行政関係者ばかりでなく農業従事者も環境を意識した循環型で保全型の農業に大きく舵を切りつつある。さらにBSEや残留農薬事件などは農業生産過程の透明性や食料の安全性を進める契機となった。そして、この2、3年の石油燃料の高騰とバイオ燃料ブームである。バイオマスのエネルギー利用はまだ始まったばかりであるが、地域発の地球環境問題解決策として期待は大きい。講演では、このような農業を取り巻く状況の変化を返り見ながら、今後のエネルギー・環境・農業の展開とバイオマス利用について考えたい。

○事例報告:田村 啓二(福岡県築上町産業課資源循環係)

「福岡県築上町の米エタノール化地域モデル:水田を油田にするための事業構想」

日本農業とりわけ稲作農業の現状は、お米の消費の減退で転作率40%を越える中で危機に瀕している。全国240万haの水田のうち100万haでお米の生産が出来ないあるいは、放棄されている。

お米の新たな需要を喚起する以外に水田農業は、衰退の一途をたどるしかない。そこで、新たな需要として燃料化を模索した。すなわちエタノール化である。食料だけでなく飼料化、燃料化でお米の新たな需要と役割を水田が担うことで、減産から増産への新たな道程を確保したい。

しかし、原料としてのお米とエタノール原価との価格差やエタノール流通の社会的、法体系の未整備で前に進めない状況が存在している。バイオ燃料法案の取り扱いの様子を窺いつつ、地域農業と雇用・農業と工業の連携・農村での新産業と向き合いつつ、お米のエタノール化を進めたい。

○パネルディスカッション

司会:高 偉俊(北九州市立大学国際環境工学部教授、SGRA研究員)
コメンテーター:外岡 豊(埼玉大学経済学部教授、SGRA顧問)
パネリスト:上記講演者



第30回SGRAフォーラム「教育における『負け組み』をどう考えるか」 Posted 2007.11.9 by imanishi
第30回SGRAフォーラム
教育における『負け組み』をどう考えるか
〜 日本、中国、シンガポール 〜

■日 時:
2008年1月26日(土)
午後2時30分〜5時30分 その後懇親会

■会 場:東京国際フォーラム ガラス棟G610会議室

■フォーラムの趣旨

SGRA「グローバル化と地球市民」研究チームが担当する6回目のフォーラム。グローバル化の中で、漢字文化圏を中心に教育の大競争が起きている。激しい受験戦争に勝つのはほんの一握りの人たちであり、不利な立場に立たされた「負け組み」はどうなるのか。教育こそが下から上にあがるための武器となるべきものであるのに、それが機能しているだろうか?このような問題意識を持ちながら、日本、中国、シンガポールの教育事情を紹介し、教育格差の問題にどう取り組めばよいのかを考える。100人いれば100の教育論があると言われるが、このフォーラムではデータに基づく研究を紹介していただいた後、皆さんと一緒に教育格差の問題を考えたい。

■プログラム

詳細は下記URLをご覧ください。
http://www.aisf.or.jp/sgra/schedule/forum30program.doc

【発表1】佐藤 香
(東京大学社会科学研究所准教授)
「日本の高校にみる教育弱者と社会的弱者」

日本の教育システムの特徴の一つに、高校・大学におけるきわめて精密な序列化があげられる。とりわけ高校は、教育だけでなく研究や規模・学費など多様な要因から評価される大学とは異なり、学力のみによる一元的な階層構造を形成している。この階層構造を支えているのは、教育機会の均等とメリトクラシー(業績主義)という2つの前提である。そのなかで、高校生たちは、在籍している高校の階層に適応した進路、すなわち進学校であれば威信の高い4年制大学、普通科中堅校であれば中堅大学や専門学校、普通科下位校や専門高校であれば就職といったように、特定の進路に強く水路づけられてきた。また、それぞれの高校には、それらの進路とも結びつくような独自の生徒文化が存在した。
けれども、1990年代なかばからの長期にわたる経済不況によって高卒労働市場が著しく縮小したためもあって、従来、就職をおもな進路としてきた高校では、生徒の進路保障が困難になった。その一方で、教育システムの外部では社会・経済的な格差が拡大してきている。こうしたなかで、社会・経済的な弱者が教育弱者になる傾向が強まりつつある。
報告では、東京近郊にあるA県の公立高校のデータをもちいて社会的弱者と教育弱者との結びつきをみたうえで、それの問題点を指摘する。さらに、教育機会の均等とメリトクラシーという、日本の教育システムにおける2つの前提についても、会場の皆さんと再考してみたい。


【発表2】 山口真美
(アジア経済研究所研究員)
「中国の義務教育格差〜出稼ぎ家庭の子ども達を中心に〜」

経済発展が進み、教育の役割がますます大きくなる中国で、制度的に教育機会を奪われている子ども達がいる。都市に住む出稼ぎ労働者の子ども達である。彼らの多くが都市生まれだが、学齢に達しても都市の学校は彼らを無条件では受け入れない。出稼ぎ労働者の多くが子どもの将来に希望を託し、教育を重視しているにもかかわらず、子どもの教育機会は義務教育の入り口で大きな壁につきあたっている。
報告では、この背景にある中国の教育制度と社会制度の問題点を考え、それに対する草の根と政府それぞれの取り組みを紹介する。義務教育における教育格差の問題について、皆さんと共に考えてみたい。


【発表3】シム・チュン・キャット
(東京大学大学院教育学研究科博士課程)
「高校教育の日星比較〜選抜度の低い学校に着目して〜」

どこの国でも、学校教育段階のどこかで何らかの基準をもとに、生徒を「分化」しなければならない。分化の仕方はさまざまであり、アメリカの高校のように学校内に分化したコースを設ける場合もあれば、多くのヨーロッパの国やシンガポールに見られるように進路によって学校が分かれる場合もある。さらに、日本の高校のように学校間格差という形で生徒をふるい分ける国もある。形態はともあれ、生徒の分化における一番の問題は、下位の学校やコースに振り分けられた、いわゆる「負け組み」の生徒の「やる気」や意欲をいかに保つかということである。この点において日本とシンガポールとでは大きな違いがあり、その違いを浮き立たせることが本報告の主眼パネル

■オープンフォーラム

進行:孫 軍悦
(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)
パネリスト:発表者全員



第29回SGRAフォーラム 「広告と社会の複雑な関係」 Posted 2007.8.8 by imanishi
日 時: 2007年11月18日(日)
午後2時30〜5時30分 その後懇親会
会 場: 東京国際フォーラム ガラス棟会議室 G510号室
主 催: 関口グローバル研究会 (SGRA:セグラ)
協 賛: (財)渥美国際交流奨学財団

■フォーラムの趣旨:
SGRA「人的資源・技術移転」研究チームの担当する4回めのフォーラム。広告は社会を写す鏡なのか。どのように写しだすのか。大量消費文化を反映するものなのか、それとも何がしかのプロパガンダが含まれているのか。単に物を売るためだけでなく、新しい思想、新しいライフスタイルを啓蒙するものなのか。広告は国や文化によって違った特徴をもっているのか。中国やウクライナの事例を紹介しながら、広告と社会の複雑な関係を考えます。
                                  
■プログラム:
詳細は下記URLをご覧ください。
http://www.aisf.or.jp/sgra/schedule/forum29program.doc

【基調講演】関沢英彦
東京経済大学コミュニケーション学部教授

【報 告 1】徐 向東
(株)中国市場戦略研究所、SGRA研究チーフ

【報 告 2】オリガ・ホメンコ
早稲田大学国際教養学部訪問学者、学術振興会外国人特別研究員、SGRA研究員

(休憩10分)

【パネルディスカッション】
上記講演者



第2回SGRAチャイナ・フォーラム「黄土高原緑化協力の15年」 Posted 2007.7.7 by imanishi
第2回SGRAチャイナ・フォーラムへのお誘い

講演:高見邦雄(緑の地球ネットワーク事務局長)
「黄土高原緑化協力の15年:無理解と失敗から相互理解と信頼へ」


下記の通り第2回SGRAチャイナ・フォーラムを北京とウルムチにて開催いたします。
参加ご希望の方は、ファックス(03-3943-1512)または電子メール(sgra.office@aisf.or.jp)でSGRA事務局宛ご連絡ください。当日参加も受付けます。SGRAフォーラムはどなたにも参加いただけます。日中同時通訳がつきますので、北京・ウルムチ在住の皆様にご宣伝いただきますようお願い申し上げます。

■フォーラム案内

<北京大学フォーラム>
日 時: 2007年9月14日(金)午後2時〜5時
会 場: 北京大学生命科学学院
現地申込み・問合せ:孫 建軍 alashanqi@gmail.com

<新彊大学フォーラム>
日 時: 2007年9月17日(月)午後2時〜5時
会 場: 新彊大学大学院報告庁
現地問合せ:Abliz Yimit  abliz220@yahoo.co.jp (事前申込み不要)

参加費:無 料
申込み・問合せ:SGRA事務局 
Email: sgra.office@aisf.or.jp
TEL: 03-3943-7612
FAX: 03-3943-1512

■フォーラムの趣旨

2006年10月に北京大学で開催したパネルディスカッション「若者の未来と日本語」に引き続き、中国で開催する2回めのSGRAフォーラム。今回は、既に15年間、中国山西省大同市の黄土高原で緑化運動を続けている日本の認定NPO法人「緑の地球ネットワーク」事務局長の高見邦雄様にご講演いただきます。日中同時通訳付き。SGRAでは、中国各地で活動を続ける民間人による公益活動を、北京大学をはじめとする中国各地の大学で紹介するフォーラムを開催していきたいと思っています。

■講演要旨

緑の地球ネットワークは1992年以来、山西省大同市の農村で緑化協力を継続している。大同市は北京の西300kmほどのところにあり、北京の水源、風砂の吹き出し口でもある。そこで深刻な沙漠化と水危機が進行している。「ゼロからの出発」とよくいうが、歴史問題をかかえた大同ではマイナスからのスタートだった。初期は失敗つづきだったが、その後、日本側の専門家や中国のベテラン技術者の参加をえて、だんだんと軌道に乗ってきた。協力の双方も失敗と苦労を通じ、お互いを理解し、信頼しあうようになってきた。いまでは「国際協力の貴重な成功例」とまで評価されるようになっている。その経験と教訓を話したい。

■講師略歴

1948年鳥取県の農家に生まれる。東京大学中退。日中民間交流に従事したあと、1992年緑の地球ネットワークの設立に参加し、大同プロジェクトを担当。1994年から事務局長。毎年100〜120日、大同に滞在している。友誼奨(2001年、中国政府)、大同市栄誉市民(2006年、大同市政府)など受賞。中文の著書に『雁棲塞北〜来自黄土高原的報告』(李建華・王黎傑訳、国際文化出版公司、2005年)がある。

緑の地球ネットワーク
http://homepage3.nifty.com/gentree/



第27回SGRAフォーラム 「アジアの外来種問題を考える:自然と文化の多様性を守るために」 Posted 2007.1.24 by imanishi
第27回SGRAフォーラム in 秋葉原
「アジアの外来種問題〜ひとの生活との関わりを考える〜」

日 時:2007年5月27日(日)
    14:30〜17:30 
    その後懇親会

会 場:秋葉原UDX南6階コンファランス
*JR秋葉原駅「電気街」改札口をでて右へ。2階デッキを渡って2階入り口から入ってください。

主 催: 関口グローバル研究会 (SGRA:セグラ)

協 賛:(財)損保ジャパン環境財団
(財)渥美国際交流奨学財団
鹿島建設株式会社

協 力:(財)自然環境研究センター

フォーラムの趣旨:

SGRA「環境とエネルギー」研究チームが担当する6回めのフォーラム。
私たちのまわりには、飛行機や船によって持ち込まれたさまざまな生きものが「外来生物」として定着している。ブラックバスをはじめとする外来生物は、そこにもともといた「在来生物」に悪影響を及ぼすものとして大きな問題になっている。しかしながら、ありとあらゆるものが「外」からはいってきて定着し、在来生物を駆逐していくのは、人類の歴史が経験していることである。外来生物の何が問題なのか。グローバル化がますます進む中で、東南アジアや日本の事例をとりあげ、私たちがしなければならないことは何なのか一緒に考えたい。


プログラム:

詳細は:プログラム をご覧ください。

【基調講演】多紀保彦(自然環境研究センター理事長、長尾自然環境財団理事長、東京水産大学名誉教授)
「外来生物とどう付き合うか〜 アジアの淡水魚を中心に 〜」

【講 演1】加納光樹(自然環境研究センター研究員)
「外来生物問題への取り組み〜いま日本の水辺で起きていること〜」

【講 演2】プラチヤー(カセサート大学水産学部講師、SGRA研究員)
「インドシナの外来種問題〜魚類を中心として、フィールドからの報告〜」

【パネルディスカッション】進行:今西淳子(SGRA代表)



第5回日韓アジア未来フォーラム「親日、反日、克日」 Posted 2006.9.29 by imanishi
第6回日韓アジア未来フォーラム「親日・反日・克日・親韓・嫌韓」
(このフォーラムは非公開で開催されます)

日 時: 2006年11月5日(日)午後
会 場: 鹿島建設葉山研修センター会議室
主 催: 関口グローバル研究会 (SGRA:セグラ)
協 賛: (財)韓国未来人力研究院 
     (財)渥美国際交流奨学財団

フォーラムの趣旨:
韓国人の対日感情、日本人の対韓感情は複雑である。本フォーラムでは、近代から現在に至るまでの日本と朝鮮半島との「人の交流」についての最近の研究成果を主題発表としてお願いし、その後、自由に意見交換を行いたい。

プログラム: 
総合司会: 金 雄熙(仁荷大学助教授、SGRA研究員)
【開会の辞】今西淳子(SGRA代表、渥美国際交流奨学財団常務理事)
【挨拶】李 鎮奎(未来人力研究院院長、高麗大学経営学部教授)
 【研究発表1】金 範洙 (キム・ボンス:茨城キリスト教大学講師、SGRA研究員)
 【研究発表2】玄 大松(ヒョン・デソン:東京大学東洋文化研究所助教授)
 【研究発表3】小針 進(静岡県立大学国際関係学部助教授)予定
 【研究発表4】(交渉中)
 【フリーディスカッション】フォーラム参加者全員



UA&P/SGRA 日本研究ネットワーク セミナー Posted 2006.3.26 by maquito
Aiming for Shared Growth
共有された成長を目指せ
Sources of Export Production Efficiency in the Economic Zones
特区における輸出生産の効率性の源

■日時:2006年4月18日(火)午後2時から5時まで
■会場:アジア太平洋大学(UA&P)
Pearl Drive, Ortigas Center, Pasig City
■プログラムは別紙参照ください。このセミナーでは、EAST ASIA DEVELOPMENT NETWORKなどから受賞した研究助成金の結果を一般人に報告されると同時に日比友好年の祝いの一環としても実施される
■参加費:無料
■参加申込み・お問い合わせ:
Ms. Arlene Idquival  637-0912 to 26 ext. 362(英語)
Dr. Peter Lee U  peteru@uap.edu.ph (英語) 
Dr. Ferdinand Maquito maquito@aisf.or.jp (英語・日本語)

プログラムに関してはここからご覧ください。



香港と中国でのフォーラム Posted 2005.10.1 by maquito
フィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)とSGRAで立ち上げた日本研究ネットワークの活動の一環として、マキトは中国の広東省と香港特別行政区にてフォーラムに参加することになった。マキトは初めての中国である。香港でのフォーラムは2005年11月1日から3日までGOLD COASTホテルで開かれ、East Asia Development Network (世界銀行が主催するGlobal Development Networkの傘下にある開発経済の研究ネットワーク)から受賞した助成による研究の中間報告が行われる。この研究は正式に今月からスタートして来年の4月までUA&Pのピター・リー・ユ先生とシッド・テロサ先生との共同で進められている。研究テーマは「フィリピンの特区は共有型成長の触媒になるのか」というSGRAが2年前から始めた研究である。香港のフォーラムは中国語が話せるユ先生と同行なので面白い発見もありそうではないかという期待がある。

引き続き、お招きをいただいたので、11月4日から7日まで香港政策研究所や広東省社会科学院の主催によるフォーラムにUA&P・SGRA共同研究チームの代表として一人で参加し、香港から広州市に途中で移動する予定である。フォーラムのテーマは"A Tale of Two Regions: China's Pan-Pearl River Delta and ASEAN Cooperation for Mutual Benefit"(二つの地域の物語:共同利益のための中国の汎珠江デルタとASEANとの協力)

 オンライン記事をご参照ください

テーマは関心のある経済特区とも関係があるし、中国大陸への訪問チャンスでもあるので参加を申請させていただいた。父の父の父の国に初めて足を踏むことになるだけにちょっとわくわくしている。

SGRAかわらばん
 


洪ユンシン「思いを形にすることについて〜宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に係わりながら〜」 Posted 2008.6.18 by imanishi
(SGRAエッセイ#138) 

一つの思いが形になる際、そこには、何が残るのか。宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に関わって一年が過ぎようとしている。その間、私は、「何故、沖縄なのか」「何故、宮古島なのか」という質問に度々出会い、政治的な目的や背景があるのではないかと批判され、時には、「女性を偶像化するな」とも言われてきたものだ。この碑をめぐる疑問と質問に、今日は答えたい。私/私たちは、ただ、思いに触れて、その思いを思うがままに行動に移した一人、一人の個人であると。ごく単純に、日本軍「慰安婦」のことを忘れず、彼女の休んだ場所に大きな石を置いて、誰か「朝鮮」から人が来ないかと待っている素朴な農民がいた。そして、彼の証言を聞き、その思いに触れた者達が集まってきたのだと。それで納得いかないと言うなら、今日は、実際に起きた出会いを語ることで、宮古島に建つ日本軍「慰安婦」のための碑に関わった経緯を説明しよう。実行委員会のメンバーとしてではなく、何の目的も持たない私自身の思い出として。

「沖縄戦と朝鮮人」の関係を研究している私は、2006年10月と12月宮古島を訪れた。韓国でインタビューをした朝鮮人軍夫のうち、最も病弱な方が宮古島に強制動員されていたからである。私と宮古島の縁は、このような一人の朝鮮人軍夫との出会いで始まった。部屋に入るや否や「では始めましょう」と正座をしたその方は、始終、姿勢を正し冷静な語調で話をしてくれたが、何処か不安そうに見えた。「動物のなかで一番信用できないのは人間だ」という口癖のような言葉が、私を不安にさせたのかもしれない。彼は、何故か、「慰安所」の話だけは、すべて日本語で語っていた。傍でただ話しを聞くだけだったおばあさんが、「私は『挺身隊』にいかされると聞き、顔もしらないこの人と結婚したのよ」と呟いた一言で疑問は解けたが、あの深いため息や、彼のインタビューが終わるまでイライラしていた彼女の、どこか寂しそうな横顔を、私は忘れることが出来ない。インタビューの終わり頃、おじいさんが前日までは座ってご飯も食べられないくらい元気を失っていたことを知らされた。おばあさんは何と退院の直後であったことも知った。沖縄に出来た「恨の碑」の除幕式に行きたかったけれど、体調が悪いためいけなかったと寂しげに語るおじいさんだった。そのとき宮古島の写真を送ろうとひそかに決めていた自分がいた。こうして、私は、宮古島に足を運ぶことになった。

調査を始めると、思いもよらない証言や人の思いに出会った。この島では、井戸など住民が生活している空間のすぐ傍に「慰安所」があったということが分かった。3万人もの日本兵が駐屯していたため、住民より軍が目立つほどだったという。沖縄本土と違い、山の少なかった宮古島では、軍が組織的に作った「慰安所」を、住民の目から隠すことは不可能に近かったことも分かった。生活空間のすぐ傍にいた朝鮮人軍夫や「慰安婦」の方々の苦労を、宮古島の住民は、生々しく覚えていた。この島で、私は、しばしばあの朝鮮人元軍夫とその妻の寂しげな横顔を思い出させる証言者に出会ったのだが、それは、戦争を経験したおじいさんの顔だったり、この島で何度も危機にさらされたおばあさんの横顔だったりした。その一人が、与那覇博敏さんである。

与那覇博敏さんは、戦時中宮古島で日本軍の司令部が置かれていた地域に住んでいた。そして、彼の実家のすぐ傍に、長屋の慰安所があり、朝鮮人の女性数人が居たという。水の貴重な島では洗濯をするにしろ、井戸に行かねばならない。彼女たちは、坂道を登ってその井戸まで洗濯に出かけた。そしていつも、与那覇さんの実家の前にあった木の下で腰を下ろして休んでいたという。与那覇さんは、彼女たちのことを忘れまいと、石を置いたと話してくれた。そして、二度目の調査の際に、「この石に、韓国語で名前を付けてほしい」と頼まれた。東京に戻ると、どうしても碑を建てたいのだと、一生懸命書かれている与那覇さんの手紙が待っていた。それは与那覇さんの強い希望だった。

2006年、私は、尹貞玉(ユン・ジョンオック)先生の沖縄調査に偶然、同行する機会を得た。宮古島調査からの帰りだった。ユン先生に、与那覇さんという宮古島の人の思いを伝えたところ「彼のように自分を覚えている人が居ることを知ったら、おばあさんたちは、どんなに喜ぶでしょうか」と、碑を建てることにすぐ賛同してくださった。こうして、2007年5月、ユン先生を団長とする「韓国・日本・沖縄」共同調査団が、宮古島に足を運ぶことになった。新聞記事を読んで、那覇滞在の宮古戦体験者の方々からも証言したいと声が寄せられた。同調査団に参加し、どうしても碑を建てたいという与那覇さんの話を聞き、その思いの強さに感動した「聞き手」を中心に、直ちに募金活動が始まった。  

2008年、二度目の共同調査を実施。合計15箇所の「慰安所」がこの島にあったことを確認した。宮古島に動員された「慰安婦」の方が韓国に生存していることも確認された。現在(2008年4月)、宮古島・東京・韓国に実行委員会が結成され、広く募金を呼びかけている。証言調査も同時に進めており、16番目の「慰安所」を確認した。沖縄の「慰安所」は130箇所だといわれてきたが、その10分の1以上がこの島に存在したことになる。そして、与那覇さんのようなたくさんの住民が彼女たちについて語っているのである。 
 
2008年8月15日、私たちはこの島の与那覇さんの土地に「日本軍『慰安婦』のための碑」を建てる。私たちは女性を表象化する何の彫刻も建てない。ただそこには、日本軍「慰安婦」であることを強いられた韓国のおばあさんたちの多くが自分自身をその花にたとえ、好んでいた花、ドラジコット(キキョウの花)を一輪置く。宮古島の暑い夏、かつて彼女たちがそうだったように、「希望の木」(2007年5月植木)がこの石に、大きな木陰を作ってくれるだろう。そして、いつか、あの木の下で休もうと、腰を下ろす旅人は、この真っ黒い琉球岩石を、守っているかのように囲んでいる私たちのメッセージと、小さいキキョウの花畑に出会える。そして「慰安婦」となった女性たちの10カ国の言語で刻まれた次の言葉を読むだろう。

「日本軍による性暴力被害を受けた一人ひとりの女性の苦しみを記憶し、全世界の戦時性暴力の被害者を悼み、二度と戦争のない平和な世界を祈ります。」

旅人がこの祈りの文を読み終わった後に、あの与那覇さんの石に目を留め、この場所に連れてこられた女性たちへ思いを馳せてくれればよい。あの戦争中戦場となり日本軍の要塞となった沖縄で生まれ今も米軍基地と共に行き続ける人々の思い出と、ここに座り込んでいた「慰安婦」にさせられた女性たちの記憶は、「希望の木」を植えた人々の手触りの暖かさに包まれる。飾りのない素朴な琉球岩石が、寂しく見えるはずはない。そして、この場をたまたま訪ねた人々の思いが、そもまま「祈り文」となるだろう。これらの営みは、決して形などに留まることのない未来への強い希望として働きかけるはずだ。人の思いは形などに留められない。ただ生きているその人自身の「思い」そのもの、ごく普通の人間の思いそのものが、歴史を動かす力となることを、私は、多くの日本軍「慰安婦」証言者や沖縄戦の語り部に学んだ。それを信じている。 

・ ・・「あなたの思いとして、募金と寄付を、募ります。」
                 
宮古島に日本軍「慰安婦」の祈念碑を建てる会
●代表:与那覇博敏・尹貞玉・中原道子・高里鈴代
●賛同金:一口2千円。
●郵便振替口座:00150-9-540937
●連絡先:(沖縄)宮古島平良西里989−1
     (東京)東京都杉並区阿佐ヶ谷南1−8−6

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<洪ユン伸(ホン・ユンシン)☆ Hong Yun Shin>
韓国ソウル生まれ。韓国の中央大学学士・早稲田大学修士卒業後、早稲田大学アジア太平洋研究科博士課程在学中。学士から博士課程までの専攻は、一貫して「政治学・国際関係学」。関心分野は、政治思想。哲学。安全保障学。フェミニズム批評理論など。現在、「占領とナショナリズムの相互関係―沖縄戦における朝鮮人と住民の関係性を中心に」をテーマに博士論文を執筆中。SGRA会員。
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キン・マウン・トウエ「ナルギス被災者支援プロジェクト第一回活動報告」 Posted 2008.6.14 by imanishi
(SGRAエッセイ#137) 

2008年6月7日朝5時、空はかなり曇っています。今日は、必ず雨が降るでしょう。本日、ミャンマーのサイクロン被害者の方達へ支援活動を行うために、2つのボランティア・グループが合流し、現地へ行くことになっております。最近、政府からは、被害者への支援を行う場合、現地まで行き、直接被災者の方達へ手渡しするようにという正式発表がありました。今回は、私のナルギス被災者支援プロジェクトの運営ボランティア・グループ9名と、友人のミャンマー国内のボランティア・グループから12名が活動に参加してくれました。

集合場所に6時と言うことでしたが、その前にそれぞれ集まりました。準備した支援物資を2台の小型トラックへ運び込み、6時30分に出発しました。今回の支援物資は、お米、食油、玉ねぎ、ジャガイモ、薬、石鹸、国内の古着、スリッパ、お金一部を用意しました。私のプロジェクトから日本円で15万円と友人のボランティア・グループから30万円をあわせて予算を作りました。

活動する対象としては、ヤンゴンから海の方向に存在するクンチャンコン地区ペーコン村を選びました。多くの被害地がありますが、私達の支援物資の量、現地の被害者家族の状況、今までの連絡係りの準備などを考慮して、ヤンゴンから車と船で約4時間で行けるペーコン村になりました。

車で移動している間、午前8時ごろには大雨だったので心配しましたが、9時前には曇りの状態に戻りました。被害地に入ると、周囲を撮影しながら、船乗り場へ到着しました。ボランティアの皆さんの力で資材を船まで運び、再度海へ出発しました。ヤンゴンで被害を受けた建物とは違い、小さい家や古い精米工場が多く存在し、全てがサイクロンの影響を受けました。復興は1ヶ月経っても、まだまだです。

11時半ころペーコン村に無事に到着しました。村の子ども達が我々を笑顔で迎えてくれました。桟橋が今にも落ちそうなので十分注意ながら支援物資を運び、一人分の支援物資をいれた袋を皆で準備しました。私は、村の子ども達と一緒に、村を回って見ました。ほとんどの家がサイクロンの影響を受けて、どうにか居住できるような状態に直してあります。村の学校もレンガのみ残っています。村の人々は、我々が来たことをたいへん喜んでいます。今までUNICEFから2回、民間支援者達から数回しか、支援物資を受け取っていないようです。

学校が被害を受けた関係で、現在はお寺を借りて学校として勉強しているようです。子ども達は「いつになったら私達の学校ができるか分からない」と言うのを聞いて、私の胸が痛みました。村の73歳の方と会ったときも、「あなた方が来てくださって大変嬉しい。出来る力で、この村のことをお願います」と言われ、「はい」と答えましたが、何とも言えない気持ちになりました。ヤンゴン市内の被害者の場合は、ある程度自力で回復する力がありますが、この村は今後どうなるでしょう。

一方、我々の活動に協力してくれた現地の方は、精米所を持っています。そして、かなりの米を生産する農地も持っています。しかし、工場も、在庫のお米も全てだめになり、農地も塩水が入って、大変な情況です。生活レベルに差があったとしても、この地域に住む全ての人々がサイクロン被害を受けました。彼自身が回復ために、かなりの資金力で頑張らなければなりませんが、一般の人たちは、もっと大変でしょう。政府からの支援については話は聞いていますが、でも...

今回サイクロンの被害を受けた全地域が、ミャンマーで第一の米の生産地であり、精米所も多く存在しています。雨季がきて生産時期が始まりましたが、なかなか準備に入れない人が多いです。今まで農業に使用してきた水牛や牛なども約15万匹がいなくなってしまいました。これから機械農業に展開していくといっても簡単なことではありません。政府や国内支援企業の一部から、農業機械の配分があっても、全ての農民に届くチャンスは少ないでしょう。

我々の支援物資は、彼らが一週間生活するのに役立つかもしれませんが、彼らの将来のことまでは、力が及びません。今回支援を行ったことに対して、喜びと悲しみを同時に感じています。

今後の支援方法について考えています。今回のように一週間分の支援物を準備するか、彼らの将来に役立つ事をするかが、課題になっています。例えば、雨季に米栽培用タネを我々が出来る範囲で準備すると、彼らのためにもっと役立つのではないでしょうか。ヤンゴンへの帰り道は、頭の中でいろいろなことを思い巡らしていました。この267世帯の村でもさまざまな問題が生じていますが、被災地全部ならかなりの力が必要であり、被災者自身の強い心と力も必要です。

皆様、私の小さなナルギス被災者支援プロジェクトにおけるご協力やご支援に関して本当にありがとう御座いました。今後もよろしくお願い致します。

活動の写真を下記URLよりダウンロードしてご覧ください。

http://www.aisf.or.jp/sgra/SGRAnews/NAP_Report-Slides.pdf

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<キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe>
ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。
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【募金のご報告】森 峰生

12日(木)現在,4団体と18名の方々から総計602,295円の募金をお預かりいたしております.
そのうち,15万円を第1回活動費の一部に使用して,残額452,295円です.

★キンさんのプロジェクトにさらにご協力いただける方は、募金趣意書を下記URLよりダウンロードしてください。

http://www.aisf.or.jp/sgra/SGRAnews/MyanmarDonation.doc

ポスターを下記URLよりダウンロードしていただけます。

http://www.aisf.or.jp/sgra/SGRAnews/AidPoster.pdf



李 垠庚「あらためて死刑制度を考える〜光市母子殺害事件の教訓〜」 Posted 2008.6.11 by imanishi
(SGRAエッセイ#136) 

ある日、テレビをつけると、レギュラー番組が中断され、裁判所の前でレポーターが叫ぶように何かを伝えていた。

「元少年に死刑判決が下されました。あらためて申し上げます。死刑判決が下されました」

1999年山口県光市で起きた、いわゆる「光市母子殺害事件」の判決に関する報道であった。前後のストーリを知らないで見たら、まさに死刑を待ち焦がれていたかのように見える場面であるが、事実は少し複雑である。母子を殺害した当時18歳の元少年に対し、一審・二審で無期懲役判決が下されたが、最高裁は死刑を回避するに足る事情があるのか、という理由で、それまでの判決を破棄し差し戻していた。実は私も以前、興味深く注目していたことがある。それは、事件から10年近く経っているにもかかわらず、事件当時の怒りと悲しみをあらわにしていることもさることながら、30歳くらいの若さで、いつも力強い語調で大勢のメディアの前でもひるまず堂々と訴え続けている遺族(夫)の様子があまりにも印象深かったからである。事件自体よりも、裁判に臨む遺族の姿勢と言葉に引き付けられたのは私だけではなかろう。しかし、死刑を伝える速報を聞いた瞬間は、言葉で表現し難い複雑な気持であった。

実は、この事件は、死刑制度の存廃問題とも繋がるものである。この問題については私も昔から考えて来たものの、今でも自分の立場を決めきれていない。廃止の立場に立つのが宗教的な信念に基づいて説明しやすいし、周りの進歩的な知人たちにも理解されやすい。にもかかわらず、私にはまだ決断できない。以前、私が「死刑廃止論を完全には支持できない」と言うのを聞いた時の、目を丸くして驚いた後輩の表情を今でも覚えている。「死刑は結局、もう一つの殺人に過ぎないと思わない、ということですか」。その答えに詰まりながらも、完全廃止は時期尚早という立場に立たざるを得ないのは、量りしれない悲しみを抱いている被害者家族を考える時、簡単には「死刑廃止」という言葉を口に出せないからである。

もし私が被害者の立場であるならば、失った命の価値を甦らせるためでも、犯人の死刑よりは他の方法を探すだろうと思ってはみるが、それも結局は一つの仮説に過ぎない。しかも、他人にまでそれを要求するほど冷静にはどうしてもなれない。人間の命を救うためである「死刑廃止」が、すでに家族を失って悲しみに沈んだ被害者家族に、かえって再び悲しみを強いるのではないかという迷いもある。死刑に値する犯罪が相次いでいる昨今、死刑が廃止されることは辻褄が合わない気もする。しかし、一方では、その悲しみがいかに深かろうが、他人の命を奪って得られるものが何かあるだろうかという疑問も感じる。

このような私の中途半端な態度が、韓国における死刑制度の現状とも酷似しているのは偶然ではないだろう。韓国の場合、法律上では死刑制度が存続しているものの、10年以上死刑が執行されていないのが現状である。従って、実質的には死刑制度の廃止国と見なされている。ところが、最近、前代未聞の連続殺人事件や幼児・子供を狙った凶悪犯罪が相次ぎ、再び死刑の執行が始まるのでは、という噂や、さらには執行しなければならないという世論が沸きあがっている。約50%であった死刑賛成派が最近60%台にまで上昇し、強く死刑の執行を訴える政治家の発言が、慎重で理性的な意見より言論と世論の注目を集めているのも日本と同じである。それでも、どちらかというと、韓国は死刑問題についてまだ模索中であり、世論も(私の感じる範囲に限って言えば)賛否両論分かれている。

それに比べると、日本の世論は死刑制度の存続の方へより傾いている。死刑が執行されたというニュースもしばしば耳にするし、死刑の存続を支持する世論は80%を上回っている。このような数値は、すでに死刑を廃止した国はともかく、死刑制度が存続する他国と比べても圧倒的な支持率である。わずかな反対論者について言えば、法律を勉強しているか、少なくともかかわっている人々が多い。こうした現実で、日本は来年から一般市民が裁判と判決に直接に加わる裁判員制度の施行を導入する予定である。そのことを考えてみても、今回の光市事件にかかわる一連の出来事は、軽く見過ごすことは出来ないのである。

今回の事件に限って言わせてもらえば、メディアはずっと被害者の立場に目線を合わせ続けていた。犯人の少年は、前例を破って死刑に処するほど残酷で更生の可能性がなく、弁護団は話題性ある事件にしがみついて死刑廃止を主張している荒唐無稽な言動をする変人のように取り扱われていた。主張の是非はともかく、数十年以上、法律を専門としてきた何十人の弁護士がそれほどの愚か者扱いされていること自体、腑に落ちないところがある。事実関係を別して、裁判に先立って世論が暴走しているのではないかと息苦しささえ感じた。さらにメディアは、この事件を「死刑廃止論者」と「死刑存続論者」の対立として取り上げながらも、廃止論者の主張の論拠をまともに取り上げようとはしなかった。そうした風潮の中、人間の手でもう一人の命を絶つことになったという事実に対する悲しみや熟慮を期待するのは無理であろう。

こうした現象は、メディアが日頃から、毎日のように残酷な犯罪を取り上げながら、いつあなたが犯罪の被害者になるかわからないと言わんばかりに、恐怖心を煽って来たという状況の延長線上にある。この数年間、日本における殺害などの凶悪犯罪の発生件数が減少している事実はほとんど知られず、メディアにより恐怖心をかきたてられてきた視聴者は、いつの間にか自分も潜在的な被害者であると思い込み、一人の犯罪者を社会から永遠に排除できたという安堵感を覚えかねない。人間の手により、もう一人の人間の命を絶つことに対して真摯に悩む姿勢は微塵もうかがえない。このような風潮を見ていると、今後の裁判員制度の時代が少し不安になる。

「漫画<デス・ノート>は、こうした日本社会の風潮から生れたものですよね」。最近、はじめて日本の雰囲気がわかったという知人がこのようにつぶやいた。デス・ノートとは、それに名前を書くだけで、直接に手を出さずに人を殺すことが出来る特別なノート。正義だけの社会をつくりたいという熱意に燃えてそのノートに数多くの犯罪者の名前を書き込んだ主人公は、まだ人生の経験や理解が浅い若者であった。極端な例ではあるが、今日の日本社会に漂う空気は、忘れていた<デス・ノート>の内容を、時々思い起こさせる。

しかし、実際の日本社会はこの漫画に描かれた社会より遥かに成熟しており、日本のメディアは青二才に与えられた<デス・ノート>ではなかろうと信じたい。そして、今回の光市の事件は、被害者の粘り強い訴えによって死刑判決を導いた快挙としてではなく、裁判員制度の導入を控えた日本社会に対して、一人ひとりが法と命の問題を身近に感じ、真摯な姿勢で向き合うように、その契機になる問いを投げかけた事件として、記憶と歴史に残ることを期待する。

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<李垠庚(イ・ウンギョン)☆ Lee Eun Gyong>
韓国の全北全州生まれ。ソウル大学人文大学東洋史学科学士・修士。現東京大学総合文化研究科博士課程。関心・研究分野は、近代日本史・キリスト教史、キリシタン大名、女性キリスト者・ジャーナリスト・教育者など。現在は、韓国語講師を務めながら「羽仁もと子」に関する博論を執筆中
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包 聯群「初めての香港」 Posted 2008.6.6 by imanishi
(SGRAエッセイ#135) 

香港は私たちにとって特別の意味がある。なぜなら、1997年の“香港回帰祖国”という言葉を中国人であれば誰もが覚えているからである。1984年12月19日にイギリス初の女性首相であったマーガレット・サッチャーが香港を中国に帰還させることに同意したことによって、長い期間を経て香港は1997年にまた中国の領土として戻ってきた。
 
香港帰還のニュースは、ほぼ毎日メディアで報道されていた。その頃からいつか機会があれば香港に行きたいと思っていた。そして、今年の3月25日から27日まで、香港理工大学で開催された「第六回中国社会言語学国際学術シンポジウム」で発表することになり香港に行ける機会を得た。初めての香港だったから、興味津々で、すべてのものが新しい情報として目に映り面白かった。
 
飛行機から降りた時から何でも日本と比べてしまう癖がついていた。例えば。。。

1.交通の面で

@バスも地下鉄も釣銭が出ない。

香港に着いてから会議の案内に従い、空港バスに乗り、市内へ向かった。市内まで約40分で、香港ドル33元かかると聞いていたため、40元を入れて、日本のバスがそうであるように、自動的にお釣りが出てくるのを待っていた。しかし、しばらく経ってもお釣りが出てくる気配がなかったので、運転手に声をかけた。そしたら、驚きの返答が返ってきた。「このバスはおつりが出ないよ。100元を入れてもお釣りが出ないよ!」これがあの経済発展を遂げた香港なのか?と思い・・・一瞬言葉も出なかった。これが香港に来て初めて受けた驚きだった。会議の二日目の夜、中国内陸からきた教師たちと一緒に街に出かけるため、地下鉄に乗った。なんと地下鉄でも同じことが起きた。発券機からもお釣りが一切出ない。その時、サビース精神が旺盛な日本の素晴らしさを思い出した。何でもお客さんを優先的に考える日本から行った人にはなかなか慣れないことであろう。

A異なるトンネルを利用すると、タクシーの通行料金が変わる。

香港に着いた夜、ホテルを間違えてしまった。予約したホテルにタクシーで向かうには、トンネルを通らなければならない。トンネルの通行料金がまたタクシー代とは別に香港ドル20元(日本円で約300円)かかる。しかしながら、通行料金・香港ドル50元(日本円で約700円)を払えば、近道を利用することができ、時間がはるかに短縮できると言われた。夜遅くなっていたため、近道の方が便利だと思い、利用した。同じ場所に行くのに、トンネルによって料金が違うのは初めての体験であった。

B交通ルールの違い。

宿泊したホテルは香港理工大学のすぐ近くで、歩いて10分程度の短い距離にも関らず、信号を何か所も渡らなければならない。そこで、驚きの風景を目の当たりにした。まだ赤信号なのに、堂々と横断歩道を渡っている人々がいる。そして、もっと「すごい」のは人より車の方である。人々がまだ横断歩道を渡っている時、左折してきた車が猛スピードで走っていた。そして、人々は瞬時に飛び退いて車を避けた。日本では車が人を待つのが常識になっているので、このような風景を見て驚きを隠せなかった。逆に中国では車を優先する習慣があるので、日本に来た当初、かなり困った。私は車が通過するのを待つが、車も私を待つという場面が多くあった。今は堂々と車より先に渡れるようになった。

C運転手の技術が熟練している

バスの窓から見ていたら、反対車線を走ってきたバスが、その前方にあるバスの後ろ、たった50cmしかない距離で止まった。私が乗っていたバスもそうだった。これは初めての体験で、びっくりする一方、心配な面もあった。

2.香港には便利なところもたくさんある

香港では、ホテルを一人の名前で予約したあと、知り合い同士と同じ部屋に宿泊することができるようである。宿泊費は人数に関係なく、個々の部屋の値段で決まる。この面で会議に参加する人や旅行する人にとっては経済的にかなりメリットがある。香港の商店街は、お金の換金所が非常に多く、とても便利である。ほとんどのお店で人民元が香港ドルの代わりに使えるのは予想外のことであった。繁華街にある個人経営のお店は夜の12時まで営業することが多く、旅行する人の便利さを考えたと思われる。

3.日常言語

若者の中で北京語を話せる人が多くいる一方、年配の人に北京語で道を訪ねたところ、聞き取れない人もいた。町にある看板は英語だろうと想像していたが、意外と中国語で書かれたものが多かった。

4.歴史・文化

会議の合間をみて大学のすぐそばにある博物館を見学した。香港の歴史、昔の人々の生活ぶりなどを細かく再現した展示があるところがすばらしいと思った。特に香港の銀行の発展の歴史を詳細に展示しているのは、やっぱり経済が発展した香港であるという感銘を受けた。

以上、香港レポートではあるが、いずれかチャンスがあれば、再び行きたい。今度はゆっくり見学できるように・・・。

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<包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun>
中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻)を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/教育研究支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、契丹小字等。SGRA会員。
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オリガ・オメンコ「周りの人からもらう夢」 Posted 2008.6.5 by imanishi
(SGRAエッセイ#134) 

彼はとても明るく微笑んでいる。慎重な目線と粘り強い性格のおまけにその明るい微笑がある。たくさん苦労をしたように見えない。言葉がとにかく多いのだ。言葉で「足りない部分」は体の動きで表す。話す時はよく動いている。その動きで言葉を伸ばそうというかのように。もしかしたら、その動きでよりたくさんの空間を獲得しようとしているかもしれない。小柄で、歳をとっても少年のようだ。見学で博物館に連れてこられた少年のように、何もかも面白くてすべてに触って見たいというような強い好奇心をもっている。だが「博物館」の代わりに「周りの世界」だ。人々は彼のエネルギーがどこから生まれてくるのかと考えている。毎日、朝から患者さんを診療して、午後は医学部で講義をやっているくらいエネルギーに溢れる人に見える。
 
ある日、彼の子どもの頃の話を聞いてその理由が良く分かった。彼は1930年代の後半にウクライナの中部の小さな村で生まれた。彼の名前は、伝統に従って、その日の聖人に因んでミハイローになった。5歳にならないうちに母親が病気で他界し、父親は別の女性と再婚した。継母には自分の子供がいて彼には冷たかった。
 
ミハイローがまだ小さかった時にある人にすごく強い印象を受け、それが将来の職業にもつながったようだ。ある日、彼の村に町から医者が来た。村は小さかったので看護婦しかいなかった。誰かが重い病気になり、医者を呼んだのだ。その「町から訪れた」医者は医療道具が入ったぴかぴかの茶色い皮のカバンを持ち、パチパチという音がするほどのりをつけた白衣を着ていた。彼の白衣は本当に太陽の光よりもぴかぴかに見えた。小さいミハイローにはそのように見えた。緑がいっぱいだった村で、白衣が白かった。ミハイローはその白衣をきた医者が「違う世界」の人に見えた。その「世界」には、畑仕事、牛の世話、そして冷たい継母がいなかった。また大好きだった母親を救えた職業だった。その人を見て10歳のミハイローは医者になることを決めた。医者という仕事の内容も良く分からなかったけど、絶対医者なると決めた。
 
15歳になった時に家を出て遠くに行った。その行き先の町にはぼた山が多く、仕事帰りの男性は皆疲れて顔が黒くなっていた。その東部の町で、彼は医科短大に入学し、3年間パンと水ばかり食い、熱心に医学を学んだ。実家にはあまり帰らなかった。誰も待っていなかったし。彼はこの知らない町で自分の新しい居場所を探していた。炭鉱の給料が良いと聞き、そこでアルバイトをしようとした。炭鉱夫として。だが年齢や身体的な理由で炭鉱夫になれなかった。しかし夜間講座を受けて測量士になり石炭を計ることになった。一日3時間だけ寝て、短大の朝の授業にも必ず出た。そして授業にでる時も顔が黒くなっていることを誇りに思っていた。誰も「顔をちゃんと洗いなさい」とは言えなかった。なぜならその町では炭鉱の仕事で顔が黒くなっているのは、「仲間入り」したと同じことだったから。彼は、遠い町での居場所も見つけ、「仲間入り」もできた。
 
短大卒業後、医学部に入学できたので炭鉱のアルバイトを辞めた。6年間医学部で勉強し医者になった。彼の村では初めての医者だったみたいだ。それからもう46年間医者として勤めている。今までいろいろな患者さんを診て多くの人を救った。

ミハイローは私の友達の父親だ。学生時代の仲の良い友達だったから、病院に遊び(見学)に行ったことがある。その時、どうしてパチパチするぐらい白衣にのりを付け過ぎるのか疑問に思った。彼が歩くとそののりをつけすぎた白衣が変な音をたてていた。それに、まるで誰かの古い靴を借りてきたように、サイズの合わない靴をずるずるひきずるような音を立てて歩いていた。だが彼はそれを気にしていなかったみたいだ。逆にそれが好きだったようだ。こんな変な質問は、聞きたくても聞けなかった。
 
そんなある日、彼が子どもの頃の話を聞かせてくれた。その話を聞いて感動した。その時に初めてそのパチパチとする音は、彼の子どもの頃の夢をかなえた音だったと知った。そして、小さい時に自分の周りにいる人から、その人が知らなくても<夢>をもらうことができるのだと知った。そして夢は原動力となり人生を変えることもできると感じた。友達の父親を見て、夢に向かって努力を尽くせば何でもかなえるとも思った。

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<オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko>
「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍していたが、2006年11月より学術振興会研究員として来日。現在、早稲田大学で研究中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。
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ミャンマーのナルギス被災者支援プロジェクトにご協力ください! Posted 2008.5.31 by imanishi
■ナルギス被災者支援プロジェクト
(ヤンゴンのキン・マウン・トウエさんより)

現在、ミャンマーへ様々な国や国際事業団体などから御支援がきています。全て軍隊が管理して仕分け配分を行っていますが、支援物を今でももらっていない村や人々が多く、不満の声がかなり出ています。恥ずかしい話ですが、一部市場に販売されている話まで出ています。

民間レベルで直接現地まで行って支援しているボランテアグループもあります。現在、私も日本から今月21日に出るコンテナで運ばれる古着2トンを待っており、私自身でも古着などを買い求めました。薬品を送っていただくことも考えたのですが、なかなか難しいことがありましてあきらめました。

そこで、日本の友人の森峰生さん相談して募金を受けることにしました。ご寄付は国内で必要な薬や食べ物などの購入に使用し、一部現金支給も考えています。服に関しては、上記の古着で準備しております。直接被害者へ手渡しする予定です。政府機関には渡しません。

支援場所は、ヤンゴン川の反対側にある被害を受けた地域(海の方向になります)を考えています。ヤンゴンの近くにあるのに、今でも支援物が届かず大変困っています。被害を多く受けたエーヤーワデイ管区へ行く支援者が多いのですが、同じくらい被害をけたヤンゴンや近郊にある村などは、支援が大変少ない状況です。

今回サイクロン被害者支援活動は、私の学校プロジェクトに協力してくださっているボランテァグループメンバーが行います。現在も、我々の力でできる支援物資を被害者の方々へ手渡しております。これから皆様の募金を受けて広く活動できるようにと考えております。(尚、私のグループは、様々な国内状況によって名前は付けていません。)

○募金趣意書は下記よりダウンロードしていただけます。http://www.aisf.or.jp/sgra/SGRAnews/MyanmarDonation.doc

○ポスターは下記よりダウンロードしていただけます。
(支援活動の様子がわかります)
http://www.aisf.or.jp/sgra/SGRAnews/AidPoster.pdf


■韓国ラクーン会(KSR)ミャンマー義援金募金
(ソウルの韓京子さんより)
 
この春、それも5月の一ヶ月の間に相次いで、身近なところで、想像を絶する自然災害が起こりました。あえて「身近」といったのはアジアで起きたという地理的な「近さ」ではなく、「あ!○○さんの」という、知り合いの国という心理的な「近さ」からです。SGRAじゃなければそう感じることもなかったかもしれません。特に写真入りのキンさんの報告(SGRAかわらばん)によって事態の深刻さがひしひしと伝わりました。
 
また、中国四川省の大地震の凄惨さにも言葉を失いました。 そんな時、SGRAや渥美財団のネットワークを通じて災害看護マニュアルの中国語訳ボランティア募集のメールが何度かまわってきました。マニュアルの量が膨大なため大変な作業となるとは想像しつつも、どうすることもできずにいた韓国ラクーン会(KSR:Korea Society of Raccoon)のメンバーは、もどかしさから今西さんに何かお手伝いできることはないかと連絡をしていました。尚、ラクーン会というのは渥美奨学生の同窓会で、狸のロゴに因んでそう名づけられ、韓国では自主組織KSRとして運営されています。
 
そうしたメールのやりとりのうち、ミャンマーのキンさんのナルギス被災者支援プロジェクトに対して募金するという形でミャンマーの復旧事業に一助しようということになりました。ただし、1)軍事政権に関連する活動に使われてはいけない。2)安定化、復旧後は義援金の使用用途を明らかにすること。3)KSRからの義援金ということを明示すること、を条件として募金をはじめました。そして、5月20日のメールのやりとりから10日もたたずに170万ウォン(約17万円)が集まりました。(事務局注:この数字はまだ上記森さんの報告には含まれていません)
 
ミャンマーも中国も今度の災害で子どもたちの被害が特に大きかったように見えます。私たち韓国ラクーン会(KSR)の気持ちが彼らに伝わり、元気に未来へ向かっていくことができるようになることを願います。



今西淳子「阪神から四川への橋渡し:留学生ネットワークによる災害看護ガイドの緊急翻訳プロジェクト」 Posted 2008.5.31 by imanishi
(SGRAエッセイ#133) 

1.留学生ネットワーク:SGRA

それは成都からの1通のメールで始まりました。5月16日、四川大学華西病院の胡秀英さん(2006年千葉大看護学研究科より博士号を取得、SGRA会員)から届いた「殆どの時間は救急外来で頑張っています。休みの時間は災害看護の知識を翻訳しています。中国は地震医学と看護知識が遅れています。あまり時間がないし、一人の力では弱いので、助けていただければあり難いです。とりあえず、災害現場の看護師をはじめ医療職に配ると役に立つと思います」という依頼を受け、すぐに神戸の理化学研究所の武玉萍さん(2000年に千葉大学医学研究科より博士号を取得、SGRA会員)に連絡して取り纏め役を快諾していただきました。そして、SGRAおよび元渥美奨学生のメーリングリストで翻訳ボランティアを募集。同時に、胡さんから要請のあった「災害発生初期に知っておきたい知識」と「災害復旧・復興期に知っておきたい知識」の翻訳を開始。会員が所属する別のネットワークにも呼びかけていただき、ほどなく38名のボランティアが集まりました。

2.災害看護拠点:兵庫県立大学大学院看護学研究科COEプログラム

胡秀英さんがこのホームページに辿りついたのは偶然ではありません。地震の翌5月13日には日本の恩師である千葉大学の石垣和子教授にメールで災害看護と災害医学の本と資料を要求しています。教授は、直ちに資料の送付を約束し、また、兵庫県立大学のCOEプログラムが作成管理している「ユビキタス社会における災害看護拠点の形成:命を守る知識と技術の情報館〜あの時を忘れないために〜」( http://www.coe-cnas.jp/ )を紹介されました。胡さんは直ちに翻訳を始めましたが、休憩時間中にひとりでするには限界があり、SGRAへの呼びかけになりました。一方、兵庫県立大学の災害看護研究班では、震災直後から、従来から掲載していた中長期のケアに加えて、中国で役立つ救急看護情報も集めホームページに掲載をしていました。中国語への翻訳は始まっていたものの中国語のホームページはまだ公開されていませんでした。

3.中国語ホームページ

5月20日、SGRAの翻訳プロジェクトが軌道に乗ったので、兵庫県立大学地域ケア開発研究所の山本あい子教授に連絡し、留学生ボランティアが行った翻訳原稿をなるべく多くの方々に活用していただくために兵庫県立大学のホームページに掲載していただきたいとお願いしたところ、すぐに、「中・長期的な看護ケアに関しましては、本学のホームページがかなり役立つと考えていますので、翻訳へのご協力は本当に助かります」とのお返事をいただきました。そして、非常にタイミング良く、同日、兵庫県立大学の中国語のページが公開されました。
http://www.coe-cnas.jp/china/index.html

その後、中国語版のガイドは、どんどん追加掲載され、地震から2週間後の5月27日には、当初に計画された全ての中国語のPDFファイルが公開されています。今回の翻訳プロジェクトでは、多くの方々の積極的なご協力を得、大変短期間のうちに貢献度の高い活動を行うことができたと思います。震災直後から積極的に活動を続けられている四川大学の胡秀英さんと兵庫県立大学、千葉大学看護学部の先生方に敬意を表し、また武玉萍さんはじめ即座に翻訳ボランティアを志願してくださった方々に御礼申し上げます。

4.翻訳ボランティアの皆さん

武玉萍、阿不都許庫尓、安然、王偉、王剣宏、
王雪萍、王立彬、王珏、韓珺巧、奇錦峰、
弓莉梅、許丹、胡潔、康路、徐放、
蒋恵玲、銭丹霞、宋剛、孫軍悦、張忠澤、
張長亮、张欢欣、杜夏、包聯群、朴貞姫、
李恩竹、李鋼哲、李成日、陸躍鋒、劉U、
梁興国、林少陽、麗華、臧俐、趙長祥、
邁麗沙、馮凱、马娇娇

5.次のプロジェクト

山本先生より「こちらの当初の予想を超えて、速いスピードで状況が変化しています。被害地域の甚大さ、被害者の数の尋常ではない多さから、今後は、日本の保健師さんのような活動が必要となってきます。つまり、避難所や仮設住宅を回り、そこで暮らす人々の健康について、生活面を含めて守っていく看護職です。中国には保健師さんはおられないとのことなので、看護師さんが保健師さんの活動ができるような教育プログラムを作成しています。その内容を中国語に変更していただくことは可能でしょうか?」というメールをいただき、継続してプロジェクトが続いています。今のところ前回ほど大規模な翻訳ではないようですが、日本語から中国語への翻訳ボランティアに興味のある方は、SGRA事務局にご連絡ください。



マックス・マキト「マニラ・レポート(2008年春)」 Posted 2008.5.28 by imanishi
(SGRAエッセイ#132)  

■3人の VIP、3つの研究、1つのアイディア

共同研究のため、日本の春休みを利用して4月24日から約3週間マニラに帰省した。フィリピンでは夏休みの時期である。日本から3人のVIPにきていただいたので、僕にとってはどう対応したらいいか悩んだ結構暑い夏だった。おまけに4月30日にはフィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)と共同で重要なセミナーを開催することになっていた。来てくださったのは、マニラ入りの順番で、SGRAの今西淳子代表、マニラ都会の貧困コミュニティーについて共同研究させていただいている東大の中西徹教授、そして産業クラスターについて共同研究させていただいている名古屋大学の平川均教授である。今回の僕の交通費は中西先生の研究費からだしていただいた。
 
まず、4月28日の午後2時から、UA&PのExecutive Loungeで、都会の貧困問題に関する研究プロジェクトについての会議を開いた。昨年、観光クラスターとマイクロファイナンスに関するUA&P・SGRA共有型成長セミナーで発表してくださった、UA&Pの貧困問題の専門家のビエン先生とその研究チーム(4名)、中西先生と僕が参加した。都会のスラムなどに住んでいる貧困者は、地方から移住した人々が多いので、地方の発展が都会の貧困問題の解決に貢献できるという点で皆が一致していると気づいた。ビエン先生のチームから全国で展開しようとした試みを聞いた。取り組みの例として、ファーム・スクール(農場学校)と地方の3ヵ所で開催した投資サミットの紹介があった。次に、中西先生の調査先のスラムについてのデータベースを参考にしながら、貧困者が最も多くきている地方を三ヵ所特定し、これらの地方とマニラのスラムとのネットワークを更に調べてみることにした。中西先生は、すでにこのような研究も進めておられるが、UA&Pにも何らかの形で参加してもらいたい。とりあえずは、研究助成金の申請とUA&P・SGRAセミナーの開催をすることになり、提案書は中西先生と相談しながら僕が書くことになった。その夜は、UA&Pの近くにあるアメリカ人経営の「力士」という日本料理店で、ビエン先生、中西先生、平川先生、今西代表と一緒に食事をした。僕は初めてフィリピンでマグロの寿司を口にした。問題なく美味しかった。
 
4月29日に、平川先生と今西代表をどうしてももてなしたいというUA&Pの共同研究者のユー先生とその家族にランチをご馳走になった。ユー先生は僕と同様、平川先生のお招きで名古屋大学に短期滞在したことがあり、大変お世話になったのだ。合間を縫って翌日のセミナーの発表について平川先生と打ち合わせをした。その夜、僕の両親の企画で、3人のVIPをマキト家に招待した。母と相談しながら、東京では食べられない特別なバナナや青いパパイヤが入っている煮込み料理などのメニューになった。
 
4月30日午後のセミナーは、平川先生と共同で進めているフィリピンの自動車産業についての研究報告がメインテーマであった。自動車産業は地方に工場が集中しているので、地方の活性化に貢献できると期待されている。中西先生を誘ってみればお忙しいのにきてくださったし、今西代表が開会挨拶を担当したので、また賑やかに3人のVIPが合流した。おまけに大手の日系自動車企業の社長さんも来られて大変緊張した。今西代表は開会挨拶のなかで、政府でも業界でもない第三者としてより広い社会的な視野にたって独立して活動できるSGRAのようなNGO・NPOの役割を強調した。僕らの自動車産業の研究プロジェクトでは、SGRAのこのような役割を生かそうとしている。平川先生は、前回のセミナーに引き続き、フィリピンの自動車産業を他の東南アジア諸国(+中国)と比較した研究を発表した。これによってフィリピンの自動車産業の深刻な現状をより鮮明に把握できた。その後、ユー先生はフィリピン政府の国際社会との取り組みという観点から、政府の自動車開発プログラムについて発表した。休憩を挟んで僕は政策提言を会場に発表した。最後に会場を囲んで色々と議論した。政府の代表者がいなかったのは残念だったが、自動車関連各社からきていた聴講者の反応は思ったより前向きだったので、政府に対して政策提案するという次のステップに追い込まれた気がした。東京に帰るまえに、僕の恩師であるフィリピン通産省の幹部と会い、僕らの提案について相談してみた。産業界と同様、彼も早く報告書を出しなさいというので、5月末を目処に平川先生とユー先生と相談しながら提出しようと思っている。
 
本稿をここまでマメに読んでくださった読者は、確かにVIPは3人だが、研究分野は2つしかないと気がつかれたと思う。もう一つは前回のエッセイで述べた、僕の原点でもあるフィリピンの造船産業に他ならない。鹿島建設も関わりフィリピン大統領がみずから式典に出席して4月28日に開通したばかりの高速道路に乗って、以前米国海軍が基地として利用していたスービック経済特区まで行って、造船会社の元幹部と面会することができ、研究の可能性についていろいろとアドバイスをいただいた。フィリピン大学の機械工学部の同級生や後輩と一緒に、船舶工学の教育プログラムを立ち上げる計画を立てていることに非常に関心を示してくれた。分れる間際に「フィリピン大学でそのようなプログラムができるのを長年望んでいた」との言葉をいただいた。このことを大学の仲間たちに伝えたところ、彼らもとても勇気付けられたようである。というのも、彼らは1998年に船舶工学教育プログラムを提案したのだが、学内から支援されず、そのまま長年眠っているのである。今、もう一度起き上がるようにフィリピン大学の仲間たちと作戦を練っている。
 
ここで最後に残る話は一つのアイディアであるが、いうまでもなく、それはフィリピンが共有型成長をいかに実現できるかということである。都会だけではなく、地方でも発展が芽生えるように、3人のVIPをはじめ皆さんのご支援をうけながら、3つの研究をさらに進めていきたいと思う。
 
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<マックス・マキト ☆ Max Maquito>
SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。
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林 泉忠「中台関係は果たして改善するのか」 Posted 2008.5.20 by imanishi
(SGRAエッセイ#131)
       
去る3月の総統選で当選した馬英九は22日に中華民国第12代総統に就任し、台湾は新たな時代に入る。馬英九時代の中台関係は改善する方向へ進むだろうと期待されているが、その根拠には必ずしも十分な説得力をもつとは限らない。中台関係は果たして蜜月の時代になるか。馬氏の強みと弱みを探ってみたい。
 
陳水扁時代の民進党政権は、中国に対話の相手として一貫して承認されてこなかった。そのため、1990年、李登輝時代に設置された中台間の実務窓口である台湾側の海峡交流基金会と、中国側の海峡両岸関係協会によるハイレベルの対話も事実上ストップしたままであった。中台対話中断の背景には「台湾独立」を掲げる民進党に対する中国側の深い不信感がある。

一方、当時の国民党主席・連戦氏は、2005年に57年ぶりに中国本土を訪問し、共産党との歴史的和解の道を開いた。その後4回にわたって国民党と中国による経済フォーラムが開催され、経済分野における台湾の中国進出の便宜図りに実績を積んだ。

これは両岸関係における国民党の強みにもなり、こうした中国の発展の勢いを台湾経済の活性化にうまく利用しようとする姿勢が、今回の台湾の政権交代につながったものとみることができる。
 
しかし、中台の政治的対話の進展や台湾の国際社会における存在感の強化については、楽観視できる材料が必ずしも多くない。馬氏個人の中国との交流歴はほとんどないばかりか、これまでにも中国を批判する言動が少なくない。

例えば、毎年6月の天安門事件記念座談会への出席や、「反国家分裂法」への反対、共産党独裁に関する批判文の発表、法輪功に対する寛容的対応の呼び掛け、そして最近のチベット問題に対する中国への批判など、これらはいずれも中国の逆鱗に触れるものであった。

また、馬氏は一昨年、国民党主席在任中に「独立は台湾の未来における選択肢の一つ」という新聞広告を出し、さらに昨年、総統選における国民党候補の公認になった後、「国連復帰」を求める住民投票を推進していた。これら一連の行動は中国の怒りを買うことにもなった。

ただし、馬氏は昨年の暮れから中国に妥協する姿勢も示した。中国は、民進党の「国連加盟」とともに国民党が自ら進めている「国連復帰」の住民投票に対し、アメリカや日本といった台湾に影響力のある国への反対表明呼び掛けを成功させたと同時に、国民党名誉主席の連戦氏や、中国に進出している台湾企業などにもボイコットを呼び掛けさせた。

こうして、これまであくまで自らの立場を堅持した馬氏は最終的に中国に屈服し、「国連復帰」を含めた住民投票のボイコットを事実上容認し、不成立に追い込んだのであった。
 
馬英九氏の台湾新総統就任によって、中国との両岸間の経済関係や人的交流は今後一層強化されるだろうが、政治的対話は果たしてどの程度進むかは依然不透明のままである。両岸の統一について、馬氏は任期中協議しないと公約したため、今後は、馬氏が承認を強く求めている台湾の地位をどう扱うかということが焦点になる。

これまで中国は台湾を自らの一つの省としか公式に認めず、台湾の国際社会における存在感の強化を厳格に阻止してきた。中国は李登輝政権の後半から陳水扁政権にかけて、台湾が希求してきた国連復帰(もしくは加盟)や世界保健機関(WHO)への加盟キャンペーンを「台湾独立の動き」として片づけてきた。

しかし、これらの動きに対しては国民党も支持し推進してきた。来る馬英九新時代においては、このようなキャンペーンは今後も継続されるか、国民党の選択を迫られる一方で、中国にもプレッシャーを与えている。

なぜならば、馬氏は北京の顔を伺いながら、国際地位の強化運動を止めることになれば、台湾内部からの反発を受け、政権の安定に悪影響を及ぼすことになるからである。しかし、統一派のイメージが鮮明な馬氏が、もしこのような運動を継続させた場合、中国は苦しい立場に追い込まれることになる。

というのは、もしそれを同じく「台湾独立」の動きとして批判するならば、両岸の民衆のみならず海外数千万の華僑・華人からの支持が得られない。そればかりか、そうすると台湾社会は朝野を問わず皆独立に傾斜することになり、これまで独立派は少数にすぎないという中国自らの主張と矛盾するだけでなく、台湾の遠心力を阻止できなかった、過去二十数年間の対台湾政策の失敗を事実上認めることになる。

国連やWHO加盟問題だけではない。そもそも中国は、これまで「総統」や「外交部」(外務省)と呼ばず「指導者」や「渉外部門」と台湾を「矮小化」する名称を使用してきた。これに対して強い不満を表明してきた馬氏は、名称の正常化要求を堅持する限り中台の摩擦は避けられない。

馬英九新時代の中台関係は、ますます目が離せなくなるに違いない。

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<林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John C. T. Lim>
国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、東京大学大学院法学研究科より博士号を取得。琉球大学法文学部准教授。4月より、ハーバード大学客員研究員としてボストン在住。
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*このエッセイは、『沖縄タイムス』朝刊3月30日、31日に発表された記事を加筆修正し、筆者と新聞社の許可を得て転載させていただきました。



林 泉忠「聖火リレーと中国ナショナリズム」 Posted 2008.5.17 by imanishi
(SGRAエッセイ#130)

北京五輪の聖火が混乱を巻き込んだ海外でのリレーを終え、ようやく「安全地帯」の中国に入った。だが、CNNへの抗議デモ、仏系スーパー・カルフールへのボイコット、そして中韓間の罵声合戦といった動きはすぐ収まりそうもない。

3月以来、中国と欧米諸国との一連の軋轢はチベット暴動に起因するが、その中で3年ぶりに高まりを見せている中国ナショナリズムにおいて中心的な役割を果たしたのは、欧米などにおける聖火リレーをめぐる摩擦であった。チベット独立支持派の妨害、およびそれを「容認」する西側に対する中国人若者の反発という構図である。

では、聖火と中国ナショナリズムの関係をどう考えればいいのか。そしてその影響は?
聖火は五輪の象徴と関連している点が重要であろう。オリンピックにおける聖火リレーの導入は1936年に開催されたベルリンオリンピックであったが、聖火は戦後もオリンピックのシンボリックな存在として重要視されてきた。

14万ほどの亡命チベット人にとって、聖火リレーを妨害する理由は、長い間国際社会そして中国人まで届かなかった自らの訴えをアピールすると同時に、メンツを大切にする中国人を傷付ける絶好のチャンスと見ることにある。一方、北京五輪は多くの中国人にとってかつての東京とソウルのオリンピックと同様、国威の発揚にとどまらず、近代以降味わってきた民族的屈辱を晴らし尽くすには欠かせないプロセスなのである。言い換えれば、中国人から見れば、聖火リレーへの妨害は民族的自尊心の回復を妨害することを意味する。そのため、中国人の民族感情はこれで一気に爆発したのである。

ただし、今回の新たな中国ナショナリズムの高揚は国際社会から理解を得ていないようだ。これは、中国人のイメージをダウンさせてしまうばかりか、オリンピックへの影響もむしろマイナスである。CNNニュースキャスターの「失言」や西側の一部の報道の偏りへの批判には一理あるものの、仏製品の不買運動は理性的批判の枠を超えており、毎週日曜日に一か月もアメリカにおいて行われるCNN批判に対する大規模なデモは、「成熟した大国の国民に相応しくない」というイメージを与えてしまいかねない。というのは、民主主義の国において行なわれるデモは、多くの場合、自国政府の政策への不満であるが、外国への反発に向けた大規模デモは希だからである。しかも、今回の場合、自国でのデモが許されずホスト国でのデモであるだけに、民主主義の「実践」の合理性が疑われても仕方がない。さらに、チベット騒乱における暴徒の暴力行為を非難せず、むしろ中国政府の「鎮圧」と伝える西側メディアの偏向に対する批判にもダブルスタンダードが見られる。というのは、「真相の究明」のはずだが、どうも3月14日に暴動が発生する前の三日間の真相を中国人が追求しなかったからである。

チベット事件そして聖火リレーに絡んだ中国ナショナリズムの高揚に対する西側のマイナス的評価は、4月15日に発表されたイギリスのフィナンシャル・タイムズの調査結果にも反映されている。調査はイギリス、フランス、ドイツ、スペインそしてイタリア五カ国で行なわれ、その結果、35%の回答者が中国を国際社会の安定における最大の脅威とみなしており、その数字はアメリカやイランおよび北朝鮮を上回ったことが示された。

また、今年のゴールデンウイークを利用した中国への旅行者数は前年比で20%減少したという調査(JTB)もあり、北京五輪へのマイナス的な影響はすでに出ているようだ。
ナショナリズムは両刃の剣であると言われている。今回の中国ナショナリズムの波も例外ではない。
(2008年5月3日ケンブリッジより)

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<林 泉忠(リム・チュワンティオン)☆ John C. T. Lim>
国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、東京大学大学院法学研究科より博士号を取得。琉球大学法文学部准教授。4月より、ハーバード大学客員研究員としてボストン在住。
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キン・マウン・トウエ「初めてのサイクロン経験」 Posted 2008.5.13 by imanishi
(SGRAエッセイ#129)

誰でも皆、忘れられない思い出がたくさんあると思います。良いこともあるし、悪いこともあるでしょう。私の人生の中で一生忘れられない思い出ができました。2008年5月2日にヤンゴンで経験した、風速190〜220キロの暴風が吹き荒れた大きなサイクロンです。ナーゲッ(Nargis)という名前がつけられました。こんなに大きなサイクロンがヤンゴンに来ることは珍しく、97歳の私の祖母にとっても初めての経験でした。

5月1日の夜11時ごろ、自宅へある軍情報局関係者から電話があり、明日ヤンゴンにサイクロンが来ると知らされました。しかし、こんなに大きなサイクロンになるとは全く考えませんでした。4月28日ごろ、ベンガル湾で小さなサイクロンが生まれました。ベンガル湾では5月は一番サイクロンが多い時期です。しかし、海中で発生してもそのまま消えていく、または、インド側へ移動していくことが普通です。ですから、今回も海中で無くなると予測していました。確かに、今年は例年と違っていて、サイクロンの影響で、ヤンゴンの雨季が少し早く始まりました。この日、ナーゲッはだんだん大きくなりながらヤンゴンの方向へ移動していたのです。時速約25キロという、かなり遅い速度で移動していました。

5月2日の午前中、ヤンゴンは曇り後雨でした。風もなく、普通の雨季の雨なので、昨日の情報が間違いだと思いました。しかし、午後になると空の色が変わってきました。いろんな方からサイクロンの情報の電話が何度もかかってきました。一方、国営テレビからもサイクロンに関する情報が流れています。しかし、ヤンゴンはそんなに影響が無いようです。ベンガル湾側のビーチにホテルを持っている友人へ電話したら、彼らのところには大きな影響がなく、被害も無いようでした。しかし、ナーゲッは、予測ルートからはずれ、ベンガル湾とアンダマン海の間、ミャンマーのハイージー島方面から、午前11時に上陸しました。風速は上陸時の約130〜160キロからさらに強くなり、約200キロ前後になりました。サイクロンの半径は320キロもありました。この頃から電話が全く鳴らなくなり、正しい情報がヤンゴンに伝達されなかったため、ヤンゴンの人々は普通の小さなサイクロンだと思い、何の準備もしませんでした。国営テレビは何も報道しなかったので、サイクロンのことを知らない人も多かったのです。午後9時頃になって、やっとハイージー島の被害情報が伝わりましたが、準備をするのには遅すぎました。

午後10時半にヤンゴン市全体が停電し、風も強くなりました。速度がかなりゆっくりだったので、12時半になってから、本当に大きな暴風雨がやってきました。私は、家の中から、激しい雨と風の状況を見ていました。映画で見たり本で読んだりしたことあるような風の音が聞こえました。大きな木やココナツなどが風によって大きく揺れていました。そのうち、ガラスが割れる音や屋根が飛ばされる音が、風の音に混じって聞こえました。私も日本で台風を経験したことがありましたが、今回は、それよりはるかに強いものでした。午前3時ごろなると、風の方向があっちこっちに変わっています。サイクロンは暗い真夜中のヤンゴンの街の中心を、ゆっくり移動しています。午前4時半になると風はもっと強くなり(後で風速約190〜220キロと知りました)、暗い街のあっちこっちで屋根などが大きな鳥のように飛んでいます。がんばっていた大きな木もほとんど倒されてしまいました。電線が切れ、電話回線が使えなくなりました。強い風は、午前11時ごろまで続きました。おかげさまで私の家は、風向きの反対側にあり、近くに大きな木も無かったので、大きな被害はありませんでした。

3日午後2時、やっと外へ出られる状況になったので歩いて行って見たら、ヤンゴンの街は大変でした。車はとても使えません。大きな木、電線、家の屋根など、いろいろなものが飛び散っていました。町中停電です。水道も来ない、電話回線もインターネットもダメ、このままでは、いつ回復するのかも予測できない状況で、ヤンゴンは全滅かと思いとてもがっかりしました。

サイクロンの影響を一番受けたエーヤーワデイ管区のいくつの村は、全く無くなってしまいました。水位が7メータぐらい上がりました。ハイージー島の80%は、存在しない状態です。ボカレー町の95%も壊滅的な状況です。政府の発表によれば、この台風の影響で本日(11日)までに、亡くなった方は2万8千人以上、行方不明の方は4万人以上です。実際はこの数字を上回るはずです。2004年12月にタイのプーケットに起きた津波よりももっと大きな被害です。

ヤンゴンでは、物価が上がり、特に食べ物に大きく影響しています。たとえば、以前一個100キャト(10円)だった卵が、現在300キャト(30円)です。交通機関にも影響が出ています。毎日停電です。発電機の値段も2倍ぐらい上がり、燃料費も大変です。2日後、水の配給が始まりましたが、停電はまだ続いています。ヤンゴンは、緑が多い町と言われていましたが、今は大きな木はほとんど残っていない状況です。いつになれば、元のヤンゴンのようになるでしょうか?いくつかの写真を下記URLよりご覧ください。

http://www.aisf.or.jp/sgra/photos/

私の場合、停電なってから発電機の生活でしたが、おかげさまで8日の夜から一番早く一般の電気配給が部分的に得られるようになりました。現在に至るまで、停電している地域が多いです。しかし、ヤンゴンから80キロ離れたところにある弊社が所有する100エーカーの農園は大きな被害を受けました。

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<キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe>
ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。



SGRAからの質問:聖火リレーは続けるべきでしょうか(2-3) Posted 2008.5.3 by imanishi
■李 鋼哲「SGRAの皆さんへ」

今度の聖火リレーを巡る中国の動き、海外中国人の動き、海外メディアの反応、海外市民の反応を見て、自分なりのスタンスを考えていたが、私にとっては複雑な問題であり、どちらが正しくどちらが間違っているか、という次元ではなかなか答えを見出せなかった。それが、日本の長野聖火リレー、韓国ソウルでの聖火リレーを巡るいろいろの動きを観察することで、一つ自分なりの結論を見出すことができた。

1)北京五輪は全世界のオリンピック大会であり、中国の五輪ではないことを認識すべきである。

国際オリンピック大会を催す場所として北京が選ばれたのであり、聖火リレーは世界の人々の心を、五輪を通じてつなぐという立派な催しである。それがパリであっても、長野であっても、ソウルであっても、中国人のための物ではないということである。それに反対する、または人権問題を理由で妨害する行動やマスメディアの報道も基本的な視点を欠いていると思わざるを得ない。同じような視点で考えると、聖火リレーを守るために、中国政府が警察学校の生徒まで派遣する仕草には問題があり、海外にいる中国人たちが(留学生が主体?)聖火リレーを守るために活動をしているのも問題がある。つまり、海外で聖火リレーを行う国では聖火を守ることができないの
で、中国人が立ち上がったという、二極対立の構図を世界各国でメディアを通じて造り上げたようなことではないか。

私が所属する北陸大学や金沢大学からも100名以上の学生がバスをチャーターして長野に行ってきた。彼らは自発的に動いたのではなく、東京に本部がある中国人留学生総会の呼びかけで動いたのである。誰が呼びかけたかはさておいて、問題は、彼らは何のために呼びかけ、何のために行ったのかである。基本的な意識は「聖火」を護るということである。私は組織者代表たちとお会いしたとき、このように助言した。「貴方たちが聖火を守るために長野に行くという認識は正しくない。なぜなら聖火は世界人民の聖火であり中国のものではないからだ。仮にそれに反対したり、破壊したりする人がいても、それを護るのは日本政府(警察)であり、日本国民である。聖火リレーに参加するランナーも全員日本人である。貴方たちが取るべき態度は聖火を声援することにつきる」。組織者の代表は熱心にノートし肯いていた。聖火リレーを応援に行く留学生たちの安全のための事前会合であったが、皆さんが無事で帰ってきて、ほっとした。

今度の聖火リレーでは、それが世界人民のためのフェスティバルであるという意義に対する認識とPRが不足したために、結果的には、中国と国際社会の溝や対立を深める始末になったのである。もしこの催しが失敗だとしたら、その失政は国際オリンピック委員会の失政であり、中国オリンピック委員会の失政である。また、それを企画した中国政府も誤算だったかも知れない。逆の効果が大きかったからだ。もちろん、それをもたらしたきっかけはチベット暴動であるに違いない。

もし、人々が地球市民という意識が多少あるならば、このような事態は起こらなかったかも知れない。SGRAの役割がますます重要になってくると思われる。

2)聖火リレーとチベット問題は分けて見るべきである。

聖火リレーの妨害事件が起こったきっかけは紛れもなくチベット暴動であり、その背景には中国の台頭に対する「脅威論」が潜んでいることも想像に難くない。中国が人権問題、民族問題を抱えているのは否定しがたいが、だからといって、世界人民の平和祭典の一つであるオリンピック行事を妨害したり、破壊したりすることは、非難されるべき行為であり、違法行為をしたものは法律により厳罰を受けるべきである。もし、中国の人権問題、民族問題に対して抗議するのであれば、手段と機会は別にいくらでもある。オリンピック聖火を破壊、妨害しようとする行為は、理性的な行動であると思われないし、世界平和に対する冒涜であるとしか思えない。

チベット人の人権のために行ったと理屈を言うかも知れないが、その人たちがチベット問題に対してどれくらいの知識と理解があるのか。長野で逮捕された数人は、本当にチベットのことを理解して、人生を賭けてチベット人のために戦う覚悟がある人たちであるのか。到底そうは思えない。感情に訴えて、ストレス解消のために暴れる「ちんぴら」にしか思えない。なぜかというと、チベット人の参加者は誰もそのような違法行動に訴えなかったこととは対照的であるからだ。

3)チベット問題は客観的な視点で見るべきである。

チベット問題は、中国にとって敏感な問題であり、「チベット独立」となると絶対容認できない領土主権問題である。しかし、中国政府や中国民衆のチベット問題に対する態度は硬直的で、感情的(ナショナリズム的)なものであり、対外的に説得力が乏しいものであると思われる。最近、「人民日報」(海外版)にはチベットが歴史的に中国であったという論文が連載されているが、歴史的事実を述べた部分もあるが、それはあくまでも前提が「チベットは中国の領土である」というもので、論理的・客観的な結論とは到底思えない。もちろん、私は現在「チベットの独立」を支持するという意味ではない。ましてや亡命政府のダライラマも「独立を望んでいるのではなく、高度の自治を望んでいる」というのに。私が言いたいのは、歴史真実を隠そうとすることは世界から中国不信感を招くだけということだ。

中国政府が「チベットは中国の領土」という理由は二つある。一つは、歴史的に中国とチベットは冊封関係があったこと、もう一つは、中国共産党はチベットを奴隷社会から解放してチベット人に幸福を与えたということである。ところが、私が調べたところ、チベットは歴史的にずっと中国の一部であったということは事実とは大きくかけ離れている。中国がチベットを支配したのは清朝の時からであり、中華民国の国民党政権の時は支配が及んでいなかった。だからこそ、共産党中国は解放軍をチベットに派遣して支配を確立する必要があったのである。

もう一つの「チベットを奴隷社会から解放したから、チベット人は感謝している」というような中国人の主張は、外国の侵略や支配を受けた経験のある中国人としては、冷静に考えて言うべきものであろう。旧満州地域が日本に支配されて近代的な産業やインフラが発達したからといって、それが良かったというのは日本の右翼である。イギリスが香港を占領支配して、貧しい香港から豊かな香港を造ったから、イギリスに感謝しろと中国人に言ったら、誰もが、それは植民地支配であり、香港は奪還すべきものであったと思うのではないか。社会や経済が以前より発展したとしても、一つの民族が他の民族に支配されるような構造は、支配される民族側から見ると不公平であり、受け入れ難いことである。中国人(漢民族)は懐が深いから、チベット民族を含む中国の少数民族のそうした気持ちを理解すべきであり、その上でもっと合理的な政策や制度を考案する努力を注ぐべきである。イラクが独裁国家だからアメリカが軍隊を派遣して独裁から解放し、民主主義国家で豊かな国家を作ったとしても、イラク人の多数は快く思わないだろう。それに対して中国人はどう見ているだろうか。言うまでもなく、アメリカの覇権主義・帝国主義だと思うに違いない。「チベットは中国の領土である」というネティズン世論のほとんどが感情論であり、チベットの歴史を客観的な知識として知ろうとするものではないことが、林泉忠先生のブログ(註)に対するコメントからもよくわかる。

チベット問題がたびたび起こり(1989年にも暴動が起こっている)、国際的な関心を呼んでいるのは、中国の民族政策に問題があるからではないか。今度の事件をきっかけに、中国は民族問題や民族政策を根本から考え直す必要があるのではないか。武力と多数の論理で、中国の多民族国家の永久の安定を保つことは、恐らく長続きできないだろう。今の時点で、中国人皆さんに、客観的で冷静な観点でチベット問題を見るべきだと言っても、現実的には無理であり、誰も受け入れようとしないだろう。

だからこそ地球市民を目指すSGRAの皆さんに、自分の考えを伝えるのは価値があると思い、以上短見を述べた次第である。

(註)SGRA研究員の林泉忠さんのブログが下記よりご覧いただけます。(SGRA事務局)
http://blog.ifeng.com/1305287.html


■(匿名投稿)

観客が聖火走者を見ることができないような聖火リレーなら止めたほうがいい。
私の提案:国立競技場のような大きな競技場で、走者一人ずつ1周廻る聖火リレーにすれば、観客は全部の走者を観ることができる。ウエアもお揃いのではなく、自身のウエアのほうがいい。お金もかからない。


■(匿名投稿)

SGRAの「聖火リレーは続けるべきでしょうか」を拝読させていただきました。私の感想を少し書かせていただきます。

中国人として、今回の聖火リレー妨害活動は心が痛みます。我々のような海外にいる中国人は、外国の文化や考え方をよく理解できるので、母国を擁護する一方、外国人の立場にも立って、もっと中国の難しさを理解してもらう責任があるではないでしょうか。

今の中国は、農村と都市部の経済格差、教育格差等の様々な問題を抱えています。これから経済成長とともに、民主化を進めていく過程で、現状ではどうしても中央集権でないと解決できない問題が山ほどあります。かつて日本の高度成長期も同じような難問を抱えながら、現在の経済大国まで成長したのと同じように、現在の中国も大変難しい時代に差し掛かっています。

今回の聖火リレー問題は、民主化が進んでいる欧米先進国からみれば、中国国内における民主化(特に報道の自由化)が進まない限り、外部の人々(一部の中国人も含む)は聖火リレーを妨害するような極端な手段をとるしかないと考えているのかもしれません。

21世紀に入って、中国やイスラムの台頭に伴い、アメリカやヨーロッパを中心とする大国が大きな脅威を感じているかもしれません。イラク戦争など、まさに文化と文明の衝突の時代に突入しています。文明の衝突だからこそ、対話によって相互の利害関係を緩和・解決する努力がもっと必要であると思います。そういう意味で、SGRAの活動はすばらしいと思います。

2008年4月29日の日本経済新聞に「中国のナショナリズム台頭:欧米メディアが分析、知識層にも猛烈に拡大」という記事が掲載されました。私は健全なナショナリズムが必要だし、それこそ中国の民主化を推進させる原動力であると考えています。



太田美行「世界のセンターと世界の田舎者」 Posted 2008.4.30 by imanishi
(SGRAエッセイ#128)

葉 文昌様

SGRAかわらばん154号「差別化問題とグローバル化」を大変興味深く拝読しました。
日本のように人的資源以外なく、国土的にも小さな国がグローバル時代にどう生きるか考える上で、国際学会の話は示唆に富んでいますね。

しかし、「世界のセンター」は今の時代、本当に存在しているのでしょうか?また必要なのでしょうか?7年くらい前になりますが、「米国のホワイトハウスで政策立案に携わっている」という20代の女性と話す機会がありました。その時、「米国は世界の警察としての役割を担ってきたが、911事件以来それが揺らいでいる」と言われ、「そんなことを考えているのはアメリカくらいだ」と思い、そんなことを無邪気に信じている政策担当者に腰が抜けるほど驚きました。自分の周囲のことしか知らない人のことを「田舎者」と評することがありますが、その時は正直、「なんて田舎者的発想なのだろう」と思いました。アメリカだけが自分を世界のセンターと考えているのでは?(その人が少数派であることを祈ります。)

では逆に「世界の田舎者」は存在するのでしょうか。ここ数週間私が抱いている疑問です。

日本に関して言えば、今の日本は「世界の田舎者」になりつつあるのではないかと心配しています。その理由は第一に発信力が弱いこと、第二に日本以外の他者を知ることへの探究心が弱まっているような印象を最近受けるからです。

一つ目の発信力に関する要素の大部分は、英語力の弱さにあると思います。日本の公立の小中学校における英語教育のあり方には目を覆いたくなるものがあります。もちろん「英語力=グローバル(ビジネス力)」ではありませんが、国際社会で共通語ができないために効果的な主張ができにくいことは確かです。そして企画力やアピール力の弱さも挙げられるでしょう。昨年シンガポールに旅行しましたが、その際、韓国観光局によるCMの多さに驚きました。日本でも良く知られた俳優を起用したCMを放送したり、伝統だけでなくエネルギッシュな韓国の「今」を紹介するCMなど大変よくできていました。恐らくテレビの放送枠を買い取って放映しているのでしょう。

二つ目の問題に関しては、日本人に限った問題ではなく、そして外国だけでなく自国内の問題への無関心という点で日本以外の他国の人々も同様かもしれません。以前、日本に留学していた裕福なフィリピン人学生が、スモーキーマウンテン等に象徴されるフィリピン内の貧しい人々の状況を、日本のメディアを通して初めて知ったということがありました。彼女は裕福な家庭出身のため、自国内で貧しい人たちと接点がなく、知らなかったのです。そしてその貧しい人たちに外国人が支援をしているという実態を知り、「自分も帰国したら、彼らのために何かボランティアをしたい」と話していたそうです。

もうひとつの例としては、私が日本語教師をしていた時、中国人学生同士でも民族が異なると、互いに全く話をしないということがありました。教科書を忘れたある中国籍の少数民族の学生に、漢族の生徒の教科書を見せてもらうよう指示したところ、お互い話もしないし(授業中なのに)すぐに自分の席に戻ってしまうのです。教師の間ではよく知られていることらしいですが、新米教師だった私には大変ショックな出来事でした。日本に住む日本人だけでなく、世界中どこでも、多数派は往々にして自己中心的になりがちなのかもしれませんね。日本に留学していたウイグル族の留学生が帰国してみたら、いつの間にか漢族の町ができていて、膨大な数の漢族が移住してきていて、自分たちの文化が消されてしまうのではないかとショックを受けていたこともありました。

やや話が逸れてしまいましたが、「世界の田舎者とは自分と自分の周囲のことしか見ない人」と考えられないでしょうか。では「世界のセンター」とは何なのでしょうか。経済力、政治力、そして豊富な資源や文化的な影響力・・・。思いつくままに国力の要因と考えられるものを挙げてみましたが、これだけではないでしょう。しかし本当に今でも「世界のセンター」は必要とされているのでしょうか?交通機関の発達、留学生や移住者の増加、そして何よりインターネットの登場により、個々の発信力が強まった現在において必要なのは、「もっと違うこと」ではないでしょうか。

自国の情報源だけでなく、各国メディアを通して自国がどのように報道されているか、そして自分は本当に自分の国のことを知っているのか、「国は」でなく、「自分は」何を知りたくて、何をすべきなのか。それらを複数のメディアを通して、それらの意図やフィルターを考えた上で自分のすべきことをすることが必要なのではないでしょうか。

「国単位」だけでなく、「メディア」単位でも意図やフィルターはあります。日本のテレビ局や新聞社もそれぞれ主張や傾向があります。A社のトップニュースがB社では全く扱われないということもありますし、ある有名な海外政治家の発言が新聞社の主張に合わせた形に編集されて報道されたこともあります。そうなると各メディアの比較検討が個人レベルでも必要となってくるでしょうし、現在の技術はそれを容易にしていると思います。

私が大学に入学した時、国際関係論の教授は学生にイギリスの経済紙「FINANCIAL TIMES」を必ず読むように指導し、それに合わせた課題も出しました。なぜ「HERALD TRIBUNE」や「THE WALL STREET JOURNAL」でないのかと学生が質問すると、「日本ではアメリカの情報を簡単に入手できます。しかし世界はアメリカだけではありません。その複数の視点を養うためにイギリスの経済紙を選んだのです。本当はフランスの「LE MONDE」が良いのですが、フランス語を読みこなせる人はあまりいないと思うので」と答えられました。そして学部付属の図書館には「FAR EASTERN ECONOMIC REVIEW」を初めとするアジアの雑誌も揃えられました。身近にそうした環境が整えられていたことは大変ありがたかったものです。

更に重要なのは、それらから得た知識を分かち合い、議論することではないでしょうか。気に入らないサイトに対するサイト攻撃などがありますが、そのような独りよがりになることなく、互いに議論する。まどろっこしく、牛歩にも似た動きのようですが、それこそが長い目で見ると、大きな力になると信じます。国家というのは常に自国の利益を優先する存在です。もし真の他者理解や交流を図るのであるならば、私たちは常に「私」という「個」に戻る必要があるでしょう。私が大学院生であった頃、チベット仏教を研究している学生が授業で研究発表をし、その後皆で議論をしました。その時ただ一人いた中国人学生は、自分が「クラスに一人の中国人」という立場であるためか、「中国政府擁護」に終始し、その場にいた学生は誰も中国人である彼女個人を非難していたわけではなかったのですが、結局議論は噛み合わないまま終わってしまいました。外国で自国の批判をされて気持ち良いはずがありませんが、問題は彼女がチベット問題を何も知らないまま政府擁護をしてしまったことにあるように思いました。

今回のオリンピックの聖火リレーで中国人留学生や中国系住民が祖国の聖火リレーを応援する気持ちはとても自然なものだと思います。しかしオーストラリアで行われたリレーで見たある映像には正直がっかりし、悲しくなりました。それはテレビのインタビュアーがチベット系住民にインタビューをしようとしたところ、中国人留学生たちが中国旗で画面を埋め尽くし、「One China!」の連呼でインタビューを打ち切ってしまった出来事です。その光景は正に、数に物を言わせた暴力として私の目には映りました。もしあの場に限らず、中国人留学生たちとチベット系住民の間で議論(対話)が生まれたらとても良かったのですが。

チベット問題に限らず、議論の結論が簡単につくとは思いません。もしかしたら結論がつかない議論を死ぬまで続けることになるのかもしれません。しかし「話し合う」、その事にこそ意味があり、互いに学べるのではないでしょうか。その意味で、「世界のセンター」ではなく、知の発信地が世界のあらゆる所にあり、議論(対話)が無数にあることを願ってやみません。私たちの時代にはもしかしたら何も解決しないかもしれませんが、長い人類の歴史の中で少しでもそうした動きが進歩のステップになれば、それで良いのではないでしょうか?

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<太田美行☆おおた・みゆき>
1973年東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。
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SGRAからの質問:聖火リレーは続けるべきでしょうか(1) Posted 2008.4.25 by imanishi
SGRAから、購読者の皆さんに質問しました。
「聖火リレーは続けるべきでしょうか」

■ 聖火リレー問題について意見を申し上げます。
チベット問題について一定の理解があるものの、今回のように聖火リレーを妨害することは下作だというしかありません。もともと聖火リレーは国際オリンピック委員会によるものであり、聖火は世界の平和を象徴するもので、聖火等を奪うようなテロ行為は本来なら世界が許すものではありません。ダライ・ラマ氏が言うように、暴力等をふるって問題を解決するものではありません。オリンピックを自分たちの政治に利用するのも卑怯です。中国政府に問題があるとしても、世界が望む四年に一度の平和の象徴のオリンピックを侮辱するのは決して許せるものではありません。平和的にオリンピックを行われることを祈っています。今回のような事件は、チベット問題を解決するのに何も役に立つことがないと思います。聖火リレーを妨害するのは得策ではないです。

■フランスで車椅子のランナーの手から聖火を奪う場面を見て、本当に驚きました。自由の国のフランスで、不自由な方にこのような恐怖を与えるのはわれわれ普通の人から見れば不思議でならないです。地球市民って難しいですね。いろいろな国々があって、それぞれの立場・利益からものの見方が変わってきます。日本のメディアも中国への非難一色で、聖火リレーを妨害する過激な行動が民主的ではないことは誰も批判しませんね。ま、どっちもどっちでよくわかりません

■私は縮小、或いはやめた方がいいと思います。本来の目的は達成しませんので、聖火リレーを続ける意味はないと考えます。

■今回の聖火リレーについては、本当にいろいろと考えさせられました。中国国内では、ナショナリスティックな意見も少なくないですが、マスコミは意外と冷静でした。リレーのトラブルに関する報道は規制されているせいか、衝撃な映像などはあまり流されていないです。

それに関連して、日本の報道ぶりに驚きました。上海の自宅で日本のNHKのニュースが見られるので、 聖火リレーの様子をキャッチできますが、昨日は衝撃を受けました。NHKの報道によると、インドネシアでの聖火リレーは中国政府の要請で専ら現地の運動場の中で行われたということでしたが、その直後、中国国内のニュースをみると、リレーは明らかに街の中でも行われている映像が流されていたのです。NHKも欧米のメディアと同じく、過大報道、中立でない報道、意図的な報道などといった問題を抱えているといわざるを得ないです。

チベットで起きた暴動事件などについても、真実はまだ見えないですが、マスコミの報道を単純に信じるのは危ないと強く感じました。中国政府を代弁するつもりはまったくないですが、今回の聖火リレー事件を通じて、中国国民が欧米諸国を見る目が変わったと思います。

日本での聖火リレーはどうなるか、注目したいです。

■北京に行ってきました。海外のテレビで流れている聖火リレーとそれをめぐる数々の騒動、およびそれによって出来上がっている北京五輪のイメージと、北京空港や北京街頭で体感した北京五輪の雰囲気とはだいぶ異なるような気がします。もちろん、私は今北京に住んでいないし、あくまでもこの4日間だけの滞在でしたので、私の「体感」もある意味ではこの4日間だけの私個人の感覚に過ぎないと思います。

しかし、昔に比べるとさわやかな緑(昔なら埃を被った緑)がずいぶん増えたなあとまず感心しました。まっすぐで大きい道路や立派な建物、そしてあの広々した開放感のある空間作り(それは昔もそうだったが、今はより広く感じられます)に癒されました。そして何よりも接してきた人々のあの親切さ、ホテルの人、タクシーの運転手、空港のスタッフ。みんな自然に笑顔があって心のゆとりを感じました。「ずいぶん変わったなあ」と感心しました。

海外のメディアはやはり海外のメディアらしく、彼らの意図や想像によって情報を取捨選択して流していると思います。もちろん、中国のメディアもそれなりの取捨選択で報道していると思いますが、しかしCNNの報道や、時には日本の民放の報道ぶりをみていると、彼らに中国のメディアを批判する権利はないなぁと思います。やり方はよりソフトに見えるかもしれませんが、情報操作とは言わなくても先入観があまりにも甚だしい。

私は普通の北京の人々が自然に笑顔で優しく接してくれるのが何よりも嬉しく思いました。もちろん中国にはまだ人権問題や環境問題など数多くの問題があります。程度の差はあるが、それはパリでも東京でもあると思います。しかし、中国人にも、北京オリンピックも含めて世界の人々と交流を深める中、自然な笑顔が溢れる「幸せ」を追求する権利はあります。そして北京で確実にそれが見えてきたのが何よりも嬉しいです。

海外のメディアは“洗練”されているかもしれませんが、その“洗練”の下には「アジア蔑視」「偏った先入観」が隠されているときもあります。“洗練”したカッコウをした「行き過ぎ報道」より、私にはタクシーの運転手や空港の若いスタッフ等の素朴な北京の人々のほうが正直で良いと思いました。



徐 景淑 「文化は力‐茶の湯」 Posted 2008.4.23 by imanishi
(SGRAエッセイ#127)

日本には他国にはない文化がある。それは茶の湯という飲茶の儀式とそこから生まれた侘び寂びの美意識である。茶の湯は分かっても、「侘び寂び」という言葉の意味については理解に困る。

私のような外国人には当然のことで、日本人でさえよく分かっていない気がする。私は正式にお茶を習ったことはない。研究対象が茶道具であるから茶道に興味がある程度であるが、「侘び」と「寂び」については今もたくさん考えさせられる。

鎌倉時代に中国から禅宗の飲茶法が導入されてから千利休(せんのりきゅう)の生きた安土・桃山の時代まで、美意識は、豪華で耽美的なものであったが、その反面、単純美を否定し、時を経て傷んだわびしい状態の美を肯定する精神的な美意識もあった。「侘び」とは広辞苑によると「@わぶること。わびしいこと。思いわずらうこと。A閑居を楽しむこと。また、その所。B閑寂な風趣。茶道・俳句などでいう。さび」とある。この説明では「侘び寂び」が何の意味かますます分からなくなる。基本的に「侘び」とは侘しい(わびしい)「寂び」とは寂しい(さびしい)という意味で捉えられる。

「寂び」は「錆び」とも書き、時間の流れによって古くなる様子、それが完全な美しさに到達していない、ある趣の美である。これには村田珠光の「草庵の茶」という新しい試みがあり、茶道具を通して形象化されたのである。草庵の茶とは四畳半という狭い空間で、飾り付けも少なくし、道具も歪みや不正形の、完全には物足りない道具で茶を点じることである。その後、紹鴎が踏襲し、ついにその弟子千利休が侘び茶を大成したのである。完全たる形、概念、日常、常識を超えて、あえて汚す、歪む、散らす美である。

それでは、日本でなぜ侘び・寂びの美意識が生まれたのか。武士政権が主導する日本とは違って王権政治をした朝鮮半島の例をみるといい。ごく簡単にいうと、政治面で日本は藩間の戦争が耐えることなく続いていたのに比べ、朝鮮は中央集権体制のもとで国内での戦いがなく、両班(文班と武班の貴族)のうち、文班(文臣)が権力を握るときが多かった。宗教面では、日本が華麗な仏教を中心にしたのに比べ、朝鮮時代は質素な儒教を支持していた。朝鮮でも飲茶の風習は古代からある。先祖に祭る祭祀を「茶禮」といい飲茶の痕跡は度々見られるが、茶室という特定の場所を設けてはいない。戦争のない平和な時代に茶室などは必要なかっただろう。

日本の場合は、江戸時代に入るまでは緊張を緩めることができない時代であった。俗世から離れて安らぎを求めるため、時には敵同士で非武装して向き合うため、ある時は仲間との親交の場として四畳半の空間はとても適したと思われる。生きるか死ぬか、勝つか負けるかの厳しい現実で、失敗は許されなく、全て完璧さが求められたに違いない。その現実において、四畳半の窮屈な茶室で完全とはいえない茶碗でお茶を飲む。これこそ究極の安らぎの空間であり、自分を見極める瞬間であっただろう。そして、こういう時代であったからこそ生じた茶の湯の文化、侘び寂びではないかと思われる。

茶の湯は今の日本を豊かにしたといっても過言ではない。茶の湯が残した数多くの美術品は人々の心を豊かにし、それを求めて各地を巡った商人の活動は日本が経済大国になる基礎になったのではないかと考える。文化は力なり。茶の湯は日本の大きな力となった大事な文化であるといえよう。

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<徐 景淑 (ソ・キョンスク) ☆ Seo Kyoung Sook>
韓国釜山の東亜大学芸術学部工芸学科(陶磁工芸専攻)卒。現在、慶応義塾大学大学院文学研究科(美学美術史学専攻)博士課程で高麗茶碗の研究をしている。SGRA会員。
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*このエッセイは、2006年度渥美国際交流奨学財団年報に投稿していただいたものを、筆者の許可を得て再掲載しました。



葉 文昌「差別問題とグローバル化」 Posted 2008.4.16 by imanishi
(SGRAエッセイ#126)

「ヘアスプレー」というミュージカル映画を見た。60年代の黒人差別がまだ濃く残っていて且つ白人がメディアを牛耳っていたアメリカで、黒人のダンスの人気とは裏腹に舞台上演のチャンスを奪われたことをきっかけに、体形で差別されていた白人の女の子と、差別を良しとしない仲間の協力を得て、ついに黒人R&Bが大衆の支持を得て優勝したという内容である。この映画の中で、その頃は一般的であったであろう黒人や肥満などへの差別に対して、黒人と白人、肥満と普通、それぞれ多様であると訴えているところが印象的であった。

アメリカ社会は人種問題が激しい。それがない日本や台湾の方が住みやすいと日本と台湾に住む人々は言う。自分もかつてはこのような場所に生まれて良かったと胸を撫で下ろしていたものである。しかしエネルギー消費が増大すれば、地理的な活動範囲が拡大するは自然の摂理である。人間の歴史は、これまで幾度もそれを経験してきた。何らかの技術革新により人々の行動範囲は郷から県に広がり、また何らかの技術革新(例えば鉄砲)により県から国、そして何らかの技術革新(例えば発動機)により国から地球に広がった。そしてそれぞれの時代の中で、それまで郷内しか知りえなかった者が「よそ者」に抱く感覚や差別と、それまで国内しか知らなかった者が他国人に抱く感覚や差別は同じものだったと思う。だとすると単一民族とはある時点の特別な状態であって、差別問題はいつでも起こりうる。したがって60年代に社会の多様性を訴えて差別をなくす努力をしてきたアメリカは、グローバル時代を先取りしていたと言える。

昔、日本は単一民族国家だから外国人との付き合いに慣れていないと聞いたことがある。しかしグローバル化が進めば外国人との往来は益々増える一方で、それを拒むのは不可能である。また資源のない日本は外国との関わりを持つことによって豊かさを得ている面もある。開国する以上、一人よがりの中途半端な対応ではアジアからの人望を失う。人望を失えば人と金は集まらない。人と金が集まらなければ活気を失う。日本は開国することを選択した以上、中途半端な対応は許されず、今以上に外国人に対する意識の変革が求められているのだ。台湾人が日本に抱く感情の一つに「電子製品が優れている」ということがあるが、同時に「閉鎖的」とも聞く(多くは2〜30年前のことが言い伝えられているが…)。日本はアジアからの人望がまだ不足しており、一流の人材は日本よりアメリカを選ぶようだ。そしてアメリカの影響力は強まり、電子製品ではアメリカと(日本を除く)アジアのグローバルスタンダードが出来上がる。そして日本の企業の業績に影響がでる。アジアと日本は近所なのに残念な話である。

ここで実例として産業に近い国際学会Aを紹介したい。この産業は日本が切り開いてきたが、その後韓国がトップの地位を確立したX産業に関する学会である。A学会は日本で設立され、毎年日本で開催される。組織委員会は大勢が日本の関連企業のお偉い役員で固められているが、その後韓国でこの産業が発達してきて研究レベルも向上したので、韓国人が主催を求めるのは当然の流れである。しかしこの学会の委員は頑なに外国での主催を拒んでいた。堪りかねた韓国人と日本人は、共同で同じ分野のB学会を設立し、毎年日本、韓国と台湾で掛け持って開催することにした。その際には、旗振り役の日本人研究者はA学会の人からクレームがついたそうである。また、B学会はその後ヨーロッパ人の要請でヨーロッパでも開催することになった。そしてこれをきっかけに、以前はアジアまで来なかったヨーロッパ人の参加者が増え、当然学会は益々盛り上がり、レベルが上昇するようになった。一体日本人組織委員だけで固められた学会に外国人が喜んで参加すると思うのであろうか?人が集まらねば当然高いレベルは維持できない。そして当然A学会はしぼんでいくことになろう。これは独善的な対応が行き詰ったことの実例である。このような状況はここで挙げた学会だけの話ではなく、他の分野でも起こっていると思う。日本では若い人ほど国際化に慣れている。国際化に彼らはうまく対応できよう。しかし問題は今会社の舵取りをしている世代なのである。グローバル化という時代の変革に適応していない人が少なからずいるのではないかと思う。

日本に牽引力がないのであれば、中国やアセアン諸国の一流人材を台湾に吸い込めたらどんなにいいかと思ったことがある。しかし一筋縄には行かないようだ。「台湾は外国人に親切と思うか」と台湾人に聞いてみると、「とても親切に接している」と言う。しかし彼らの言う「外国人」とは実際は自分より豊かな欧米諸国や日本からの外国人で、実は自分より貧しいアジアの国々の人に対しては「外国人」ではなく「外労」(外国人労働者の略称)として差別しているのである。6年前に台湾でかなりの規模の企業の工場を見学したことがあったが、本国人社員と外国人労働者の食堂が別々にあるのに気づいた。これは誰が見ても非効率である。そこで案内してくれた管理職の方に理由を聞いたところ、平然と「外国人労働者にはある種の寄生虫がいるから」と真顔で答えられた。このように日常的に差別が存在し過酷な搾取を受けているので、台湾ではこれまで外労の暴動が起きたこともある。日本人や欧米人にはやさしいが自分より貧しいアジアの国の人たちには厳しい。これでは弱い立場の平社員には厳しいが上司にはへつらう中間管理職と一緒である。当然部下からの人望は集められないし、偉くもなれない。たまたまリーダーになってしまったら、それは災の始まりである。だから台湾が他の国の人材を吸い込むのは難しい。

弱い立場の人間には厳しいので、皆学歴や家柄や人脈を強調して、自分を強く見せていじめられないようにする。台湾で路上の果物売りから果物を買っていた時に近所の人が通りかかったことがあった。後で「そんなやさしい顔をしていたら高く買わされるよ」とアドバイスを受けた。僕としては、相手は貧しい農民なのだから少しくらい高く買わされてもいいと思っていたのであるが、台湾ではそう考えないらしい。強い人にはへつらうが弱い人には厳しい。これは魯迅の言う阿Q精神で、中華文化の一部である。欧米的価値観では貴族の義務があって、社会上層にはより厳しい要求があると聞く。中華圏は反対で「貴族の権利」と「底辺の義務」しかなさそうだ。弱いものには厳しく当たるので弱い立場の辺境民族や農民は搾取の対象となる。そしてたまりかねて蜂起が起きる。これだから中国もリーダーの人望と品格は持ち得てない。

アメリカでは今や企業の雇用に国籍を問われないことが多く、世界から直接応募が集まり、企業も国籍問わずに対応すると聞く(註)。今後人々の地理的な活動範囲が増えればこの傾向は益々強まるであろう。それはアメリカが60年代に人種差別問題に真摯に取り組んだことがある程度影響しているのかもしれない。スポーツの世界でも、脂の載ったアジアの選手が次々と向こうに行って活躍し、給料以上の金をアメリカに集めさせている。「社会の発展は人にある」とすると、やはりこの先もアメリカが世界のセンターとして君臨続けるのではないかと思う。

註:http://nvc.nikkeibp.co.jp/report/jinji/leader/20070906_000701.html 参照。

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<葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchuang>
SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2000年に東京工業大学工学より博士号を取得。現在は国立台湾科技大学電子工学科の助理教授で、薄膜半導体デバイスについて研究をしている。
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孫 軍悦 「山裏人」(1) Posted 2008.4.11 by imanishi
(SGRAエッセイ#125)

「どこの出身ですか」と聞かれると、私はいつも口ごもってしまう。母の世代は「小三線」といえば、ある程度わかってもらえるが、私の世代となると、同じ経験を持つ人でない限り、もはや想像すらつかないだろう。

それは、たしか上海から500キロ離れた、安徽省積渓県、黄山という名勝地の麓だった。硯や墨、画仙紙、緑茶が有名で、清朝の大商人胡雪岩、五四文学革命の先駆者胡適、詩人汪静之、そしていまの国家主席胡錦濤など、有名人も輩出している。一方、洪水が多発し、夏になると、見わたす限りの濁流にわずか水牛の角と屋根が浮かんでいる。そのため、故郷を離れる難民が多いこともよく知られている。

私が幼少時代を過ごしたのは、この安徽省の山奥にある「上海光輝器材厰(工場)」というところだった。もう少し奥には、「万里厰」があって、ほかに「赤星」、「燎原」、「前進」といった工場もある。こうした山奥に作られた工場で働く上海人たちは、自分たちのことを「山裏人=山のなかの人」と呼ぶ。1980年代半ばごろ、工場が廃業し、彼らは一斉に上海に戻り、時計会社や、カメラ会社、製紙会社、洗剤会社、製鉄所、造船所などで働くことになるが、同郷の誼の代わりに、「山裏人」という固い絆で結ばれている。そして、私たちは、「山裏人の子ども」という奇妙なアイデンティティを共有することとなる。

工場は国産ブランドの置時計の部品を作っていた。が、かつて砲弾をつくる軍需工場だったことは一度も聞かされなかった。今思えば、このような交通不便な山奥で置時計を作ることも、近くの山頂に大砲が置いてあるのは山の猛獣を脅かすためだという大人たちの説明も、腑に落ちないものだ。真実が教えられていないことに対して不満をもっているわけではない。当事者は往々にして饒舌ではなく、寡黙なのだ。ただ、現実に疑問を呈する姿勢と矛盾を追究する方法が、私たちの教育には決定的に抜け落ちている。

正確に言えば、工場ではなく、街だった。地元の農民から土地を徴用し、道路、浄水場、マンション、幼稚園、学校、食堂、図書館、保健所など、生活に必要な施設はすべて揃っていた。マンションには水洗トイレがあるが、ガスはない。一階に住んでいたため、母は家の前の空き地を利用して、かまどのある厨房と、鶏やアヒルの小屋を作った。毎朝、アヒルを川に追い込み、夕方に家に連れて帰るのが私の日課だった。卵を産まなくなる鶏を食べて、その骨を細かく砕いて餌にする。雄鶏の尾羽を使って玩具を作る。アヒルの産毛はきれいに洗い、干してからダウンジャケットに使う。職員は朝がた県の市場から野菜を仕入れる。母は毎朝必要な野菜を日めくりカレンダーの裏に書いて、バスケットに付けてある洗濯挟みに挟んでおく。そして、私が学校に行くついでにバスケットを野菜売り場に預けて、夕方帰るときに取りに行く。今風に言えば、きわめて環境に優しい生活だった。母は石臼で豆乳を作り、お正月には団子用のもち米を挽いていた。一度、挽肉をつくる器械を使ってみたが、器械を組み立てたり洗ったりするのが面倒だったからか、それとも味に不満があったからか、結局包丁で叩くことに戻った。「過去の生活には戻れない」とよく聞くが、母にとって、「近代化」や「効率化」と「進歩」とは少しも結びつかない。生活に必要であれば、いくらでも「後退」することができる。そもそも、彼女からみれば、「進歩」するのは、経験から培われる智恵のみである。それに従わずに、知識や理屈を信奉するほど愚かなことはない。

都会からみれば、五階建てのマンションに住みながら、かまどを使い、家禽を飼う生活は、かなり奇妙ではあるが、地元の農民の自給自足(自足しているかどうかは別として)の生活とも一線を画している。農民たちは川の向こう側で畑を耕し、上海人は川のこちら側で旋盤を動かす。それぞれの技術で懸命に生きている。時には、農民たちが豚肉を担いで売りに来たり、上海人が水道を引いてあげたり、地元の大工さんに家具を作ってもらったりはするが、互いの交流はそれほど盛んではなかった。子供の世界も変わりはない。上海人の子どもたちは、川のこちら側の子弟学校で学び、地元の子どもたちは、川の向こう側の学校で学ぶ。山道で偶然出会ってもにらみ合うことがあるほど、互いに「違い」を意識していた。農地が徴用され、工場で働くことになった人もいるが、やはり上海人のなかに完全に溶け込んでいないようだった。あるいは、上海人が彼らを完全に仲間として受け入れていなかったのかもしれない。その子どもたちは、私たちと一緒に子弟学校で学んでいた。おかげで、野いちごのような美味しいものが食べられたが、ツツジの花びらや生のソラマメなど、まずいものも随分食わされた。それにしても、どこかが違うということは、おぼろげにも分かっていた。こんな山奥にある弾丸の地でも、差別意識は歴然と存在していた。恐ろしいことに、幼い子どもでもこうした差別意識を利用し、悪事を働いたら農民の子に罪をなすりつけることを覚えた。

小学校は、丘の中腹にあった。山は天然の校庭。自然科学の授業はつまらないが、バッタや蟷螂や蛙、そして毎年岩場で咲き乱れるツツジから、生命とは何かを教わった。それは、動物との触れあいの中で命の愛おしさを知るといった奇麗事ではない。むしろ、殺しても殺しても殺しきれないという厳然たる事実から、あらゆる生物に対する畏怖の念が生まれたのである。ペットショップや動物園、水族館に囲まれた子どもたちは、征服者としての人間の傲慢さしか知らない。現代社会は、自然を前に人間が覚えるもっとも基本的な感情の一つである恐怖を、子どもたちから確実に奪っている。

小学校の先生たちは、授業中は先生であるが、放課後は隣人でもある。たとえば、数学の先生は同じマンションの四階、美術の先生は六階、校長先生はむかい側のマンションに住んでいる。三人とも奥さんに尻に敷かれていることも、子どもながらよく知っている。四階の数学の先生の奥さんが「早く夕食の支度を」という先生への伝言を母に頼んだが、使いに行かされた私は怖くて伝えられなかった。そのせいで先生が奥さんに叱られたことを、いまでも申し訳なく思っている。遠足のときには一人の先生が何人かの生徒と一緒に行動することが決まりだったが、私はいつも美術の先生と一緒だった。二人とも無口で、不器用で、即かず離れずにぼうっと歩いていたことをかすかに覚えている。

低学年のクラスには、まだ十数名の児童がいるが、高学年となると、将来上海市の中学校で良い教育が受けられるように、親たちは大半心を鬼にして子どもを上海の親戚に預ける。もっとも、預かってくれる親戚がいれば、という幸運な場合に限った話だが。実際、兄にはいたが、私にはいなかった。ただ、私のほうがもっと幸運だった。(続く)

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<孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue>
2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。



マックス・マキト「前世から託された課題」 Posted 2008.4.9 by imanishi
(SGRAエッセイ#124)

今、僕は社会科学を専門としている。でも、数年前から、以前専門としていた工学を凄く恋しく感じるようになった。その理由の一つは、やはり、ものづくり大国の日本に長年住んできたことにあるだろう。これって、厳しい冬の寒さの後に待ち受ける花粉症のように、長く東京に住むとかかってしまう病気なのかもしれない。

僕はフィリピン大学の機械工学部を卒業してエンジニアになった。卒業後数年間、フィリピンのものづくりの現場である国営の造船所で働いた。家族が住むマニラから離れた、道路などのインフラが乏しい田舎にある造船所で、自然と海に続いている土地だった。東京人のように歩く習慣のないマニラ人にとっても、歩いていける距離に宿舎があり、何かあるとすぐに呼びだされた。エンジニアの生活はキツイとしばしば感じた。溶接の火花が飛び散ったり、何トンもの機材を運ぶ重機が移動したり、吸い込みすぎると毒性のある塗料や化学薬品の蒸気が満ちていたり、エックス線による船体の検査が外野で行われたり、船底塗料の準備工程で高圧の砂吹きが行われたりする危険な職場だった。錆びだらけの、または油でぬるぬるした船内の奥隅まで入り込まなければならないこともあり、そんな時には体中がむずむずした。寝る前のシャワーが毎日の小さなお祭と感じさせるような実に汚い仕事であった。

だけども、幼いころからエンジニアという夢をみていた僕にとっては、その血が騒ぐ現場でもあった。フィリピンで当時初めての最大級の船の建設にも関わったこともあり、非常に誇りに思った。この現場で人生を過ごすという覚悟もした。土地の娘と結婚して家族を設けても可笑しくない時期に、工学ではなく社会科学を学ぶ機会を提供する奨学金を得ることになった。そして、経済学の道を歩みはじめるために、造船所を去って都会に戻ることになった。それから更に日本に渡って経済学を研究することになり、現在に至る。工学から足を洗った数年後、あの造船所はシンガポールの造船会社に買収されたと聞いた。

しかし、冒頭に述べたように、数年前からエンジニアの血がまた騒ぎ始めた。どんな形でもいいからまた船づくりと関わりたくてたまらない。あの手この手で探ってみた。先ずは日本のいろいろな門を叩いてみた。大学の休みの間に研修させてくれませんか?数ヶ月かけて造船工学を復習して資格を取得できないでしょうか?無視、無理。ああそうだ、経済学から攻めてみたらどうでしょう。そのうち、ある日本の造船大手企業がフィリピンに進出していることがわかった。東京にある窓口と連絡を取ったら丁寧に応対してくれたが、研究の許可はおりなかった。それならば、ちょうどフィリピンの製造業系の経済特区について研究しているから、どこかで接点があるのではないか。調べてみたら、日本、韓国、シンガポールの企業が3社、フィリピンの経済特区に造船所を建設する許可をすでに得たか申請中だということがわかった。そこで、今までの経済特区の研究でお世話になった認証機関の政府管理局に相談したところ、ぜひ研究してほしいと歓迎された。しかし、その後何度も連絡してみたが、なんだかの理由で相手にされず、「まさかここでも無視か」とがっかりした。

そうこうしているうちに、ほとんどが日系企業のフィリピンの自動車産業から熱い研究依頼がきた。こちらはSGRAの共同研究プロジェクトとして進行中である。フィリピンの自動車産業は、東アジアで進行している自動車産業の分業化で大変悩んでいるらしい。そのときに気がついた。もしかしたら、今フィリピンの造船業は栄えていて大きな悩みがないから研究の必要性があまりないのではないか。

更に調べてみると、前述の3社の造船企業のうち、日系企業と韓国系企業の造船所だけでも、なんとフィリピンの造船産業を日本、韓国、中国についで世界第4位にするほど大きなものであるという記事を見つけた。しかも、昔僕が誇りに思った最大級の船の10倍以上性能を備えた船を作っている。凄い!更に調べてみると、アメリカで教育を受けた、あの造船所の元幹部のS氏のウェブサイトに辿り着いた。S氏は韓国系大手造船所が位置する経済特区の会長兼フィリピン造船所の副会長として勤めている。連絡しても無視されたのは僕の研究を危険と感じたのではないか。彼らの防疫線を突破するのも難しいかもしれない。

その経済特区は1992年まで米海軍の基地だったが、比米の基地協定が終了したあと、フィリピン政府に返還されたスービックというところにある。SGRAフォーラムにも参加してくださったフィリピンアジア太平洋大学のヴィリエガス先生の評価によると、シンガポール経済の原点ともいうべき戦略的な立地にある港の3倍の面積を有するという。その場所を厳選した米海軍が撤退したあと、地域経済はドンと低迷したが、経済特区としてその戦略的な要素を生かした政策によって、スービック地域は再び栄え始めているようである。

日本に長く住んでいると東アジアの奇跡とも呼ばれる「共有型成長」の原点はものづくりだとわかってきた。最近の日本はその原点を忘れかけているように見受けられるが、それでも、それは、フィリピンがまだ体験したことがない奇跡なのである。前述のように、エンジニアだった僕は造船所で限界を感じ社会科学に移った。その限界というのは、ものづくりに対する当時のフィリピンの資源不足だったと思う。エンジニアたちがさらに勉強できるような支援がほとんどなかったのはそのひとつの例である。エンジニアとしての僕は、フィリピンの発展に貢献するという使命感を果たせなかった。しかし、今、ものづくり(船づくり)によって、いかに母国にも念願の共有型成長を実現できるかを追究することが、エンジニアの僕から経済学者の僕に託された課題だと感じている。

昨日、やっとあの元幹部からの返事がきた。いつでもスービックに大歓迎だという。SGRA日比共同研究をするために、今度の春休みに帰国したら必ず尋ねて僕の原点に戻りたいと思う。

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<マックス・マキト ☆ Max Maquito>
SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。
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太田美行「祖母の死」 Posted 2008.4.4 by imanishi
(SGRAエッセイ#123)

2月下旬、私の母方の祖母が亡くなった。100歳6ヶ月。なんと一世紀以上も生きたのだ。

祖母はいわゆる戦争未亡人、夫が戦争で亡くなった人である。祖父は自分の兄の会社で働いていたが戦争に召集され、輸送船に乗っているところをソロモン海付近で攻撃され38歳で亡くなった。その時祖母は30代半ば、12歳の息子を筆頭に下は2歳までの、4人の子供を抱えて未亡人となってしまった。今の私と同じくらいの歳で一家を支えることになった。

祖父は勤め人だったが、副業として小さなガソリンスタンドを経営しており、祖母が担当していたが、それが急遽メインの商売となり、社長として運営に当たることになった。昔の人は現代の若者より成熟度が高かったといわれるが、遺体のない空っぽの棺が届き、亡くなった日も正式には不明、詳しい状況を知る人もいないといわれた、その時の祖母の気持ちを考えると、どれほどつらかったろうと胸が痛む。

そして追い討ちをかけるかのごとく、政府により統制下にあったガソリンは、更に統制の度合いを強められた。ガソリンスタンドは「各地域に一軒のみ」と決められた。想像がつくと思うが「女が経営する店」の立場は決して良いものではない。この時、亡くなった祖父の長兄が役所に行き、「お国に一命を捧げた勇士の遺族を、国は見殺しにするのですか」と言い、この言葉のおかげで祖母の店は「各地域に一軒」に残ることができた。もし店が閉鎖されていれば、私はもしかすると生まれていなかったかもしれない。

もともと頭が良くしっかり者の祖母は、新聞はもとより経済雑誌を読み、国会中継をよく見ていた。そして近所の人が驚くほどの博識だった。知識欲も旺盛で若い頃は、通信教育でローマ字を学んだそうだ。後に長男(私の伯父)が成人した後も社長として経営に当たっていた。私が子供の頃は既に仕事から引退し、庭いじり等を楽しむ日々だったが、常に時事問題をチェックしていた。

私の記憶にある祖母はいつもニコニコと微笑んでいて、苦労のかけらも見せない「優しいおばあちゃん」、また母方の祖母で一緒に住んでいなかったこともあり、私もそんな苦労があったとは考えたことすらなかった。しかし大人になるにつれ、母が時折語る話や、祖父の兄弟についてまとめた本などから、祖母の微笑みの裏にある苦労が想像できるようになった。また95歳を過ぎた頃、一度だけ何かの弾みで出てきた言葉の切れ端から、祖母が多くの愚痴や不満を飲み込み、自分の胸ひとつにしまっておいてきたかを知った。

100歳近くになって、もう周りのことがあまりわからなくなってきてから、耳元で話しかけると、「お店」とつぶやいたことがあった。祖母の中でいつまで経っても心配事だったのだろう。そう思い、すぐに「お店は息子さんたちがしっかりやっていますよ」と大声で答えたが・・・。今となってはそれが伝わっていたことを祈るのみである。祖母が亡くなる前に、こうした軌跡を知っておいて良かったと思っている。歳をとった祖母の手をなでる時、耳元で話しかける時、こうした苦労を知っていることが、愛情だけでない、何らかの尊敬の念も込めることができたような気がしたからだ。よく「老人ホームで、赤ちゃんに話しかけるような言葉で老人に話す職員がいて不快」という投書を新聞で見かけるが同感だ。今では赤ちゃんのようになってしまった人でも、かつては素晴らしい生き方をしてきたもしれないのだから。

私の祖母は無名の人である。何か大きな業績をあげた訳でも、大発見をした訳でもない。しかし4人の子の母として、また小さな会社の経営者として立派に生きた。戦中、戦後、祖母のような人が限りなくいたことだろう。その人たちが今日の繁栄を築いてきた。生前祖母はよく言っていたそうだ。「うちもお父さんが早くに亡くなったから、みんなこうして仲良く真面目にやってきたけど・・・、お父さんが生きていたらまた違っていたかもしれないね。」

「一病息災」という言葉がある。健康に自信のある人よりも、どこか病気のある人の方が健康に気をつけるので、逆に長生きすることの例えだが、「一家の主の死」という不幸をきっかけにして逆に、幸せを頑張って築いたという見方もできるかもしれない。

祖母の生きた時代は今と違って女性の生きる選択肢が多くなかった時代であり、また与えられた境遇は自ら選択したものでもなかった。しかしその中で祖母は「幸せ」を自ら選び、築き、自分の道をしっかりと切り開いて歩んできた。そのことに私は(身内のことで恐縮だが)限りなく尊敬の念を覚える。

家族とのコミュニケーションが少ないとされる現代だが、皆さんにもぜひとも自分の家族史を知ってほしい。意外な人の助けや、皆さんのご先祖のがんばりで今日の自分が生かされていることに気づくから。納棺、通夜、告別式などの葬儀一連の儀式の時、私の目の前にいたのは「優しかったおばあちゃん」というよりもむしろ、「自分の道を戦って切り開いた、尊敬すべき女性」だった。

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<太田美行(おおた・みゆき)☆ Ota Miyuki>
1973年東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究課程修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。



ボルジギン・フスレ「モンゴル人は血のついた肉をそのまま食べるって本当?(その2)」 Posted 2008.4.2 by imanishi
(SGRAエッセイ#122)

来日二年目からある留学生寮に住んだ。当時、そこに入居するには「北京出身」という条件があった。わたしは北京で4年間勉強したことがあったから、厳しい選考を経て、そこに入ることができた。寮は立派で、共同の食堂と厨房があった。そこに住んでいる留学生たちはよく十数人くらいで集まって、一緒に料理を作って一緒に食べていた。皆と行動を共にしないわたしは、いつも厨房で自分の料理を作って、自室に持って帰って食べるのであった。偶然にも、わたしが料理を作る時、彼らもいつも厨房で料理をしていた。厨房と食堂はいつもにぎやかであったが、わたしは彼らとほとんど会話しなかった。

肉食に慣れたわたしは、日本に来ても、料理をする際、必ず肉をいっぱい入れる。1パックの牛肉を買ったら、そのまま、その肉を全部鍋に入れて煮る。或いは炒める。ある日、隣で料理をしているひとりの留学生が、わたしの料理を見て、「あなたはこれを何日間食べるの?」と聞いた。
「一食だけ」
「へぇー?うっそ〜!あたなは1回でわたしたちの10人分を食べてしまうの?」と、その人は驚いた。
「これはわたしの分だよ」とわたしは言いながら、できあがった料理を大きな皿に入れて、自室に持ち帰った。

当時、わたしは、故郷から持ってきた干した牛肉や羊肉を材料にして料理を作っていた。干した肉を鍋に入れて、葱と塩を加え、1時間ほどじっくりと煮る。便利で、美味しい。1時間かかるから、火を弱火にして、一度自室に戻る。途中、1回だけ様子を見るが、できあがるまでずっと自室で本を読む。

そのように料理をし続けていたが、ある時期から、自分が干した肉で作っていた料理の量がよく足りなくなった。いつも決まった量で作ってきたので変るわけはないはずなのに、できあがった物がなぜ足りなくなったかと不思議に思った。そんなある日、いつものように、わたしは、干した肉を鍋に入れて、葱と塩を加え、弱火にかけて自室に戻った。30分後、厨房に様子を見に行ったら、何人かの留学生が慌てて、厨房から逃げ出した。「どうした?」と思いながら、厨房に入った。そこにはまだ一人の女の留学生がいて、口の中で何かを噛んで、笑いながら「皆に食べられちゃったよ」と言った。

自分の鍋を見たら、蓋が開いていて、鍋のなかの肉がだいぶ減っていた。わたしの不思議そうな顔を見て、「あなたがいない間、みんないつもあなたが作った肉を食べているんだよ。美味しい!」と、その女性が正直に言った。なるほど、彼らに食べられてしまったのか。だから最近の夕食の肉はいつも足りなかったのだ。

わたしは怒らなかった。まだできあがっていないものが我慢できない人々に食べられてしまうのは、その料理の魅了を物語っているのではないかと思った。

日本に来る前から刺身のことを知っていたから、日本に来た時には刺身をすぐ受け入れることができ、好きになった。ただし、日本人は魚だけではなく、鶏肉、牛肉、馬肉も生で食べるのは、知らなかった。

5年前、中国から来た代表団の通訳を勤めていた。ある日の夕食はステーキだった。店員は「ブルー(少し焼いて、ほぼ生に近い状態)にするか、レアー(ほぼ全体に色が変っているが、肉汁は生に近い状態)にするか、それともウェルダン(よく焼いたもの)にするか、レアーとウェルダンの間のミディアムにするか」と聞かれた時、わたしは、訳しながら、ステーキを食べたことのない代表団のメンバーにウェルダンを勧めた。ところが、代表団のメンバーのなかには、やわらかく焼いたステーキを食べたい人もいて、ウェルダンを注文した人もいれば、ミディアムやレアーやブルーを注文した人もいた。

「ステーキ」ってどんなものか皆楽しみにしていた。しかし、店員が出来上がったステーキを持ってきたら、代表団のメンバーはほぼ全員「ええ、これは生じゃないか。血も付いているよ」と不満だった。結局、日本の招待側と通訳のわたし以外、代表団のメンバー全員がシェフにお願いして、できあがったステーキを細く切って、再び焼いてもらって食べたのである。しかし、それはステーキというより、肉炒めといったほうがふさわしい。

同じ頃、わたしが通訳として、ある日本の会社の代表団と一緒に、内モンゴルを訪れた。旅行前、日本人のみなさんは、モンゴル料理とお酒を受け入れられるかどうか心配していた。

レストラン・オラーンでおこなわれた歓迎宴会で、豪華なモンゴル料理が出された。前菜のなかで、モンゴル風のソーセージもあった。団長はとても気に入って、「なんて美味しいんだろう。このソーセージを食べて、日本に戻ったら、日本のソーセージを食べたくなくなる」と、ソーセージをたくさん食べた。

メイン料理の羊一頭の丸焼きが出されると、みんな「ほ〜」と興奮して、カメラを出して、写真を撮った。みんな満足そうに、その羊の丸焼きを十分堪能した。

日本代表団をホテルまで送る途中のバスのなかで、招待側の、草原で育ったガイドは「モンゴル人は羊一頭の丸焼きを食べるけど、みなさんが食べたこの羊は、ほんとうのモンゴルの丸焼きのやり方と違うよ」と言った。つまり、彼から見れば、メイン料理に出した羊一頭の丸焼きは、純粋なモンゴル料理とはやはり違う。しかし、わたしから見れば、時代や環境の変化にしたがって、料理というものが変わるのは当然である。文化というものは変わらない部分もあれば、変わる部分もある。つまり魂になるものは変わってはいけないが、魂をよりいい方向へと生かしていくため、変化した環境のなかで生命力がある良いものを取り入れる必要があると思う。単に料理をみると、中華料理には、調味料のなかで「胡」が付いているもの、つまり外来品が少なくない。日本料理の場合、東洋のものもあれば、西洋のものも少なからず含まれている。モンゴル料理も、他民族の料理の良いところを取り入れて、発展していくのだ。

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<ボルジギン・フスレ☆ BORJIGIN Husel>
博士(学術)、昭和女子大学非常勤講師。1989年北京大学哲学部哲学科卒業。内モンゴル芸術大学講師をへて、1998年来日。2006年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程修了、博士号取得。「1945年の内モンゴル人民革命党の復活とその歴史的意義」など論文多数発表。



ボルジギン・フスレ「モンゴル人は血のついた肉をそのまま食べるって本当?(その1)」 Posted 2008.3.25 by imanishi
(SGRAエッセイ#121)

「モンゴル人は血のついた肉をそのまま食べるって本当?」
20数年前、北京大学に入った時、クラスメートに、よくこのように聞かれた。
当時、わたしが入ったクラスには「五湖四海」と呼ばれる中国各地域から来た学生が51人もいた。それなのに、かれらにとって、内モンゴルから来たわたしはまるで特別な存在であった。モンゴル人の衣食住、ひいてはデリケートな政治問題などについて、さまざまな質問があった。「家の入り口に男女二人の靴が置いてあったら、その部屋に入ってはいけないって本当?」とか、「冬、おしっこをしに行く時、棒を持って行かなければならないの?」とか、どこで得た「知識」なのか分からないが、受け売りで根拠のない話は少なくなかった。そのなかには、モンゴル人の飲食についての質問もたくさんあった。

わたしがミルクティーを作って飲んでいるのを見て、「これは何?」と聞いてくる。わたしの説明を聞いたら、「へぇー、なんでお茶にミルクを入れるの?」と、かれらはわたしが飲んでいるものが非常にまずそうだという顔をする。「改革開放」から間もなく、貧困からまだ脱出しておらず、長い間、雑穀を食う生活に慣れたかれらにとっては、牛乳は赤ちゃんの飲み物だ。大人は牛乳なんて飲まないし、お茶に牛乳を入れるのはさらに不思議である。わが家では、麺類にも牛乳やバターを入れて食べると話したら、かれらはさらに大騒ぎした。かれらにとって、わたしは遅れているのであり、野蛮なのである。

冒頭の質問にもどると、確かに遊牧民族であるモンゴル民族は羊肉、牛肉が好きである。草原で育てられ、汚染されていない新鮮な羊肉そのものの品質は当然良いし、それほど煮ずに食べられるし、スパイスやソースも不要、塩のみで十分に旨い。農耕民族によって小屋で育てられた家畜は、生まれてからの運動も少ないし、育てられた環境や餌などの原因も加わり、肉が硬く、品質管理が悪ければ衛生上の理由でよく煮なければならない。濃厚なソースや強いスパイスなどの調味料も要求される。

半年後、冬休みに帰省し、新学期が始まると、わたしは故郷からたくさんの土産を持って大学に戻った。そのなかには母親が作ってくれた牛肉、羊肉の料理もあった。物理学部の故郷の友人を呼んで、ルームメートと一緒にその肉を堪能しようとした。ルームメートは初めてこんなたくさんの肉を目にして、たいへん喜んだ。彼は「美味しい。美味しい。でも1回でこんなたくさんの肉を食べきれない」と言いながら、ナイフで脂身の部分を切り捨てて、赤身の部分だけを食べた。豪放に肉を食べていた同郷の友人が、それを見て少し怒りながら、「何で肉を捨てるんだ?」と聞いた。ルームメートは、「脂身は食べられないよ」と返事しながら、続けて脂身を切り捨てた。友人はわたしに「肉を大切にしないやつは肉を食べる資格がない。かれらに肉をあげるな」と言った。

卒業して地元の大学で勤務していた。1996年、北京で開催されたある学会に参加した時、北京に住んでいたモンゴル人の友人がしゃぶしゃぶの名門店「東来順」に招待してくれた。わたしたちがたくさん羊肉を注文したのを見て、ある店員は「あなたたちは何者ですか?」と訪ねてきた。わたしたちがモンゴル人であるのを知って、「わたしは満洲族だ」と、その店員はしゃべり始めた。「しゃぶしゃぶは美味しいでしょう。こんな美味しい料理は、あなたたちの祖先の発明だ」と、次の物語を語った。

ホビライ・ハーンがある戦役を指揮した際、お腹がすいていて、「肉を持って来い」と近衛の部下に命令した。戦闘の真最中で、料理はすぐ作れないから、命令を受けた部下はお湯を沸かしながら、「このまま塊の肉を入れたら、出来上がるのに時間がかかる。どうしたらいいか」と焦っていた。その瞬間、ひらめいた。彼は速やかに肉を薄く切って、沸いたばかりのお湯に肉を入れたとたん、すぐとり出して戦役を指揮している馬上のホビライ・ハーンに呈し続けた。大勝した後、ホビライ・ハーンがあの料理のことを思い出して、「戦闘中に食べた料理は誰が作ったのか」と聞いた。

その部下は、何かまずいものを作ってしまい、ハーンに怒られたと心配しながら、慌てて「わたしです」と名乗り出た。ホビライ・ハーンは、「こんな美味しい料理を、おのれ一人で食べていいのか。わが勇敢な将軍、戦士たちもねぎらってやろう」と、部下に新たにその料理を作らせて、将兵たちにご馳走した。こうして、しゃぶしゃぶという料理が生まれ、後世に伝わった。大清時代には、宮廷の料理として、有名だったという。

この伝説は、わたしが中学校の時、フフホトでも聞いていた。ただし、その主人公はホビライ・ハーンではなく、チンギス・ハーンであった。伝説はともかく、今や、しゃぶしゃぶという料理が東アジア各国で盛んになったのである。(つづく)



陳 姿菁「台湾のシルバーシート事情」 Posted 2008.3.19 by imanishi
(SGRAエッセイ#120)

台湾に旅行に来て気づく方も多いでしょう。公共交通機関に乗ったときに、若者がすぐお年寄りや妊婦さんに席を譲る光景を絶えず見かけることです。

台湾では「博愛席」というものがあります。日本でいうところのシルバーシート(優先席)で、電車やバスに設定されています。人々はお年寄りに対して積極的に席をゆずります。台湾には「敬老尊賢」という言葉があります。年上を尊敬し敬うという意味で小さいころから植え付けられている概念です。そのため、特に交通機関に乗るときに、お年寄りをとても大切にします。シルバーシートではなくても、積極的に席を譲るし、席を譲るために離れたところにいるお年寄りを呼ぶこともあります。席を譲る対象はお年寄りばかりではなく、小さな子どもや、妊婦さんあるいは体の不自由な方にも座席を譲る習慣があります。

日本で忘れかけた人のやさしさを台湾で見かけると、よく日本人の友人から聞きます。台湾人は「博愛席」という名称にもあるように、人を思いやる博愛精神を大切にしているように思いますし、教育でも重視されているようですね、と感心してくださる日本人の友人の数は少なくありません。日本に帰って、自分は席を譲ったけれども周りの人は誰もしないのを見て日本人として恥ずかしい思いをしたという友人もいました。

しかし、反対の声も聞こえます。老人はともかく、何で子ども達にも譲らなければならないでしょうか。子どもを大事にするにしてもほどがあり、甘やかし過ぎないように親も気をつけなければならないという意見です。

日本にもシルバーシートの設定を巡って議論が起きているようでが、実は台湾でも同じ声が聞こえます。「外見は健常者に見えるから譲ってもらえないが、心臓疾患や高熱などの内部疾患を患っていて外見では見分けられない人もいるのですよ」という指摘にはハッとさせられます。また、「一日仕事をしていたのでくたくたな時は、若者だって座りたいことはある」「乗車時間が長いので、座るのは自分の権利である」「譲るか譲らないかは個人の自由」という生々しい本音も吐露されます。

確かに、シルバーシートの設立趣旨はいいことではありますが、しかし、当たり前になりすぎたという感じは見受けられます。なぜかというと、あたかも譲ってもらって当然という態度のお年寄りに何度も会ったことがあるからです。本来なら「敬老尊賢」は美徳とされ、お年寄りを思いやるために席を譲り、お年寄りの方もそれをありがたく相手の好意を受け取るのが理想的です。しかし、譲る行為が一般化しすぎた故、譲らないといかにも図々しく礼儀知らずの若造として周りに見られてしまいます。その上、お年寄りの方に「席を譲って」という目で見られ、疲れていても、具合が悪くても譲らなければならない状況に追い込まれることも少なくありません。そんな具合ですから仮眠して知らない振りをする人も出てきています。お年寄りだけではなくて、子連れの親が席についている人に「席を譲って」という目線をずっと送っている情景もしばしば目撃しました。

ここまでくると、本来の趣旨から外れてしまっているのではないでしょうか。表から見れば、博愛精神を大切にし、お年寄りや体の不自由な方を大切にしている社会に見えますが、掘り下げてみると、譲る側としては自分が得た「楽に交通機関に乗る『権利』」を譲るのに、当たり前に受け取られて心から感謝してもらえない、という表向きと背馳する行いになっているのではないでしょうか。

席を譲る必要はないと主張しようとしているわけではありませんが、それは強制的なものではないと理解した上で、席が譲ってもらったら「当たり前」ではなく、相手の思いやりに感謝していただきたいものです。

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<陳姿菁(ちん・しせい ☆ Chen Tzuching)>
台湾出身。お茶ノ水女子大学より博士号を取得。専門は談話分析、日本語教育。現在は開南大学の応用日本語学科の専任講師。台湾大学の頂尖企画も兼任している。SGRA研究員。
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韓 京子「ジェネラルドクター:病院とCaféの結合」 Posted 2008.3.15 by imanishi
(SGRAエッセイ#119)

ソウルにちょっとかわった病院が登場したという記事を見かけました。ソウルには教会も多いのですが、病院もとてもたくさんあります。特に整形外科や歯医者。日本では美容整形といって「整形」という漢字を使いますが、韓国では「成形」を使います。韓国では「整形」というと骨、筋肉、関節関連の分野です。「形を整える」と「ある形をつくる」、意味は随分違いますが、韓国の美容整形はもとの形をちょこっといじるだけでなく、別のものを「創り出す」ということなんでしょうか。歯医者も虫歯などの治療というより、矯正、歯の美白など美容の方に力を注いでいますが、こちらも見た目重視の韓国社会では需要が大きくなる一方かもしれません。ちなみに日本では産婦人科の不足が大問題となっていますが、ソウルは今のところまだ大丈夫そうです。

さて、この病院を紹介することにしましょう。取材をかねて実際に行って診察してもらいたかったのですが、最近体調が悪くなかったためコーヒーだけを飲みに行くのもどうかと思い断念しました。でも、この病院のお医者さんは病気になる前から遊びに来る感覚で来てほしいらしいです。

場所はソウル市内の弘益(ホンイック)大学前。この大学は美術学部が有名なせいか、学校の周りにはおしゃれなお店が多く、ちょっとしたデートスポットとなっており、わざわざ遠くからもカップルがやってきます。そんな街にできたこの病院、知らない人はコーヒーショップと思い、お茶だけして帰ることもあるそうです。

では、どうしてこのような病院が作られたのでしょう? それは日本と同様、韓国の病院、特に大学病院などの総合病院での「3分(いや、1分)診療」に疑問を持った奇特な若いお医者さんの発想によるものでした。最近日本でもカルテが手書きじゃない場合が多いかも知れませんが(以前東大病院にかかっていた時は先生がいっしょうけんめい手で書いていました)、韓国(大学病院)では医者ではなく看護婦が患者の症状などをパソコンに入力するのを見てびっくりしました。この大学病院の医者は担当の患者数が多いため真ん中に仕切りのある二つの部屋を行き来しながら診察をしていました。医者が他の部屋で診察をしている間、もう一つの部屋では看護婦が待機している患者の症状などをあらかじめ聞いてパソコンに入力しているという状況です。結局、医者と患者の対面時間は1分というわけです。心理的な要因による疾患の場合、もうちょっとお医者さんと相談したいものですが、追い出されるように診察室を出るしかないのです。(ちなみに韓国にはまだ心療内科がありません)

ジェネラルドクターはこのような非人間的な医療状況について悩んだ結果だといいます。病気になる前から病院に「遊び」に来て医者と友達になったり、お茶を飲んでちょっと休憩しに病院に行ったりすることが可能になることを望んで建てたそうです。そのため、一人あたりの診察時間が30分以上になることが当然なようで、結果、多くの患者を診ることができない分、コーヒーショップの収入に依存するということらしいです。収入に頼るというより待ち時間にコーヒーを飲みながら緊張をほぐす意味の方が大きいのかもしれません。

病院の診療時間は午前10時30分から夜12時までという、ソウルのコーヒーショップ並みの時間です。もちろん、日曜日もやっています(最終日曜のみ定休日)。内科と小児科が診療科目なのですが、精神科の治療や人生相談もやっているとか。まだ、1年も経ってないのですが、医療コミュニケーションに関心をもってこれからも様々な試みをするつもりだそうです。医療デザイン会社も運営していて、子ども用のキャンディー付の舌圧子なども直接デザインしたということです。大学病院も徐々に改善されていくのでしょうが、これからどんどんこのようなお医者さんが増えてほしいものです。

この病院の写真や韓国語の情報は下記URLよりご覧いただけます。

http://healthlog.kr/303?_best_tistory=trackback_bestpost

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<韓 京子(ハン・キョンジャ)☆ Han Kyoung ja>
韓国徳成女子大学化学科を卒業後、韓国外国語大学で修士号取得。1998年に東京大学人文社会系研究科へ留学、修士・博士号取得。日本の江戸時代の戯曲、特に近松門左衛門の浄瑠璃が専門。現在、徳成女子大学・韓国外国語大学にて非常勤講師。SGRA会員



金政武「私の日本ドリーム」 Posted 2008.3.7 by imanishi
(SGRAエッセイ#118)

日本の先進技術と豊かな文化を求め、1998年既に31歳になっていた私は、人生を日本で再スタートする気概で、東工大の博士課程に入学した。そして、大学院では一緒懸命に研究に没頭した。月20万円の渥美奨学金を貰うまでの2年間は学習奨励費の月7万円くらいで生活していた。(奨学金を提供してくださった日本の諸機関には深く感謝している。)その最初の2年間は、日本のあらゆる種類のインスタント・ラーメンを食べ尽くした。月末になると、たまにはお金が無くて1、2日間何も食べられなかった事もあった。それでも希望を持って、一生懸命に私の「日本ドリーム」に向かって突撃してきた。その後、国立の研究所などを経て、日本のある大手電気メーカに入社し、普通のサラリーマン生活を送るようになった。

来日して10年間、私は日本で結婚し、日本で子供を育てた。私にとって、人生の一番重要なイベントが全て日本で起こった。日本はもう私の故郷であるように感じた。そして、自分も普通の日本人と何の変わりも無いようになって、私の日本ドリームがつい実現したかのように思っていた。そして、此処日本と今の会社を自分の家だと思って、仕事に一層励んできた。

来日して10年が過ぎたし、年を取って病気療養中の母と一緒に住まないといけなくなった事もあって、永住権か国籍を申請した方が良いのではと思い、先日入国管理局と法務局に行って関連規定を聞いた。答えは見事にノーでした。つまり、日本は非移民国家なので、人道的配慮から子供の同居は認めるが、帰化しても両親との永住同居は認めないとの事だった。ショックだった。このような規定になった理屈は十分理解できるものの、感情的にはどうしても受け入れられなかった。このような規定に関しては早めに確認しておいた方が良かったと後悔の気持ちで一杯だった。

そして、どうがんばっても日本は私を受け入れない事を悟った。腹が空いても希望を持って徹夜しながらがんばっていたのは何のためだったのか、会社の仕事が忙しくて、父の最期を看取ることができなかったのは何の、誰のためだったのか、がんばって来た10年間が空しく感じて仕方が無かった。入国管理局からの帰り道に、わざわざ桜木町駅で降りて、海の方へ足を運んだ。周辺の夜の景色は素晴らしいものだったが、自分とは何の関係も無いと感じた。

何時ものとおり、その夜、一人で生活している母に電話した。母の蒼老な声に心が強く打たれた。今まで感じた事の無い何かが心の中を走った。涙が止まらなかった。実質両親を捨てたような形で、夢中にひたすら日本のドリームを求めて来た自分と家族の10年間はあまりにも空しく感じた。

ベランダに出て、タバコに火をつけた。外では小雨が降っていた。静かな夜景は奇麗だった。仕事から遅く帰宅する人たちは小雨の中で急いで各自の家に向かっていた。でも、全ては自分とは無関係に感じた。静かに降っている小雨は私のノスタルジックな気持ちを一層寂しくした。薄く空に舞い上がっているタバコの煙は、私の日本ドリームのように何処かへ無言で消えて行った。もう帰る時だ。一人で寂しく老後を送っている母が待っている。母と日本、私は母を選ぶ事にした。

追記:
私のようなケースは決して稀ではないと思う。このような問題を適切に解決する方法がないと、先ず優秀な人材が日本に来ない。また、来たとしても、何時か仕方なく離れる事になる。人材を日本に招く努力をすると同時に、彼らをどう引き止めるかをも考えないと、結局マイナス効果になるに間違いない。

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<金 政武(きん・せいぶ)☆ Jin Zhengwu>
中国吉林省出身。1993年華東理工大学で工学博士号取得。2001年東京工業大学理学博士。国立研究所などを経て、2003年〜現在、日本某大手電気メーカ社員。



梁 蘊嫻 「Happy People」 Posted 2008.3.4 by imanishi
(SGRAエッセイ#117)

*写真入りのエッセイは下記のURLからご覧いただけます。http://d.hatena.ne.jp/tamasato/


昨年の夏、アジア21奨学財団「日本の基層文化を学ぶ」熊野ワークショップツアーで奥田彰人という写真家に出会った。

「写真家の奥田さんです。彼はもっぱら人物写真を撮っていて、『世界』という雑誌に作品が掲載されていますよ。大阪の人で冗談ばっかり言うから、一日中一緒にいると疲れちゃうんだよ」と奨学財団事務局長の角田さんは冗談を混じえながら、奥田さんを私たちに紹介してくださった。

奥田さんは運転手を勤める一方、我々の活動を写真で記録していた。確かに彼はいつも「俺は他人に厳しく自分に優しいんだ」と戯けた口調で話しているが、その裏には真面目な性格が隠されていることを私は感じ取った。我々の活動が無事に行われるように配慮し、彼は必ず行列の最後尾にいる人に目配りする。また、日本や熊野の風土について知っている限りのことを留学生に教えてくれようとする優しい一面も見せてくれた。

旅行中一つ印象的なことがあった。旅の最後の晩、私たち一行は那智の滝がよく見える山頂に聳えたお寺「青岸渡寺尊勝院」に泊めていただき、住持の高木英亮さんの法話を拝聴した。翌日早朝、荷物を背負って青岸渡寺尊勝院に別れを告げたときの出来事であった。私たちはのんびりとおみくじを引きに行ったり、寺院の周辺を散歩したりしていた。奥田さんは散漫としている私たちに怒り出した。全員が集まって、お世話になった「青岸渡寺尊勝院」の方々にきちんとお礼を申し上げなければならないと彼は考えていたからだ。奥田さんは人に対して「感謝の気持ち」を強く持っている方なのだ。

旅行から戻ると、参加者全員がレポートを提出し、財団の便り「結」(ゆい)に載せてもらったが、奥田さんは以下の言葉を文章に綴った。
「このツアーは自分にとって線香花火のようだ。人生の一夏にいつも残るのは写真と、消えそうで消えない思い出と、日焼けのあとだけ。それらは大きく打ち上げられたものではなく、それぞれ小さな光がちりちりと重なり合う火玉、線香花火。出会いと別れを繰り返した暑い夏が去り、爽やか秋のそよかぜにこの身が包まれる頃、火玉は静かに落ちてゆく。火玉の残像はありふれた生活の中で自分の「笑顔」に変わっていく。自分にかけがえのない輝きを放つのである」。

最後に彼は「感謝を込めて」という言葉を皆に贈ってくれた。奥田さんは人との出会いを大切にし、それを写真によって記憶して、さらにそれが自分の笑顔に変わっていく。そして彼は自分と「ご縁」を結んだ人々に対して感謝している。こんな彼が「人」を撮りたいというのはよく理解できる。人間好きな奥田さんは一体どんな写真を撮っているだろうかと気になった。角田さんの言葉を思い出して、私は図書館で『世界』という雑誌を見つけ出した。

雑誌をめくると、目に映ったのは一図一図幸せが溢れている笑顔であった。
労働を終えた休憩時間で、白い歯を見せながら天真爛漫に笑っているおばさんたち。顔を見合わせ「スローライフで楽しくいこう」とにっこりする銀髪夫婦。花柄のシャツにカウボーイ風の帽子、その上タバコを口に銜えている、気ままに生きる男のように見えるが、そのイメージと対照的に写真の説明では「いつもサイフに親の写真……入れてるんだよ」というセリフが付けられ、何とも言えない微笑ましい光景だ。私はなぜかほっとして、しばらくこれらの写真に見入っていた。

ところが、雑誌のページをめくって奥田さんの説明を読んだら、私の心は激しく打たれた。撮影場所が水俣市であることを知ったからだ。あの「水俣病」に襲われた悲劇的な歴史を背負った町ではないか。有機水銀に中毒した患者の写真を多く見てきただけに、写真に映った人々の笑顔がこの上なく輝かしいものに思えた。

海で遊ぶ四人家族。お腹の中に小さな命が育まれているお母さんは、娘を愛しそうに見ながら小さな手を繋いでいる。お父さんも幸せそうに娘を見守っている。この幸せに満ちた海は水俣病をもたらす祟りの不知火海だろうか。「水銀の被害に遭い失われた生命の魂の再生を願って、こけしを作っている」建具職人は手に握った作品を凝視して淡々とする表情だが、深い想いに沈んでいるように見える。後ろの海を振り返りながら、岸頭に佇むおばさん。「水俣に始まり、水俣で終わる」彼女の平凡な人生には物語がたくさん詰まっているということをこの写真は語っている。

奥田さんはそれまで注目されてきた「水俣病」とは異なった視点から写真を撮っていた。それについて彼は「この作品を制作するにあたって一つの決め事がありました。それは水俣病について勉強しないことでした」と述べた。なぜならば、「水俣病という括りだけではなく、それも含めてそこにある全てを『人』を通じて拾い集めていきたかったから」だ。

奥田さんは一年と四ヶ月に渡って撮っていた自分の作品を “Happy People”と名付けた。その理由は「撮影させて下さった方々、また目に見えない形でご賛同いただいた方々、そしてこの作品を見ていただいた方々に、我々の往く道に『幸、多かれ』と祈る気持ちを込めつけました」と奥田さんは注記している。また『涙の数だけ笑いもある』との彼の言葉は私の心の深い所まで届けられた。そうだね。工業発展がもたらした水俣病という途轍もない悲劇を我々は教訓として背負って行かなければならないけど、しかし地元の人々の笑顔から救われることができたような気がする。人々は大きな悲しみの中で自分のささやかな幸せを所有している。いや、大きな不幸の外側により大きな幸福が囲んでいるはずだ。奥田さんの写真をみてそう思った。

「感謝」「恩返し」「人間」「笑顔」は奥田さんの人生にとって一番大事なことではないかと思う。この四つの主題を生々しく表現している彼の作品が私の琴線にふれる。蠍座の性格かもしれないが、私も人によく感謝する性格なので、ここで改めて奥田さんに「ありがとう」と言っておきたい。

彼とはあまり話さなかったが、写真を通じて心の交流ができたような気がする。「一期一会」。私はこれから奥田さんに会う機会があるかどうかがわからないが、2007年夏の出会い、そして写真がくれた感動を心の中に大切に留めてゆきたいと思う。

★注記
以上の写真は『世界』(岩波書店、2007年4月)に掲載されているものであるが、奥田彰人氏の承認を得てこちらに転載した。無断掲載や転送を固く禁止する。なお、メールで送信できるように解像度を低くしたので画質が少々落ちており、彩度や明度などは若干原作品と異なった箇所がある。原作と異なった部分があれば、原作品に準ずることを断っておきたい。ご興味がある方はぜひ原作をご覧ください。

追伸:奥田氏の作品「HAPPY PEOPLE」が「第14回土門拳文化賞」大賞を受賞されたという最新情報があった。

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<梁 蘊嫻(りょう・うんけん)☆ Liang Yunhsien>
台湾花蓮県玉里鎮出身。淡江大学日本語学科卒業後来日。現在東京大学大学院総合文化研究科比較文学比較文化研究室博士課程に在籍。博士論文は「江戸時代における『三国志演義』の受容」をテーマとしており、今年度提出予定。母語を忘れてはいけないと思っているので、現在勉強の合間を縫って、母語の客家語を教えている。学生には、日本人、台湾人、二世客家人、ニュージランド人、マレーシア人などがいる。



趙 長祥「独対寂寞、静観吾心」 Posted 2008.2.29 by imanishi
(SGRAエッセイ#116)

●「庄子心得」シリーズ(その1)

はじめに

中国では、2005年にエンターテメントの世界から全国に波及した「超級女生(スーパーガール)」が大きな話題になったが、翌2006年には「学術超男と学術超女」の話題がメディアに取り上げられ、国中に宣伝された。中国の中央テレビ(CCTV)で放映されたのは、有名大学の教授達が、これまで非常に難しいとされていた国学(中国古典文学)を易しく大衆に解説し、啓蒙する番組である。なかでも、「三国誌」を解説したアモイ(厦門)大学教授の易中天氏(男性)と、中国古典書のひとつである「庄子」を解説した北京師範大学教授の于丹氏(女性)は、それぞれの的確な理解と簡潔明瞭な解説を以って、中国で一躍有名になった。テレビ番組は本に纏められ、それぞれ「品三国」「庄子心得」と名づけられてベストセラーとなった。これまで中国の大学の先生たちは、黙々と研究や教学に努め、マスメディアにでることなく、スーパースターとは全く無縁だった。しかし、今や、学者も国学解説によって学術超男と学術超女となったわけである。

国学が復興したといわれる現在の中国であるが、その原因を分析すると、改革開放30年近くの歳月を経て、徐々に豊かになっている国民は、物質生活だけでなく、精神的な支えも求めるようになったといえるだろう。豊かな中国の古典文学を、現在起きている身近な事象に引き寄せ、易しい説明を加えることによって、金儲けと出世をめざして常に競争に晒され、負組みに陥ることへの恐怖心から常に頑張って緊張している大多数の国民の心を癒すものとなったである。

私は、昨年の9月に上海の企業での仕事を辞めて学界に戻ってから、時間的に多少余裕が出てきたので、上述の「品三国」と「庄子心得」を読むようになった。特に、于丹氏によって解説された「庄子心得」における、彼女の独自のロジックからたくさんのヒントを得、少しずつ感想として書き出し、ブログ(blog.sina.com.cn/xiangchangzhao)に載せるようになった。そのいくつかを、SGRAかわらばんの場をお借りして、皆様とシェアさせていただきたい。このシリーズが皆様の癒しとなり、テンポの速い生活のなかでも、ときどき空気に漂うスローライフの淡い……淡い香を感じていただければと思う。

●「独対寂寞、静観吾心」
〜ひとりで自分に適切な時間を定め、わが心を見つめて、更なるふさわしい道を歩む〜

「庄子心得」之三で、于丹氏は、レバノンの著名な詩人であるKahlil Gibran氏の言葉「我々は、遠くへ、遠くまで来ている、源となる出発の目的を忘れるほど」を引用し、その章を展開している。私もこの言葉から始めることにしたい。

人間の一生は、長かろう、短かろう、人それぞれ独自のユニークな経歴である。それぞれの人生の旅には、目の前に聳え立っている高山を登り越えなければいけない場合もあり、彼方へ流れていく浅い渓流や谷を渡る場合もある。一人で茨に覆われている狭い山道を切り開く時もあり、平坦な大道を淡々と歩く時もある。成功の喜びを体験する時もあり、挫折や失敗の悲しみを味わう時もある。

いずれにしても、生涯を終える時ではなく、旅をしながら歩いてきた道を常に振り返って修正する人は、成功する確率が高いと考えられる。しかし、大多数の人間は、旅路で出会った様々な体験を、捨てるべきものも、キープすべきものも、すべて両肩に背負い、自分にとって大きな負担となっていることに気づかない。いくたびの年月が人生に深く刻まれても、ある場所とある状況から離れることができず、更なる広い大道へ進んでいく境地に廻りあわない。

時代の変化が強く感じられる現代社会に生活している人々は、リズムの速い生活に追われ、足音と心臓のビートを常にテンポの速い時代感覚に合わせて、前へ前へ向かって走らなければならない。記憶のなかでは、中学のテキストにある朱自清氏によって書かれた著名なエッセイ「背影―姿」(興味のある方は、是非一読ください)を、現代の感覚で味わうことができたとしても、あの時代の気配は全く感じられなくなり、いくたびか生活のリズムが塗り替えられた感慨だけは残っている。ペースを変えてもさらに速くなるだけ。それぞれの人生の目標のために・・・、高山を乗り越え、川をわたり、ハードルを一つ一つ潰して、目標も一つ一つクリアしたにもかかわらず、大きな目標はいつまでも遠い 遠い 前方の彼方にあり、遥かに届かないところで疲れ果てた人々を待ち侘びている。その目標のために、今まで歩いてきた道を振り返る時間さえ作り出せない状態なのである。

人間の成長段階も同様で、多くの人は、生まれてから一人旅ができるまでの期間は家族にケアされながら、長い成長の旅に必要な養分を蓄積していく。大きくなるにつれて、憧れた夢を追い求め、ふるさとを離れ異郷で追い求めた生活を営み、生まれ育ったふるさとの光景は徐々に脳裏から薄らいでいく。しかしながら、年をとってみると、長年住んでいた生活の地には根を下ろせず、静かな夜に心の底から湧いてくるのは、相変わらず生まれ育ったその土地、夢のなかに浮き彫りにされるのは、相変わらず故郷の山水・人々・・・

したがって、人生の旅のそれぞれの節目に、ときどき自分に「寂寞の光陰」を与え、出発地からの旅程のひとつひとつを味わい、自分の心路を整理する必要がある。歩んできた道は、正しい道かどうか、曲がったり歪んだりした道ではないかをじっくり考え、更なる自分の心路(I have to follow my heart)に基づき、自分にふさわしい道を選び出して切り開いていく必要がある。すなわち、このような期間は、「独対寂寞、静観吾心」、つまり、歩んできた人生の振り返りであり、自分へのまとめでもある。寂寞の光陰によって、生活の五味をじっくり味わい、心と体に落ち着きをとりもどして、新たな生活へ向かっていく。たとえ不公平な状況に直面しても、過ぎ去った歳月に幾多の侘しさと憂いがあっても、自分には励ましのチャンスを与えなければならない。

旅路で辿り着いたところどころに立ててきた旗が強風に吹き倒されていないかどうか、後ろを顧み反省しながら、旅人は更なる高い峰を目指して、風とともに青空へ舞い上がる。長旅につれて両肩に掛かる負荷は徐々に重くなる。背負っている荷物を取捨選択し、捨てるべき負担をどんどん身の後ろに放り出さなければ、足取りは重くなる一方で、ついには歩けなくなってしまうだろう。したがって、旅路の途中で、時々ひとりで自分に適切な時間を定め、わが心を見つめて、自分にふさわしい更なる道を歩んでいくことが必要になってくる。

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<趙 長祥(チョウ・チョウショウ) ☆ Andy Zhao>
2006年一橋大学大学院商学研究科より商学博士号を取得。現在、中国青島の海洋大学法政学院で講師を務める。専門分野は企業戦略、地域産業開発、産業組織。SGRA研究員。



範 建亭「上海における人の国際化」 Posted 2008.2.23 by imanishi
(SGRAエッセイ#115)

上海は中国の最大都市として、国際化が急速に進んでいる。それは外資系企業の進出、国際ビジネスまたは外国人の数などに限らず、街の景観、ファッションや食べ物、娯楽などの日常生活、そして人間そのものにも反映されている。前回は上海に住む日本人の状況を紹介したが、今回は現地人の国際化について話したい。

上海が国内で最も国際的な都会となったのは今だけの話ではない。1930年代、上海はすでに近代的国際都市となり、「東方のパリ」とも呼ばれた。だが、50年代以降は計画経済体制の下で、内向きの都市に変身した。70年代末からの改革開放によって、再び国際化の道を歩み始めたが、活発化したのは近年のことである。

しかし、海外留学や移民といった人の外向き国際化においては、上海はほかの地域に及ばないところがある。中国では、広東省や福建省は人の海外移住が伝統的な地域として知られており、世界各地で暮らす華人の殆どがこれらの地域出身である。上海ではかつて海外に出るという風潮は根付いていなかったが、80年代以降は海外留学がブームとなり、沢山の若者が夢を胸に出国した(私もその中の一人)。「せっかく海外に出たので、故郷に帰ることを考えるな」と家族や友達に言われるばかりではなく、心の中でそう決心して留学した人も非常に多かったに違いない。

ところが、近年では事情が一変し、留学先から帰国して仕事に就く人数がますます増えている。新聞報道によると、1978年以降出国した留学生は昨年末で約100万人、そのうち帰国して就業している人は全体の三分の一に達しているが、大半はここ数年帰国したのである。そして、これらの留学生が帰国するときに、上海を選ぶ傾向が強いと見られるという。その理由は様々であろうが、沢山の元留学生(私もその中の一人)がまた夢をみて上海で新たな生活をスタートさせたことで、この都市の国際化は内面から進められるようになっている。

ここで、統計データや新聞報道に見えてこない人の国際化の一面を紹介したい。海外留学から帰国した人のうち、日本からの元留学生の人数が相当の割合を占めていると思う。上海で発行されているいろいろな日本語のフリーペーパーをみれば、同窓会やOB会の情報が非常に多く、また出身大学もほぼ日本全国に及んでいることがわかる。私は日本の二つの大学で勉強したことがあるから、今は二つの同窓会の運営に携わっている。メンバーたちは同じ留学経験を持っているので、お互いに交流しやすく、普段もよく集まっている。

でも奇妙なことは、同窓会の仲間の中には実際日本人に帰化した者も多いことである。彼らは身分上もう中国人ではないが、ずっと上海で暮らしている。日本には何も残っていないから、戻ることはもうないだろうと思う。そして、中国の国籍に戻ることも不可能である。当初は日本で暮らすために帰化したのに、今は外国人として祖国で暮らす。その現象は日本留学の仲間に限らず、親戚や周りの人々にもそのような「日本人」や「アメリカ人」などがよく見られる。昔はみんな逃げるような気分で出国したことを思い出すと、その変化は本当に感慨無量である。

一方、私が勤めている大学においても、留学から帰国した人数が絶えず増加している。現在、海外で博士号を取得した教員の数は80人を超え、教員全体の約15%を占めている。帰国者のうち、やはり外国で永住権を獲得した人も少なくない。また、留学先を見ると、アメリカと日本が一番多く、合わせて帰国者全体の半数以上を占めている。日本からの元留学生同士として親しみがあるから、人数が増えることは嬉しいが、逆に学内で重視される程度も低くなり、普段の仕事では日本語を使う機会がほとんどなくなってしまった。そのせいで、私の日本語能力も見る見るうちに低下している。それは、私にとって帰国してから一番残念なことだ。

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<範建亭(はん・けんてい)☆ Fan Jianting>
2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。



李 垠庚 「知る権利、知らない権利」 Posted 2008.2.19 by imanishi
(SGRAエッセイ#114)

日本に住む外国人が、来日直後に困惑する理由の一つは、毎朝生々しく報道される「殺人事件ニュース」ではないだろうか。最初は、自分が日本に来たちょうどその時、たまたま稀代の殺人事件でも起きたのかと思ってしまう。ところが、時間が経つにつれ、殺人事件の主人公が変わるだけで、殺人事件の報道が毎日続くことに気付くようになる。事件の報道はあまりにも詳しく、おかげで事件の手口を教えられるのは勿論のこと、被害者の人柄や日常生活までわかるようになり、さらには友だちや遺族の肉声まで聞かされる。犠牲者になった子供がどれほど親の言いつけに従い、勉強熱心で、友達の面倒見が良かったかを繰り返し聞いているうちに、もし両親に逆らい、不勉強で人見知りでもあった子供なら、被害にあっても良いというのだろうかという反発心さえ浮かんでくる。あらためて根掘り葉掘り聞き出さなくても、人間の命それ自体が貴重であることを、むしろ忘れているのではないか。

危険なのは朝の時間帯だけではない。地上波だけでも毎晩平均一本以上、2時間のサスペンスドラマを放映している。他の種類のドラマの中にも、殺人事件をあつかう刑事ドラマが多い。日本語の勉強という名目でサスペンスドラマを見始め、そこで犯罪の類型や手口を習得してからは、朝の殺人事件ニュースを見ながら犯人探しに没頭するようになる。更に、自ら完全犯罪のマニュアル、少なくとも密室殺人のトリック一つくらいは作らなければ、という義務感さえ感じ始め、それこそが、自分が日本に住んだ甲斐のある仕事ではないか、とすら思えてくる。

それからまた時間が経つと、自分の情緒不安定とわけのわからない不快感は、残酷な殺人事件報道に無防備でさらされていることと無関係ではなかろうと、突然気付き始める。その対策に腐心し、サスペンスドラマ一切を避けること(昼にも再放送があるので要注意!) 、ニュースは時間が短くて割合にあっさりした夜のニュース、あるいはNHKのニュースを見ること、朝の情報番組や主婦番組を見る時は、アイドルスターの熱愛報道やグルメガイドに続き、突然殺人現場にまで引きづられるかもしれないので、いつもリモコンを握ったまま見ること、などの要領を覚えてくる。(残念ながら、留学生活末期は、古いテレビのリモコンも壊れがちであるが・・・)

次の新たな事件が起きるまで、視聴率を支えている毎日の殺人劇は、すでに日本経験者のあいだでは忘れられない日本生活の思い出(?) という風評である。一般の被害者をめぐる日本の加熱報道が、外国人の目にどれほど不可解に映るか、よもやメディア自身がわかっていないわけではないだろう。それでも、長い放送時間を埋めるためには決して捨てられない大事なネタとして、全国民の同意を得ているのだろうか。そして、殺人事件の被害者になった途端、全国民の「知る権利」の範囲に入る「公人」になるという、暗黙の了解でもあるのだろうか。もしかしたら、それを「知る権利」と主張する人がいるかも知れない。芸能人のプライバシーなら楽しみとも言えるが、悲惨に殺された人のプライバシーを掘り出してほしい、国民の私にはそれを「知る権利」があると唱える日本人がどれほどいるのか疑わしい。例えそうした人がいるとしても、それが望ましいとは言えない。情報にも、共益にもならない死にいたるまでの人間同士の揉め事を、それほど必死に掘り出すのは、まさか娯楽のためではないだろう。

公的立場の責任ある人が関係していたり、事件自体が国民の注目に値するほど社会的な意味合いを持つものでない限り、殺人事件は(裁判は民事ではなく刑事事件として扱かわれると言えども)個人的な問題として扱かわれるべきだと思う。残酷な事件の犠牲者になったという理由だけで、何の抵抗も出来ず、異を唱えることも出来ない死者のプライバシーや事件の状況を暴くことはやめてほしい。犯罪の予防に力を尽くすべきなのは当然であるが、犯罪被害者を二度目の被害にさらされないようにするのも必要ではないか。それは、被害者や遺族のためでもあるが、何気なくテレビをつけた人が、生きていたら自分とは何の関係もなかったはずの誰かの殺害事件について、そこまで詳しくは「知らない権利」を保護するためでもある。日本は世界で犯罪発生率がもっとも低く、犯人の検挙率も最も高いにもかかわらず、犯罪に対する恐怖心はどの国より強いと報じる記事を読んだ記憶がよみがえる。

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<李垠庚(イ・ウンギョン)☆ Lee Eun Gyong>
韓国の全北全州生まれ。ソウル大学人文大学東洋史学科学士・修士。現東京大学総合文化研究科博士課程。関心・研究分野は、近代日本史・キリスト教史、キリシタン大名、女性キリスト者・ジャーナリスト・教育者など。現在は、韓国語講師を務めながら「羽仁もと子」に関する博論を執筆中。



包 聯群「母語の喪失(その3)」 Posted 2008.2.19 by imanishi
(SGRAエッセイ#113)

中国黒龍江省において、モンゴル語による教育が徹底的に実行されていなかったことは、すでにみなさんにご紹介した通りですが、モンゴル語教育の歴史をみると、清朝、中華民国、満洲においても、モンゴル語による教育が積極的に行われたとは言えません。新中国建国以来、少数民族の教育を重視したとは言え、様々な政治運動が続く中、モンゴル語を話せる、あるいはモンゴル語を使用する環境が整備されておらず、モンゴル語を放棄して中国語を話せることを社会に適応した一種の「能力」とみる人が徐々に増え、モンゴル語ができなくても、生活には何の支障もなく、モンゴル語ができなくても当たり前のことだと考える人が多くなっています。この状況をさらに詳しく知るために、地域に使われている言語の状況を見てみましょう。

黒龍江省における唯一のモンゴル族自治県である杜爾伯特(ドルブット)地域では、政府の言語政策としてモンゴル語と中国語が平等に扱われています。公務員の試験、進学の試験などにおいては、モンゴル人はモンゴル語による受験を受けることができると明確に定められています。しかし、実際に公務員の試験では、中国語による受験しか受けられません。というのは、モンゴル語で受けても(実際にモンゴル語のレベルはそれほど高くないのも事実です)、中国語ができなければいけないからです。

次に、黒龍江省においてはモンゴル語による新聞、一般誌、出版社、テレビ局などはありません(モンゴル語による学術雑誌が一つだけあります)。杜爾伯特モンゴル族自治県に、土日の夜、中央テレビのニュースが終わったあと、10分程度のモンゴル語による放送があるだけです。4万を超えるモンゴル人がこのような新聞メディアの環境に置かれています。私が自治県所在地の町をちょっと回ってみたところ、個人が経営している店の看板はモンゴル語と中国語の両方で書かれていますが、その文字の大きさがあまりにも対照的でした。モンゴル文字は、はっきり見えないほど小さく、漢字がモンゴル文字の何十倍も超える大きさで書いてありました。

さらにある店では、モンゴル文字の方向が逆になっていました。そこで、店の経営者に聞いてみると、意外な事実が明らかになりました。看板をつくる際、最初はモンゴル文字を入れなかったが、政府の民族教育委員会から検査をするという情報があったため、後に貼り付けたということでした。しかし、モンゴル文字の方向を逆転してしまったのに誰もが気がついていなかったのはあまりにもひどい話ですね。先日のテレビ放送の情報によると、中国ではある会社が日本の食品であれば「安全」だというイメージを利用し、包装袋にはひらがなの「点」がなかったりする間違った日本語の標記をし、商品を販売していたという事実がありました。日本語は外国語だからたくさんの人が読めないのは仕方がないと言えますが、モンゴル族自治県であり、4万人のモンゴル人が暮らしているにもかかわらず、たくさんの人が気づいていないのは何故でしょう。これは多くの人がモンゴル文字さえ読めないことの現れでもあると読み取れるかもしれません。

モンゴル人が日常生活で使用している言語をみてみましょう。私が観察したところ、この地域で暮らしているモンゴル人は少なくとも三種類の言葉を話しています。年を取った人とモンゴル語教育に従事している人、あるいはそれと関係がある仕事をしている少数のモンゴル人は場合によって、たまにモンゴル語で話しています。それ以外の多くのモンゴル人は日常生活ではモンゴル語の文法をベースにし、多数の中国語語彙を取り入れたいわゆるモンゴル語と中国語を混ざった混合語を話しています。一部の人は中国語を日常言語として用いています。特に若者の多くは中国語を母語とし、モンゴル語ができなくなっています。

中国の経済発展に伴い、「中国語の市場」がますます拡大し、あらゆる分野において中国語の必要性が高まってきました。少数民族の地域において、民族政策が出されましたが、少数民族の言語による「市場」の開発が遅れ、経済的に少数民族言語話者が不利とならない措置を取っていないため、自主的に多数言語の中国語へ切り替える人が増えつつあります。それに従い、少数民族の言語を学ぶ人も減少してきたとも言えます。モンゴル人保護者も自分の子供の将来を考え、中国語による教育を受けさせる人が多くなっています。私のまわりにいる親族、知人、友人ほぼ全員が自分の子供を中国語による教育を受けさせています。一部の人にはモンゴル語による教育を受ける機会がありませんが、一部の人はモンゴル語による教育を受ける機会があっても中国語による教育を選択しています。中国語による教育を選択するのはよくないとは言えませんが、自分の母語を忘れないようにしてほしいと思います。

以上のように、この地域の子供たちは母語を喪失しつつあります。モンゴル語を話せない人が日に日に増えているのが現状であります。この子たちは、母語の大切さ、言語の大切さをいつか実感し、わかってくれるのでしょうか。世界の多くの言語が消滅しつつある中、誰でも自分の母語を大切にし、母語を愛してもらいたいと考えております。

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<包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun>
中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻)を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/ 教育・研究支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、契丹小字等。SGRA会員。
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包 聯群「母語の喪失(その2)」 Posted 2008.2.13 by imanishi
(SGRAエッセイ#112)

黒龍江省は中国の最北東に位置し、面積は46万平方キロメートル、2000年の統計によると、人口は3,689万人で、漢民族のほかに、モンゴル族、満洲族、朝鮮族、回族などの民族がいます。黒龍江省にはおよそ15万人のモンゴル族が居住していますが、これは黒龍江省における総人口のわずか0.4%ではあるものの、他の少数民族より多く、漢民族、朝鮮族に次ぐ第三位であります。ドルブット(杜爾伯特)モンゴル族自治県には黒龍江省のモンゴル人の三分の一を越える4万人以上が居住しておりますが、それはドルブットモンゴル族自治県総人口の18%にすぎません。ドルブットモンゴル族自治県は黒龍江省における唯一のモンゴル族自治県です。また、モンゴル語で授業を受けられる唯一の地域でもあります。

これ以外に、黒龍江省のゴルルス(肇源)県、チチハルの泰来県にそれぞれ1万人以上のモンゴル族が居住しており、富裕県、チチハル市郊外、大慶市市内などにもそれぞれ数千人のモンゴル人が暮らしています。しかし、これらの地域で暮らしているモンゴル人の多くは母語であるモンゴル語を話すことができなくなっています。モンゴル人が比較的に集中している村では、モンゴル語を第二言語として教えていますが、学校教育は当然中国語で行われています。これらの地域では、モンゴル人であってもモンゴル語を学ばない人が多く、モンゴル語を学んでいたとしても、それは教室だけで学ぶ「外国語」のようになっています。日常生活で、子供たちは、お互いに中国語のみでコミュニケーションを取っているのが現状です。ドルブットモンゴル族中学校・高校のモンゴル語で授業を受けているモンゴル人の生徒さえ学校の外へ一歩踏み出せば、中国語のみが共通語となっています。

なぜ、このような状態になったかを考えてみると、そこにはこの地域のモンゴル語教育の歴史的背景があったと思われます。

黒龍江省における唯一のモンゴル族自治県であるドルブット地域では、黒龍江省教育委員会の決議によって、1984年9月から、モンゴル人が比較的多く住んでいる地域で中国語ではなく、モンゴル語による教育を実験的にスタートしました(中国語以外の科目)。これによって、ドルブット地域では、断続に行われてきたモンゴル語教育が再開されることになりました。なぜ、断続的に行われたかというと、そこにはそれなりの理由がありました。黒龍江省のドルブット地域には、もともとモンゴル人のみが居住していました。しかし、後に清朝が実行する“蒙地開放”政策などにより、ドルブット地域の人口が徐々に増えはじめました。モンゴル人は相対的に少なかったのですが、1910年に3,561人、1928年には6,635人に達し、総人口の27.7%しか占めていませんでした。モンゴル語を学ぶ時は、最初は「私塾」(主に『モンゴル語字母』、モンゴル語に翻訳した『百家姓』、『三字経』などの典籍を教科書として使用していた)から始めるか、あるいは家庭教師を招いて学ぶ方式でした。

中華民国元年(1912)になると、私塾は8ヶ所まで増え、1930に、バヤンチャガン学校は唯一の公立蒙文官学でありました。加えて、ドルブット地域には中華民国時代に仏教寺院が9ヶ所あり、そこに居た425人のラマ僧はモンゴル語を学び、仏教活動に携わっていました。1940年に学校の数は28校となり、そのうち、モンゴル人が通う学校は11校でした。

しかし、全員がモンゴル語で学べていたわけではありませんでした。新中国が誕生して以来の1952年に当地域のオリンシベ(敖林西伯)モンゴル族小学校でモンゴル語による教育を実験的にスタートしました。児童は29人しかいませんでした。しかし、それもそれほど長く続けられませんでした。さらに中国は1966年から文化大革命の政治混乱に陥り、政府が教育を軽視する時期が10年間も続きました。その後、1984年9月からスタートしたモンゴル語による教育も、12年経った1996年8月に地元政府の判断により小学校からのモンゴル人児童の募集を停止しました。残った2、3学年の児童も中国語のクラスへ切り替えさせ、ほかの学年が卒業するまで、そのまま維持するという方針でした。この時期はちょうど中国全土が市場経済を重視しはじめた時期でもあります。

このようにモンゴル語による教育が波瀾万丈の歩みを経て、そのまま終止符が打たれたと思っていたころ、モンゴル語による教育の小学生の募集が停止されてから10年目の2005年9月に、モンゴル語による教育の中学校生募集が急遽始まりました。これは言うまでもなく、モンゴル語教育にプラスになりますが、あまりにも突然のことで、教育の理屈にも合わないし、生徒にも負担がかかるに違いありません。この時期は中国経済の高度成長期にあたり、中国政府は危機に瀕する少数民族の言語、文化などの保護を重視しはじめた時期でもあります。

しかし、それにしてもモンゴル語による教育を受けていたモンゴル人児童・生徒の数が限られており、地域に住むモンゴル人全員がモンゴル語による教育を受けたわけではありませんでした。依然としてモンゴル語を学ばない、あるいは学べない様々な(言語生活、言語環境などの)理由がありました。モンゴル人の子供の多くは母語であるモンゴル語を失いつつあります。(続く)

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<包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun>
中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻)を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/ 教育・研究支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、契丹小字等。SGRA会員。



包 聯群「母語の喪失(その1)」 Posted 2008.2.9 by imanishi
(SGRAエッセイ#111)

ダニエル・ネトルとスザンヌ・ロメインの研究によると、使用頻度のもっとも高い100言語を、世界総人口の90%が話しています。そして、少なくとも6000の言語が、地球上の約10%の人々によって話されています。10万人を超える話者をもつ言語を含めて、「安全」であるのはせいぜい600言語であり、他の5400言語で安全な未来をもつものは皆無に近いということです。言い換えれば、世界の言語の圧倒的多数が死滅の危機にあると言ってもよいわけです。言語学者の推計では、少なくとも世界の言語の半数は、次の100年のあいだに死滅するであろうということです。

話者人口が最も多い言語は、中国語、英語、スペイン語・・・の順で、日本語は8番目に入っています。私の母語であるモンゴル語の話者数と比べると、日本語の話者数は遥かに多いわけです。

私が母語であると言っているモンゴル語は現在、モンゴル系諸言語の一つに過ぎません。1950年代に、中国政府の言語学研究機関をはじめ、多数の研究者から構成されたチームが大規模な現地調査を行い、文化や習慣、言語等を基準として民族の分類、言語の認定を行いました。その結果、モンゴル族以外に、中国領内にあるモンゴル系諸言語を話す話者は五つの民族に分けられ、正式に認められました。

モンゴル系諸言語は中央アジアのモンゴル高原を中心に広く分布し、一つのモンゴル系言語同士のグループに属します。モンゴル系の民族として、モンゴル国や中国領内のモンゴル族をはじめ、ロシア領内の、カルムイク族、ブルヤート族、中国領内のダグル(達斡爾)族、バオアン(保安) 族、ドゥンシャン(東郷)族、シラ・ユグル(裕固)族、モングォル(土族)族、アフガニスタンのモゴール族などが含まれます。

2000年の中国の統計で、中国領内の各民族の総人口は以下のようになります(HP:中国国家民族事務委員会による)。ダグル族の人口は132,394人、バオアン族は16,505人、ドゥンシャン族は513,805人、ユグル族は13,719人、そして、モングォル族は241,200人以上に達したということです。栗林均によれば、ロシア領内のカルムイク族は約12万人、ブルヤート族は30万人ですが、アフガニスタンのヘラート州に点在するモゴール族のモンゴル系言語の話者数は推定で数百人ということです。

モンゴル系諸言語の起源について様々な論説がありますが、モンゴル語研究者たちの多数は、チンギス・カーンがモンゴルを統治していた13世紀ごろには、一つの祖語=モンゴル語であっただろうという推定をしています。

現在、皆さんが言うモンゴル語は、モンゴル国と、中国領内の内モンゴル自治区および黒龍江省、吉林省、遼寧省、青海、新彊ウイグル自治区などの地域に分布しています。モンゴル国内に約253万3100人(モンゴル国大使館ホームページ:2004年統計年鑑による)の話者がいます。2000年の中国の人口統計によると、中国領内のモンゴル族は581万人を超えています。これは1990年の480万人より100万人も増えた数字であります。

しかし、中国領内のモンゴル語話者数は、実は人口数よりもはるかに少ないというのはとても悲しい事実です。例えば、内モンゴルにおいては、1990年時点でモンゴル族総人口は337万5千人でしたが、モンゴル語を話せる人は65.1%しか占めていないことが他の研究者の調査によってわかりました。つまり、内モンゴルでは、10人のモンゴル人のうち、4人はモンゴル語を話せないという状態になっています。中国の東北地域で暮らすモンゴル人および他の地域で暮らす中国語で授業を受けているモンゴル人の状況をみると、さらにひどい状態に置かれています。中国経済の高度成長期において、モンゴル人の若者の中には、多数の話者をもつ中国語を自分の将来に有利だと考え、中国語を第一言語とし、母語であるモンゴル語を話せなくなっている人が増えています。また、一部の児童、生徒が母語であるモンゴル語を学びたいという希望があっても、学習する環境が整備されていない地域が多数あるため、学ぶことができないこともあります。

もし日本で、日本人の若者が母語である日本語を話せなくなったと考えると、言語の喪失がどれほど悲しいものであるか、みなさんも容易に想像していただけると思います。中国東北地域に居住するモンゴル人の多数の若者は母語であるモンゴル語を自主的に放棄し、中国語を重視する傾向にあります。私が一番よく知っている中国東北地域に位置する黒龍江省のモンゴル人(約15万人)の若者の多数は自分の母語であるモンゴル語を話すことができなくなり、母語であるモンゴル語を失いつつあります。(続く)

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<包聯群(ホウ・レンチュン)☆ Bao Lian Qun>
中国黒龍江省で生まれ、1988年内モンゴル大学大学院の修士課程を経て、同大学で勤務。1997年に来日、東京外大の研究生、東大の修士、博士課程(言語情報科学専攻)を経て、2007年4月から東北大学東北アジア研究センターにて、客員研究員/ 教育・研究支援者として勤務。研究分野:言語学(社会言語学)、モンゴル系諸言語、満洲語、契丹小字等。



羅 仁淑「ある在日のおはなし」 Posted 2008.2.6 by imanishi
(SGRAエッセイ#110)

昨年の暮れ、在日の方々の登山についていった。P氏(70代)と私はグループから遅れてしまい、二人きりで世間話などを交わしながらゆっくりと歩いた。P氏が身の上話を始めた。涙を浮かべて聞き入る私、目頭を濡らして遠い過去を探り出すP氏。分断国出身同士の気持ちの通じ合いだったに違いない。二人の頭には、もはや早くグループに追いつかなければ・・・ということなど完全に忘れていた。

波乱万丈という言葉はこういうとき使うためにあるのかもしれない。多くの在日の来日動機とは異なる理由でP氏は高校生(16歳)の時来日した。当時の朝鮮半島の状況が分からないと、氏の来日理由は理解できないかもしれない。

朝鮮半島の北はソ連が、南は米国が優勢な状況で、1945年8月15日、日本の植民地から解放された。同年12月、モスクワで今後の朝鮮半島問題を議論する米•英•ソ3カ国外相によるいわゆるモスクワ会議が開かれ、米国は朝鮮半島を50年間信託統治することを提案し、ソ連は朝鮮民族には自主的に独立する力量があるので信託統治は要らないと主張した。度重なる協議にもかかわらず、なかなか合意に至ることはできなかった。ソ連の強い反対にもかかわらず、朝鮮半島問題は国連に上程されることになった。

当時、米国の影響力が強かった国連は1947年11月14日、(1)国連の選挙委員団の監視下で1948年5月10日に人口比例による南北朝鮮の総選挙を実施する、(2)政府樹立後外国軍を撤退させる、という米国案を可決した。人口比例で国会議員を選出することは南の人口より圧倒的に少なかった北に不利な条件であった。直ちに同委員団が上陸したが、北は入国を拒否した。国連は同委員団が接近できる南だけで総選挙を行うと決定し、予定通り実施された。そして南では大韓民国(1948年8月)が、北では朝鮮民主主義共和国(1948年9月)がそれぞれ樹立された。結果的に、手紙のやり取りすらできない、もっとも敵意の強い国同士になってしまった。

P氏の話に戻そう。上記のように政治的・思想的に不安定な時期に、高校生だったP氏は5月10日の南だけの選挙拒否運動に参加した。南だけの選挙が強行されると、P氏は国家反逆罪に問われ厳罰を受ける身になってしまい、やむを得ず国を離れることを決心した。真っ暗闇の中で「いつまた会えるかしら」と泣きじゃくる母を背にしてP氏は生まれ故郷を離れた。

日本に来て大学も卒業した。結婚もした。子供ももうけた。それなりに蓄財もできた。しかし、夢でも会いたい母に会いに行くことだけはできなかった。当時、韓国は罪の責任が親戚にまで及び、出国禁止を始めとしてあらゆる行動を制約する「縁座制」の時代であった。1980年代になってようやくこの「縁座制」が廃止され、家族の出国が許された。早速母が来日することになった。母に会える喜びで夜も眠れなかった。指折りその日だけを数えた。一日に何回も数えた。そんなある日、弟から電話があり母の心臓が悪くなり来ることができなくなったと告げられた。全身から力が抜けた。そのままP氏の母はあの世へ旅立ってしまった。

母が亡くなって数日後、弟からの手紙が届いた。母からP氏に宛てた手紙であった。臨終間際に弟に書かせたという。「お前は親不孝者ではないんだよ・・・」。亡くなった後、親不孝者だと自責する息子を慰めるためであっただろう。どこにそんな涙が溜まっていたか分からないほど止め処もなく溢れ出た。来日後、北朝鮮籍に変えたことを悔やんでも悔やみきれなかった。

それから数年後、韓国政府の在日同胞帰国事業により母国訪問団の一員として50年ぶりに故郷の土を踏むことができた。故郷の空を眺めることができた。お墓の前で母と長い話をすることもできた。

まだ会いたくても会えない人がいるとP氏の話は続いた。1959年2月、「在日朝鮮人中北朝鮮帰還希望者の取り扱いに関する件」が日本の閣議で議決されて以来、1967年まで約8万8千人が北朝鮮に渡ったが、その時、娘は万景峰号に乗った。それ以来、会っていない。祖国統一が実現され、死ぬ前娘に会うことがP氏の唯一の願いだ。60年前、祖国の分断を阻止しようと南だけの選挙に反対したP氏の運動は、分断された国がひとつになることを祈る形で今でも続いている。
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<羅 仁淑(ら・いんすく)☆ La Insook>
博士(経済学)。専門分野は社会保障・社会政策・社会福祉。SGRA会員。



キン・マウン・トウエ「ゴミの中から金」 Posted 2008.1.29 by imanishi
(SGRAエッセイ#109)

最近日本では「おさがり」という言葉を聞かなくなったと思います。かつて家庭にたくさんの兄弟がいた時、「おさがり」は普通でした。お兄ちゃんが着たものを妹が着て、最後に弟が着る。そんなことは当たり前でした。でも日本では、そんなふうに古着を兄弟続けて着ることがなくなり、ゴミとして処分されていることがほとんどでしょう。でも、世界には国境を超えた「おさがり」があります。

私が日本に留学していた時、ミャンマーのリサイクルの状況について、よく質問を受けました。古いコンピューターを処分するけどミャンマーへ持っていけるか聞かれたことがありましたが、当時は、母国のIT技術のレベルの判断が出来なかったので進められませんでした。携帯電話機も同様でした。現在のミャンマー国内のリサイクル状況から言えば、いずれも大歓迎です。

古着も同様です。日本で衣料品が不要になった場合、
1)ゴミとして捨てる。
2)回収業者に持って行ってもらう。
3)町内会の資源回収に出す。
といったルートがあり、そのほとんどが古繊維業者に集まっていくのだそうです。そこで集められた衣料品の用途はおおまかに3通りあります。
1)綿などは適当な大きさに裁断されて工場用雑巾(ウェス)となり、工場の機械類の油汚れなどを拭き取るために使われる。
2)毛織物などはもう一回糸に戻され、再び毛織物になる。またその他の繊維も同様にフェルトや軍手などの製品として生まれかわる。
そして、
3)東南アジアへの輸出。つまり、国境を超えた「おさがり」です。

中古車も同様です。日本では、10年以上新車に乗っていると、車検の変更、車輌管理、排気ガスなどの問題がでてくるので、新車に買い替えることが多い。そこで、捨てられた中古車の市場ができて、先進国の日本から発展途上国へ中古車として輸出される産業が発達しました。主な輸出先は東南アジアです。

「ゴミ」は、見方によっては不要なもの、場所を取るもの、処分するのに困るものです。しかしながら考え方を変えて、ゴミを上手く管理し、「エコ活動」として、それぞれ必要な場所にその必要性によって再利用できれば「ゴミの中から金」ができるでしょう。実際、これは、ミャンマーでよく使われていることわざです。

昨年4月ごろ、出張でミャンマーの山岳地方に行きました。その地方で訪れたある小学校の校舎はぼろぼろで設備も貧しく、しかもその小学校にさえ行けない子ども達がたくさんいるということでした。ヤンゴンでは、金持ちの家族が多く、自分の子どもの学校の選び方は日本のようになってきています。学校の評判や、卒業生の就職先などによって、子どもの学校が決められます。しかしながら、山の貧しい村では、小学校へ行けるだけでも天国へ行くようなことでしょう。親ならば誰でも自分の子どもの将来を考えるはずです。しかし、学校のことまで考えられる余裕があるかどうかです。

特にミャンマーの場合、国の政治や経済の状況によって思うようにはならないことが多いです。昨年も国内政治で大変なことがありました。現在は元に戻っているという話があるかもしれませんが、世の中に表と裏の違いがあるのは当然でしょう。経済的には、ガタガタです。税金の決め方や取り方はめちゃくちゃですし、一部の「関係」のある人だけがよい仕事に就けますし、国民一般の経済状況は下がっています。人々は傷つき、生活には大きな被害が出ていますが、政府が国民の状況をどう思っているのか、我々一般人は読めません。表と裏の違いはあるでしょう。

そこで、山の子ども達のため、彼らの将来のために、政府に頼らずに、民間のボランティア活動として行うプロジェクトを計画しました。最初は資金集めです。まず、日本で支援してくださる方のお蔭で、日本ではゴミとして処分されているものの中でも、ミャンマーでは特に必要となっているもの、建設関係の中古車トラックの輸入・販売事業を始めました。さらに、今年は、日本でゴミとして処分されている古着を利用して、山の子ども達の将来に役に立つプロジェクトを始めています。

国の将来は、子ども達の将来であります。ミャンマーの将来は、ヤンゴンの子ども達だけでなく全国の子ども達にも関係しています。現在先進国である日本は、戦後の日本人の方々の努力の結果です。私も日本留学中には、たくさんの親切な方々にお世話をなりました。今度、私ができることを母国で行うことによって、その方々へのお礼ができると思っています。私が今携わっている「山の子どもたちの将来作りプロジェクト」に、日本の「ゴミの中から金」が得られる事を期待して頑張っています。

皆様のご支援とご協力をお願いいたします。

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<キン・マウン・トウエ ☆ Khin Maung Htwe>
ミャンマーのマンダレー大学理学部応用物理学科を卒業後、1988年に日本へ留学、千葉大学工学部画像工学科研究生終了、東京工芸大学大学院工学研究科画像工学専攻修士、早稲田大学大学院理工学研究科物理学および応用物理学専攻博士、順天堂大学医学部眼科学科研究生終了、早稲田大学理工学部物理学および応用物理学科助手を経て、現在は、Ocean Resources Production Co., Ltd. 社長(在ヤンゴン)。SGRA会員。
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ボルジギン・ブレンサイン「『高度な自治』はチベットだけの問題ではない」 Posted 2008.1.26 by imanishi
(SGRAエッセイ#108)

2007年10月のアメリカ議会での「議会名誉黄金章」受賞をきっかけに、ダライ・ラマの活動はますます活発になっている。ダライ・ラマは、行く先々で、チベットが中国に対して求めているものは、中国の主権下における「意味ある自治」または「高度な自治」だと宣言しており、チベットの独立を否定する発言を繰り返している。この問題をめぐっては、1980年代から亡命政権の代表と中国政府高官が6回にわたって話し合いをしているといわれているが、状況は一向に進展しているようにはみえない。両者の話し合いの内容は公表されていないが、核心はおそらく、年配のダライ・ラマが如何に体面を保ちながらチベットに帰還できるか、そしてダライ・ラマが帰還した後のチベットは一体どんな状態であるべきなのか、といった問題にほかならないであろう。そこで気になるのは、ダライ・ラマ側が求める「高度な自治」とはいったい何を指し、一方の中国にとっての「高度な自治」とは何を意味するものなのか、ということである。

ダライ・ラマ側が求める「高度な自治」とは、例えてみれば清朝時代における清朝政府と外藩―つまりモンゴルやチベット―との関係そのものである。それは、軍事と外交を除くあらゆる権限が与えられた「間接統治」といわれるものであり、現代中国の中央政府と少数民族自治区との関係とは本質的に異なるものである。

周知ように、現代中国の五つの少数民族自治区(内モンゴル自治区、チベット自治区、新疆ウイグル族自治区、寧夏回族自治区、広西壮族自治区)はその他の省、直轄市と同等なレベルの行政区域に過ぎず、多くの意味においてはそれ以上に中央政府の関与を受けている。これらの少数民族自治区と中央政府との「直接統治」の関係は、それぞれが中央政府の統治を受け始めたときから確定されたものなのかというと、事実はそのようにも思えない。例えば、中華人民共和国の建国より二年前につくられた内モンゴル自治政府は自前の軍隊までもつ、それこそ「高度な自治政府」であり、現在の同自治区と中央政府との関係とは比べられない独自性があった。チベットが中国共産党の統治を受け始めた時の当事者であったダライ・ラマ十四世の目にも当時の中央政府からの約束とその後の現実との間に大きな隔たりがあるのであろう。そしてダライ・ラマはそれを取り戻したいと努力していると理解することができる。

しかし、一方の中国政府からすれば、チベットに「高度な自治」を与えることは、少なくとも「自治政治」のレベルを、国民党と天下争奪をしていた時の「気前のいい」状態に戻すことを意味し、ひいて言えば漢民族を除く55の少数民族全体の処遇をもう一度見直すことになる。チベットにだけ高度な自治が与えられ、ほかの少数民族は現状維持では、中国の民族関係はさらに複雑化するに違いない。チベット亡命政府との話し合いに消極的で、中国の主権下での「意味ある自治」と明確に訴えているにもかかわらず、ダライ・ラマを分離分子と非難している中国政府の姿勢の背景にはこうした事情が潜んでいるであろう。

しかし、考え方を変えて、チベット問題の解決を機に、中国が建国半世紀以上経った区域自治政治を原点に戻してもう一度考え直し、新たな時代に相応しい少数民族政策を打ち出すことになるなら、それも大きいな政治的資産をつくることになるであろう。少数民族の分離独立の動きを押さえるもっとも有効的な手段はほかでもなく、中国の中で彼らが自らの文化を温存しながら生きることができて、誇りと尊厳を取り戻し、経済発展で豊かになったことを実感できる生活空間を与えることだ。今の中国にはそれを実現するだけの余裕は充分ある。

ところが奇妙なことに、中国には「高度な自治」が存在する。しかもそれは多民族国家ならではの少数民族統治とは縁のないところに存在していることに注目したい。それは香港と澳門の「特別行政区」と台湾問題を解決する枠組みだとされる「一国二制度」である。列強に虐げられた長い植民地時代への清算と国家統一という至上命題を実現するために打ち出された枠組みであろうが、その発想の出所はまさに清朝時代の「間接統治」であり、長く蓄積された異民族統治の知恵が転用されたことは明らかである。

中国は、かつて中国と争ってきたモンゴル人や満洲人など周辺少数民族のほとんどを統治下に治めたので、これらの異民族にいまさら「高度な自治」などを与える必要性はなくなった。現在中国の国家統一の障害となっているのは同じ漢民族内部の問題であり(台湾問題)、さらに中国にとっては少数民族問題よりも本土における地域間の経済格差問題の方がより統治の脅威となっている。「高度な自治」という異民族統治から生まれた知恵が今度は少数民族問題ではなく、漢民族内部の問題を解決する道具となりつつある。

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<ボルジギン・ブレンサイン ☆ Borjigin Burensain>
1984年内モンゴル大学文学部卒業;1984年〜1992年内モンゴルラジオ放送局記者;1996年早稲田大学大学院文学研究科より修士号、2001年博士号取得;早稲田大学モンゴル研究所客員研究員を経て、2005年より滋賀県立大学人間文化学部准教授。SGRA会員。
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玄 承洙「教室雑感」 Posted 2008.1.15 by imanishi
(SGRAエッセイ#107)

私が東京大学大学院で留学を始めた頃の話である。専攻上の必要からアラビア語を勉強しなければならなかったため、基本文法を教える学部生向けのアラビア語教養講座の授業に出ることにした。しかし、初めて目にした日本の大学授業の風景はそれこそ衝撃の連続であった。教室ではまったく講義らしきものが行われていなかった。学生たちの大半は居眠りをしていたり平気で雑談をしていた。授業中にいきなり携帯の着信音が鳴ったかと思いきや、学生は「ちょっと待ってな〜」と言いながら、先生の前を横切って教室から出て行った。もっとショックだったのは教師の態度であった。おそらく他大学から教えに来ていたと思しきあの男性講師は、困った顔でこういっていたからである。「皆さん、あと15分で終わるから我慢してくださいね。あと15分ですよ。」

9年間の日本留学も無事に終わり、待望の博士号を取得して帰国した。韓国の大学を取り巻く厳しいニュースは日本にいた頃から聞いてはいた。だが、帰国して本格的に学術活動を開始してみると、研究者の就職活動や研究環境が想像以上に厳しいことがつくづく感じられた。少子化現象もあって学生数は毎年減っているのに、修士や博士号をもっている人の数は増える一方である。要するに、需要より供給が過剰なわけである。政府は10年前から「高等失業者」を救済するという目標の下、学術振興財団を通していろんな研究プロジェクトを設けて研究者を公募している。今の韓国の博士号所持者の大半はこの「学進課題」に大いに頼っているといっても過言ではない。逆にいうと、研究者個人であれ、集団であれ、毎年行われる数個の「学進課題」に採用されなければ、食べていけないのである。週にいくつかの授業を担当しても、それだけでは生計を立てることはできない。

それで、この大学授業についてである。冬学期が始まり、本格的に授業を担当することになった。ありがたいことに周囲の先生たちや知人の配慮もあって、4つの授業を担うことになったが、そのうち1つはいま住んでいるソウルからかなり離れた地方大学での講義である。週に1回、高速バスに乗って片道4時間の長道である。たったの3時間の授業をおこなうために路上で8時間も過ごさなければいけない。だが、私を悩ませるのは、決してその長い通勤時間ではない。学生たちの態度である。いや、より正確に言うならば、どうやって学生たちに接すればいいかという問題なのである。

私は基本的に子供が好きである。若い人たちに(自分もまだ若いとは思っているが)接することも楽しい。彼らと考え方を共有し、彼らの質問に答え、彼らの将来についていっしょに考えるのが好きである。しかし、こうした私の期待は時間がたつにつれ少しずつ失望に変わっている。学生全員ではないが、多くの大学生たちがなぜか学問にたいしてあまり意欲を見せない。学問的な好奇心もあまり感じられない。教壇にたっている教師をだる〜い視線で眺めている。彼らから少し視線をそらすと、すぐ携帯で何かを操作している。冗談とかで彼らの注意を喚起しても、長くて10分ももたない。授業のために何日もかけてビジュアル資料を用意して使うが、すぐ飽きた顔をしてアクビをしたりする。

こうした私の悩みを先輩の講師たちに話した。私の教授法にどこか大きな間違いでもあるのではないかという不安を吐露した。すると、講師歴15年のベテラン先輩はこう言った。「どこの授業も大抵そのようなものさ。いくら面白い動画を見せ、繰り返し冗談を連発したって学生からはすぐ飽きられるんだよ。大学で教えるべきものは、興味を誘発するだけでは続けられないような内容なんだ。講義はテレビのお笑い番組ではないんだよ。」先輩はこうも言った。「最初は学生たち全員を公平に扱わなければならないと考え、ついて来られないやつらを見ていらいらするかも知らない。けれど、どうせ全員向けの授業なんてできやしない。寝ているやつらは放っとけばいいんだ。大きな声で雑談をして周りに迷惑をかけない限り、彼らをいちいち注意することなんて無理さ。慣れてくれば何でもないんだよ。」

しかし、講師歴たったの4ヶ月に過ぎない私にとっては、とうていそうはいかない。先日の授業ではロシアの歴史を紹介する水準の高いドキュメンタリー映画を見せながら授業を続けていた。だが、映画が始まって20分もたたない時点でビデオを止めてしまった。150人を超える学生のうち3分の2以上が寝ていたからである。不快感を顔に浮かべつつ拍手を打って学生たちの目を覚ました。そして彼らを叱った。「若々しい20代の君たちがなぜにこうも、うとうとしているのか、先生はどうしても理解できないんだ。一学期300万ウォンもする学費がもったいなくないのか。適当に時間を費やし、適当に満足できそうな成績をあげ、適当な人生を過ごそうと思っていいのか。授業の内容が気に食わなかったら、素直に言いなさい。質問をさせても閉口で一貫し、機会さえあれば寝ることばかりにしか興味のないような君たちがかわいそうでしかたないんだ」と。

私はまだ教師としての経験が浅い。学生たちの興味を誘発するのに精一杯で、進度もなかなか進まない。学生たちにアクビさせないほどのテクニックなんて持っていない。しかし、いま私たちの教育現場に充溢した危機感を、ただ教師や学生の資質だけに求めるべきではない。激しい民主化の流れにより社会はいろんなところで肯定的な変化を遂げたが、同時に社会全体において拝金主義と権威の喪失を深めた。なくすべきは権威主義であって権威そのものではないのに、権威というものはもうどこにもない。子供たちの前で父兄が教師を暴行したというニュースもたびたび聞こえる。体罰をする教師を携帯で撮影し、インターネットに流布する学生も増えている。こうした社会的風潮のなかで教師は師としての権威を喪失し、単純な知識の商売者に転落してしまったのではないか。

10年前に日本の大学で目撃した教室風景は、いま韓国でそのまま再現されている。もちろん韓国が日本を真似しているわけではない。何もかもがビジネスになってしまった時世のせいでもあるのだ。教育の価値を経済的な価値に換算して評価しがちな時勢のためであろう。教育の中心を教師ではなく学生が占め始めてから、教師は学生に教育を「サービス」しなければならず、教師と学生の区別が曖昧になり、一切の権威が崩壊した教室は知識を売る市場に化してしまったのではないか、と私は考えている。

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<玄承洙(ヒョン・スンス)☆ Seungsoo HYUN>
2007年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『チェチェン紛争とイスラーム』)。専門はロシア及び中央ユーラシアのイスラーム主義過激派問題。現在は韓国外国語大学の中央アジア研究所で研究員として務めている。SGRA会員。



高 煕卓「2007年韓国大統領選挙を見て(その2)」 Posted 2008.1.11 by imanishi
(SGRAエッセイ#106)

韓国の2007年大統領選挙(大選)では10年ぶりに与野党の政権交代が起こった。その直後、多くのマスメディアでは投票行動における一定の世代や理念の影響力低下といった傾向を主要な特徴として取り挙げていた。長く続いた保守系政党の長期執権に終止符が打たれ政権交代が実現した前々回(1997年、金大中氏)、そして前回(2002年、慮武鉉氏)の大選においては、彼らの「民族」や「民主」、あるいは「平等」などの理念的志向に共感する3、40代を含む多くの若い世代の人びとの存在が大きかった。が、今回の大選ではそうならなかったわけだ。

それは大選後の世論調査でも表われている。1980年代の民主化運動の流れのなかで市民の力によって創立された、いわば進歩系新聞の代表格のハンギョレ新聞の世論調査によると、2002年の大選で慮武鉉氏に投票した人びとのなかで今回李明博氏の支持へと変えた人が約41%に至るという。

ところで、その記事で印象的だったのは、「民心読み」という新年初の連続企画記事のタイトルであった。この世論調査はじつは昨年末に行われたものだった。が、まさにそのタイトルに象徴されているように、今回の大選結果もさることながら、集団転向と呼ばれそうな上記の世論調査結果がいかにも衝撃的だったようだ。そのタイトルは「民心を読み誤り、そこから離れていた」といった自覚の裏返しであったといえる。

では、こうした一方の「民心離反」と他方の「民心の読み誤り」はいかに生じ、またその間隔は何を意味するものだろうか。

そこには、単純化を恐れずにいえば、現政権の5年間だけでなく、この10余年間に進行した韓国社会における一種の中産層の解体とそれに伴う政治意識の変動といった構造的問題が横たわっているのではないだろうか。

その理解のために、とくにバブル崩壊とIMF事態を経て政権交代に至った1997年前後に遡って振り返ってみる必要があると思う。まだ記憶に新しいが、今から10年前頃は、アジア金融危機が広がるなか、韓国経済がバブル崩壊とともに国家的破綻の危機に直面し、国際金融機構IMFからの金融支援を受けざるをえなくなっていた。が、他方では、そのような状況のなかで進歩系野党候補の金大中氏が大選で当選し、政権交代が現実した時期でもあった。

1997年の大選で金大中氏が選ばれたのは、それまで経済成長を主導してきた勢力の経済政策の失敗や判断錯誤への責任を、より公共的な位置から問う意味合いが大きかった。それまでの経済成長の戦略的・制度的修正だけでなく、そのなかで後回しにされていた疎外や格差といったいわば開発独裁の影の部分の是正を通じて、名実相応の「国民国家」の完成を図るといった、金大中氏の国家戦略が効いたのだ。「国民の政府」と自称していた金大中政権において地域間、階層間、さらには南北間の「均衡」が盛んに謳われたのはそのためであったと思う。

そして2002年の大選で慮武鉉氏が選ばれたのも、大きくいって、その延長線上のものといってよい。さらには「人」の斬新さも一役買われたこともあって、前政権の「均衡」政策だけでなく、いわば権威主義や排他主義に集約される韓国社会の古い体質を変えて、より対話的な探求を可能にするといった意味での「民主」を押し通したのが効いたような気がする。現政権は自らを「参与政府」と自称していたし、今は別名に変わったが、当時の政党名が「開かれたウリ(我々)党」だったのもその象徴であった。「均衡と参与」によって、あらゆる国民が自らの政府の主人となり、官民ともに国家の未来を開いていくといった現政権出帆当時の鳥瞰図は、ある意味では鮮やかな絵を見るかのようだった。

だが、政権交代の機会を提供した経済危機が執権後には大きな負担であるといったジレンマを十分に認識していたとは思えない。バブル崩壊とIMF事態がそれまで高度経済成長を持続させてきた韓国経済の根幹を大きく揺るがしたことの政治的意味を重く受け止めていなかったような気がする。

その一つ、大量失業の事態と生活上の危機。多くの大小企業の倒産が相次ぎ、また生き残った企業や金融機関の構造調整のために合併や整理解雇などが行われた。それまでの60代停年といった雇用安定の構造が壊れ、私の周りでも50代さらには40代に職場から追い出される人が続出したし、また若い人々にとっての就職は前例のないほどの厳しいものになっていった。

その二つ、両極化の深化と無限競争の一般化。IMFによる金融支援は体質的問題とされた韓国経済の不透明で閉鎖的な構造を改革することが義務付けられたものであった。それに則って金大中政権の初期から経済構造改革が進められるなかで、いわばグローバル・スタンダードは急激に一般化していった。が、被雇用者側からみれば、それは国内外の境界が無くなった状況での勝ち組と負け組みとの鮮明な区分けを意味し、またその勝敗をめぐる競争の激化を体感させるものでもあった。

その三つ、急転直下による心理的恐慌。バブル崩壊直前まで多くの人びとは、ある意味では膨張する欲望のまま振りまわっていた。「シャンパンを抜くのが早すぎたのではないか」といった憂慮が国外から指摘されてもいたが、むしろOECDの仲間入りに国家的に歓呼していたほどだった。それだけに、その急転直下の辛酸を直接に嘗めた人々の過酷な現実はいうに及ばず、間接に体験した人びとの不安や恐怖の大きさも計り知ることができないかもしれない。バブルの酔いからまだ目覚めないうちにまさに上記の二つの事態に見舞われただけに、階層や地域によって速度差はあったものの、韓国社会の全般に危機感を高めていったのだ。

その意味で現政権の5年間は、こうした危機感の漸増とともにそれまでの精神的余裕が蝕まれていった状況のなかで、その事態の意味の「読み誤り」と「民心離反」が繰り返された時期でもあった。経済的・社会的弱者を保護するために構想された不動産政策や教育政策などの現政権の代表的な政策が、かえって逆効果となり、人々から典型的な失政として反発を買っていたというアイロニーは、まさにこうした状況のなかから生み出されていた。

それにしても、今回の圧倒的票差による李明博氏の当選を単に「保守化」と断定してよいとは思わない。アマチュアリズムや「口先だけの政治」といった批判に象徴されているように、いわば保守か進歩かといった「理念」の問題としてではなく、むしろそれ以前の問題として捉えられていたと思う。状況認識に長けた李氏の当選はこの意味では当然だった。

だが、その分、新政権も現政権と同様の負担から自由ではない。まして、曲がりなりにもこの10年間における「国民の政府」や「参与政府」の経験をもつ人びとを前にして、単なる後戻りが許されるとは思わない。その意味で新政権は、従来の保守と進歩がごちゃ混ぜになったような国政運営をせざるをえなくなるのではないか、というのがこの頃の私の感想である。

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<高 煕卓(こう ひたく)☆ KO HEE-TAK>
2000年度渥美奨学生、2004年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『近世日本思想における公共探求』)。専門は近世近代日本思想史。最近の関心分野は東アジア比較思想文化、グローバル時代における文化交流の理論と実際など。国際NGO=WCO(World Culture Open、本部はニューヨーク)調査研究機関の一つとしてのGlocal Culture Research Institute(ソウル所在)のディレクターを務める。2007年11月より高麗大学日本学研究センター研究教授。SGRA地球市民研究チームのチーフ。



マックス・マキト「マニラ・レポート2007年12月」 Posted 2008.1.9 by imanishi
(SGRAエッセイ#105)

今回のフィリピンへ帰省中、僕としては初めてのスタディーツアーを行った。僕の日本の大学の学生たち7人(性別的にいえば女性5人、男性2人、出身国的にいえば日本人5人、ポーランド人1人、インドネシア人1人)と先生2人(SGRA顧問で名古屋大学教授の平川均先生と僕)の参加で、12月5日から14日までの合宿旅行を、フィリピンのアジア太平洋大学(UA&P)のユウ先生とマニラにいる家族の協力を得ながら実施した。幸いに今回のプロジェクトの一部は、平川先生の名古屋大学の産業集積の研究助成金から支援していただいた。

12月5日に、名古屋発の平川先生と東京発の僕がマニラ国際空港で合流した。学生さんたちは期末試験のため、マニラ到着(台湾経由)を一日遅らせた。参加者は9日まで、マニラ市内のホテルをベース・キャンプとした。師走という時期だったので、残念ながら、平川先生は9日に日本にお帰りになった。

ツアー前半の主な目的は、昨年から続いている経済特区におけるフィリピンの自動車産業の研究調査を行うことである。昨年、平川先生とユウ先生と一緒にフィリピン・トヨタの工場を見学し、僕は特区に関する研究を発表した。その後の交流の結果として、自動車産業を中心とした研究方向が固まってきた。12月6日(木)に、僕らの研究を支援してくれているフィリピン・トヨタの方の手配で、トヨタの下請け企業であるPhilippine Automotive Components、Fujitsu Ten、Toyota Boshoku Philippinesを見学させていただいた。さらに、8日(土)には、週末にも関わらず、Yazaki-Torres Mfg. Inc.という合弁会社を見学できた。この場を借りての幹部社員の皆様の暖かい歓待に感謝を申し上げたい。以上の見学によって僕達が行っている研究の分析結果を現場で確認することができ、今後の研究に役立てるヒントを得た気がする。

7日(金)の午後1時半から5時半まで、UA&P・SGRA日本研究ネットワークの第6回目の共有型成長セミナーがUA&Pの会議室で開催された。最初に平川先生がフィリピンの自動車産業を他の東南アジア諸国と比較した。日本のダルマに例えて、フィリピンの自動車産業は7回転んでも8回立ち直す。東南アジアからみても遅れているということがわかるが、部品調達先としての役割を深めているということだった。次に僕が経済特区の比較分析の結果を発表した。この分析はこれから特区を超える産業ネットワークにも適用できるので、そのための研究支援を訴えた。休憩を挟んでユウ先生がフィリピンの半導体産業と自動車産業の比較分析の結果を発表した。この観点からみてもフィリピンの自動車産業は遅れていることがわかる。ただ、世界の観点からみれば、自動車産業は部品などの調達で中小企業に大きく頼っているので、共有型成長の潜在力が非常に高いという。最後に、フィリピン自動車産業協会のホマー・マラナンさんがフィリピン自動車産業の現状について報告した。輸入車の量が現地生産高とほぼ同じことが現地自動車産業に大きいな打撃を与えていることがわかる。最近、フィリピン国産車の啓蒙活動が進められ、法律も作られているというが、輸入車がビジネスとして成り立っている限り、今後の展望はまだまだ難しいようである。セミナーの最後に僕が司会をして、会場のみなさんを混じえてパネル・ディスかションを行った。色々なことが議論され、フィリピン自動車産業の研究の将来性を感じた。

トヨタの役員の方に誘っていただいたセミナー終了後の食事会でも、同じように前向きな印象を受けた。フィリピン自動車産業のこれからの戦略立案において大学やNGOという中立的な立場が必要とされている。そこでUA&P・SGRA・名古屋大学のネットワークが活躍できると思う。東京に帰る前に研究助成を含む話し合いが予定されている。また、できるだけ早く戦略政策案を提出するよう要請されている。

スタディーツアーの後半(9〜12日)は主に地方で過ごした。マニラの東南、車で約4〜5時間の太平洋に面するビーチ・リゾートがベース・キャンプである。リゾートといっても主な客層は地元の人々で、決して一流の観光地ではない。一行は、僕と学生7人、父と妹とその長男、運転手の総勢12人だった。初めての試みだったので不安がたくさんあったが、その心配は無用だったように、みんなが明るく、フィリピンの地方での3日間を過ごしてくれた。

地方の視察は共有型成長をテーマとする僕の研究の一貫である。都会から地方への発展をいかに進めるかということをが、僕の研究の基本的な目的である。ツアー前半の経済特区はまさにその一つの有効な手段である。製造業の経済特区は大体地方に位置しているからである。引き続き、地方における農林水産業部門やサービス部門においても、僕の研究を展開しようと試みたわけである。今回は農林水産業部門では養魚場を一ヶ所視察し、サービス部門では、今後の研究の可能性を探るため、ベース・キャンプにしたリゾートを中心とした観光施設を訪問した。

未開発の海や豊かな雨量に恵まれているこの地方は、養殖業の可能性が十分あると思われるが、商業ベースで営んでいる養魚場はどうも少ないようである。観光地としても理想的なところであるが、地元の人たちは、この地方の住民か、たまたまやってきた観光客しか狙わない。立地は良いのに、どうもこれ以上発展したいという住民の熱意が感じられなかったというのが率直な印象である。確かにフィリピンの地方では、ノンビリというのは当たり前だとよく聞く。しかし、地方でも機会があれば発展したい気持ちはあると思う。隣の県と比べると、今回の視察先では遊んでいる土地が多いようであるし、観光の観点からみてもさまざまな点で遅れている。

このビーチ・リゾートは、妹の友人に紹介してもらったものだが、合宿中も色々と親切にしていただいた。彼らにとって精一杯のもてなしをしてくださったと思う。同時に、このプロジェクトを手伝ってくれた僕の家族にも感謝している。日本から行った学生さんたちから事前に了解を得て、今回の合宿旅行の余剰金は、妹の3人の子どもたちへの奨学金とさせてもらった。他のパック旅行と比べても低予算という制約の下で組んだスタディーツアーであるが、家族のボランティアと全力をあげての経費節減により、いくばくかの支援金を得ることができた。実は今までのSGRAでの僕の研究成果は、殆ど妹(と父)が手伝ってくれたデータ収集が基本になっている。妹の明るい性格は、参加した学生さんたちに非常に受けて、みんなに親切に付き合ってくれた。

嬉しいことに、今回参加してくれた学生さんたちは、地方から帰ってきた後、マニラでの滞在期間を2泊延長した。そして、日本に帰ってからも優しい言葉を一杯くれて、このような合宿を近いうちにもう一回やろうという自信を芽生えさせてくれた。いうまでもなく今回の合宿には問題点も多くあって、いわゆるトヨタの「カイゼン(改善)」を習って、東京へ帰ったら反省会を行うと同時に第2回目のツアーの企画も始めたい。今回の訪問先と比較するため、次回はまた家族のネットワークに頼ってマニラから北西のほうを調査してみたい。

このスタディーツアーを企画している間に、フィリピンではモールの爆発や、クーデターなど、いくつかの事件が報道されたために、何人かが参加を中止した。そんな状況でも、暖かく支援してくださった企業はもちろん、それでも参加してくれた7人の学生さんたちと平川先生に心から感謝している。色々大変だったと思うが、僕まで驚かせたこのグループの前向きな姿勢によって、一人残らずフィリピンの訪問が勉強になり、良い思い出ができたそうである。

SGRAのみなさんからも、東海の真珠と呼ばれるフィリピンへの冒険旅行はいかがでしょうか。

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<マックス・マキト ☆ Max Maquito>
SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。
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李 鋼哲「中国人の近隣感覚」 Posted 2007.12.29 by imanishi
(SGRAエッセイ#104)

日本では中国人の反日感情が非常に強いと思う人が多い。しかし、中国人の近隣感覚は必ずしもそうではない。最近、インターネット・メディア「新華網」が発表した「中国人の隣国イメージ調査」によると、「最も好きな隣国」はパキスタン28%でトップ、ロシアが二番目で15.1%、日本が三番目で13.2%という結果が得られた。また「最も好きではない隣国」の第一位は隣の韓国が40.1%、日本が30.4%で第二位、インドネシアが18.8%で第三位である。調査は中国ネティズン1万2千人を対象に行ったもの。

日本人にとって嬉しいことか憂うべきことかそれぞれの判断であろうが、注目したいのはインターネットが感情発散のはけ口で、反日感情が強いと思っていた中国のネティズンは、意外と冷静に隣国を見ているのだとする中国の専門家の分析である。20の隣国と接する中国にとっては、「善隣友好」関係は政府も国民も望ましいが、現実では近隣関係は理想的ではなく、近隣環境が厳しいと見る人が少なくない。

日本に対しては、愛と憎みが入り混ざっていると関係者は分析している。「日本は歴史的な原因により嫌いな国であるが、我々が学ぶべきところが多く、日本民族の多くの特徴は我々の自己反省の鏡となる」と調査結果を読んだある読者は自分の意見をネットで書いたという。

パキスタンが最も好きな隣国になった理由は、パキスタンは中国を裏切ったことがなく、いつも中国人に対して友好的だから。しかし、中国人はパキスタンについてどれぐらい知っているだろうか。昨年パキスタンを訪問した中国人はわずか6万人である。中国を訪問するパキスタン人も限られている。つまり、お互いに接触が少なく、ある「造られたイメージ」による判断になりかねない。

筆者が小学校や中学校時代の1960〜70年代、中国は「日本は中国を侵略したが、それは日本の一部軍国主義者が悪いので、日本国民も被害者である」と国民を教育したので、反日感情というのはそれほど見られなかった。もちろん、日本を訪問できる人はほとんどいなかったので、日本の実態を分かる人は誰もいなかった。つまり、「造られたイメージ」により国民は日本を想像し、日本人を認識したのだ。それが、1日平均1万人以上の交流時代(今年は双方訪問者500万人になる見通し)になると、日本に対する評価も様々である。

近年、韓国ドラマで韓流ブームになっていた中国国民のなかで韓国人嫌いが急速に増えたのは、「韓国人は中国で偉そうに振る舞っている」、「中国人を見下ろしている」からであると前記の調査では解説している。近年急増して日本を超える規模の韓国人の中国訪問者、そして現在70万人といわれ、来年は100万人になるといわれる(駐中国韓国大使の話による)中国での韓国人居住者。付き合いが多くなると好き嫌いも明確になるのではないか。やはりドラマで見るのと実物を見るのは違うのか。

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<李鋼哲(り・こうてつ)☆ Li Gangzhe>
1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。
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高 煕卓「2007年韓国大統領選挙を見て(その1)」 Posted 2007.12.26 by imanishi
(SGRAエッセイ#103)

韓国の2007年大統領選挙(「大選」)はあっけなく終わった。今回ほど、投票前に形勢がほぼ決まり、選挙関係者だけのお祭りで、面白くない大選もなかった、といったのが多くの人びとの実感であろう。

といっても、今度の大選がもたらした政治的出来事は決して小さいものではない。

その一つ。韓国の人びとは去る12月19日の投票でいわば政権交代を起こした。現政権の統一相を歴任した与党候補の鄭東泳(チョン・ドンヨン)氏ではなく、野党のハンナラ党から立候補した李明博(イ・ミョンバク)氏を選んだのだ。

その二つ。圧倒的な票差。得票2位に止まった与党候補との間では、得票率において20%以上、得票数において五百万票以上といった、史上前例のないほどの大差がついた。最後の最後まで判らないといった薄氷の勝負を繰り広げた前回や前々回の大選とは様相が全然違うものだった。

その三つ。史上最低の投票率。大選平均の80%台にはほど遠く、最低だった前回を7%も下回る63%だった。3人に1人が棄権ということになるが、とくに前回に比べれば、さらに約2百万人以上の人が投票をしなかったわけだ。

このように今度の大選で韓国の人々は大きな政治的変動を選択した。が、その選択は、これまで緊迫感に満ち活気が溢れていたものとは対照的に、冷笑が漂う静けさのなかで行われたのだ。

こうした政治的現象はどう理解すれば良いのだろうか。いったい韓国社会のなかで何が起こっているのだろうか。ここでは私なりの解釈を試みてみたい。

まず、注意を引くのは、政治と道徳との平面的連動構造の弱化である。

最近10年間の大選において候補者の道徳性問題が勝敗の大きな分かれ目となったのと比べれば、今回のそれは異様なほど違っていた。現大統領の慮武鉉氏(2002年)やその直前の金大中氏(1997年)が大選で勝利できたのは、あえていえば、そこに対立政党・候補の道徳性問題が大きく絡んでいたからである。

また、とくに今回の選挙では与党側に道徳的公憤をもとに劣勢を挽回し大逆転の期待を抱かせた、「BBK事件」も結局「大選の雷管」にはならなかったのだ。

「BBK事件」に限っていえば、今年の前半期からその事件への李氏の関与疑惑が持ち上がり、先月の半ばにはマスメディアの集中的な照明のなか、その事件の主犯格とされる人がアメリカの拘置所から韓国に引き渡され、それに対する検察の特別取り調べが実施されたし、「李氏はBBK事件の共犯者だ」といったその人の供述さえ報道されていた。ましてや投票日3日前には、ある大学で李氏自ら「BBKを創業した」という内容の入った当時の講演映像が流された。

しかし、それにもかかわらず、「BBK事件」への取り調べが軌道に乗った後で行われた世論調査においても、李氏への高支持率に大きな変動はなかった。「BBK事件」だけでなく、さらには偽装転入問題や脱税などのさまざまな疑惑のため、ある意味では「腐敗政治人」の典型としても映された李氏のイメージが大選の焦点に持ち挙げられるなかでも、圧倒的な票差による李氏の当選が現実化したのだ。

今は透明になりつつあるとはいえ、これまで大小の腐敗や虚偽問題に苦しまされ続け、それゆえ道徳性の問題に敏感だった韓国人のことだけに、今回大選の結果は従来の政治と道徳との平面的連動構造の弱化を示唆しているように思われるのだ。

だが、ここでまた、注意を要するのは、その意味への解釈ではないだろうか。

一つの解釈は、李氏への支持を、いわば「勝てば官軍」といった情緒の表現と見なし、国民的な「道徳的堕落」と受け止める立場である。先月の半ば、与党の選挙対策共同委員長を務める人から、政治と道徳との平面的比例構造の弱化の様相をふまえて、「国民は呆けているのではないか」といったイライラの発言が飛び出たほどだ。が、その解釈は一面に傾いた感を免れない。

もう一つの立場は、上記の立場への批判的意味も込めて、今回の大選は現政権に対する懲罰的投票が最も顕著に現われたケースとして見なすのだが、こうした見解は割りと多い。前回2002年の大選ではその愚直さと斬新さで大きな期待をもって迎えられた慮武鉉政権だったが、その斬新さはアマチュアリズムの無能に、その愚直は傲慢や独善に取って代わったというのだ。それからの「学習効果」が今回の大選で大きく反映されたと憤慨する人びとを私の周りではよく見かける。が、敗北の真の原因を探すより敗北の責任者を探し出すことにもっとエネルギーが投入されているような感じで、部分的には理解できるものの、やはり納得いかないところも多い。

私は、今回の投票傾向の分析から明るみに出ている、これまで政治的形勢に大きく影響を与えてきた世代や理念、あるいは地域といった要素の比重が低下したという側面に注目したい。それは韓国社会の構造的変動と絡み合いながら、そのなかの人びとの政治意識構造の変動をも示唆しているように思われるからだ。
(これ以降は次に譲る)

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<高 煕卓(こう ひたく)☆ KO HEE-TAK>
2000年度渥美奨学生、2004年東京大学総合文化研究科より博士学位取得(『近世日本思想における公共探求』)。専門は近世近代日本思想史。最近の関心分野は東アジア比較思想文化、グローバル時代における文化交流の理論と実際など。現在、国際NGO=WCO(World Culture Open、本部はニューヨーク)調査研究機関の一つとしてのGlocal Culture Research Institute(ソウル所在)のディレクターを務めている。SGRA地球市民研究チームのチーフ。



太田美行「私の残業物語」 Posted 2007.12.21 by imanishi
(SGRAエッセイ#102)

先日長めの残業をした。午後5時半に始まった会議が翌朝2時まで続いたのだ。その後軽く打ち合わせがあり、退社は午前3時。夕飯、休憩なし。もちろん数時間後には始業時間なので自宅で軽く仮眠をとった後に出社。さすがにこんなに残業時間が長いことは普段ないが、でも長い。自宅の机の上には『定時に帰る仕事術』と『WORK AND LIFE BALANCE』の本。どうも実践できておらず、本のタイトルを見てため息。

これまで学生時代のアルバイトを含め、複数の業界で仕事をしてきた。会社により残業のスタイルもかなり違う。単に会社の規模や仕事内容だけの問題でなく、背後にある社員に対する考え方や、給料体制など色々な背景事情が関係しているのがわかる。例えばA社では頻繁に午後10時位まで残業があるが、その代わりラーメンや弁当などの夜食が出される。仕事も楽しいので終電で帰宅しても少し疲れたと思うくらい。B社では残業は一切なく、残業させる時には「今日は30分ほど残業してもらえる?」と聞かれた上で残業を行う。1時間以上の残業はほぼゼロ。社長が残業代に大変厳しい人だったので就業時間内に終わらせることが最優先。終わらなければ社長がその分の仕事をするか、翌日へ持ち越し。C社(日本語学校)では残業代が一切支給されないが、皆残業が当たり前。自宅でも皆仕事をする。私も授業の準備のため、よく机にうつ伏せになったまま朝まで寝ていた。ヨーロッパ企業のD社では「ワークバランス」を標榜しており、残業は好まれない。どれが良くてどれが悪いかは、その人のポジションによっても違うので一概には言えない。

面白いのは、この中でつらかったと感じる原因が、単純に仕事量の多さではなかったことだ。自分のしている仕事が活かされていることが見える時は、自分の仕事が全体の中でどれほどに小さくてもやりがいを感じる。逆に先が見えなかったり、仕事の意味が見えなかったりすると疲れもひどく感じる。

日本語教師をしていた時は睡眠時間が3時間くらいしかない時が度々あったが、「新人教師はこんなものだろう」と、あまりつらく感じなかった。周囲の教師も指導法や文法などで行き詰まると互いに相談や議論をして元気が良かった。もちろん生徒がおしゃべりをして授業をまったく聞かない時と、先輩であるベテラン教師に「授業の準備があるから布団に入って寝たことなんてないわよ」と言われた時は疲れが雪崩のように押し寄せてきたが。(これを読んで思い当たる節のある元日本語学校の生徒は大いに反省して下さい)

D社は「ワークバランス」を掲げており、自分の裁量に任されていて大変良かったが、現状に危機感を持つ「ローカルスタッフ=日本人」がいつも残業する結果になってしまう。ある時、一緒に仕事をしていたある人(ヨーロッパ出身)による仕事の押し付けが激しく、残業の日が続いた。多少の皮肉も込めて、「昨日は会社に泊り込んで仕事をした」と話したらヨーロッパの人の反応は私の予想をはるかに超えるものだった。「これは大問題だ!」「まあ何てこと!」「日本の悪い習慣がここにまで!だから日本企業は駄目なのよ」「いいえ、あなたがこうした事を問題にしたくないのはわかるけれど、これはみんなで解決すべき問題です。さっそく会議にかけなければ」と大騒ぎになった。

「そんなに残業を問題視するなら、自分の仕事をきちんとやってよね。私も好きで残業しているわけでもないし」と思いつつも、問題にしたくない旨を伝えた。しかしその場にいた“親切な人”が「日本人の上司にだから彼女は言えないに違いない。自分の上司(イギリス人)から彼女の上司に言ってもらおう」と勝手に判断し、その通りに行動した。

数日後、私の上司から「事実確認」の電話が入り、そして何事もなく終わった。仕事量が減ったわけでも、残業禁止令が出たわけでもない。もちろん仕事の押し付けがなくなったわけでもなかった。

仕事量はともかく、この件では国による考え方と表現の違いを示す一つ面白いエピソードがあった。「会社に泊まりこんだ」ことを話した時、その“親切な人”は休みを取らせようとして「あなたがいなくても会社は動きます」と言った。大変微妙な響きのあるコメントで、たぶん日本人にとっては「あなたの存在は大したものではない。あなたは会社の歯車に過ぎません」と聞こえる可能性もある表現。もちろんその人が大変良い人で、親切心から「休みを取りなさい」と言ってくれたことを知っていたので、誤解はしなかったが、もし信頼関係ができる前に今の言葉を聞いたら、きっと会社の屋上に上って「私は会社の歯車なの~~~~~!?死んでやる〜〜〜」と絶叫していたに違いない。その後「『あなたがいなくても会社は動きます』と言われたらどう思う?」と周囲の日本人に聞いたら次のような答えが返ってきた。
「・・・(しばらく沈黙の後)きついですね」
「そんな事言われたら、言ってる奴の首を絞めてやる」

こうした数々の出来事を経験して今日がある。この原稿を書いている間に現在勤めている会社の社長と上司から呼ばれ、残業についての話し合いがあった。何が問題なのか、仕事量を減らすために会社ができることはないのかを話し合った。大変前向きな話でほっとしている。だからといって仕事量がずっと楽なままではないだろうが。こうして私のライフ・ワーク・バランスを考える日々はまだまだ続く。

皆さんの国の残業事情はどうですか?

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<太田美行☆おおた・みゆき>
1973年東京都出身。中央大学大学院 総合政策研究科修士課程修了。シンクタンク、日本語教育、流通業を経て現在都内にある経営・事業戦略コンサルティング会社に勤務。著作に「多文化社会に向けたハードとソフトの動き」桂木隆夫(編)『ことばと共生』第8章(三元社)2003年。



葉 文昌 「台湾版クールビズ」 Posted 2007.12.19 by imanishi
(SGRAエッセイ#101)

インドネシアのバリ島で開催されているCOP13(国連気候変動枠組み条約第13回締約国会議)で、日本は地球温暖化防止交渉にマイナスな発言をしたとして「化石賞」をもらったりして苦戦している。しかし、僕から見ると、日本では地球温暖化の軽減策として、社会が一丸となってCO2排出量低減に取り組んでいるように思える。一昨年来政府が音頭をとって世間を賑やかにしたクールビズがそうである。夏の間、オフィスで上着とネクタイを未着用として、エアコンの温度設定を高めの28℃に設定するということだ。ちなみに、冬の間は、もう一枚多く着て、設定温度を低めの20℃に設定するウォームビズが提唱されている。

台湾ではもともとビジネスの場で滅多にネクタイを着用しないのであるが、日本のクールビズのお陰で台湾人はルーズな格好に大義名分を得たようだ。例えばである。去年夏、政府主催の太陽電池フォーラムでの出来事だ。その席で官僚が挨拶した。「日本は地球温暖化対策としてネクタイ未着用としている。だから私も率先してノーネクタイにした」と自慢げに言っていた。台湾では学歴とは無関係にいろいろな人からこのような発言が聞かされるものなのだが、これにはいつも怒りを覚える。なぜならば台湾の公の場ならどこでもエアコン温度は気持ちよく涼しい。誰も28℃設定を口にしない。僕は決して環境にやさしい人間ではないのだが、しかし社会の上から下まで安易に「ノーネクタイ=環境にやさしい、だからノーネクタイ」と、考えていることにもどかしさを感じる。権利(=ノーネクタイ)あれば義務(=エアコンの温度設定は高め)が伴う。角度を変えて言えばギブアンドテークなのである。しかし、台湾でそうならないのは、教育全体が思考より記憶重視であるために目先の権利や利益しか見えなくなってしまうからなのかも知れない。

台湾でもエコロジーの機運はあり、リサイクルも一応まじめにやっている。しかしやり方がどこかアンバランスで本気でエコロジーしたいのかわからない。大学でPC節電の宣伝を聞いたことはないし、学生も進んでPC節電はしない。若い人さえ短距離の移動もバイクか車を使う。政治家は政治家で、環境保全へのアピールをさせれば、「台北市はエコロジーの見地から、ゴミ回収車は廃サラダ油使用車に買い換えました」である(冒頭の官僚)。金を使えばエコロジーができると考えているようで自己要求はなにもない。その一方で台北市のバイクは相変わらず排気を都市中に充満させている。学生も学生だ。反化学工場建設、反核運動の急先鋒に立つ学生はいるが(その前にスクーターを自主規制しろといいたいが…)、大抵は偽の運動家で社会人になった途端でかい外車を乗り回すようになる。上から下までなにもかもが贋物なので、台湾のエコロジー志向がどこまで本物かも疑問に思ってしまう。

この点、東京の人たちは偉い。どこかがハイブリッドカーを開発しただの、太陽電池出荷量世界一だの、のことではない。若い女性も長い距離を歩く、電車を使う、アイドリングはできる限りしない(台湾ではこの考えすらまだない)、エアコンの高い温度設定にも我慢できる。豊か(台湾との比較)でありながらこのようにたくさんの自己要求ができるから偉いと思うのである。

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<葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchuang>
SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2000年に東京工業大学工学より博士号を取得。現在は国立台湾科技大学電子工学科の助理教授で、薄膜半導体デバイスについて研究をしている。
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オリガ・ホメンコ「小柄なマリーナおばあさん」 Posted 2007.12.15 by imanishi
(SGRAエッセイ#100)

【人物で描くウクライナの歴史C】

彼女は今83歳なのに、60歳にしか見えない、口紅をつけずに外出することのない女性である。彼女の毎日は必ず体操から始まる。そして親戚の若い子にとっても、とてもリベラルな考え方を持っている。道で他人が振り向くような変わった服を着ていたとしても、それを見た親戚が下の唇を上にあげて不満を示しても、彼女は肩を振って「まだ若いから人生を楽しんでもいいじゃない」と微笑みながら言うだけ。

彼女は20歳も年上の人と結婚していた。彼は彼女に夢中で、彼女をとても甘やかしていた。きれいな洋服を買ってあげたり、クリミアやソチの保養地に連れて行ったりした。彼女には重い荷物を一切持たせなかった。彼、旦那のリョーニャは、彼女のためにそこに居たのだった。子供が生めないと分かった時にも、彼は静かに彼女の手を握って「マリーナ、もういいよ。自分を苦しめないで。そのままでいい。僕たちは二人で十分楽しく生きていける・・」と言ってくれた。

時がたって、彼女は姑の葬儀、それから従兄弟の葬儀、そして彼の葬儀に立ち合った。彼女はとても強かった。他の人が同じ状況に陥ったらパニックになったかもしれないが、彼女はとても冷静だった。「皆、いつかは亡くなるのだから、仕方ない。天寿を祝って喜べるだけ喜ぶべき」と語り続けた。周囲の人から、「わがまま」と思われることも少なくなかった。彼女は今83歳で、毎日が体操から始まり、微笑みながら仕事に出かけ、大学の寮で受付の仕事をしている。

私は、そんなマリーナを見て、「こんなに粘り強い秘密は何だろう」と考えつづけていた。80歳を超えてもどこからこんな元気をもらえるのか疑問に思っていた。遺伝子?それともただ偶然の一致?

だがある時分かった。急に全部分かった。

1944年、再び赤軍(ロシア軍)が村に戻ってきたとき、彼女の両親は赤軍に殺された。彼女の目の前で。二人とも。マリーナの家の墓に行った時、ご両親が亡くなった日にちが同じなので、「ロメオとジュリエレトみたいに同じ日に亡くなった。きっとすごく好きだったに違いない」と思った。だがその「亡くなった日」が戦争中の1944年だったのでちょっと不思議に思った。それで、聞いてみたら、彼女は教えてくれた。彼女がそれを見た日から10年が過ぎていた。10年前は、まだいろいろ「話せない時代」だったので、その時に大人が黙っていたことはおかしくない。彼女の父親はドイツ語ができたので、占領軍(ドイツ軍)の事務所で秘書として働いていた。そこへ再び赤軍が来たから家族全員が殺されたのだった。小柄なマリーナはまだ子供だったので、隠れていたから助かった。隠れていた所から家族の遺体が墓に運ばれるところも見ていた。見つからないように、声をださないで泣いた。そして、その後、自分の家族のことを一切話さなかった。家族のことを聞かれたら「みんな戦争で亡くなった」と言っていた。その頃は、戦争で亡くなった人が多かったから疑われなかった。話せないことが多いから、代わりに微笑んでいった。なんとか生き延びる必要があったからだ。それで微笑んでいた。

そして20歳の時に恋に落ちた。大好きなアレクセイの父親は村長で、とても尊敬されていた。しかし、彼女との結婚は「好ましくない」と考え反対した。だが若者は怖いものなしだから、隠れて結婚式をしてしまった。市役所でもらった結婚登録書は父親の怒りから守ってくれると思い込んでいた。父親はとても怒っていたが、アレクセイはマリーナを愛していたので気にしなかった。だが父親は、その結婚をどうしても取り消そうと思い、「あるところ」に無名の手紙を出した。そこの反応はとても早かった。数日後、マリーナさんを連れて行く車が来た。戦後の厳しいスターリン時代だった。その車はマリーナをもっとも遠くに運べる汽車の駅に連れて行った。マリーナはとても若く、旦那のアレクセイを大好きだったので、夜警察官が寝ている時に走っている汽車から飛び降りた。そして、一週間歩いて家にたどりついた。だが振り返ってみれば、家に戻ったのは間違いだった。そこには再び通報する人間がいたからだ。だけど、彼女はアレクセイを大好きだったし、彼以外彼女を守ってくれる人はいなかったし、結局、彼女には他に帰るところがなかった。

村に戻ったマリーナは、アレクセイは親戚がいる西部にむりやり送られたと聞いた。少し「頭を冷やす」ために。家には誰もいなかった。彼女の父親のことが知られたら、彼女は戻ってくることができないと、彼は思ったに違いない・・・

それで家には誰もいなかった。彼女は普段の生活に戻り、家の掃除をするために井戸から水を運び、その水を家の前に高く伸びた赤い朝顔にあげていた。監視員に見られたのか、誰かが通報したのか、今はもう分からないが、再び黒い車が迎えに来た・・・今度は、もっと遠く、一ヶ月走ってもたどりつかない場所へ送られた。絶対に逃げられないように。炭鉱でとてもきつい肉体労働をした。あの時に逃げださなければ、もっと普通の仕事ができて体を壊すこともなかったのに、と自分自身に文句を言い続けていた。だけど、彼女は粘り強かったので、口や目を閉じてまじめに働き続けていた。それで数年後、そこから出ることができた。もう村には帰らなかった。そこはもう「帰るところ」ではなかったからだ。首都に行った。そこで20歳も年上の彼と知り合って結婚した。彼は彼女の「過去」について知っていたけれど、一度も非難しなかった。彼女をとても尊敬していた。彼らは25年間も一緒だった。あの炭鉱の仕事のせいで子供は生まれなかったけれど。

リョーニャが亡くなった数年後、彼女がこの首都の真ん中のアパートで一人暮らしの生活になれた頃、一通の手紙が届いた。封筒に西部の小さな町の名前が載っていた。なにか不思議な予感がした。胸で何か重いものが切れて落ちた感じがした。封筒をあけたら知っている字が見えた。アレクセイからの手紙だった。アレクセイはいろいろと謝罪して、「もう一度会ってください」と書いてきた。勇ましい小柄なマリーナは、この時、初めて泣いた。とても泣いた。あまり泣いたので、次の朝起きていつも通り体操しても元気が出なかった。そのとき初めて、もうほとんど忘れかけていたあの大好きな「最初の夫」のことについて話しだした。

しばらくして彼が会いにきた。大きくなっている二人の子どもやこの前亡くなった奥様のことを話した。だけど、マリーナのことを一生忘れられなかったと告白した。彼は、彼女のことをずっと思い出していた。他の人と結婚しても、子育てをしていても思い出していた。あの小さい村に戻って、もう知らない人が住んでいるあの家を訪ねた時も思い出していた。家の前は、もう高くて赤い朝顔ではなく、ほかの奥様が植えた低くて粘り強いマリーゴールドを眺めた時も思い出していた。

彼はまだ若くて無責任で彼女を守れなかったことに対して謝罪した。自分の父親から彼女を守れなかったことも含めて。西部に行かされて、若い女性に会って、また人生を最初から、新しいきれいな一枚の紙からはじめたことに対して謝罪した。その一枚の新しい紙に長く書き続けていたことに対しても謝罪した。子どもたちは成長し、妻を尊敬していたが愛がなかったようだ。心の中に針がささっているように、あの小柄なマリーナの思い出が生きていたようだ。自分が守れなかった小柄なマリーナ。自分の若さ、それとも心細さで守れなかったマリーナのこと。しかし、彼女は生き残って再婚して幸せになれた。アレクセイはこのことがうれしかった。そして、結局今再会できたのだから、残りの人生を一緒に生きられれば良いと思っている。破れたあの人生の紙一枚をのりで張り合わせるような感じだ。

マリーナさんは彼に夕食を作ってあげた。彼の話を黙って聞いていた。ただ微笑んでいただけ。それから彼に「来てくれてありがとう」と言った。だが人生は遠い昔にそれぞれの流れ方を決めた。彼らの人生の一ページは、違う本の中に綴じられてしまった。その本の内容が似ていても、ジャンルが違うので、本屋さんも違う階で売れている。長い間に、彼女は自分を自分で守れることを学んだ。勿論、その前にもできたのだけど、自信がなかった。いや、ただ自分の力を知らなかっただけかもしれない。

彼はさびしい顔で西部の家に帰っていった。彼はこの物語に違う「終わり」が期待できると思い込んでいた。

しばらくして、あの西部の町から再び郵便物が届いた。今回ははがきだった。住所は一緒だったが、名前だけ違っていた。彼の名字でマリーナという名前の女性が、父親が急に心臓発作で亡くなったことを知らせていた。小柄なマリーナは意識を失った。

マリーナが気づいた時、まだあのはがきを手にしていた。「そうか、彼にも痛みを感じる<心>があったんだ」としか考えられなかった。娘に彼女の名前をつけた。会ったときには言わなかったけど。だがマリーナは葬式に出なかった。自分の最初の夫のアレクセイは遠い昔に亡くしたのだから・・・違った書架に運ぶあの黒い車に彼女を手放したとき、彼は彼女を亡くしたかもしれない。彼女は彼を許したが、それは、この長い年月の間に、自分を評価し、自分の命を大事にしなければいけないことを学ばせられたからだ。

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オリガ・ホメンコ(Olga Khomenko)
「戦後の広告と女性アイデンテティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。キエフ国立大学地理学部で広告理論と実習の授業を担当。また、フリーの日本語通訳や翻訳、BBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍していたが、2006年11月より学術振興会研究員として来日。現在、早稲田大学で研究中。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。



奇 錦峰「中国の大学の現状(その4)」 Posted 2007.12.12 by imanishi
(SGRAエッセイ#99)

大学の教員のこともすこし言わせてもらおう。グローバル化している現在、中国全土的に大学教員が若くなり、しかも“博士化”している。数多くの優秀な方が海外或いは国内の名門大学を出て、あちこちの大学のポジションについている。だが、後者----“博士化”の中身をみると、恐らく多くの一般大学でそんなに正常ではない。博士号をもらう正常な道は、大学院の博士課程に入り、3〜4年間勉強して定められた単位をとり、学位論文を完成した後、厳しい審査を経てから学位をもらう。論文博士の場合はもっと長い時間がかかり、論文審査は更に厳しい。しかし、ここ数年間、数多くの一般大学が各自で自分の教員に博士号を“もたせている”。“在職学習”という博士養成方法が、知らないうちに中国で普及した。つまり大学の教員が自分の仕事をしながら(給料をもらいながら)暇な時間にちょこっと単位を集め、学生に自分の実験をやらせ、“学位論文”を完成して学位をもらっている。こんな博士たちは、厳しい競争を経て博士課程のトレーニングを受けた正真正銘の博士と大分違い、海外から帰国した博士とは比べ物にならないのが事実だ。しかし、こういう“特産品博士”たちはその人の学校の“人脈事情”に詳しいのでよく出世し、優遇される。更に一部の学科(たとえば、うちの大学みたいな伝統医学科とか)では、教員の大半が自分の巣から出たものばかりの場合もある。学問分野で“雑交優勢”を重んじている現在、“近親繁殖”をまだ続けていると笑われてしまう。

親は子どものために生きている、親は子どものためならば何でもしてあげる(子どものためなら無理も当然)という習慣は中国伝統文化の一つだというのをよく聞く。何といっても、“80後”世代を育成したのは彼らの親およびその時代と文化なのだ。責任はこの世代にはない!一昔前の中国では、多子多孫の伝統が“人口爆発”を引き起こした。では、今、子どもを甘やかし溺愛する習慣がどんな社会を作り出すのだろうか。中国大陸の親たちは、この新人類たちが生まれた理由が徐々にわかってきたらしい。しかし、残念ながらもう遅いではないだろうか。

最後に、インターネット上で見つけた“80後”の文章をご紹介しよう。

80年到85年出生的人的十大尴尬
(80年から85年に生まれた人の気まずい10点)

1. 辛辛苦苦小学六年,勤勤恳恳初中三年,废寝忘食高中三年,却ー上国家扩招,任他猫猫狗狗也都能混个大学文凭。

苦労した小学校の六年間、勤勉だった中学校の三年間、寝食を忘れて勉強した高校の三年間、しかし、国家が大学生を拡大募集する時代になって、今や猫も杓子も大学生だ。

2. 稀里糊涂大学混了四年,使尽浑身解数拿到英语四级证、计算机等级证、毕业证,却怎么也找不到如意的工作,有的连工作都找不到。

ぼんやり過ごした大学4年間だけど、一所懸命に頑張って、英語検定四級、コンピューター検定、そして卒業証書ももらったが、どうしても自分にあう仕事が見つからない。仕事が全く見つからない人もいる。

3. 千心(この字は間違っている、じつは“辛”です)万苦进了外商独资企业当白领,才发现原来中国现在遍地都是外企,500强有499家在中国有分号。

千辛万苦のあげく外資系の会社に採用され、ホワイトカラーになった後分かったのは、中国全土のどこにも外資系の会社があり、グローバル企業500社のうち、499社が中国に支店をもっている。

4. 福利分房早已成为昨日黄花,住房公积金少得可怜,又ー上无耻之徒遍地炒房,一年攒下来的钱才能买两三平方米住房。

福祉政策の部屋配りはもう大分前に終わってしまった。住宅公共積立金はかわいそうなほどの額。その上、恥を知らない奴らが住宅を転売した結果、1年間蓄えたお金では住宅の2〜3平米ほどしか買えない。

5. 小时侯教育要做个诚实的孩子,中学大学又普及诚信教育,工作后又不得不说假话,拿假文凭,在假发票上签字。

子供の時には誠実な人になれと教えられた。中学校と大学でもまた「信用が大事」という教育を受けた。しかし就職してからは嘘をつかざるを得なくなった。偽の卒業証書を作ってもらったり、偽の領収書にサインしたり。

6. 他们说计划经济的教育已经跟不上时代,要普及素质教育,结果我们什么都得学,什么都要摸到皮毛却连皮毛都不知道。

計画経済の教育は時代遅れと批判され、素質教育の普及が提唱され始めたために、この世代はいろんな学問を学ばなければならなくなってしまったが、結局何もよく分からない。

7. 电子信息产业高速发展,网上信息如潮涌,不论是垃圾还是精华都让人疲惫不堪,没有手机和电脑人家会觉得你生于60年代。

IT産業が急速に発展し、ネット上の情報が洪水のように殺到する。有用無用の情報が人々を疲れさせるが、携帯電話やコピューターのない人は60年代生まれと見なされる。

8. 从小学完雷锋学赖宁,接着学习李素丽,现在学习杨利伟,表面文章做足了接着自私自利。

小学校時代は雷鋒と頼寧の模範を学ばされ、続いて李素麗の模範を、現在は楊立偉から学ばされている。「表」のことは十分やったが、実は全部エゴイズム。(個人名は1960年代から今までの各時期の中国の英雄)

9. 闯荡社会若干年后发现一事无成一钱未赚一权未谋,逼不得已重新拾起书本,泡在冲刺、精华、宝典的密题中,希望混个更高一点的文凭出来好混日子。

社会にでてから数年後、突然何もできなかったことに気づいた。一銭も儲けていない!少しも出世していない!仕方がないから、良い仕事を探すために、新たに大学時代の教科書を集め、修士課程の試験問題集に没頭する。

10. 美好的生活属于谁呢?二十年前:“属于八十年代的新一辈”;十五年前:“太阳是我们的”;十年前:“让我们期待明天会更好!”;八年前:“不经历风雨,怎能见彩虹”;现在:“我闭上眼睛就成天K”。

誰が豊かな人生を送れるのか?二十年前には“1980年代生まれは新世代だ” と言われた。十五年前には“私たちの人生は豊かだ” と、十年前には“私たちの明日はもっと美しくなる” と、八年前には、“辛い努力をしなければ、いい結果は得られない” と。今、僕が“目を閉じると、真っ暗だ。”

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<奇 錦峰(キ・キンホウ) ☆ Qi Jinfeng>
内モンゴル出身。2002年東京医科歯科大学より医学博士号を取得。専門は現代薬理学、現在は中国広州中医薬大学の薬理学教授。SGRA研究員。
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奇 錦峰「中国の大学の現状(その3:学生の質A)」 Posted 2007.12.7 by imanishi
(SGRAエッセイ#98)

三番目の特徴は怠け者。“80後”たちは、子どもに家事をさせない家庭で育てられたものが圧倒的に多いから、怠け者になってしまうのは当然だ。大学に入って寮生活をするまで靴下を洗ったこともない人がいっぱいいるそうだ。大学の集団生活(ある意味では独立した生活)を送らなければならなくなったときから、洗濯ぐらいはするはずだろうが、今の学生は全てをコインランドリーに頼る人が多いそうだ。

広州の大学城では恐らく8割の人が朝寝坊である。土日はもちろん、平日も! ぎりぎりの時間に起きて、朝食を持って、自転車(宿舎から教室までせいぜい500mなのに、学生の6割が持っている)で飛ぶようなスピードを出して、始業ベルの鳴る前後に教室に入り、一日の勉強は朝食を始めるのと同時にスタート!教師たちにとっては、まるで台所で講義を始める感じだ(プ〜ンと美味しい香りがどんどん飛んでくる)。涼しい季節なら、窓を開けて新鮮な空気をいれればいいが、夏は辛いよ!(広州では年間約5ヶ月間はクーラーが必要)----窓を閉じているから、教室の中は10時ぐらいから変な臭いで一杯----先ずは口臭(朝食後口をすすがないから)、それに、汗、足……。信じられないでしょう?今の大学のクラスは平均100人、多い場合は200人、どんなに少なくても50人だよ。では、「なぜ注意して止めさせないの?」と思う方もいらっしゃると思う。それは少数の行動ではなくて、半分以上の人がこうしているからです。しかも注意してもほとんど聞いてくれない!だが僕は我慢づよい。毎年、最初と二回目の講義の時、食事する人、遅刻する人に警告する。三回目には追い出すのだ---食事する人は、どうぞ外でごゆっくり!始業のベルが鳴ったらドアをロックしてしまう------これが講義中の飲食、遅刻を止めさせる僕の戦術だ。

台湾の柏楊氏が書いた有名な『醜い中国人』という本によれば、中国人が外国人に嫌われる悪いところは、「汚い、混乱、うるさい」という三点だそうだが、今の“80後”たちは更に上回ると思う。教室、食堂……学生のいるところはうるさくてたまらない。また想像してみてください。教室の中の数百人の学生や、食堂の中の数千人の学生が騒いでいる様子を!

次に、学問の習得について言わせてもらう。学生の本業は勉強だ。しかし“80後”たちの中には、勉強をさぼっている人が少なくないようだ。これは判断上の間違いかもしれない。というのは、前回すでに述べたように、中国の大学は1990年の後半から毎年募集する学生数を増やしているから、勉強しない人が大学でも増えるのは当然である。日本の言い方で“猫も杓子も大学生”という時代になってしまったのだ。勉強するということ自体は、それほど難しいことではないかもしれないが、誰でも好き、誰でも我慢できるというものでもない。さぼる人のほうが多くなると、本当の努力家が埋もれてしまうので、前に述べたような“判断ミス”が出てしまう恐れが大きい。(そうだったら努力家のみなさんには御免なさい)。

コンピューターが普及したためでもあるが、字もよく書けない人がいっぱいいる。半分以上の学生がローンをして勉強しに来ているのに、遊びが多すぎて必要な単位をとれなくて落第することも少なくない。もっとも、真面目に勉強しても卒業後の仕事が見つからないから、今現在の人生を楽しんだほうがマシだと思う人も少なくないようだ。1990年代の大学生と比べ、今は授業中にノートをとる学生が少ない。なぜノートをとらないのか聞いたら、「多分、教科書に全部あるだろう」と答えるのだ。「ないよ」と言ったら、「もう覚えたよ」と……。こんな馬鹿なことにはもう数え切れないほどぶつかっている。本当に冷たくて、何にも無関心、ぼうっとしているやつもけっこういる。

学生の質が落ちたもう一つの原因は、学生数が爆発的に増えているから、以前のように教師が一人一人学生の面倒をみることが今や不可能になってしまったことだ。さらに、今の教師の責任感は、一世代前の教師たちと比べると落ちている(すでに述べたように今は社会全体のモラルが滅びてしまった時代だ)。勿論、勤勉な学生だって多いのだが、こういう努力家は学問的には問題ないようだが性格が弱い。これは前に述べたように、両親と4人の祖父母からの溺愛の世界で育ってきたからで、例えば、人と付き合いにくい、団体行動がとれない……。

以上は人類社会が21世紀の間、たくさん苦労して歩んできた今の時代に、中国大陸でしか見られない現象だと思う。よその国の新人類も親の世代と合わないということは、もちろん沢山あるだろうけど、中国の“80後”ほどではないと僕は確信する。つい最近、11月末の中国広東省の地方紙(<南方日報>、<広州日報>等)には、指名手配の犯人が百名(本当に丁度この数字なのか?)があった!!!新聞に写真付きの“指名手配令”を載せるということは、僕にとっては初めて経験したことだ。しかも、ほとんどが“80後”だった!広東省(省というのは中国の一級行政地区で31個ある)という狭い範囲なのに、逃げている犯人がこれほどいるということだから、刑務所はどれほど犯人で一杯か想像できますか?

今の中国の大学生が全部、上述したような駄目なやつばかりというのは言い過ぎかもしれないけど、真面目な人が段々減っているのは事実だ。“大学(本科)の「名誉」(証書)、専科の「レベル」、専門学校の「能力」、中学校の「考え方」、小学校の「性格」”という言い方が一時はやっていたことを思い出すと、一体“80後”世代のどこが我々と我々以前の世代と共通なのか、僕はいつも迷ってしまうし、またこの世代がこの国をどのようにしていくのかひどく心配してしまう。だが、海外へ留学している若者たちの大半は本当に人間らしい正常な教育(人徳と知識)を受けて育てられていると僕は期待している。
(つづく)

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<奇 錦峰(キ・キンホウ) ☆ Qi Jinfeng>
内モンゴル出身。2002年東京医科歯科大学より医学博士号を取得。専門は現代薬理学、現在は中国広州中医薬大学の薬理学教授。SGRA研究員。



奇 錦峰「中国の大学の現状(その2:学生の質@)」 Posted 2007.12.5 by imanishi
(SGRAエッセイ#97)

前回、近年の中国の大学生数の爆発的な増加を紹介した。今回は、現在の1623万人の在校生を含めた近年の大学生及び卒業生の基本的な「質」について言わせてもらう。この世代は、1980年に中央政府が産児制限---つまり“ワンカップルが一人の子供を生む”という政策---いわゆる「一人っ子政策」を実行してから生まれた。そこで、中国では、この世代を“80後”(バーシーホウ)と通称している。人間を評価するには、どこでも、まずその人の基本的な「質」、つまり人柄と能力から始めるだろう。それでは、この非常に特殊な“80後”世代の人柄や学問習得能力はいかがだろうか。

“80後”たちは、生まれたその瞬間から、二人の両親と四人の祖父ちゃんと祖母ちゃんに注目され、愛されて育てられた貴重な“後人”である。赤ちゃんから、幼稚園、小学校、中学校、高校それから大学までず〜っと愛ばかり---もしくは過剰な愛(溺愛)をいただきながら人生を渡ってきた人たちである。愛を余分にもらうのはその人の好運だろうけれど、こんな環境で育った“80後”が奇形に成長してしまうのは当たり前ではないだろうか。こういう連中は、親及び周りの人々から愛情溢れる世話をしてもらいながら大人になった為、世の中には“他人がいる” “他もある”という常識は全然知らないようなのだ!エゴイズム、我がまま、怠け物、冷たい、厭人癖、善悪知らず---言わば信用できない人が多い。これは現在の中国の大学の在校生を含む大半の“80後”たちの人柄で、一般の人々が抱く彼らに対するイメージ、想像を遥かに超えてしまっているはずだ。

第一の特徴は、自己中心、我がまま、エゴイズム。“80後”世代の価値観、誇りと恥の感覚は、我々の世帯とは大分違う。自分の価値、自己実現などを強調する彼らの意識の中に“自分”以外誰もいない---他人は勿論、親のことも同じだ!ここで、たくさんの苦しい親たちのことを言わせてもらおう。中国の大学生は一つの特殊かつ重要な市場になっていると市場の分析者たちが言う。調査によると、この世代はIT等新技術の電子電化製品、化粧品、ファッション、特にブランド製品を買うのが癖になってしまっているそうで、間違いなくこの癖がこの連中たちの将来の消費習慣にも強く影響を与える。特に大学三年生や四年生になると化粧品及び服装品の消費が“噴水みたいに急に上がってくる”そうだ。この市場が2010年には3000万元になると推測されている。(2006年6月の<Asian Times>及び<Global Times>の調査による)。

中国のどの大学のまわりにも、いろんな店がずらっと並んでいて、1623万人の大学生が恐らく50万人の自営業者を養っているのではないだろうかと上述の分析者たちが言う。だがこのお金は自分で稼いだものではない。労働力が余っているから、中国の大学生はアルバイトをするチャンスはあまりない。つまりこのお金は親からもらうのだ。経済が遅れている地域の学生も、親が失業した(この国では「仕事場のポジションから降りてきた」と言う)家庭の子どもも、もちろん豊かな家庭の子どもも、できるだけ高級な消費財を使っている。パソコン、携帯電話、MP3 (或いはMP4)この三つが今の大学生の“日常必需品”になってしまったが、ごく“普通”のこれらの商品を買うのにも、一般の家庭収入の二ヶ月分は必要だ(これらを持っていない学生がいるかな?)。

ではこれらのものを何に活用していると思いますか?調査で分かったのは、パソコンは基本的にインターネット、MP3 、MP4 は音楽、映画、携帯電話は同じ建物の違う部屋からか、隣の建物からの連絡及びお喋り、恋人同士の終わらない愛……。忘れないで!中国大陸全土の大学はほとんど全寮制だよ!特に広州大学城の場合、各宿舎の各部屋(4人〜6人で共有)には内線電話が付いているのに!信じられますか?---遠い町或いは田舎で自分の為に苦しく辛い生活を送っている親には、電話をかけて挨拶をする人が少ない。電話をするとしても、お金が欲しいときだ!なんて酷いことだ。親の苦労(お金を稼ぐため)、悩み(子供の勉強のための借金)、ひいては健康状態(彼らの親たちは1960年ぐらいの生まれの人が多い---もう中壮年で健康に問題がでてくる)を気にする人は何人いるのか。子供のときから贅沢な生活を送ってきたから、物を大事にする、節約するということをまず知らない、日常用品は頻繁に新品に交換し、浪費は驚くほどだ。学生の話によると日常用品をちょっと長く使うと周りの人にあざ笑われるそうだ。何でも使い捨てぐらいにすればその人はクールだ!

第二の特徴は、礼儀正しく行動しないこと。全社会のモラルが滅びつつある現在、大学生の中でもルールを守ることを大事にしない人がだんだん増えている。いつも好きなように行動する人は少数ではない。例えば、遅刻することを全然気にしない、授業中はものを食べたり、勝手に出入りしたりして、大学の教室なのにまるでレストランに出入りしているように自由自在だ。試験中のカンニング、それから性開放(時間単位の部屋---日本のラブホテルにあたる)ひいては同性愛もあるそうだ。“ネット時代”及び“グローバル化”の現在、中国の伝統文化に合わないエログロ、セックス(中国のYAHOOに「大学生、コンドーム」を入力して検索してごらん!)、株、商売など、昔の大学生の中では聞いたこともないことが、今の“80後”世代ではしょっちゅう見られることらしい。数年前から官庁の衛生部門が大学生たちにコンドームを無料で配っていること、コンドームの自動販売機をキャンパスのどこかに設置していることなどから、今の学生がどうなっているのか想像できるのではないだろうか。

もう一つ困った例を言わせてもらおう。広州の大学城は中国ではもちろん、恐らく世界でもナンバーワンの大学都市だと思う。珠江という川の中にある“小谷囲”という43.3平方キロの島に、大学10校、約40万人の大学生が勉強、研究および生活をしており、この10校の大学の教職員たちが市内の元のキャンパスにある職員寮からバス、地下鉄あるいは自家用車で通っている。大学城の中の道路は、20キロ離れている広州市の中心部と比べられないほど空いているけれど、2年前にオープンしてから交通事故が何回も発生し、車に轢かれた学生も数人あった。なぜだろう?“80後”たちが交通ルールを守らないからだ!大学城での交通事故は、100パーセント学生の責任。信号が赤なのに平気で歩くからだ。広州の大学城は楕円形の島で、全10校すべて、真ん中が生活エリアで、教室、研究室および実験室等はすべて周辺に位置している。授業が終わって、宿舎、食堂に行くのには必ず島の中の二本ある環状道路を横断するのだが、横断歩道橋と隋道(トンネル)があってもそれを利用する人は、ほ〜んとうに一人もいない!!!

想像してください!前回、授業の終了後の階段の様子を書いたけど、今度は万単位の大学生がワーと道路を横切る“景色”!警察も困って、学生たちの集団信号無視行動にギブアップして、最近ラッシュアワーには車両を外環の道路(これが島の一番端にあり、三本目の大通りだ)を利用するよう交通制限を始めた。交通ルールを守らないのは中国でごく普通に見えることだが、21世紀の大学生なのに親の時代と同様に交通信号を無視するというのは、自分の身分に合わない“時代遅れ”の行動なのではないだろうか?
(つづく)
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<奇 錦峰(キ・キンホウ) ☆ Qi Jinfeng>
内モンゴル出身。2002年東京医科歯科大学より医学博士号を取得。専門は現代薬理学、現在は中国広州中医薬大学の薬理学教授。SGRA研究員。



奇 錦峰「中国の大学の現状(その1:学生数)」 Posted 2007.11.30 by imanishi
(SGRAエッセイ#96)

1990年代から毎年、中国の経済は奇蹟の成長率を記録し、さまざまな分野で急速な発展を遂げたことは世界中に知られている。然し、経済の発展とは対照的に、人口が増えた“繁栄”の辛さも徐々に解ってきた。どこへ行っても人で溢れていて、静かなところが見つけられない。中国に住んでいる中国人でさえも40歳以上のかたは、学校で仕事をしていなければ、膨張している学校の現状を恐らくご存知ないだろうが、外国人はもちろん、海外へいっている中国人にも全く想像できないと思う。
 
どのレベルにおいても、中国の“学校”というところへ行ってみれば、“溢れる”という言葉の意味を真に理解できる!この30年間、学校(特に大学及び専門学校)の数はあまり増えなかったが、既存の学校で募集する学生の人数は大幅に増えた。1980年以前と比べると、全国平均で二桁の倍数に達しているという中国教育部の統計がある。私の勤めている広州中医薬大学を例にしてみょう。 
 
私の大学では、10年ぐらい前までは在校生が1500人ぐらいで、年に200人ぐらいの卒業生があったといわれている。だが、2006年の卒業生は970名、2007年の今年は1456名、更に近い将来の卒業生数の予測は、2008年に2400人、2009年には3200人であると、少し前の大学公報で公開された。今現在の在校生は3万人以上で、昔の20倍!(うちは単科大学なんですよ!欧米の言い方でいうとCollege!)。毎年これほどの卒業生が出るということは、4〜6年前からこの数の新入生が入ってきていると理解して間違いないだろう。教育を担当している我々はたいへんだよ!例えば私の学部では、10年前と比べると学生数が約20倍増えたが、スタッフは僅か1.2倍ぐらい増えただけだと先輩たちがいう。昔40人だったクラスが、今は多い場合には200人まで膨張し、学科も1種類から5種類まで増加した。私は卒業してからずっと大学で教えているが、前の大学ではせいぜい週3回、6〜8時間の講義をしていた。しかし、今は毎日講義のために走りまわっていて、週20時間ぐらい講義をしている。現在の中国の大学の教員は小中高校の教師みたいに、授業に追い回されている人が大勢いると言われている。
 
なぜ大学生がこんなに多くなったのか?高、中、小学生が多くなったからだ!もちろん政府が十数年前に大学教育を“エリート教育から大衆教育”に変えたのも原因の一つだろう。中国教育部の報告によれば、2007年に全国の大学受験生は初めて1000万人を超え、1010万人になった。入学率は56%で、567万人の新入生が入学する。現在、在校生数は1623万人に達し、全世界で1.1億の大学生の約15%を占めているといわれている。ちなみに小、中、高校の現状も少し言わせてもらうと、学校の数はもちろん大学と比べられないほど多くなっているけど、それでも在校生の数は驚くほどだ-----例えば昔1クラス40人の教室は、今や最低60人、ひどい場合は80人もいると聞いたことがある。同じ学年のクラス数が3〜4倍まで増えているのは“普通”だ。学校が終わった後の教室棟の階段の様子を想像できますか?遊びたくてわくわくした顔でぎっしり!数年前、満杯の学生がいた階段が潰れるという事故が発生し、生徒が踏まれて死亡した。この悲惨な事故報道は何回も繰り返されていたから、教育者たちの頭の中にはまだ残っているだろう。
 
次に大学を卒業して社会に入る進路-----就職状況をみてみよう。近年、毎年800万人以上の大学卒業生が社会に入っているが、就職率は80%未満だそうだ。公式に発表された情報によれば、全国で毎年2000万人の雇用が準備されると予測されている。しかし、これから急増する大卒業者が含まれる“就労大軍”ははるかにこの数を超える。現在、既に約10%の大卒者が、辛い選抜試験を経て修士課程に進学しているが、その中の半数は、就職が難しいから仕方なく選んでいるそうだ。今年の受験生の56%は大学の卒業生だが、残りは“社会人”(主に大学を出てまだ就職できていない人、日本のフリーターにあたる?)らしい。勿論、修士のほうが学士より就職しやすいという事実も、大学院の受験生が増えた原因の一つである。
 
大学生の募集数が年々増えているが、大学院生(中国では研究生という)の募集数は近年あまり増えていないそうだ。その主な原因として、大学の修士、博士の教育資源に制限があり、大衆教育までは到底無理だからといわれている。それに去年から修士課程の“免試”制度(優秀な大学卒業生が学校の推薦で選抜試験に参加せず修士課程に直接入学する制度)ができたから、今や大学の受験より大学院の受験のほうの競争がもっと激しくなっている。中国教育部の発表によれば、2007年に全国大学院の受験生数は前年の2006年よりやや多い(7000人増)128.2万人で、進学率は約30%だそうだ。過去数年間の全国大学院受験生の数字を見ると、2001年は46万人だが、2005年は117万人となり、5年間で倍増している。年平均増加率は22%である。
 
ところで、過去10年間の世界の大学生数であるが、“グローバル大学改革ウェブ”というところの報告によると6860万人から1.1億人になっているらしい。60%の増加である。この中、発展途上国が2930万人から5830万人とほぼ100%増加しており、先進国は3080万人から4030万人と30%の増加となっている。1960年に全世界の大学生の数はたったの1300万人だったのだが、今はその8.5倍である。
  
中国の1623万人の大学生の質はどうかということに興味のあるかたは多いと思う。それは次回のお楽しみに。

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<奇 錦峰(キ・キンホウ) ☆ Qi Jinfeng>
内モンゴル出身。2002年東京医科歯科大学より医学博士号を取得。専門は現代薬理学、現在は中国広州中医薬大学の薬理学教授。SGRA研究員。



孫 軍悦「一期一会」 Posted 2007.11.20 by imanishi
(SGRAエッセイ#95)

江戸時代から関東と越後を結ぶ三国街道、現在の国道17号沿いに湯宿温泉という、開湯1200年の温泉地がある。現在八軒の温泉宿と四軒の共同浴場、それから100メートルあるかないかの散歩道が整備されている。そのなか、若山牧水などの文人墨客も多く泊まっていたのは、1867年に開業した金田屋旅館である。細心の注意を払わないとつい通りすぎてしまうほどの、文字通りの国道沿いの温泉宿である。
 
この温泉宿に二度ほど訪れたことがあり、二度とも不思議な出会いがあった。

一回目に宿に到着すると、ちょうど玄関の上の部屋に通された。コタツが真ん中にすえてある8畳の明るい部屋だった。内側に面した窓からロビーで火鉢を囲みながらくつろいでいる温泉客や、てきぱき夕餉の準備をしている宿のご主人の姿を見下ろすことができる。「古き陶器の如し」と牧水が喩えた冬の三国路は、夜が更けるのが早い。山の幸がふんだんに使われた夕食を済ませ、温泉に浸かって身体を暖めた宿泊客も各々の部屋へ戻っていった。おかみさんが湯上りのお客さんのために用意した冷水筒に最後の氷水を足し、電気を消していった。外は相変わらず車の往来で騒々しいが、宿のなかは早くも静まり返った。窓際でコタツに足を突っ込みながらそれを見届けた私は百般無聊のなか、ふと階段の曲がり角に小さな書箱があることを思い出した。せっかく温泉宿に来ているのだから、温泉についての本でも読もうと思って選んだ一冊は、『つげ義春の温泉』だった。

本には昭和40、50年代の温泉地の写真やイラストと、つげ義春の漫画とエッセイが収録されている。まず驚いたのは、写真にみすぼらしい殺風景な温泉地ばかりが写されていることだ。まるで大地震でも起きたかのように、屋根の歪んでいる隙間だらけのバラ屋が軒を連ねている。後で分かったことだが、それはつげ義春の好みらしい。現に彼はそう書いている。「私の温泉離れも、みすぼらしい景観が少なくなったのが原因といえるかもしれない」。かといって、つげ義春も、常識はずれの物好きではなさそうだ。「黒湯・泥湯」というエッセイのなかで、彼はこう書いている。「湯ノ神温泉は温泉案内書でもめったに紹介されることはないので、俗化していない掘り出し物かもしれぬ期待もあったが、田園の中に三棟の宿舎がかたまってあるだけの、景色は平坦で平凡でまったくつまらぬ所だった。昔の木造の校舎のような湯治部屋を覗いてみると、何かの収容所のように、足の踏み場もないほど布団が敷かれ、お婆さんばかりがゴロ寝をしていた。姥捨ての光景を見るようで、とても泊まる気になれない」。やはり人の趣味は、自分が思うほど自分によって決められるものではなく、時代と境遇のほうにはるかに影響されているようだ。

漫画も驚いたものだ。白魚のようにするりと湯船に滑り込む少女や、あけすけに股を開いて髪の毛を洗う婦人や、魂の抜けた幽霊のような爺さんが描かれている。一度見たら忘れられないが、どんな物語だったかさっぱり忘れてしまう漫画だった。それもあとで分かったことだが、エロチシズムも、筋らしい筋がないのも、つげ漫画の特徴である。ただ一つ、覚えているどころか気になってしょうがないストーリーがある。『蒸発旅日記』というもう一冊の随想集に収録されたエッセイである。蒸発したい主人公が、面識もなく、ただ自分の漫画のファンである看護婦のいる九州へ向かう話だ。残念なのは、最後まで読むことができなくて、結末が分からずじまいだった。家に戻っても気になってしょうがなかった。それで仕方なくもう一度金田屋旅館へ行くことにした。

二回目に通されたのは、廊下の奥にある薄暗く湿っぽい六畳間だった。いくらつげ義春目当てであっても少しはがっかりした。とりあえず、書箱においてあるつげ義春の本を確保して、温泉に入ってからゆっくり読もうと思った。温泉は源泉かけ流しの小さな内湯である。湯船に浸かりながらぼおっとしていると、隣の60代ぐらいの女性が話しかけてきた。彼女は群馬県内で宿舎を営んでいる。主に某大学の学生たちに部屋を貸しているが、そのマナーの悪さにずいぶん頭を悩ましたそうだ。このごろ新聞でも、「マンションに外国人が引っ越してきてからごみの分別ができていない」と、当たり前のように書くのだから、彼女の話を私はむしろ一種の快さを感じながら聞いていた。長年学生宿舎に住んでいた経験からもごみの分別は決して「外国人」だけの問題ではないことがよくわかっているが、「日本人だって」という反論は、私にとって決して口に出してはいけない言葉である。どんな状況でもやはり「それを言っちゃおしまいよ」という言葉がある。それが彼女(正確に言えば、日本人の彼女)の口から批判が出てきたのは、正直に言ってやはりスカッとした気分であった。

それから、彼女は私にどこから来たのかと聞いた。その質問に私はいつも戸惑いを感じる。というのは、一体相手が、私の日本語から外国人だと察して私の国籍を聞いているのか、それとも、普通の日本人と同様に私の出身地を聞いているのか、あるいはただ旅人同士の会話らしく、単に常住地を聞いているのか、なかなか判断がつかないからだ。仕方なく、私は、自分が東京からやってきた中国人留学生だと答えた。すると、彼女は突然相談事を持ちかけた。話によると、このごろ40歳の長男が中国人の彼女と同棲していて、その彼女は服装が派手で、この頃高級車に乗っているようで、どうも信用できないという話だ。テレビなどでもよく外国人妻の犯罪を報じているのだから、息子には、通帳や現金をちゃんと保管して用心しなさいと注意したが、息子は彼女のことが好きで、国籍は関係ないと言っている。信用はできないが、40歳を超えてようやくできた彼女だから、分かれさせたらいつ結婚できるか分からない。中国は遠いから、こっそりとたずねて相手の家柄を調査するすべもない。でも、このまま同棲するのも相手の親には申し訳ない気持ちがある。家族に話したら余計なお世話だと取り合ってくれない。お隣さんには絶対話してはならない。ついこの間、近所のおじさんが、フィリピン人の嫁の妹が家の金を盗んだと漏らして、町の笑われ者になったのだ。ひとりで悶々としているが、どうしたらいいかわからない。そこで、行きずりの中国人の私にどう思うかと聞いたわけだ。
 
どうも彼女は私にいい印象を持っているようだ。留学生だから、きっと大金持ちのお嬢さんだと勘違いしているらしい。もしかしたら、温泉に入ってもめがねをはずさない私のこっけいな顔が彼女には逆に上品そうに見えたかもしれない。しかし、中国人だからといってすべての中国人の素性や性格が分かるわけはない。そもそも、彼女の質問は、言い換えれば、自分自身の中国人への偏見を中国人にどう思うかと聞いているようなものだ。
 
その「信頼に満ちた偏見」に私は実に困った。「息子さんはもう大人だから、信じてあげたら」とか、「話を聞くと、実に立派な息子さんだからきっと正しく判断できると思う」とか、結局陳腐な人生相談にありがちなことしか言えなかった。かれこれ一時間ほど話を聞いて、彼女も多少気が済んだようだ。それで互いに一通りの挨拶を交わして各自の部屋に戻った。その後、私はずっと彼女との会話を考えていた。もうつげ義春どころではなくなった。
 
私たちは「偏見」に出会ったとき、案外洗練された対応ができないものだ。「偏見はいけない」といった正論を並べることも、どこが偏見なのか諄々と教導することもなかなかできないようだ。それは一面に偏見そのものの衝撃によるが、他方、偏見の複雑さにもよるだろう。たとえば、彼女の「偏見」は、単なる「中国人」に対する偏見ではないことは明らかだ。「中国人」という要素は、服装の派手さ、高級車を乗り回すいかがわしさ、そして40歳を超えた息子に対する愛情への不信感といった様々な要素のなかのたった一つの要素にすぎない。また、彼女の「偏見」は単なる「日本人」の偏見でもない。「日本人」という要素も、彼女の息子を思う親心、村八分を恐れる地域社会に特有の閉塞感、そしてその世代の道徳的観念といった要素のなかの一つにすぎない。もっとも、この私も彼女の目には決してただ単に一人の「中国人」ではないはずだ。なによりも、こうした一期一会ができたのは、私たちはともに女の旅人であったからだ。
 
思えば、一体私たちは、ただ単に一人の「中国人」として、ただ単に一人の「日本人」と出会うことがありうるのだろうか。国籍はただわれわれの人間と人間との触れ合いに少しだけ加味し、ちょっぴり変形させるだけだ。厄介なのは、私たちは、その「少し」の度合いをどうしても正確に捉えることができず、つい想像のなかですべてを覆い隠してしまうほど膨らましてしまうのではないだろうか。
 
結局、二度目もつげ義春を読み損ねた。どうやらもう一度金田屋旅館へ行かなければならないようだ。

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<孫 軍悦 (そん・ぐんえつ) ☆ Sun Junyue>
2007年東京大学総合文化研究科博士課程単位取得退学。現在、明治大学政治経済学部非常勤講師。SGRA研究員。専門分野は日本近現代文学、翻訳論。



張 紹敏「生理的な恐怖から社会的な恐怖へ」 Posted 2007.11.16 by imanishi
(SGRAエッセイ#94)

最近、私は、生物にみられる基礎的なプロセスが、私たち人間の生活や社会の中にもたくさん含まれていることに興味を持っています。私たちひとりひとりの生活様式や行動は、社会全体に大きな影響を与えていると思えます。今日は、「恐怖」を例にして、このような生物学上の原則と社会事象の関連性を考えてみたいと思います。現在のような文明社会でも、「恐怖」がひきおこす暴力や戦争という社会現象は屢々見られます。自殺も、人間ひとりの行動ではなく社会的な行為となります。

動物が抱く恐怖という感情は、生命を守るため、生き残るための基本的なメカニズムです。この感情がなければ動物は生き延びてこられなかったでしょう。本来、恐怖は切迫した危険に対する心配と、それへの感情的な応答が結合した生物的な表現であり、通常特定の否定的な刺激に応じて起こります。行動学の理論家によって、「喜び」や「怒り」のようないくつかの他の基本的な感情と共に、恐怖も高い作用の有機体に生来備わっている特性であるということが指摘されています。

人間が抱く恐怖には、穏やかな注意からの極度な恐怖症および妄想障害まで、さまざまな程度があります。また、心配、不安、身震い、戦慄、パニック、迫害感や、その複合体を含むいくつかの感情の状態と関連しています。恐怖の表情には、瞳が広がる、唇が水平に伸びる、上部唇が上がる、額があがるなどの特徴があります。ほとんどの動物の恐怖に対する行動には、このような感情の段階が観察されます。人間は恐怖感に極度に脅かされることがあり、致命的となることさえあります。それはアドレナリンの上昇によって引き起こされる本能的な反作用によるもので、意識して行う周到な決定ではありません。

恐怖に対する生理学的な反応は、「戦う」か「逃げる」かのどちらかです。「逃げる」方の典型的な例は、身体の通常機能を維持しながら穏やかに草を食べるシマウマでしょう。もしライオンにみつかれば逃げ出します。犬に攻撃されている猫は、心拍数が加速し、毛が逆立ち、瞳が広がります。ある種類の魚は、威嚇者の目をごまかすために体の色を素早く変更することができます。いずれも別の動物からの脅威から逃げるためで、すぐに戦いが起ることは比較的に少ないのです。ある動物が対峙する動物からのシグナルを解読して意識を高めていくには、それなりの時間がかかります。その間に、それ以外の交渉を起こすこともあるし、逃げだすこともあるし、戦うこともあるし、遊ぶこともあるかもしれないし、全然何も起きないかもしれません。

人類は既に、他の動物に対する恐怖を制御する術を習得しました。現在、人間が恐怖を感じるのは人間自身に他なりません。しかし、生理的な本能は、ほとんどすべての人間社会のしくみの中にも取り込まれているのです。私たちは恐怖に対して「逃げる」か「戦う」かの応答をいまだに続けているのです。脅威を感じたときには、逃げるときもあるし、戦うときもあります。戦いになれば積極的で、好戦的な行動をします。自殺等、社会から「逃げる」ための極端な現象もおこります。
 
この生理的な本能は、現代社会のイデオロギーや経済利益活動の中にも見られます。私たちの属性は決定しています。自分自身が生まれた国、遺伝的な民族性、家族または地域的な宗教観を、私たちは守っていかなくてはいけません。すると、恐怖は、一人の個人だけのものではなく、自分が属する国、民族、または宗教のものとなるのです。国と国、民族と民族、宗教と宗教などが、お互いに社会的恐怖となっていきます。

人間の生物として長い歴史に比べれば、人間の社会の歴史はかなり短いものです。他の動物に対する恐怖は減りましたが、人間自身、そして人間社会に対する恐怖が、私たちの文明社会のあちこちに見られます。国家間の戦争、民族間の論争、宗教間の不信感など、今、いたるところに溢れています。社会性をもった恐怖は、国、民族、宗教から与えられた私たちの役割を受け入れることを容易にさせてしまいます。地球市民の理想は人類の共同目標であり、一人一人の人間としては話し合うことはできるかもしれません。しかし、社会的な人たちの社会的な恐怖をお互いに理解していくためには、もっと時間がかかりそうだと感じています。

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<張 紹敏(ちょう・しょうみん)☆ Zhang Shaomin>
中国の河南医学院卒業後、小児科と病理学科の医師として働き、1990年来日。3年間生物医学関連会社の研究員を経て、1998年に東京大学より医学博士号を取得。米国エール大学医学部眼科研究員を経て、ペンシルベニア州立大学医学部神経と行動学科の助理教授に異動。脳と目の網膜の発生や病気について研究中。失明や痴呆を無くすために多忙な日々を送っている。学会や親友との再会を目的に日本を訪れるのは2年1回程度。
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範 建亭「上海の日本人コミュニティー」 Posted 2007.11.13 by imanishi
(SGRAエッセイ#93)

中国の最大都市である上海は、今やアジア有数の国際都市でもある。経済の発展とともに、上海に住む外国人は爆発的に増加している。上海の統計データを見ると、12万人ぐらいの外国人が長期滞在しており、中でも日本人は約3万人で一番多くなっている。また、外務省の「平成16年の海外在留邦人数調査統計」によると、上海の長期滞在邦人数は3万4千人で、世界の都市ではニューヨーク、ロサンゼルスに次いで第3位となっている。

しかしながら、実際に上海に住む日本人の数は統計データを遥かに超えている。出張や旅行といった流動人口を含めると、常時10万人程度の日本人が上海にいると言われている。上海は常住人口1800万人の大都会であることを考えると、日本人が10万人と言ってもたいした存在ではない。だが、上海在住の日本人は群れて住んでいるから、結構目立っている存在であり、中国最大の日本人コミュニティーを形成しつつある。

在上海の日本人は主に三つのエリアに住んでいる。最も集中しているのは市内西部の虹橋エリアと古北エリアである。虹橋エリアには日本領事館があり、日系企業も沢山集まっている。古北エリアは虹橋エリアのすぐそばであるが、そこは主に日本人が生活する場所であるから、日本人向けの賃貸マンション、スーパーやレストランなどが非常に多い。日本人学校もこのエリアにある。

もう一つは浦東エリアである。浦東は市中心部より黄浦江を隔てている地域であるが、この十数年間で急速な発展を遂げ、中国を代表する金融街や開発区が形成されている。そのため、近年、浦東に住む日本人も急速に増えている。上海にある二番目の日本人学校は浦東エリアにあり、2006年に開校されたばかり。ちなみに、二つの上海日本人学校の児童・生徒数は2500名を超えており、世界一の日本人学校となっている。それは、上海の生活条件の向上に伴い、家族帯同の在留邦人が急増しているということを反映している。

日本人が集中的に住んでいるエリアは、異国を感じさせない「ミニ日本」のようにみえる。日本料理店なら寿司、焼肉、カレー、とんかつ、うなぎ等々、何でも揃っているうえに味も結構いける。また、日本の食材を売るスーパー、日本人向けのパン屋、美容院、マッサージ屋などがあちこちにある。飲み屋、クラブなども少なくない。上海生まれ育ちの私も古北エリアにいくと、これは本当に同じ上海の光景なのかと目を疑うほどである。

日本人は群れて住んでいるから、それらのエリアには日本人入居率がほぼ100%を占める賃貸マンションが沢山ある。私はたまにそのエリアの日本料理店で食事するが、日本人が住んでいるマンションには入ったことがない。だが、私の妻はいま家庭教師として日本人(主に現地駐在員の奥様)を相手に中国語を教えているから、彼女からいろいろな話を聞いて、その住宅地の様子が大体分かるようになった。

日本人向けの賃貸マンションはほとんど高級住宅地に立地され、日本料理店やコンビニ、幼稚園などが併設されているものも珍しくない。入り口の受付や警備員といったスタッフは全員中国人だが、みんな日本語ができ、挨拶も非常に丁寧である。夕方になると、たくさんの日本人の子供たちがロビーで走ったり、遊んだりしている。そこに入ったら、いつも「まるで日本だ」と思うと妻は言う。

日本人向けの施設や環境が整っているため、上海に長期滞在しても日本に居るのとあまり変わらない生活を送ることができる。あまりの便利さと住み心地のよさで、逆に日本に戻りたがらないという話もよく聞く。

私の留学生仲間の一人は、3年前会社の派遣で日本から上海に駐在するとき、一番の悩みは日本人の妻と娘3人が一緒についてきてくれないことであった。やっと駐在の2年目に上海で一家の団欒を実現したが、3年の任期を終える段階でそろそろ本社に戻る時期がやってきた時、今度の悩みはなんと妻と娘たちがあまり戻りたくないことである。原因は上海での生活は、日本以上に住みやすく、生活水準も高いからだという。

整備されつつある上海の生活環境は、日本人の海外生活での不安を和らげるができ、とてもいいことだ。しかしその一方で、異国のことを常に意識して、地元の人との交流も深めるべきではないだろうかと思う。

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<範建亭(はん・けんてい ☆ Fan Jianting)>
2003年一橋大学経済学研究科より博士号を取得。現在、上海財経大学国際工商管理学院助教授。 SGRA研究員。専門分野は産業経済、国際経済。2004年に「中国の産業発展と国際分業」を風行社から出版。
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陳 姿菁「台湾の教育(その2)」 Posted 2007.11.9 by imanishi
(SGRAエッセイ#92)

こんなとき、あなたならどうしますか?

エジプト文明が大好きなあなた、待ちに待った門外不出のエジプト展のため、胸を高鳴らせて博物館に足を運びました。

博物館に入った瞬間、溢れんばかりの人込みに外へ追い出されそうになりました。辛うじて展示ガラスの前までに近づきましたが、長い列のためなかなか前に進みません。やっと列の真ん中まで進んだところ、ふいにある子ども連れの親があなたの傍にやってきて、「すみません」といいながら子どもたちをあなたの前に押し付けてきました。

あなたらなどうします?列に割り込ませますか、割り込ませませんか。

これは数ヶ月前に実際に台湾の博物館で起きたことです。「子どもを優先する」という教育を受けてきたわたしたちは果たしてどう受け取るのでしょうか。

いくつかのパターンが考えられるでしょう。
1) 疑いもなく喜んで優先させる。
2) 心の中でよろしくないと思いながらも、仕方なく優先させる。
3) 無視する

1)や2)は、形の上で「子どもを優先する」という結果になります。

その時点ではたいしたことではないかもしれませんが、このようなことが積み重なると、「子どもは優先されるべき」という固定観念が定着し、「子ども」に譲ることは当たり前のように思えてきます。

この「当たり前」は大人としての思いやりをこめているはずですが、結果としては、列を並ぶときに、子どもが「自分は子どもだから列に割り込んでも大目に見てくれるでしょう」というふうに受け取るかもしれません。一旦そう習慣化していくと、わきまえのある行動、礼儀正しく振舞ったり、ルールを守ったりすることが身につきにくくなるのではないでしょうか。

実は、その日、子どもたちが展示物の説明を読むわけではないのに説明パネルの前に立ち止まったり、体が小さいからといって、大人の足と足の間を潜って展示ガラス前に進んでいったりする光景は絶えませんでした。他の観客の視線を遮ったとしても気にもしないようです。周りの人のことを考えず、わがままに振舞っている子どもを見ても、子どもの親は制止しませんでした。

その光景を目にした周りの大人から「嫌だな」という声は確かに聞こえました。しかし、ほとんどの大人は難色を見せず、子ども達をやりたい放題にさせていました。待ちに待った展覧会だったのに、周りの無秩序のせいで、せっかくの気分も台無ししになりました。
 
少子化のため、子どもを甘やかす傾向があると批判されていますが、この日の展覧会での経験から、現状を垣間見ることができます。躾のなさを嘆く前に、それを子供たちにさせてしまう大人としての反省が必要だと思います。もちろん、ここで言う大人は、その子ども達の親だけではなく、疑いもなく列を譲ってしまった大人にも責任の一部があるといえるのでしょう。もし、周りの大人が「ちゃんと並んでください」と一言その親に言えば、少しは状況が変わったかもしれません。しかし、仮にその親に指摘したとしても、周りから「子どもだからいいのではないか」と逆に批判されてしまうのが台湾の現状です。
  
精神科医学博士の斉藤茂太氏は、『躾が9割―“伸びる子”を育む魔法の習慣』という本の中で、「子どもが自己主張をはじめたら、親は子どもをただ保護して育てる対象として出なく、まだ幼くても1人の人間として向き合う心構えを持つときなのだ」と指摘しています。いくら子どもが目に入れても痛くないほど可愛くても、自我が芽生えてきてからは、きちんと躾をする必要があると思います。

子どもを大事に扱うのは重要です。と同時に躾も大事です。責任の取れる大人、礼儀正しい大人に育てるためには、長い目で両者のバランスを考えたほうが良いのではないでしょうか。

今まで「子どもを優先すべき」だと疑ったこともない私でしたが、この出来事から考え直さずにはいられませんでした。子どもだからといって何でも譲ることは本当にいい教育になるのでしょうか。躾のなさ、思いやりのなさは実はこのような年から植えつけられ、習慣化され、そのまま今のいわゆる「礼儀知らず」な大人に成長していくのではないでしょうか。

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<陳姿菁(ちん・しせい) ☆ Chen Tzuching>
台湾出身。お茶ノ水女子大学より博士号を取得。専門は談話分析、日本語教育。現在は開南大学の専任と台湾大学の兼任として勤めている。SGRA研究員。
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F.マキト「先輩の(お)かげ」 Posted 2007.11.3 by imanishi
(SGRAエッセイ#91)

最近、中国、韓国、日本から、行き過ぎた効率性の追求に対する悲鳴が聞こえてきた。80年代から市場経済に移行すると決めた中国政府は、「調和がとれる」社会の築き上げを優先すべきだと改めて宣言した。大統領選挙を目前に控えた韓国では、1997年に勃発した東アジア通貨危機から乗り出した合理化政策についての評価がひとつの重要な論点になっている。そして日本ではバブル経済の崩壊から始まった日本システムに対する極端に批判的な改革路線が生み出した「影」を対処する姿勢に切り替えた。東北アジアのどの国でも、国内格差の拡大により政策を軌道修正せざるをえなくなっている。
 
不思議なことに、これらの国々と発展度合いなどが異なる母国のフィリピンも、同じような行き過ぎた政策路線の転換に乗り出したことを知った。
 
この発見の機会を提供してくれたのは、早稲田大学教授のトラン・ヴァン・トウ先生との共同研究である。トラン先生と初めてお会いしたのは、拓殖大学の渡辺俊夫先生にご紹介いただいて「東アジア経済統合:雁はまだ飛んでいるか」というテーマで行った第20回SGRAフォーラムの時だった。そのときからベトナム出身のトラン先生はフィリピンへ関心を示してくださり、その交流の成果が、11月10日に出版されるトラン先生編集の「ASEAN・中国のFTAと東アジア経済」という本である。僕も、トラン先生の研究室の一員である西晃さんという親切な方と共同で、フィリピンと中国とのFTAに関する一章をSGRAの研究員として担当させていただいた。僕にとっては、他のASEAN諸国と自分の国についての勉強にもなったよい機会だった。
 
この本の研究でわかったのは、フィリピンでも、最近まで、行き過ぎた合理化があったということである。フィリピンは、1980年から国内産業の競争力強化を目的として、戦後から当時まで長らく続いていた輸入代替局面における保護主義政策からの脱却を図った。フィリピン政府は1981年から関税改革プログラム(TRP: Tariff Reform Program)を4回も実施した。その結果1995年にWTO (World Trade Organization)に加盟したときに、なんとフィリピンの平均名目関税率がWTOの定めた基準より大きく下回ったのだ。これだけみても、はっきりと行き過ぎた自由化が行われたことがわかる。
 
効率性を優先したグローバル化=グローバル・スタンダード化という概念に飲み込まれた日本に長く住み、失われた90年代当時のマスコミ・政府・経済学者の極端な日本バッシングを目撃してきた僕は、その日本と深い関係を持つ母国にもグローバル・スタンダード化の波が波及してくるという懸念を抱き、以前SGRAレポートでも取り上げた。上述のように、実際、グローバル・スタンダード化の津波はフィリピンにも押し寄せてきたが、今回の研究でわかったのは、中国・韓国・日本がフィリピンで果たした役割が、どちらかというと、津波に対する堤防になってくれたのではないかということだった。
 
いくつかの事例を紹介したい。フィリピンに進出した靴製造業韓国企業は、なぜフィリピン政府がタイや中国より低い、40%台の関税率にしているのか理解に苦しんでいた。ある日系大手ガラス製造会社からは「フィリピン政府は他のASEAN諸国より早く関税率を引き下げたので、国内産業はグローバル競争に負けてしまった」という声が聞かれた。そして、僕の分析の結果、フィリピンと中国とのFTAにおいては両国の問題より、むしろフィリピンと他の東南アジア諸国の間の調整が重要であることがわかった。つまり、フィリピンは自由化を他のASEAN諸国と協調してやらないと、かえって自分の産業を犠牲にすることと等しい行為になってしまうのである。
 
このようにフィリピンにもWTO型の自由化の行き過ぎがあり、見直しが行われたが、それで自由化の波が収まったわけではない。WTOによる多国主義の自由化の変わりに、今度は二カ国間の自由化が盛んに結ばれつつある。フィリピンもこの潮流に流されている。
 
フィリピンは日本ともFTAの交渉中なので、今年8月、フィリピンの通産省の関係者を訪ねたところ、彼は、フィリピンと日本のFTAは年内に結ばれると明らかにした。しかしながら、政府内においても反対勢力が依然として抵抗する構えである。ここまでフィリピンと日本のFTA交渉を遅らせたことから、この勢力の強さが伺えよう。
 
これに関して、トラン先生との共同研究でわかったことがもうひとつある。自由貿易を推し進めるFTAという枠組みがなかったにもかかわらず、フィリピンと日本との今までの経済協力によって、自由貿易から期待されるような産業の発展がフィリピンで実現できたのである。共有型成長という非常に珍しい成果が実現できた日本のDNAが少しでもフィリピンに遺伝されればいいと僕は思っているので、たとえ結果が同じだとしても、この日本主導の雁行形態ダイナミックスのほうがFTAよりも望ましい。
 
ところで、自由化を推し進める日本政府(安倍政権まで?)と海外(フィリピン)にある日系企業との間に、「自由化」についての温度差を感じることがある。現在、僕は、フィリピンにある大手自動車日系企業の協力を得ながら、日本・フィリピンのFTAを視野にいれた、フィリピンにおける自動車産業戦略を練る共同研究を計画している。この日系の(組み立て)企業にとっては日本・フィリピンFTAが結ばれても何も被害を受けないが、フィリピンの産業に対する打撃を心配してくれているようである。なぜなら、フィリピン自動車産業の下請け中小企業は、まだ国際的な競争ができるような体制になっていないのである。もしFTAが実現したら淘汰される可能性が高い。僕はこの日系企業の懸念に同感する。そして、このような考え方は「元気な中小企業こそが共有型成長の源になる」という認識から芽生えたものだと自分なりに解釈している。
 
東北アジアの先輩国の国内格差拡大に対する最近の警戒心は実に嬉しく思う。日本をはじめ、これらの国々はいつでも共有型成長のモデルになってほしい。そこには東アジアの原動力がきっと潜んでいる。

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<マックス・マキト ☆ Max Maquito>
SGRA運営委員、SGRA「グローバル化と日本の独自性」研究チームチーフ。フィリピン大学機械工学部学士、Center for Research and Communication(現アジア太平洋大学)産業経済学修士、東京大学経済学研究科博士、テンプル大学ジャパン講師。



林 少陽 「夏の帰国の感想(その2)」 Posted 2007.10.31 by imanishi
(SGRAエッセイ#90)

(2)北京の住宅事情

清華大学のワークショップが終わり北京の友人と久しぶりに会った。短時間ではあるが、SGRA会員の朴貞姫さん(北京言語大学)と孫建軍さん(北京大学)にも会うことができた。北京において、すべての友人との集まりに必ず出てきたのは、不動産の話であった。中国は経済が過熱しており、昨年一年間で不動産の値段が倍以上に上がった。理由はいろいろあるようだ。よく言われているのは、オリンピック前の建設ラッシュや、都市に住む人々の処分可能な現金が余っていることや、海外のホットマネーが流入したことなどである。日本のゼロ金利政策の影響で、日本でも中国株に投資している人が多いと聞いている。現金が株マーケットに大量に流入したことで、株の値段が上昇した。そして投資の収益が不動産マーケットに流入した。社会保障制度がまだ確立途上の中国では、お金を儲けることで将来への不安を解消するために投資意欲が強いという説もある。この加熱ぶりは、色々な要素の相互作用といえるだろう。
 
現政権は格差を縮小するために「和諧社会」という政策を出した。2年前には農民の税金ゼロという政策も出された。近年、都市部が農村部を犠牲にした代価で市場化をしてきたという批判をしばしば耳にする。このようなことに対する反省でいろいろな対策が出されているが、過去一年のバブルは、むしろ格差を拡大しているようだ。出稼ぎで都会に出ている農民に与えるバブルの影響がいろいろと予測されるが、リストラされた都会の人々に対する影響も必至であろう。

中央政府はいろいろな政策で不動産の価格を抑えようとしている。しかし、不動産価格の上昇は地方政府の税金収入に関係するだけでなく、地方政府長官個人に対する業績評価にもつながる以上、価格の抑制は簡単ではないだろう。環境保護政策も似たようなジレンマである。発展主義をとっている以上、中央政府の環境政策の意図が、地方のレベルになると無視されてしまうことが多い。ただし、最近、ようやく環境保護のデーターが地方長官の業績評価に導入されるようになったそうである。遅ればせながらも、とても重要な政策であり、実行して欲しいと願うばかりである。
 
今回の不動産価格の上昇で、直接影響を受けているのは海外にいる留学生のようにも思う。いままでの中国は、大学のような教育機関や国営会社などを含むすべての国の機構、組織の従業員に対する福利政策として、ほとんど無料に近い価格で部屋を分配するという政策を取ってきた。いわゆる「分房」政策である。いまではそのような福利政策がほとんどなくなったが、市場価格の一部を分けてもらえる政策がいまだにある。現金として一部「もらっている」人はそのお金で自分が住むための部屋を買う。または学校を含む組織・機構が立てた住宅をマーケットよりだいぶ安い値段で買うというシステムも多い。他方、むかし部屋を「分配された」人は、貯金を不動産に投資するのが普通である。特に過去20年間以上の高度成長の成果を享受できた人は、複数の部屋を持っている人が多い。住宅補助として部屋の「一部」をもらった人も、その「一部」の価値がマーケットの変化によってずいぶん変るものである。もし雇用者の組織・機構がマーケットの変化に即してこの「一部」の額を上げれば、予算がオーバーしてしまうことになる。そもそもそのようなやり方はマーケットが激変しているなかで難しい。結局、国関係の組織、機構に勤めている人々もただちに「有(複数な不動)産階層」を含む「有(不動)産階層」、と「無(不動)産階層」とに分化してしまうのである。勿論、プライベート・セクターに勤める人々は、さらに競争型による格差体制に晒されている。海外にいる留学生は、帰国後このような厳しい変化に直面しなければならない。
 
北京の普通の100平米の部屋(中国の都市部では標準的な広さ)は2年前だと約70万元前後(日本円で目安で約1200万円前後)で買えたそうだが、この夏では1.5倍ぐらいの百175万元(約2700万円前後)となっている。夫婦共稼ぎの中国でもとても負担できるような金額ではない。他方、前に部屋をもらった人や一部「もらった」人、とりわけ複数の部屋を持っている人は逆にこの上昇によって個人財産が大幅に増えた。これは新しい格差を生む契機となる。政府は真剣に、低収入の人々のための住宅システムの確立を考え始めたと聞いている。いわば住宅供給を二元化する、弱者保護の政策である。歓迎すべきではあるが、遅れた政策といわざるをえない。
 
(3)広東・香港

この夏の終わりの時間は故郷の広東省の珠江デルタ地区と香港とを行き来した。9年ぶりに母国で4週間も過ごす長い滞在となった。経済の重鎮である広東省では北京でみた加熱がなおさら強く感じられた。香港に隣接する深せん市では中心区の不動産相場が1平米2万元(約30万円前後)、高級な新築マンションはこの倍に近い。この値段は香港の中心部の6割前後だが、香港の北部より高い。香港返還の10周年前後に深せんと香港の間のチェックポイント(深せんと香港の間に出入りするための手続きをする施設)が新たに二つ増え、とても快適で便利になった。10数年前に毎週金曜日と月曜日に長く列を並んで出入国の手続きをしていた時代が遠い過去となったような気がした。この10年の深せんと香港の一体化は予想以上に速かった。
 
ちょうどアメリカでサブプライム住宅ローンシステムが崩れる騒ぎが起き、香港もこのようなニュースで溢れ、マーケットに多少混乱が出たようである。大陸の新聞もこのようなニュースが大きく報道されている。サブプライムの問題がさらにホットマネー流入を促し、大陸の経済過熱化を加速する可能性があるという香港の新聞の分析も見た。もちろんオリンピック後の経済衰退説も流れている。専門外の私はどれを信じればいいか分からなくなった。
 
しかし、確実にいえるのは、「社会主義」の母国が世界資本主義マーケットとますます一体化しているということである。また、最近の変化は、少なくとも短期間のうちにおいては留学生の帰国後の生活にマイナスな影響を与えるものだとも思った。短期間と言っているのは政府が留学生のために何らかの措置をしてくれればという楽観的な仮定においてである。

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<林 少陽(りん しょうよう)☆ Lin Shaoyang>
1963年10月中国広東省生まれ。1979年9月に廈門(アモイ)大学外文系入学。1988年6月吉林大学大学院修士課程修了。1999年春留学で来日、東京大学博士課程、東大助手を経て東大教養学部特任助教授。著書に『「文」与日本的現代性』(北京:中央編訳出版社、2004年7月)及び他の日本・中国の文学・思想史関係の論文がある。



林 少陽 「夏の帰国の感想(その1)」 Posted 2007.10.29 by imanishi
SGRAエッセイ#89

(1)12年ぶりの長春

8月のある日の夕方、私を乗せた飛行機は長春空港に着陸した。学生時代の思い出が一瞬蘇った。80年代の後半、中国の南の地方の出身である私は、長春にある吉林大学で修士課程の三年間を過ごした。しかし、目の前の空港は、素晴らしく立派なもので、昔の私の記憶にあるあの空港の気配は全くなかった。迎えに来てくれた東北師範大学の友人が、昔の空港とは全く別の場所にあると教えてくれた。

高速道路を通ってだんだん長春に近づいていったが、昔の面影は微塵もなかった。近代的な夕方の都市を車が通っていった。近代化は、昔は素朴であったこの町をずいぶん変えたようだ。ここに来たのは12年ぶりのことであった。

夏休みを利用して東北師範大学歴史学院の国際会議に参加するため、ひさしぶりに長春に来たのである。二日間の会議はとても充実したものであった。事前に会議の参加者リストをもらっていなかったので、韓国から来たSGRA会員の高煕卓さん他、意外な友人との出会いもあった。東北師範大学は古くから日本研究に力を入れている大学である。普通の大学では外国語学院に日本関係の専門が設けられているが、ここでは外国語学院はもちろん、歴史学院、文学院にも日本研究があるだけでなく、日本研究所という研究機構もある。今度の会議で改めて東北師範大学の日本研究の伝統と意欲を実感した。

私がかつて学んだ吉林大学は、数年前の国の政策によって、長春にある十ぐらいの大学を合併し、いまや中国で一番学生数の多い大学となっている。しかし、合併によって大学の伝統が崩れ、学生の質も必然的にある程度落ちたため、内部では批判の声が止まらないようである。近年、中国の大学は古い管理体制から脱皮するために、いろいろな改革策を出した。合併も一つであるが、業績主義の管理体制も確立した。両方に対する批判が教員内部では大きいようである。業績は数字によって説明されるものではないという