SGRAかわらばん

  • 2017.08.31

    エッセイ546:盧ジュウン「震災と情報」

    2011年3月の東日本大震災と2016年4月の熊本地震を直接的あるいは間接的に経験した人々の中には、震災による被害のみならず、震災時に飛び交った流言飛語について少しでも聞いたことがあると思う。特に、2011年の大震災は「風評被害」の例としてもよく知られている。福島原発事故に関する正確な情報が得られなかったことにその原因があった。また、そのときに多くの在日外国人が帰国し、それらの外国人を指す「フライ人」という新造語が出現したこともある。   「フライ人」とは、逃げるという否定的イメージが含まれ、都合の悪い時には友達になれない人という日本人からの視線が反映された当時の新造語である(※1)。彼らの出国には本国からの国外避難勧告、家族の心配などの様々な理由があったが、彼らの判断・行動に大きな影響を与えたのは震災にかかわる情報であり、当時、日本にいた外国人はそれぞれの様々な情報源があったと思われる。   震災時の流言が注目されるのは、流言には、人々を動かす、行動させる力があるからであろう。もっと正確にいうと、「流言の力」よりは「情報の力」として捉えた方がいい。当時は情報として人々に受け入れられたものが、事後の真相調査や判断によって流言として判明されるからである。震災に対する恐怖に襲われている上に、それを刺激する情報まで加えると、人々の行動は統制できなくなる。その代表的な例が1923年の関東大震災時における朝鮮人虐殺である。「朝鮮人が暴動を起こした」「朝鮮人が放火した」などの流言飛語が広まり、自警団、軍隊、警察が6,000名以上の在日朝鮮人を虐殺した事件である。   当時、日本政府を含め、多くの日本民衆が朝鮮人に関して流された情報を信じた一方で、それらの情報に対抗した人々もいた。一つの例としては、鹿島家の人がいる。1840年に鹿島岩吉が創業し、1880年に鹿島組が創立され鹿島岩蔵が初代組長になったが、1923年当時、鹿島組の組長は1912年に就任した鹿島精一であった(1947年に社名を鹿島建設株式会社に改称)。この鹿島精一の義弟である鹿島龍蔵がその存在である。   鹿島龍蔵は鹿島家では「文化人」として文学界の人々と親しく付き合った人物として記憶されているようである。関東大震災を経験した彼は1923年9月1日より9月10日までの震災記録「天災日記」を書き残した。「天災日記」は1927年に『第二涸泉集』(鹿島組編輯部)に収録され、2008年に出版された武村雅之の『天災日記―鹿島龍蔵と関東大震災』(鹿島出版会)にもその原文が載せられている(「天災日記」が最初に掲載されたのは『鹿島組月報』1924年3月号だったという―武村雅之編著『天災日記―鹿島龍蔵と関東大震災』99頁)。   関東大震災当時、木挽町9丁目(現・銀座7丁目)にあった鹿島組本店と、深川区島田町9番地(現・江東区木場2丁目)にあった、渥美財団理事長の母親である鹿島卯女が住んでいた深川鹿島邸は被害を受けた。特に深川鹿島邸は火災の被害が大きかったという(※2)。一方、鹿島龍蔵の田端鹿島邸は震災の被害がなかったため、200名の避難民を家に受け入れたという。ところが9月2日の夜、朝鮮人に関する情報が田端鹿島邸にも入ってきて200名の避難民は騒ぎ出し始めた。この状況は危ないと判断した鹿島龍蔵は、避難民に向けて「即ち昨夜の火の様子と比較して、今夜のは話にならぬ程小且つ弱なる事、地震のゆりかえしは心配無い事、不逞鮮人(ママ)の暴挙等は歯牙にかくるに足らざる事」を大声で話した(『天災日記―鹿島龍蔵と関東大震災』35頁)。その結果、田端鹿島邸の避難民は落ち着くようになり、無事に夜を過ごしたという。狂気のように一方的に流された情報に対抗した情報の力として理解できるだろう。   鹿島龍蔵の「天災日記」は、内閣府の「災害教訓の継承に関する専門調査会」が2008年に出した報告書『1923関東大震災 第2編』に紹介されている。内閣府の中央防災会議においては、「災害教訓を計画的・体系的に整理のうえ、概ね10年程度にわたって整理し、教訓テキストを整備すること」を目的とする「災害教訓の継承に関する専門調査会」を2003年に設置し、その専門調査会は2009年まで『1923関東大震災 第1・2・3編』を出した。『1923関東大震災 第2編』の第4章第2節「殺傷事件の発生」には朝鮮人虐殺についてまとめており、政府の報告書として朝鮮人虐殺を取り上げた稀な資料である。しかし、内閣府防災情報ホームページで閲覧できたこれらの報告書が、最近ホームページから削除され問題となったことがある。   朝日新聞の2017年4月19日付記事は、最近「災害教訓の継承に関する専門調査会」が作った報告書『1923関東大震災 第1~3編』がホームページから削除されたことを伝えながら、この報告書の一部が朝鮮人虐殺を扱っているため、「内容的に批判の声が多く、掲載から7年も経つので載せない決定をした」と担当者が説明したと報道した。だが、この掲載削除に対する非難があったからか、その翌日の報道をもって内閣府は「閲覧できない理由を『HPの刷新に伴うもの』とし、意図的な削除ではない」と説明した(『朝日新聞』2017年4月20日付)。その後、報告書が削除された理由を「技術的問題」のためとして説明した内閣府は(『朝日新聞』2017年4月20日付)、4月20日に報告書を再び掲載した(『朝日新聞』2017年4月21日付)。   私が確認した結果、この報告書が閲覧できた以前のURLは現在使えなくなった。報告書は新しいURLを以て公開されることとなったが、新たに閲覧できるようになったURLを以前のURLと比べてみると、変更は「1923-kantoDAISHINSAI」の部分が「1923_kanto_daishinsai」になったことだけであった。「技術的問題」には素人である私としては、ホームページの刷新やURLの変更という作業が数日の時間がかかることかはわからない。また、掲載削除に関する担当者の説明(4月19日付報道)は事実かどうかについても知られていないが、これらの新聞報道や内閣府の反応から、朝鮮人虐殺の歴史はまだ日本社会においては敏感なテーマであることがわかるだろう。震災と情報という観点からの教訓が得られる歴史として、落ち着いた雰囲気の中で一般的に朝鮮人虐殺について話し合える日が来るのを期待している。   ※1:“Flyjins are those foreigners who have fled Japan during the last week and who some Japanese people now view as merely fair-weather friends.” ※2:震災前の深川鹿島邸の写真が見られる鹿島卯女著の『深川の家』(鹿島出版会、1976)は渥美財団や日本国立国会図書館に所蔵されている。また、関東大震災と鹿島については鹿島建設のホームページに詳しい説明がある。   <盧ジュウン(ノ・ジュウン)NOH_Jooeun> 渥美国際交流財団2016年度奨学生。韓国の延世大学大学院で歴史(東洋史)を専攻。2017年、東京大学大学院学際情報学府博士課程を満期退学。専門は関東大震災研究。現在、東京大学大学院学際情報学府大学院研究生。     2017年8月31日配信  
  • 2017.08.25

    エッセイ545:洪性珉「日本留学と留学生のアイデンティティ」

    (私の留学シリーズ#12)   人生には、予期せぬ経験をすることがある。私は、博士学位の取得を目指して日本に留学したが、留学生活で最初は予想していなかったことを経験した。それは、留学生としての自分のアイデンティティに関する問題である。この話は、留学生のアイデンティティに関する1つの事例として、本人の5年間に亘る日本留学の経験をまとめたものである。   まず、日本留学の環境について整理しておく。僕は、韓国から東洋史を研究するために日本の早稲田大学に留学し、5年余りの時間を過ごした。ところで、専門分野が「東洋史」であるためか、留学期間中、僕が所属している早稲田大学東洋史学専攻に韓国人留学生は僕以外に1人もいなかった。留学生は、中国から来た留学生が4、5人だけであった。一言でいえば、日本の人間関係の中で「韓国」という要素は皆無といっても過言ではなかった。   周りに「韓国」的要素がない環境は、ある意味で緊張感が生まれた。つまり、最初に周りの人たちと良い関係を築けたら留学生活は何の問題もなく過ごせるが、もし築けなかったら人間関係それ自体で苦労してしまう、という心配が出てくる。従って、最初の2年間は日本人学生たちに馴染むように、外国人の訛りのない日本語を話そうとし、日本人学生たちの流行を理解するために努力した。   もちろん、中国人留学生たちとも仲良くしようとした。彼らは自分と国籍が異なったものの、日本人学生と違って「留学生」という共通点を持っているので、すぐ仲良くなった。しかし、彼らは中国人の留学生同士で人間関係を築くことができるので、自分の立場とはやや異なっていると考えられる。   それで日本人学生とも、中国人留学生とも仲良くなり、日本での人間関係は一応安定した。その結果、日本人の学生と交流しながら次第にその社会に馴染み、彼らの冗談や駄洒落、言い回しも問題なく理解出来る水準に達した。そのうち、いつの間にか言葉使いが変わっていた。その変化とは、独り言をしゃべっても日本語が出たり、夢を見ても日本語で見たり、何かを考える時も韓国語より日本語が先に出てくることである。これは、留学3年目の時であった。逆に言えば日本にたった3年しかいなかったのに、そんなに変わっている自分に気づいて驚いた。   一方、同じ時期に日本人学生からはこのような話も聞いた。「韓国語をしゃべっている洪さんには、ちょっと違和感を感じます」とか、「洪さんは留学生だけど、日本人の間では日本人の枠として見ているんだよ」とか。この話をしてくれた日本人学生たちは、決して悪い意味で言ったのではない。むしろ、それは僕が日本人学生のコミュニティの一員となった証しだろう。その話を聞いて安心する一方で、1つ疑問が生じた。「おや、僕は韓国人なのにそれを全く意識していないね。何でだろう。」   この2つの経験が少し時差を置いて起きたら、自分の反応もそれほど激しくはなかっただろう。内面で「韓国」という要素が次第に薄れていくように感じた前者の経験と、周りの日本人が自分の韓国的要素を全く感じ取ってくれない後者の経験が同時に起きたことにより、本人のアイデンティティをものすごく揺さぶる結果をもたらした。私の心の中には「僕は韓国人なのに、何で日本語が先に出てくるの?」とか、「僕は韓国人なのに、何で周りの人々はそれを感じ取ってくれないの?」などのような疑問が浮かびあがった。これは、心の中でまるで絶叫のように響いたのである。   その問題は、学問の領域にも現れる。私が所属していたゼミでは、日本人、中国人、アメリカ人研究者の学説を引用しながら議論が行われる。その中で、本人はハングルが読めて韓国における東洋史研究を把握している点で、他の日本人学生や中国人留学生とは異なる。しかし、議論の際に私が韓国人の東洋史研究者の学説を引用しながら参加すると、ゼミの雰囲気は微妙に変わる。ゼミ生たちはそれに関して興味のない顔をしたり、「何でその学説を紹介するの?」という反応を見せる。甚だしくは「韓国で東洋史の研究はありますか」という発言をする学生もいる。これに対して、私は「(お前、)ハングルを読めないのは分かるけど、和文で紹介されている韓国東洋史の研究史整理の論文を一行も読んでいないのに、よくそんなこと言うな」と思った。   しかし、この経験は「私は韓国人であるのに、何で中国史を研究しなければならないのか」という問いかけをする契機となった。そして、真剣にその答えを求めることになった。それは、自分の学問分野においても予想していなかったできごとである。その解決方法として、韓国の伝統時代、主に朝鮮王朝時代における中国史研究を整理した。その結果、当時の朝鮮王朝では「外国史」としての中国史研究が高いレベルにまで達していたことが分かった。この作業によって、当時の研究で、ある傾向が読み取れたので、1本の論文として纏めることができた。   その後、自分の立場を「朝鮮王朝の中国史研究を継承するために東洋史を研究し、それを発展的に継承するために日本などの東洋史の研究成果を受け入れる」と再定義することができた。恐らく今後は、博士後期課程の在学中に経験したことを繰り返して経験しても、自分のアイデンティティが揺れることはないと固く信じている。その一方で、今までとは違う全く新しい経験をすると、再び自分のアイデンティティは変化すると予想される。それがどう変わるかは分からないが、楽しみにしている。   <洪性珉(ホン・ソンミン)HONG_Sungmin> 渥美国際交流財団2016年度奨学生。韓国の東国大学校大学院碩士課程で歴史(東洋史)を専攻。2012年度より早稲田大学文学研究科博士後期課程に進学。専門は、10~12世紀東アジア国際関係史、史学史。現在、早稲田大学文学学術院総合人文科学研究センターの助手。     2017年8月24日配信
  • 2017.08.17

    エッセイ544:張桂娥「グローバルなマンガ・アニメ研究のダイナミズムと新たな可能性」

    日本では誰もが知っている漫画の神様・手塚治虫は、「絵を文字にするのが小説。絵を絵にするのがイラスト。文字を絵にするのが漫画。文字を文字にするのが評論」だと述べ、「漫画は映像文化と文字文化の間のもの、いわば第三の文化である」と考えていたという。   一方、芸術作品の独創性に独特の美意識、鋭敏な鑑識眼を光らせて来たフランスでは、漫画は「9番目の芸術」と位置づけられ、近年では評論や研究の対象となっている上、世界最高峰の美術の殿堂「ルーヴル美術館」が21世紀、視覚芸術の映像美、言語表現の様式美を兼ねそろえた漫画に、ついにその扉を開いたというほど、熱い注目を浴びている。   かつて俗悪な読み物、低俗な娯楽、ビジネス先行のサブカル産業として貶められてきたマンガは、創造性と革新性を追求したクリエイティブな作家たちの努力によって、深層文化を表象する芸術の宝庫や、社会思想や世界と人生に関する深い哲理ないし世界観を広く発信する文化的産物として、全世界の人類に共有されつつある現状である。そのため、近年日本、フランスをはじめとする世界各国では、図書館・ミュージアムにおけるマンガコレクションを充実させるブームが巻き起こされたわけである。   また、デジタル映像の生成・加工技術の飛躍的進化により、マンガのアニメ化とともに実写映画化も劇的に進み、あっという間に世界を席巻する爆発的な流行文化に発展した。グローバル化したマンガ・アニメ文化は、視覚芸術を極めた魅惑的なコスモスのような不思議なワールドを築き、世界中の若者を虜にした。非日常な世界に誘われ、魅了された視聴者にとって、マンガ・アニメは、まさに自己と他者ないし世界を理解するための媒介である。   紙媒体のコミック・コミックスをはじめ、アニメ、キャラクター周辺グッズ、コスプレなど、サブカルチャーだったマンガ・アニメ文化は、世界市場規模のコンテンツ産業を誕生させ、一国の経済成長に大きな影響を与えるメインカルチャーに転換していき、我々現代人の消費行為(価値観)、ライフスタイルをダイナミックに変えるソフトパワーの源でもある。   2001年に「日本マンガ学会」が設立され、アカデミック的な見地から、奥深いマンガの世界に学際的・国際的アプローチの可能性が広がった。また、マンガを教育研究する日本初の大学マンガ学部が創設された2006年には、世界初の「博物館的機能と図書館的機能を併せ持った、新しい文化施設」京都国際マンガミュージアムも同時期に設立され、生涯に一度必ず訪れるという熱狂的なマンガファンが世界中から殺到し、コンテンツツーリズムの観光聖地として世界から注目されている。   一方、台湾の大学でも近年、マンガを通して各国の文化・社会への理解を深める教養講座が相次いで開設されている。2014年コミックス蔵書を充実させた東呉大学図書館は、マンガコレクションを楽しむ「マンガ読書エリア」を開設し、日本語学科と協力した上、マンガ・アニメ文化の可能性を探究する学術シンポジウムを開催している。他大学に先駆けて、グローバル的に浸透し定着していくマンガ・アニメ文化研究の最前線に立って、アカデミックな研究の未来を見据え、その可能性をさらに切り拓こうとしている。   2018年5月に台北市で、日本公益財団法人渥美国際交流財団と台湾東呉大学が共同主催で行う予定の、第8回日台アジア未来フォーラム※では、全世界規模に広がったマンガ・アニメ文化の魅力に着目し、「グローバルなマンガ・アニメ研究のダイナミズムと新たな可能性―コミュニケーションツールとして共有・共感する映像文化論から学際的なメディアコンテンツ学の構築に向けて―」について議論する。つまり、文化を発信するコミュニケーションツールとして共感・同調・共有されてきたマンガ・アニメが、いかに次世代の地球市民の手によって共創するコンテンツ産業へ進化していくかのプロセスや、それを実現させるあらゆる創発の原理を創造的に思考する場を設けたいと考えている。   各セッションで取り上げるテーマとして、マンガの収集・保存と利用、マンガ・アニメの翻訳と異文化コミュニケーション、マンガ・リテラシー形成の理論と実践、マンガ・アニメと物語論、視覚芸術論、映像論、マンガ・アニメのメディアミックス化・マルチユース化、マンガ・アニメの文化的経済学、マンガ・アニメ文化と社会学などが予定されている。   本フォーラムでは、グローバル化したマンガ・アニメ研究のダイナミズムを、研究者・参加者たちの多様な立場と学際的なアプローチによって読み解いた上、新たな可能性を見いだすことを目指している。これにより、日台関係・日台交流、また東アジア地域内の相互交流のさらなる深まりへの理解促進に貢献するものと考えられる。   ※「日台アジア未来フォーラム」とは、日本公益財団法人渥美国際交流財団関口グローバル研究会(SGRA)の主催のもとで、台湾在住の元奨学生(台湾ラクーンメンバー)を中心とした実行委員会によって企画提案・実施運営される国際会議である。SGRAは日台の学術交流を促進し、日本研究の深化を目的とすると同時にアジアの未来を考えることをその設立の趣旨としている。思想信条の自由や言論の自由などを尊重するリベラルな台湾を発信基地として展開する本フォーラムでは、主にアジアにおける言語、文化、文学、教育、法律、歴史、社会、地域交流などの議題を幅広く取り上げている。8回目の開催となる2018年は、東呉大学日本語学科と図書館との共同主催のもとで、マンガ・アニメ文化国際シンポジウムを行う予定である。   英訳版はこちら <張 桂娥(ちょう・けいが)Chang_Kuei-E> 台湾花蓮出身、台北在住。2008年に東京学芸大学連合学校教育学研究科より博士号(教育学)取得。専門分野は児童文学、日本語教育、翻訳論。現在、東呉大学日本語学科副教授。授業と研究の傍ら日本児童文学作品の翻訳出版にも取り組んでいる。SGRA会員。   2017年8月17日配信
  • 2017.08.10

    エッセイ543:全相律「1年間の奨学期間をふりかえって――考えさせられたこと、感じたこと、学んだこと――」

    (私の日本留学シリーズ#11)     自分が忘れていた自分に気づかされたとき   大学で電子工学を専攻していた私は教養科目として受講した日本語の魅力に魅かれ、「言語学」という新しい道を歩むことになった。大学卒業後は、韓国外国語大学大学院日語日文学科の修士課程、(国費留学生として来日した後は)東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻の研究生・修士課程・博士後期課程で勉学を続けた。その間の私は「自分が数学や科学に興味があったこと」も、「理系学部生として勉強していたこと」も忘れ、文系院生としての自分だけに集中して生きてきた。   そんな私に渥美財団奨学生の面接審査で(当たり前のように)聞かれた「機械翻訳(Machine_Translation)や自然言語処理(NLP_[Natural_Language_Processing])」に関する質問は、ある意味私にとって衝撃的なものだった。不思議なことに私自身は「過去の自分と今の自分を結び付けよう」と考えたことがなかったからである。今は自分の専門分野である「日韓対照研究(文法論)」の他に、NLPなどの分野で、どのように自分の長所を生かせるかを模索している。「渥美財団との出会い」は私にとって忘れていた「過去の自分との再会」でもあったのだ。   福島で見たこと、感じたこと   2016年5月に、「SGRAふくしまスタディツアー」のメンバーとして訪れた福島は、私にとってまさに「見て、知って、考える」の旅だった。2011年3月に起きた「東日本大震災」から5年、私の中では忘れかけていた地震や原発のことが蘇る瞬間だった。被災地で出会った支援者の方からの言葉-「自分が見て体験した被災地のことを忘れず、今自分にできることを考えながら、(段々その関心が薄れていく)福島のことをなるべく大勢の人に伝えていきたい」-は今でも私の記憶に鮮明に残っている。今後リピーター(ラクーンメンバー※)として福島を訪ねる際は、以前の「不安や恐怖」が「希望や笑顔」に変わっていることを期待している。   SGRAのワークショップやフォーラムなどで学んだこと   蓼科でのワークショップやフォーラム(特に、「人を幸せにするロボット」)では、「普段自分が考えたことのない社会・国際問題」や「自分の研究分野からは離れた研究」などに触れることができた。研究分野や方法論は違っても研究に対する熱意や信念は変わらないという当たり前のことが実感でき、私の研究における愛情や心掛けを再確認するいい機会となった。   何と言っても渥美財団の奨学生として過ごした1年間で最も幸せだったのは、財団のプログラムを通じて知り合ったラクーンメンバー達との出会いである。私は2017年4月からいくつかの大学で非常勤講師として韓国語を教えながら博士論文を仕上げるつもりであるが、今後も財団の行事にはなるべく参加し、今まで以上にラクーンメンバーとの交流を深めていきたいと思っている。   ※渥美奨学生の同窓会は、創設者渥美健夫氏が狸の絵を描いていたことに因んでラクーン会と名付けられた。   <全相律(ジョン・サンリュル)Jeon_Sangryul> 渥美国際交流財団2016年度奨学生。韓国外国語大学大学院で日本語学を専攻。2009年4月文部科学省研究留学生として来日。東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻修士課程を経て博士後期課程単位取得満期退学。専門は言語の普遍性と多様性に基づく日本語学・日韓対照言語学の研究。現在、神奈川大学、神田外語大学、帝京大学などで非常勤講師として勤務。     2017年8月10日配信
  • 2017.08.03

    エッセイ542:蒋建偉「時」

    (私の日本留学シリーズ#10)   本棚の最上段を見上げると、「ほぼ日手帳」が何冊か並んでいる。そこに私の日本留学の日々が書かれている。   私が東京に来たのは、2012年の春、6年前のことである。東日本大震災が起きた時は北京で留学申請の最中だった。母校北京外国語大学の自習室で、同級生たちとネットで流れている津波の映像を見て、皆唖然とした。CCTV(中国中央テレビ)はNHKの放送をほぼ同時に中継し、外国語大学の先生たちは同時通訳として夜遅くまでテレビ局で働いていた。学校の留学生棟の前にはいつの間にか長い列が出来、募金活動をしている日本人留学生は、貧乏学生の気前の良さに驚いた。こうした中で、周囲は心配し、私の日本留学を諦めるよう言ってきた。行くか行かないかで躊躇しなかったわけではないが、心のどこかで諦めきれなかった。   留学の最初の半年間は新生活に慣れつつ、心頭の憂いを払えなかった。留学の数ヶ月前に、父は交通事故で重傷を負い、母一人で看病していた。このことを契機に、私の心の中で、「守る」と「守られる」立場が逆転した。自分は急に大人になったと感じた。東京での生活に漸く慣れた頃、父もほぼ快復できた。夏のある日の午後、電話で久々に父の笑い声を聞いた。私は窓を開けてベランダで長い間日差しを眺めながら、時というものは妙な存在だなあと思った。あの事故は一秒遅くても起こらなかったし、一秒早くても起こらなかったはず。時の流れについては、聖人でも神様でも止めたり、逆戻りさせたりすることが出来ない。その一方で、時が経つにつれ、身体の傷も治るし、心の傷もすこしずつ忘れられる。勿論、新しい皮膚が出来ても、皮膚表層の下にその時の跡が残っているかもしれない。それでも、あの日の午後、私は庭に差し込んでいた日差しに安定感を感じ、生の喜びを味わった。   半年が過ぎ、忙しい日々が始まった。入試準備で、漢文訓読・崩し字・候文など、古典研究の基本を懸命に学んだ。入学するや否や、指導教官に学会発表を命じられた。本番の前に、3回ほどゼミで予行発表を行い、先生の指導を受けた。ゼミが終わってから、ゼミ生一同はサイゼリヤに転じて、検討会を行ってくれた。そこで先輩達にボロボロに批判された。何事も初めが難しい。あれほど指導や批判を受けたからこそ、私は初めての学会発表を無事に終え、それ以後の学会をも畏れなくなった。   普段、ゼミや読書会で中国・日本の古典を読み、夏休みや春休みに論文を書いたり、学会発表を準備したりするのが、私の基本的な生活スタイルであった。博士課程の最初の3年間は東京大学のゼミにも出席し、江戸時代の思想家の文献をひたすら読んだ。東京という文化都市にいる以上、時間を作って、能や歌舞伎を見に行ったり、コンサートを聴きに行ったり、博物館・美術館を訪れたりした。だが、基本的に研究三昧の日々であった。専門の本を読んで、疲れたら、文学や絵画など違うジャンルのものを読んだり、家事をしたり、散歩したりする。研究者は一人の時間が多い職種である。留学の間、時間との付き合い方を模索し続けた。   留学の後半に結婚した。相手(以下、W氏と称す)も研究者で、新居を探す時に、巻き尺で家々の各部屋の壁面積を測った。私はともかく、W氏は本が多く、本棚を置くスペースがほしかった。こんなに本が多くなかったら、同じ家賃でもっと優雅に暮らせる家があった。自分自身の引越より、本の引越なのだ。その時に、初めて覚悟ができた。引越してから、私はやや広くて日差しの多い部屋を書斎にし、W氏はやや狭くて緑の多い部屋を書斎とした。それぞれ中国思想と日本思想を研究しているが、儒学、特に朱子学などが二人にとって基礎教養であるため、蔵書のかなりの部分が共用できた。新居での生活が半年間過ぎ、W氏が仕事で北京に赴任した。   私は相変わらず西武新宿線の急行で通学する日々である。その頃から、博士論文に本格的に取組まなければと思った。ストレスが溜まった時、普段飲まない炭酸飲料を飲んだり、小説を読んだりして発散した。電車で本を読むのが、東京に来てから始まった習慣である。   昔から中島敦の作品が好きだったが、この時になってその明晰で、無駄が無く、味わいがある文体に一層惹かれ、書簡を含む全集を片っ端から読んだ。『弟子』に表われている師への視線、『斗南先生』における自己への洞察は、この時期の私とある程度問題意識が重なっていた。『わが西遊記』を読んで、彼の哲学的思考の幅に嘆服し、刺激を受けた。中島敦はパラオに単身赴任した時、家族に大量の書簡を送った。彼は病弱な身体に深い無力感を覚えながら、ほぼ毎日、南洋での見聞――花・食べ物・海・土着民――を文字にして、妻に手紙を寄せた。『山月記』や『李陵』などの小説における感情の発し方には美学がある。一方、妻への手紙における、心が激しく揺れたり、崩れたり、コンプレックスを抱いたりする飾り気なしの彼の感性も魅力的である。こうした中島敦の文学に触れ、知らず知らずに私は焦燥感がすこしずつ消え去り、自らの世界に安んじた。   暫くしたらこの町を離れるかもしれないが、今も庭前の桜吹雪を心静かに待っている。(2017年3月記)   <蒋建偉(ショウ・ケンイ)Jiang_Jianwei> 2016年度渥美奨学生。2013年4月に早稲田大学文学研究科東洋哲学コースに入学、現在は博士論文を提出し就職活動中。専門は日本近世思想史、特に水戸学を中心に研究している。       2017年8月3日配信
  • 2017.07.27

    エッセイ541:李志炯「想像力とその方向性」

    「対象をその現前がなくても直観の中で表象する能力」   「多様を一つの形象(Bild)へ持って来る能力」   哲学者イマヌエル・カントは想像力について上記のように語った。この想像力は感性と知性の中間的能力であり、感性と知性の概念を少しずつ含んでいる。感性と知性は知覚から始まる能力であるため、想像力も知覚から始まる能力と考えられている。   私達は日常生活の中でさまざまなものや環境を感性と知性を用いて知覚し、対象を理解している。そして、そこから得られた情報と想像力を用いていろいろなことを思考している。人類は、同様のプロセスによって現在の社会システムを知覚し、想像力を用いて未来の社会システムを予測し、社会システムを発展させてきた。つまり、想像力は社会システムの発展において欠かせない要素である。   一方、想像力は映画やアニメなどの芸術とよく結合する。映画やアニメは制作された当時の時代状況に想像力を加えて人間の未来像を描く。そのため、映画やアニメの仮想現実で描かれた社会システムが後で現実の社会システムに実現される場合もある。例えば、『ブレードランナー』(1982年作)、『ターミネーター』(1984年作)、『攻殼機動隊』(1995年作)、『ガタカ』(1998年作)などで見られた科学技術およびそれが適用された社会システムは、20~30年経った今の社会を構成している。   このように私達は想像力を基盤に生きて、想像力を基盤に社会システムを構築していく。想像力はとても大切な能力であり、人間の存在意義に影響を与える重要な要素であると言えるだろう。   一方、人間に大切な能力である想像力の向上のために努力することは大切であるが、想像力の方向性も重要である。上記で挙げた映画やアニメでは科学技術は進歩しているが、人間性は低下している傾向がみられる。また、人間に対する信頼が低下し、個人個人が孤独に生きているように見える。どうして私達の未来はこのように描かれるのだろう。科学技術の進歩は人間に利便性を与えるが、その代わりに人間性を奪うのか。   私はそうではないと思う。時代の変化によって人間性の概念は変容すると考えられるかもしれないが、人間性の根本的な概念は変わらないはずだ。また、科学技術の進歩は時代の変化によって変容した人間性の概念を、人間が身につけやすくするように助ける役割を担うと思う。このように私が持っている人間の未来像は、映画やアニメーションで描かれている人間の未来像と異なる。その理由は上記で述べた想像力の方向性にあると考えられる。   人間の明るい未来像を期待するためには、まず自分が持っている想像力の方向性を見直す必要がある。しかし、スマートフォンのゲームアプリケーションや仮想現実の実現などに想像力の方向を合わせている今の社会を見ると、人間の明るい未来像を期待することが可能かという懸念が生じる。もちろん、このような科学技術の発達によって人間は幸せを感じると思うが、そのほとんどは表面的な刺激による一時的な幸せではないのか。スマートフォンのゲームアプリケーションや仮想現実などはSociety5.0(超スマート社会)の主力産業であるIoT・ビッグデータ・人工知能・ロボットに符合する分野であり、その技術を発展させる必要がある。   しかし、ここ数年間の社会の変動や人間性の変化を見る限り、方向性についてもう一度考えてみる必要があると思う。私達は明るい未来像を期待して、科学技術を進歩させている。そのため、科学技術の進歩にかかわる人々の想像力の方向性を検討すべきであると思う。   <李 志炯(イ・ジヒョン)Lee Ji-Hyeong> 2007年啓明大学(韓国)産業デザイン科卒業。2007年6月来日、千葉大学大学院工学研究科デザイン科学専攻修士課程終了。2011年~2013年、千葉大学発ベンチャー企業BBStoneデザイン心理学研究所で研究員として勤め、現在は千葉大学大学院工学研究科デザイン科学専攻博士課程在学。韓国室内建築技士・日本ユニバーサルデザイン検定の資格を保有。     2017年7月17日配信
  • 2017.07.20

    エッセイ540:ジャクファル・イドルス「飯舘村からインドネシアの原発問題を考える:2015年秋のSGRAスタディツアーに参加して」

      私はジャワ島中部の北部海岸に面したジュパラという小さな港町で、高校まで平穏に育った。しかし、2000年に入った頃、政府が突然ジュパラ近郊にインドネシアで最初の原子力発電所の建設計画を発表したため、この静かな町はその賛否を巡って住民の間で激しい対立が生じることとなった。私も自然な流れで原発問題に関心を抱くようになっていた。その結果、私の日本留学の当初の目的は、原発が立地された地域住民の意識について調査を行うことにあった。   私が来日を果して間もなく、新潟中越沖地震が発生し、柏崎刈羽原子力発電所にかなり大きな被害がもたらされたと聞いた。私は自らの貧乏な生活を無視して妻を説得し、柏崎刈羽原発とその周辺地域の現地調査に向かった。   現地調査で出した私の結論は大きくまとめると次の2点であった。   第1に、さすが日本の原子力発電所は、世界一といわれる高い技術と安全性に守られて、これだけ大きな地震が起きてもその危険性は制御でき、深刻な被害には至らなかったということである。説明役の技術者は全く原発についての知識がないインドネシア人留学生に解り易い日本語で、驚く程親切な対応をしてくれた。そのため、今迄以上に「さすが日本だ」と日本の科学技術への信頼が高まったのである。   第2は、柏崎という小さな町の風景に驚かされたことである。柏崎は小さな地方の町にもかかわらず、あちらこちらに立派な学校、病院、市民会館、ホテル等が立ち並び、道路等インフラも整っていた。立派なスーパーマーケットに陳列された商品の値段が、当時私が住んでいた東京の町田よりもかなり安いのに驚かされた。これは、「電源三法交付金」という原発の立地に伴う仕組みによって実現したものである。ジュパラ住民がこの現実を知れば、私の故郷での原発を巡る激しい対立は一挙に解決するように私には思えた。もちろん、交付金のかなりの額は賄賂となって消えていくのであるが。   2011年3月11日、東北地方に発生した大地震により、福島第1原子力発電所で発生したメルトダウンによる原発事故が発生した。この事故から4年が経って、ようやく私に計画避難区域に指定された飯舘村の状況を視察する機会が訪れた。この村は福島原発から30キロメートル離れたところに位置しており、避難区域とされた20キロメートルの圏外にあった。この村の人口は約6000人で、日本でもっとも美しい100村のひとつであった。しかし、現在(注)、この村は「帰宅は許されるが、宿泊は禁止される」という村全体が絶滅状態に置かれている。   (注)2015年当時。飯舘村に対する「避難指示」は、2017年3月31日に解除され、4月から村民の帰還が始まっている。)   私自身、飯舘村の現状を直接眼で見て大きなショックを受けた。原発事故の恐ろしさを実感させられた。一体この問題の解決に今後何十年必要とするのか。誰もその見通しをつけることができない。先祖伝来の土地を奪われ、家族は離れ離れになり、村の人々にどんな新しい人生が待っているのだろうか。それは決して補償金で償えるものではない。原発に対する私の甘い考えは飯舘村の見学によって根底から吹き飛んだのである。 実は、原発ではないが、インドネシアでも似たような悲惨な出来事があった。   それはジャワ島最東部東ジャワ州にある第二の大都会スラバヤ市から南に25キロメートル離れているシドアルジョ県で起きた泥火山による熱泥などの噴出事故、いわゆるシドアルジョ泥噴出事故である。この事故の発端は、2006年5月29日、東ジャワ州シドアルジョ県ポロン郡レノクノゴ村でラピンド社が運営するブランタス鉱区のバンジャル・パンジ天然ガス田の掘削の失敗によって水蒸気噴出が起きたことだった。当初は、バンジャル・パンジ田近くの沼地から水蒸気が吹き出ただけだったが、突然、水蒸気とともに摂氏50度にも及ぶ熱い泥が噴出し、巨大な噴水のような泥は高さ8メートルにまで達した。その後噴出した泥の量は増え続け、毎日およそ1億2,600万平方メートルに上り、あっという間に広い範囲の地域に拡大していった。   発生から9年たった2015年現在、泥噴出は止まる気配さえない。具体的な被害状況は、3つの郡にまたがる12の村が壊滅的状態にある。この事故によりシドアルジョ県ポロン郡にあった10,426戸の住宅が全壊し、住居を失い、失業し、避難生活を続けている住民は 6万人に達している。   このような状況の下、インドネシア政府の避難住民に対する対応政策が何も行われないことに対して、故郷を奪われた村民たちは「自分たちは見捨てられた」と感じている。そして政府に対して強い批判と反発を生んでいるが補償は今なお困難である。   このような現状があったにもかかわらず、近年インドネシアでは原子力発電所の建設に関わる動きが再び活発になってきた。しかし、原子力に関する知識の不足、公共施設に対する管理能力の無さ、国家責任に対する無自覚などなど、インドネシアでは技術的な視点だけでなく、社会的・政治的な視点からも原子力発電所を建設するための環境条件は全く整っていない。万一事故が起こったら、政府は「国民を守れる」と自信を持って言えるのか、これらの問に答えを出せる者はインドネシアには誰もいない。   高度な安全性で、優秀な原子力の専門家や技術者が多い日本においてでさえ、福島原発事故を終わらせる道が未だ見えていない。「インドネシアの国民の発展のため」と考えるなら、原子力発電建設の計画は見直すべきところか、むしろ原子力発電所は不要であり、建設すべきではないといえる。   <M.ジャクファル・イドルス M. Jakfar Idrus> 2014年度渥美奨学生。インドネシア出身。ガジャマダ大学文学部日本語学科卒業。国士舘大学大学院政治学研究科に在籍し「国民国家形成における博覧会とその役割:西欧、日本、およびインドネシアを中心として」をテーマに博士論文執筆中。同大学21世紀アジア学部非常勤講師、アジア・日本研究センター客員研究員。研究領域はインドネシアを中心にアジア地域の政治と文化     2017年7月20日配信  
  • 2017.07.13

    エッセイ540:林泉忠「香港政治体制の権威主義化」

    (原文は『明報月刊』(2017年7月号付)に掲載。平井新訳)   香港返還後の政治体制の行方は、『香港基本法』にすでに関連規定が存在している。1997年に香港返還が行われてから現在に至るまで、特別行政区政府は基本法の規定に則り円滑に統治が進められるはずであった。しかし、香港が返還20周年を迎えた今年、香港の政治体制はいったい「行政主導」なのか、はたまた「三権分立」なのかという激しい論争が巻き起こっている。   皮肉なのは、この論争に巻き込まれている当事者は、すべて中国の『憲法』及び香港『基本法』に定義されている為政者であり、返還20年来の中国と香港の政治エリートの間に、将来の香港政治の進展の方向性に関し、著しい思想的な隔たりを示していることである。両者は未だコンセンサスには至っておらず、現在及び将来の香港政治体制の発展には多くの不確定要素が横たわっている。   一方、2014年6月に北京が「一国二制度白書」を発行して以来、中央政府は中連弁(中国中央政府駐香港連絡弁公室)も含め、香港政治に積極的に介入しており、香港特別行政区の政治運営を改めて規定し直す動きが日増しに明らかになっている。このことは、香港の政治制度改革が「権威主義化」の方向に進んでいるのではないかという疑いも招いている。   〇「行政主導」か、それとも「三権分立」か?   この論争に火をつけたのは、中共中央港澳工作協調小組組長(中国共産党中央香港・マカオ工作協調チーム・リーダー)を兼務する中国共産党7常務委員(チャイナセブン)序列第3位の人民代表大会委員長、張徳江が、今年の5月27日に「香港基本法施行20周年座談会」に出席した際に発表した談話で、「香港基本法が規定している特別行政区における政治体制は三権分立ではなく、特別行政区長官を中心とした行政主導である」との指摘だった。この一言は大きな波紋と香港の民主派の強い反発を招くことになり、「大律師公會」(Hong_Kong_Bar_Association:香港法廷弁護士会)主席の林定国も「『基本法』には香港が独立した司法権を有していると明記してあり、返還20年来、そのことは一度も変わっていない」と反論した。   6月10日に至り、後任の特別行政長官林鄭月娥がテレビのインタビューで「『基本法』には、立法機関が政府を監督する権利を有すると明記してある」と語ったことで、ようやくこの論争に一段落がついた。   それでは『香港基本法』はいったい「行政主導」を強調しているのか、それとも「三権分立」なのだろうか?基本法の条文を見ると、「政治体制」の部分では、第一節で述べられているのは、行政長官の職能であり、その後に行政機関、立法機関、司法機関について規定されている。しかし、『基本法』の全文には「行政主導」に対する言及も、「三権分立」という語句も記載されていない。すなわち、張徳江が「行政主導論」を提起したのは、「香港が中央直轄の下で高度な自治権を有する行政区画としての法律的地位を享有することに符合する」と考えているためであり、その後の議論が示しているのは、その目的が「中央と香港は授権・被授権関係にあること」及び「高度な自治の名の下に中央の権力に対抗することを認めない」という主張にあることは明白である。   民主派陣営は、張徳江に対して『基本法』の中に「行政主導」が規定されていないことを強調することで速やかに反論し、張の「行政主導論」は基本法が有する「三權分立」の精神を破壊するものだと批判したのである。しかし『基本法』の「政治体制」に対する規定全体をみわたせば、「行政主導」の含意も、行政・立法の相互のチェックアンドバランス及び司法機関が独立した裁判権を行使するという「三権分立」の精神も、どちらも『基本法』において解釈の余地があり、ただ中央政府及び建制派と民主派の間で自らの利益によって各々の解釈の重点が異なるだけである。   〇2047年の「行政主導」の思想を超えて   筆者の意見では、張徳江の「行政主導論」は、中連弁主任の張曉明が2015年9月12日に提起した長官が三権を凌駕するという「特首超然論」と合致しており、加えて2014年の「オキュパイ・セントラル」以来、北京が政治改革を始動する時に何度も保守的な立場を表明するなか、中南海が香港政治体制の発展の方向性を再度位置づけし直す意図があることが見てとれる。言い換えれば、北京はすでに行政長官の香港憲政における立法、司法に優越する特殊な地位を維持ないし強化する傾向にあるということである。また、中国と香港の関係において行政長官及び特別行政区政府が「被授権」の相対的に弱い地位にあることを強調し、こうした位置づけを通じ行政長官をコントロールすることで香港を掌握するという目的を達成しようということであろう。   実際のところ、北京の頭の中にあるのは現在の「香港問題」への対応のことのみならず、「50年間変わらない」と言われた香港の現在の統治体制が終了を迎える2047年以降までを、すでに思考の視野に入れていると思われる。ここ数年、香港憲政体制及び中国香港関係についての議論で高い注目を集めている北京航空航太大学高等研究院法学院副教授で一国二制度法律研究センター執行主任の田飛龍が最近執筆した『行政主導はもう時代遅れか?──香港憲制モデルの再思考』という論考の中で、「2047 年は、『一国二制度』と『香港基本法』の存廃を決める年ではなく、(香港統治の)生まれかわりの年、行政主導と香港行政長官が生まれかわる年であり、現在の論争はすべてそれまでの間に(統治の)理念及び条件を整える準備であるのだ」と指摘している。   はっきりしているのは、田飛龍は「存廃の存在しない」という「一国二制度」と「香港基本法」がいったい2047年以降いかに「生まれかわる」のかについて、決して説明しない。田がその部分について多くの含みを持たせているのは、明らかに30年後の中国の変化が香港の制度に及ぼす影響を予測するのは難しいことを考慮してのことであり、同時に中国共産党が「行政主導」を土台とした権力思考を放棄していないばかりか、将来の長期間にわたってそれを構築し続けるだろうという予測を導き出しているということだ。   こうした権力思考のコンテクストにおいて、香港特別行政区政府がたとえ将来に政治改革を始動したとしても、少なくとも行政長官の「普通選挙」に関しては必ず「完全に支配可能」という北京の要求の基盤に沿ったものでなければならないということが判断できる。言い換えれば、予見可能な将来に渡って、中国政府が2014年に規定した行政長官「普通選挙」の全人代「八三一枠組み」(民主派の立候補を排除する)を放棄するなどという見立ては恐らく幻想に過ぎないということである。そしてこうした「支配可能」な選挙モデルは、通常、政治学における政治体制の分類における権威主義体制の特徴と図らずも一致するのである。   〇「権威主義体制」下の「支配可能な選挙」   政治学において「権威主義体制」とは、「全体主義体制」と「民主体制」の中間に位置する政治体制である。たしかに民主主義の観点からいえば、権威主義体制も専制独裁体制に分類される体制である。ただ国家もしくはその権力者があらゆる社会的リソースをコントロールする「全体主義」とくらべれば、「権威主義」は、比較的に強い支配イデオロギーを欠いており、また、国家権力は人民に宗教活動を含めた自由な活動空間を許さないほどまでに強大ではない。このほかに、権威主義体制のもう一つの特徴として、ある程度までの選挙は許容されるものの、選挙結果は必ず支配可能なものだという点である。戦後、発展が比較的早かった中南米や東アジアの多くの新興工業国、特に「四小龍」と呼ばれた韓国、台湾、シンガポールを含め、多くの東南アジアの国家が形成した政治体制は、ほとんどが「権威主義体制」の範疇に属するものである。   しかし、これまで香港は決して典型的な権威主義政体ではなかった。というのも、香港は1990年代以前には、確かに完全な選挙ではないものの、それでも一般の権威主義政体がそれを欠いている所の言論の自由や報道の自由、学問の自由など相当程度まで保障されていた。イギリス時代末期にクリストファーパッテン総督による政治改革が返還後の逆コースで頓挫して以降、香港は進むべきもう一つの道として、『基本法』に基づき、それが提示する「普通選挙」の方向に向かって、まさに一歩一歩と新しい選挙制度を再建してきた。   しかし、07、08年の「ダブル普通選挙」の延期後、さらに2017年行政長官選挙を規定する「八三一決定」がお目見えとなるに至って、もはや北京の理解においては、行政長官及び立法会を選ぶ「ダブル普選」を含む香港における高度な選挙は、必ずすべて「支配可能」な条件の下で実施されなければならないというものであることは明白である。 この点から言って、北京の支配下にある返還後の香港の政治体制の発展趨勢は、すでに権威主義体制にますます近づきつつあるといえるだろう。   〇香港政治の「権威主義」化   中国共産党が1949年に大陸において政権を掌握して以降に構築したのは、ソ連を模倣した社会主義制度で、政治体制論から言えば「全体主義体制」に分類されるものだった。この制度の下では党と国の一体化が進み、党の意志がそのまま国家政策を形成する中で、政府は人民に思想統制を敷き、あらゆる市民社会の社会活動空間を掌握していた。   毛沢東の死去に至って、鄧小平による改革開放の推進の時代を迎え、鄧による「思想解放」のスローガンの下で、1980年代は中国大陸において、これまでで思想が最も自由闊達な時代となった。北京が香港返還後に実施した「一国二制度」、「港人治港(香港人による香港統治)」という思想もまた、こうした比較的に緩やかな政治的雰囲気の中で生じたものであった。趙紫陽の時期に入ると、中国共産党は部分的に政治体制改革を開始し、村民委員会選挙も導入することができた。一方、1980年代後期の香港は区議会選挙のみを開放するばかりだった。この時期は、台湾では李登輝が憲政改革を推進する以前のことであり、国会は依然として全面改選にまでは至らず、未だ地方選挙のレベルに止まっていた。言い換えれば、1980年代末までの両岸三地は民主改革の進展度合いに大きな差はなかったのである。   1989年の民主化運動及び「天安門事件」を経て、中国共産党は政治体制改革を中止し、権威主義政体から民主政体への移行の契機は消失した。この後は、「中国の台頭」、日増しに強大化する経済的パワー、「政権の安定維持」が中国共産党にとってますます強固となる基本的な思想となった。こうした思想のもとで、中国共産党は自ずと香港に対するそれまでの「寬容」な態度から徐々に引き締めに向かい、「国民教育科」の推進や「銅鑼灣書店事件」、さらに近年は直接的に香港の教育制度に手を伸ばすような手段を採るなどした。これらの動向は、どれも中国共産党が中国大陸をコントロールする際の手法を使用することで香港社会の反発に対処しようという傾向にあることを示している。   こうした鄧小平の「馬照ホウ(足包)、舞照跳(返還後も香港人の暮らしは今までと変わらない)」という考え方に反する思想は、「雨傘運動」後に更に顕在化しており、香港の「権威主義政体」への移行路線は今にも現実のものとなろうとしている。台湾はかつて権威主義時代を経験したものの、最終的には民主化の方向に向かっていった。一方、香港はこのまま「権威主義化」の方向に進むにせよ、将来的に「脱権威主義化」の方向に向かうにせよ、その将来の行方は完全に北京の手に握られていることは全く疑問の余地はない。これこそが香港と台湾の最大の相違点と言えるだろう。   <林 泉忠(リン・センチュウ)John_Chuan-Tiong_Lim> 国際政治専攻。2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員。2012年より台湾中央研究院近代史研究所副研究員、2014年より国立台湾大学兼任副教授。     2017年7月13日配信
  • 2017.07.03

    エッセイ539:葉文昌「忖度は日本の特性か」

    ここのところいろいろな事件によって、忖度という言葉が注目されている。既に今年の流行語大賞の有力候補であろう。そして、ニュースで、日本外国特派員協会において「忖度」の英訳に困って「Sontaku」というローマ字が使われたと報道されたように、忖度とは日本の特性と認識されている節がある。   しかし、そもそも「忖度」が初めて出現したのは少なくとも2700年前の詩経である。意味も「他人の心を読む」とある。中国から日本へ伝わったものであるから、日本人にはあって中国人にはないとは考えにくい。私の経験からしても忖度は中国や台湾でも日本以上にまかり通っている手法であり、私が台湾で初めて社会経験をした義務兵役でも、忖度することはとても大事だと先輩から教わり、実際に軍隊の中で忖度できる人は常にいい思いをしていたものだ。正門の衛兵が、夜中に直属ではない見知らぬ上官が外で飲んだくれて身分証明も見せずに入って来た時、あるいは上官が夜中に外部の女性を連れて入って来た時、銃を向けて「これ以上入ると銃を撃つぞ!」と言った日には、反省として一週間牢屋にぶち込まれ、先輩や直属上官からは「察しが利かないやつだ」、と笑われるに違いない。   ここまで察しや忖度などの力学で組織が動くようになると組織は危うくなるものだ。法治ではなくて人治になるからである。私は除隊後4か月で東京の大学へ入学した時の、人間関係の忖度や察しから解放された自由でクリアな気分を覚えている。このように、忖度の文化は、当時は日本よりも人治国家であった台湾の方が強かったというのが私の認識である。もっともこれは私の主観なので客観的にどこまで正しいかは断定できないが、少なくとも忖度は日本特有のものではないのである。   「日本人は以心伝心ができる」「日本人は味覚が鋭い」「日本人は繊細」とか「日本人はXX」という言い方をよく聞くが、私はあまり好きではない。裏を返せば「外国人は他人の心情領域にまで踏み込んでデリカシーがない」「外国人は味覚が鈍感」「外国人は粗削り」ということになり、差別意識を埋め込んでしまうことになるからだ。島根の中海では赤貝(実際はサルボウ貝)の養殖が盛んで、煮物が地元の味として食べられている。私は「蛤の美味しさは理解できるが、赤貝の美味しさがまだ理解できていない。」と人に言ったことがある。どういうところに旨味を感じるのかを教えてもらえば私もそこに注意してみたいと思ったのだが、「日本人の繊細な舌にしか理解できない」で片付けられるのが大抵のオチなのである。   なんとも歯がゆい。味覚については、どこの国でも自国メディアは国内のめでたいことしか報道しないから、自国民は秀でていると勘違いしがちなだけである。人口が日本の1/5の台湾が豊かになってからは、パン職人は欧米のコンクールで優勝しているし、地元のウィスキーが日本のウィスキー会社以上の賞を取ったこともある。従って台湾人の味覚が劣っているとは言えない。これからは豊かになった中国人が賞を取る時代が来るだろう。味覚は人間である以上人種によってそう変わるものではない。   「日本人は何事もオブラートに包む、空気を読む、相手の『察し』に期待して断片的にしか言葉にしない」と聞く。しかし京都人の「お茶漬けでもいかがどす?」に対して日本人にもいろいろな考えがあるように、私は日本人すべてが一様な考えとは思わない。私は20年近く前に「中国人はXX」と蔑んだことがあるが、私が未熟だったために偏見に満ちていたと今は気付いて反省している。人種や国籍による差異は、経済状況などのバイアスを受けるものの根本的な部分は小さく、それよりも内部の多様性による差異の方が大きいものである。何もかも人種の違いに解釈を見出すことは偏見を助長しかねないので不安を感じる。   <葉 文昌(よう・ぶんしょう) ☆ Yeh Wenchang> SGRA「環境とエネルギー」研究チーム研究員。2001年に東京工業大学を卒業後、台湾へ帰国。2001年、国立雲林科技大学助理教授、2002年、台湾科技大学助理教授、副教授。2010年4月より島根大学総合理工学研究科機械電気電子領域准教授。       2017年6月29日配信  
  • 2017.06.22

    エッセイ538:ラムサル ビカス「日本語のあいまいさ」

    人間はどんなに勉強しても、どんなに学習しても完全ではない。どんな分野であれ、完璧な人間はいないだろう。日本語に限らず、どんな事を習っても、その国の人のように理解するのは難しい。些細な事でも理解できない言葉も少なくない。日本語の中で私を最も悩ませるのはあいまいさである。そこで、今回はこのような日本語のあいまいさについていろいろ考えてみた。   あいまい表現とは直接ではなく、言いたいことを少し言い換えて(婉曲に)相手に伝えることである。翻っていえば、基準値が明確ではないため、相手を紛らわせる言葉ともいえる。例えば、感謝の気持ちを表すときに「どうも」という言葉をよく使う。「ありがとう」とも表せる言葉であるが、何かを謝るときの「ごめんなさい」も表してしまう。「すみません」も同様である。感謝の場合でも使え、また謝罪の時にも使える。一体何をしたいのだろう!謝っているのか、それとも礼を言っているのかを考えさせる表現である。   「結構です」もよく使われる。相手からご馳走になったとき「結構です」と言うのをよく見かけるが、これも2つの意味を表す。「おいしい」と「いりません」である。また、「ちょっと」も日本人がよく使う、とても便利で使いやすい言葉のようだ。しかし、外国人で、慣れていない人にとっては大変難しい。よく耳にするのは、「お食事は?」と聞かれ「今日はちょっと」という返事。これはどう考えても、わかりにくい。もう食べたのか、それとも食べてないのか、食べる気持ちがないのか、で惑わされる。   文法上は不備な言語構成であるが、日本人同士はこれで充分相互の意思疎通ができたのであり、それで不自由さを感じなかったのである。すなわち、外国人に会うことがほとんどなかった日本人社会では、このような会話でまったく問題がなく、この日本語で充分であった。   日本語のあいまいさとは日本の言語文化でもあり、知らず知らずのうちに使用してしまう場合も多い。提案書、設計書、報告書、さまざまな文書にあいまい表現は入り込み、技術提案書でよく出てくるあいまい表現もある。たとえば、進捗率70%と言った場合、どこまで進んで70%かは人や状況によって異なる。一見定量的な表現ではあるが、基準値が明確でないあいまい表現が圧倒的に多い(単位不明、期限が不明、対象範囲が不明、暗黙の了解)。   あいまい表現を分類しようにも書き切れないほどである。例えば、程度を表すあいまい表現は、すごく、適当、適切、ちょうど、かたい、だいたい、およそ、多く、きれい、~にくい(難しい)、少々、相当、少し、しっかり、あまり、一定の、きちんと、ほぼ、当分、はっきり、よく、大した、やや、などなどである。それに、調整に使うあいまい表現は、ちゃんと、しっかり、ただし、とにかく、~はず、~さえ、~ごとに、などがある。推測には、あれ、一応、くらい、だいたい、たいてい、およそ、~ようだ、~らしい、~だろう、などという言葉がある。まだまだ数えきれないほど、あいまいさを表す言葉は多い。   ここで自分の経験を挙げてみたい。日本へ来たばかりの私は、食事をしようと思ってレストランを探していた。片言の日本語を話せるレベルだったころのことだ。ラーメン屋で「ご飯お替り自由」と書いてあった看板を見て入店した。ラーメンを注文して、最後に、店員に「ご飯はいかがなさいますか」と勧められ、私は「ご飯はちょっと」と答えたが、30分たってもご飯が来ない、店員に聞くとご飯は頼んでいないことになっていた。その時の私は、ご飯を少なめにしてもらいたかっただけなのに、結局、ご飯にありつけなかった。   ここでは私の経験を生かして日本人と外国人の違いを述べたい。日本人は言語表現に際して、断定的にものを言うのを嫌う民族である。日本人はある現象にたいして、言語表現の文末に、意識的にわざわざ断定を避けて、それは「・・・でしょう」や「・・・であろう」といったように、あいまいに表現することが多い。自分では内心「これはこうだ」と思っていても、断定的な表現をわざとしないように「気をつかって(?)」「こうはこうであろう」と表現する。   その点、外国人の多くは、何事においても自分は「こう考える」とか「こうである」というように断定的に表現する。比較してみると、日本人は何事においても、自分の見解を述べるときには、断定を避けてあいまい表現に終始する態度をとるように見受けられる。この日本人のあいまい表現に対して、外国人はたいへん奇異に感じると同時に、自分の考えをわざと隠して述べない「ずるい」民族であると思う人さえいる。   私は、日本人の話し方に疑問を持っていないわけではない。しかし、このような紛らわしくて、わかりにくいあいまいさこそが日本の文化である。これによって日本人は日本人らしく表現することができる。日本人は、できるだけ争いを避けて平和に暮らしていこうという考え方の持ち主が多い。初めは面倒くさいと思ったことも、慣れていくうちにいつの間にか私も、あいまいな表現を使えるようになった。あいまいさがあるからこそ現代の奥ゆかしい日本文化が成り立っているような気がしてならない。   <ラムサル ビカス Lamsal_Bikash> 渥美国際交流財団2016年度奨学生。ネパールのトリブバン大学科学技術学部物理学科を終えて、2010年1月に日本語学生として来日。2014年3月に足利工業大学大学院修士課程を卒業。2017年3月に足利工業大学大学院情報・生産工学専攻より博士号を取得。現在は鹿島建設株式会社技術研究所先端・メカトロニクスグループ研究員。     2017年6月22日配信