SGRAかわらばん

  • 2011.03.09

    エッセイ282:金 雄煕「1300年前の東アジア地域交流とエスノセントリズム」

    (第10回日韓アジア未来フォーラム報告) 一年ほど前の2010年2月9日、韓国の慶州で「東アジアにおける公演文化の発生と現在:その普遍性と独自性」というテーマで第9回日韓アジア未来フォーラムが開催された。今年の2月は、その続編として日本の慶州とも言うべき奈良で奈良時代の仏教文化の日中韓三国流伝について検討する運びとなった。第10回フォーラムの正式なタイトルは「1300年前の東アジア地域交流」であった。 昨年度の慶州フォーラムで奈良から空輸してきた一升瓶の「春鹿」が目の前で消えてしまう大事件があったのは記憶に新しい。今回のフォーラムは、武蔵野美術大学の陸戴和さんのご案内で興福寺及び国宝館を見学することから始まったが、目玉は今西酒造「春鹿」の酒蔵見学及び利き酒だったのかもしれない。これできっと遺恨を散ずることに成功したのではないかと思う。もちろん、三日連続の日本の素晴らしい仏教文化や世界遺産の見学も貴重な経験だったが(個人的には三日でこんなにたくさんの仏さんに出会ったのはこれまでもなかったし、これからもないだろうと思う。)、「春鹿」でちゃんとけじめをつけることができたのもよかった。 フォーラム当日、私の予想からしては「満員御礼」に近いレベルの聴衆に驚いたし、講演内容の整合性にも感動を覚えた。いま考えてみると、本当に形式、内容、そして番外の三拍子が揃った素晴らしいフォーラムが出来たと思う。今回のフォーラムで、私はとりわけ文化交流やその解釈においてはエスノセントリズム(ethnocentrism、自民族中心主義、自文化中心主義)が付きまとうものなのかという問題について考えてみた。 奈良という地名の由来については朝鮮半島起源説があり、韓国人の間では結構受けがいいようだ。韓国語で「なら」と発音される言葉は日本語の「国」を意味する。韓国語の「なら」が日本に渡って当て字され、奈良となったというわけだ。百済(くだら)の日本語読みについても同様の文脈で説明することができる。大きいという意味の韓国語である「クン」が「なら」の前に付くと大きい国を意味するが、「くんなら」から「くだら」へと自然に読み方が変わったというのだ。当時の日本にとって百済は大きい国であったわけだ。この類のものは決して少なくない。 韓国で地域によっては奈良漬(ならづけ)という言葉が今でも通じる。日本とまったく同じことを指しているのだが、日本帝国時代の名残といって言葉の使用には慎重さを要する。日韓交流の歴史的な経緯を考えると、「なら」という言葉に込められている二重の含意はそれほど驚きに値しないものなのかもしれない。 昨年奈良を中心に開催された一連の平城京遷都1300年の祝賀イベントからも覗えるように、奈良時代には唐の都長安を中心とした東アジア文化圏が形成されていた。名古屋大学の胡潔さんの発表によると、仏教・律令・漢字などがこの文化交流圏の共通基盤をなしており、国家間の外交を担う「遣隋使」、「遣唐使」、「渤海使」、「新羅使」などの使者、唐の文化を学ぶために派遣された学生・学問僧達が中国、朝鮮半島、日本の間を行き来し、外交や文化の伝播の役割を果たしていた。既に1300年前からこの地域には素晴らしい文化交流があったのだ。 このあたりで韓国伝統文化学校の金尚泰さんによる仏教文化に関する興味深い発表を紹介しよう。古代東アジア地域における双搭式伽藍配置の背景としては護国伽藍や密教関連の伽藍が挙げられるが、このような空間構成の原理は日本の双搭伽藍においてもその関連性を見出すことができるという内容である。7世紀から8世紀の東アジア地域では仏教が盛行し、寺院では、二つの塔を金堂の前に配置する「双搭式伽藍配置」が流行したという。しかし、中国では、このような形式の伽藍配置として現存している事例はまだ確認されていない。韓国の場合は、多くの寺院がこのような配置を継承しており、奈良(西の京)の薬師寺の伽藍配置のモデルとなったという。 統一新羅時代の朝鮮半島で花を咲かせた双搭伽藍が中国とは別の独自なルートで日本に影響を及ぼしたということが指摘されているわけだ。ややもすれば1300年前の仏教をめぐる素晴らしい交流文化がエスノセントリズムに染められかねないところでもあった。金尚泰さんは最後まで中庸を守りきったと思われるが、エスノセントリズムの甘い誘惑から自由にいられる韓国人はどのぐらいいるだろうか。 以上の話は、仏教文化には門外漢である一韓国人として、あくまでも韓国を愛し、真の日韓交流を求める立場からの自己批判でもある。ところが、いうまでもなく、エスノセントリズムは韓国人の専有物ではあるまい。異文化交流には常に自文化中心主義の落とし穴が隠されている。日韓アジア未来フォーラムは、これまでそうだったように、これからもエスノセントリズムという共通の敵と戦いながら東アジア地域交流を積極的に進めていく場になってほしい。 -------------------------- <金 雄熙(キム・ウンヒ)☆ Kim Woonghee> ソウル大学外交学科卒業。筑波大学大学院国際政治経済学研究科より修士・博士。論文は「同意調達の浸透性ネットワークとしての政府諮問機関に関する研究」。韓国電子通信研究院を経て、現在、仁荷大学国際通商学部副教授。未来人力研究院とSGRA双方の研究員として日韓アジア未来フォーラムを推進している。 ------------------------- フォーラムのプログラム等はここからご覧ください。 フォーラムの写真は下記よりご覧ください。  金ミンスク撮影  金 香海撮影  葉 文昌撮影 2011年3月9日配信
  • 2011.03.02

    エッセイ281:林 泉忠「エジプト革命 アメリカは何を恐れているのか?」

    エジプト大統領の座に未練を持っていたムバラクは18日間の悪戦苦闘を経て、ようやく人民の力の前に屈服した。独裁者として権謀術策を弄することで30年間も独占しつづけた大統領官邸から逃げ出した。 しかし、このエジプトの衝撃的な一幕は、東アジアの民衆にとっては身に覚えのないことではない。1986年にフィリピン大統領マルコスも人民の力に惨敗し、夜中にヘリコプターでハワイに逃亡したことは全世界に知られている。当時、このフィリピンで巻き起こった民主運動のうねりは、一方で自由民主主義の旗を掲げつつ、親米的な独裁政権を庇うというアメリカの姑息なダブルスタンダードをすっぱ抜くことになった。ただし、冷戦終了後でも、アメリカは「テロ対策」のために、この矛盾に満ちた外交方針を維持し続けている。これこそ、オバマ政権がエジプト民主運動に対して態度を決めかねて、動揺している要因である。 アメリカのエジプトへの「読み間違い」と動揺 オバマ政権がエジプト政権崩壊後に発表した声明では、エジプト人民が非暴力的な手段によって正義を勝ち抜いたことを褒め称えていた。しかし、エジプト民衆の感情が激しく湧き返っていたあの18日間、ホワイトハウスの態度はムバラク政権と広場にいる民衆の間を右往左往し、二股を掛けた態度で臨んでいた。アメリカ副大統領バイデンは、カイロ市民抗議集会が行われた当初、「ムバラクは独裁者ではない」と明言し、国務長官ヒラリーも「ムバラク政権は安定している」と語っている。抗議行動が次第に拡大するにつれ、ホワイトハウスはようやく用心深く口調を変えて、「秩序ある権力の移行」を要求するようになった。これもまた、実権をムバラクの親米路線を継続できそうなスレイマン副大統領にスムーズに移してほしいという願いがあったからである。 アメリカがこれほど「用心深い」のは、アメリカの「国益」を配慮しているからであるが、そこには「イランの悪夢」の再来を恐れているということがあるのではないか。 昔のカーターのイランは今日のオバマのエジプト? 1979年、イラン革命が勃発して民主政体が解体され、イスラム共和国が打ち立てられた。この西方諸国を混乱させる革命が起きた後、イランの「アメリカ大使館人質事件」が発生した。当時急進派のイラン学生たちはテヘランにあるアメリカ大使館を占拠し、66人を人質にして、444日間も身柄を拘束していた。事件後、アメリカのカーター大統領は再選に失敗した。この革命はイランを親米から反米へ導き、今日に至ってもなお尾を引いている。したがって、エジプトでイランの失敗を繰り返すのではないかということこそ、まさにオバマ政権が憂えているところなのである。当時、前国家安全保障会議顧問ブレジンスキーは、特殊部隊を使って大使館を奇襲することをカーターに提案したが、失敗に終わってしまった。それから31年後、ブレジンスキーはエジプト情勢に対して「冷静に」対応すべきだと示しているが、これも昔の「イランの悪夢」の暗い影がまだ残っているからかもしれない。 昔のカーターにとってのイランは、今日のオバマにとってのエジプトになるかどうかに言及するのは早計かもしれない。しかし、今回のエジプトの民主化運動がアメリカの利益に衝撃を与えることは一目瞭然であろう。 まず、アメリカが最も望まないのはムバラク政権後のエジプトが、イスラム原理主義勢力が主導する国になることであろう。エジプトの人民は奮い立っているが、頭となる人物が存在しない。各方面の勢力が隙あらばつけ入ろうと機会をうかがっている。アメリカはリアルタイムで迅速にエジプト情勢に介入し、エジプト政権を副大統領に移そうと図っていた。オバマ政府はアルカーイダ組織の浸透を防止する一方で、イスラム原理主義の色彩を帯びている、大きな政治勢力になり得るムスリム同胞団に対しても警戒心を持っている。それは、ムスリム同胞団がいざ権力を握ると、エジプトとアメリカの関係に大きな変化をもたらすだけでなく、イスラエルとの関係を再調整する可能性もあり、アメリカの中東政策に打撃を与える恐れがある。 アメリカ社会は石油の急騰を恐れている 反米的なイスラム原理主義勢力の蔓延を憂える外、全世界屈指のエネルギー消費大国で、世界一のマイカー族を有するアメリカにとっては、石油価額の不安定も最も恐れていることである。エジプトは原油を輸出するわけではないが、膨大な製油工業を有している。毎日110万バレル余りの石油を輸出するだけでなく、スエズ運河を通して運送されている石油も200万バレルに達しており、中東石油輸出の重要な命脈を握っている。 かつてアメリカがイラクを攻撃した本当の理由の一つは、石油の安定供給をコントロールするためであった。したがって、石油はアメリカがエジプトの政権の調整に介入した重要な理由であった。 エジプト憲法の規定により、大統領が辞任した後66日以内に選挙を行わなければならない。しかし、最高軍事委員会は半年以内に大統領選挙と国会議員選挙を行うと強調している。いずれにせよ、アメリカが如何に大統領選挙を主導するエジプト軍事勢力を通じて、イスラム原理主義勢力の浸透を防ぎ、新しい親米勢力を育成するかは、これから先数か月のオバマ政策の注目すべき焦点であろう。 (2011年2月12日 香港島にて) (本稿は『明報』(香港)2011年2月17日に掲載された記事「埃及變天 美國最怕什麽?」を本人の承諾を得て日本語に訳しました。原文は中国語。李軍訳) ---------------------------------- <林 泉忠(リム・チュアンティオン)☆ John Chuan-Tiong Lim> 国際政治専攻。中国で初等教育、香港で中等教育、そして日本で高等教育を受け、2002年東京大学より博士号を取得(法学博士)。同年より琉球大学法文学部准教授。2008年より2年間ハーバード大学客員研究員、2010年夏台湾大学客員研究員。 ---------------------------------- 2011年3月2日配信
  • 2011.02.16

    エッセイ280:オリガ・ホメンコ「白パンと夢」

    彼女は、もう50年近く、国語の先生として働いています。小さな村の出身で、4歳の時に父親を亡くして口数の少ない母親に育てられた彼女は、小さい時から村の悲惨な生活を脱出することを夢見ていました。彼女が村の学校で一番好きな先生は国語の先生でした。生徒たちはそのおじさん先生の家によく遊びに行きました。優しい先生でした。戦争でほとんど父親を失くした村の子供達にとって、イワン先生がその役割を補っていたにちがいありません。 だがイワン先生の家は、みんなと違って裕福でした。たった一つの違いなのに、その違いはものすごく大きかったのです。彼の食卓にはいつも白パンがありました。細長くて、外側がかりかりしていて、他の家ではお祭りにしかでてこなかった宝物の白パン。その当時村のほとんどの人は黒パンしか買えませんでした。白パンは贅沢品でした。 その白パンを見て小さなオレクサンドラは考えました。「私も一所懸命勉強して、学校の先生になろう。私の食卓にもいつも白パンがあるように!」。そのたった一つの密かな理由で、15歳の時に先生になる勉強をするために村を離れました。もちろん、食べること以外に、詩や歌なども好きでした。最も好きだったのは作文を書くこと。地理は嫌いでした。彼女の小さな村のクラスの生徒は5人だけで、地図もない学校だったからです。今では信じられないけど、1950年代半ば、戦後のウクライナの状況はこのようでした。 それから、50年以上、町に住んで国語の先生として仕事をしているのは私の母です。白パンや地図は学校にも家にもあります。彼女の教え子は、既に数万人もいます。スポーツ選手、作家、俳優、医者、技師など、いろいろな専門を選んだ人たちがいます。一緒に出かけると全然知らない人から話しかけられます。昔教えた子が話かけてくれることが多いのです。もう顔がわからない場合が多いけれども、名前を聞くと思い出すみたい。やっぱり、さすが学校の先生。 先日、学校にスウェーデンの先生方が研修に訪れました。その先生方がママの勤務歴を聞いた時に、とても驚いたそうです。50年間も学校で働いている先生はスウェーデンではほとんど居ないそうです。ママは彼らの驚いた顔を見て微笑んでいたようです。白パンの話はしなかったみたい。ソ連時代、ウクライナ学校が少なかったために、ウクライナ語を教えられる先生が少なくなりました。それで、ママは70歳になった今でもウクライナ語を学校で教えているのです。ウクライナの国語を。 ママは、子どもの時に見たものや、出会った人から受けたインスピレ-ションが大事だと、私に良く言います。小さなインスピレーションが大きな夢に繋がり、より良い将来を呼ぶことができると。 昔ながらの白パンを見ると、ママの小さい時の話を思い出します・・・そうするとまた頑張る勇気が湧いて来きます・・・ ------------------------------------ <オリガ・ホメンコ ☆ Olga Khomenko> 「戦後の広告と女性アイデンティティの関係について」の研究により、2005年東京大学総合文化研究科より博士号を取得。2006年11月から2008年12月まで学術振興会研究員として早稲田大学で研究。2005年11月に「現代ウクライナ短編集」を群像社から出版。現在キエフでフリーの日本語通訳や翻訳、NHKやBBCのフリーランス記者など、広い範囲で活躍している。 ------------------------------------ 2011年2月16日配信
  • 2011.02.09

    エッセイ279:ホサム・ダルウィッシュ「最近のエジプト情勢についての所見」

    数十年に亘る抑圧と支配を経て、エジプト人たちはやっと現支配体制に対抗して立ちあがった。彼らは悪化の一途をたどる自分たちの苦しい状況は、現体制の本質に起因することに気づいたのだ。その体制とは、貧困や不正、治安当局による人権の侵害、そしてエリート階層に於ける縁故主義によって国家を腐敗へと導いた体制である。 2011年1月25日の抗議運動の勃発以降、エジプトは歴史上もっとも重要な出来事を経験してきている。興味深いのは、この1月25日という日が、エジプトの警察がイスマイリーヤで英国の植民地支配に抵抗して戦ったことを記念して制定された「警察の日」であることだ。しかし、2011年の同じ1月25日に勃発した抗議運動は、警察による度重なる人権侵害に抗議すべく始まったものである。これは偶然と言えるのだろうか。人々はムバーラク大統領の支配とその政権の即時退陣を要求してきた。抗議運動を始めたのは、過去20年間に積み重なる経済的・社会的苦難を忍び、国民を守るという国家の役割が衰退していくのを見て来た中流階級の高学歴の若者たちである。国家の役割が衰退した原因は、富裕層と政治権力の結びつきにあり、これにより汚職が蔓延し、貧困と失業が拡大した。 この抗議運動の引き金を引いたのは若者たちであったが、すぐにエジプト中のあらゆる社会を巻き込んだ。抗議活動は2011年1月28日の「怒りの金曜日」にクライマックスを迎え、数百万人が抗議デモに参加し、ムバーラク体制の退陣を要求して、エジプト中の通りを行進した。翌週の金曜日の2月4日は、「ムバーラクが去る日」と名付けられ、再びムバーラク大統領退陣要求を強めるエジプト人で街が溢れかえった。 今回のエジプトにおける抗議運動の性格は、2000年から2010年にかけてエジプトで起こった抗議活動とは全く異なる。このときの抗議運動は、主に賃金の改定と経済・政治改革を求めるものだった。しかしながら、今般の抗議運動は過去の抗議運動と以下の観点で異なる。 (1) 第一に、地域的に考えると、エジプトの人々はチュニジア革命にインスピレーションを受け、政治的な権利と自由を要求し、国の腐敗と縁故主義に終止符を打つことを求めて抗議運動を起こした。とは言え、地域的な問題が抗議運動勃発の原因となった訳ではない。 (2) 第二に、抗議運動は主に国内問題に起因していて、地域問題や米国やイスラエルの政策といった国際問題とは無関係である。今回エジプトで起きたことは、1979年の「アメリカとイスラエルに死を」といった地域的・国際的勢力に対するスローガンを掲げ「シャー」の没落に繋がったイラン革命とは異なる。エジプトに於ける抗議運動の真の関心事は、階級や宗教的背景とは関係のない純粋なエジプト市民の国内問題で、アメリカの政策やパレスチナ問題のような地域的問題とは関係がない。今回の抗議活動の市民的特徴として、かつてエジプトの政治を特徴付けてきたイデオロギー的な分水嶺を、エジプト人が越えたことを示している。イデオロギー的なレトリックが無いことが、エジプトの若者たちによる動員を促進した。若者たちがインターネット上で、そしてエジプトの街頭で数百万人の人々を動員することに成功したことは、彼らがエジプトの全ての人々に語りかけ、エジプトの全ての人々のために語ることができることを証明したのである。 (3) 第三に、エジプトのあらゆる地方で今、人々が求める変革は、社会・経済的な改革と政治的な改革を合わせたものである。これは1952年にエジプトが共和国となって以来、エジプトの抗議運動としては極めて珍しい。このような新しい抗議運動が生まれた背景には、エジプトの人々が、自分たちの社会・経済的状況の悪化の背後に政治の腐敗があるということにより意識を強めたことがある。街頭での抗議運動をこれまで12日間続けられたことは、エジプトの人々が、未来への願いをかなえるためには本格的な政権交代が肝要であり、それが唯一の方法であると確信するようになったことを明確に示している。 チュニジアとエジプトの革命の重要性は、恐怖心に打ち勝ち、多くの学者たちによってアラブ世界における「永続的かつ安定的な独裁体制」と呼ばれたエジプトの独裁体制に立ち向かうことのできる若者たち(他のどの組織された政治勢力でもなく)の力にある。学者達は常に、このような永続的な独裁主義的政権は、エリート層の連合に対する劇的な変革が行われない限り、変化は決して起きないと信じていた。しかしながらチュニジアとエジプトの人々は、変革が底辺から起こりうることを証明した。エリートではなく一般大衆による本質的な改革の要求というこの新しい現象は、抗議活動を勢いつかせた若者たちの役割にその特徴がある。合法的反対勢力(ムスリム同胞団は非合法化されている)のどれもが、今回エジプトで見られたような、前例のない数の、あらゆる職業のエジプト人を街頭に駆り出せなかったことは、抗議活動に参加した若者たちが将来のエジプトを切り開いて行く際、より幅広い国民参加を作り出す力があることを明確に示している。 今回の抗議運動の未曽有の力によって、発生から10日もたたないうちに、ムバーラク大統領は、1981年大統領に就任して以来、初めて副大統領を指名し、内閣を総辞職させ、新内閣を組閣し、2011年9月の大統領選には出馬しないことを宣言し、2月5日には次男を与党の重要ポストから事実上解雇し、そしてムバーラク自身、2月6日に与党国民民主党の党首を退くことを余儀無くされた。 別の言い方をすれば、ムバーラクがこれまでの10年間準備して来た父から息子への権力移譲のシナリオは、革命を先導する7百万人の抗議者の目前で瞬時にして消え去った。しかしながら、与党の党首を辞任したことは、大統領の職を辞することを意味するわけではなく、むしろ体制のトップを入れ替え人々の怒りを吸収し、ムバーラク自身が出来るだけ長く権力の座にしがみつくことを目指している。 しかし、ここで我々は、抗議活動を行った後に現行政権下で交渉をする抗議活動と、今回のように現在の政権の指導部と重要人物たちを引きずり降ろし、本格的な変革を求める革命的抗議運動を区別しなければいけない。今回の抗議運動は継続する一連の抗議活動であり、ムバーラクと彼の政権が権力の座にしがみ付いている限り続くと見られる。 ムバーラクと現行政権と同じ側に立つことのリスクを上げることで、エリート層とビジネス界、そしてさらに重要な軍との同盟関係を転換させるには、エジプト社会のあらゆるセクターを抗議運動に取り込むことが重要である。そして、そのためには、エジプトの街頭で繰り広げられる統合された妥協の無い抗議を繰り返すことが必要である。妥協のない抗議運動によって軍が抗議者側につくことを余儀無くされた場合、我々は安定した権力の移譲を見るだろう。しかし、それは必ずしも民主的なものにはならないだろう。 軍を周縁に追いやったチュニジアのベン・アリと異なり、革命を弱体化させるためにムバーラクがとった最初の手は、軍部と密接に繋がった力のある人物を要職につけることだった。ムバーラクは、まず、総合情報庁長官を務めていたウマル・スレイマーンを副大統領に、次に航空相のアフマド・シャフィークを首相に任命した。チュニジアでは軍が民衆の側に立ったが、ムバーラクは、軍と繋がりのある人物を要職に任命することで、軍が彼に敵対しないようにすることを狙った。また、抗議活動を暴力的に鎮めたり、無政府状況を作り上げて民衆を孤立させ、政府が繰り出す暴漢らに立ち向かわせたり(過去、国会議員の選挙中、投票を妨害するためにそのようなことが実際に起きた)する次の計画の際に、軍が中立を保つようにすることを狙っていた。ムバーラクがとったこのような対策の全てが、政権の生き残りをかけて、本当の変革を要求する支持者たちの気を紛らわせ、その要求を風化させることを狙ったものであった。  ムバーラクが抗議者たちの要求を鎮めるためにとった二つ目の作戦は、エジプトにおいて最も組織化された非合法で社会・政治的な反対勢力であるムスリム同胞団を、抗議運動を扇動したとして批判することだった。そして、現政権に取って代わるとすれば、それは西側諸国とイスラエルの双方に敵対的なイスラーム主義国家しかないと西側諸国にアピールするために、ムスリム同胞団の幹部を大量に逮捕したのである。 しかしもう一度今回の抗議運動をよく見てみると、ムスリム同胞団は指導的な役割を果たしておらず、抗議者たちの大多数を代表しているわけではないことに気付く。エジプトの革命的な変革の危険性をイランと比べるのではなく、トルコに目を向けるべきであろう。トルコでは政府の役人の大多数がイスラーム主義者であるが、憲法と民主的な規範の上に成り立ち、社会を構成する全員が公正で自由な選挙に参加することができる。 もうひとつ指摘しておきたいことは、チュニジアやエジプトの変化を黒(権威主義)から白(民主主義)への変化という枠組みでとらえるべきでないということだ。むしろ、黒から、右派から左派までを含む政治勢力の全てを代表するような様々な色へと変化するかもしれない。そして、エジプト社会の全ての勢力がそろって席に着き、自分たちの国の将来について話し合わなければならなくなるかもしれない。今、エジプトの情勢を見守る人々が一番心配しなくてはならないことは、ムバーラクが退任するかどうかではなく、ムバーラク体制の後に、軍がエジプト政治においてどのような役割を果たすようになるかということだ。 今後数日の間に、どのような事態になるかわからないが、エジプトで今日起きていることが、この地域の他の国々に影響を与えることは確かである。なぜなら、アラブの国家は全て、エジプトの人々が今引きずり降ろそうとしている体制と似通った権威主義体制によって成り立っているからである。 (原文は英語、河村一雄訳) ※本エッセイは、2月6日に執筆したものであり、その後も情勢は変化しているのでご留意願います。 --------------------------------------------- <ホサム・ダルウィッシュ ☆ Housam Darwisheh> 1979年、シリア(ダマスカス)生まれ。2002年、ダマスカス大学英文学・言語学部学士。2006年、東京外国語大学大学院地域文化研究科平和構築・紛争予防プログラム修士。2010年同博士。現在、東京外国語大学大学院講師・研究員。趣味は、ジョギング、ダルブッカ(中東地域の太鼓)演奏、ダンス。 --------------------------------------------- 2011年2月9日配信
  • 2011.02.02

    エッセイ278:李 鋼哲「米中の実利外交と日本の『失われた10年』」

    新年早々の1月19日から21日まで、胡錦濤国家主席が訪米し、オバマ大統領との首脳会談が行われ「米中共同声明」も発表された。日本のマスコミ報道では米中関係の問題点ばかりに焦点が当てられ、如何にも偏っており、苦笑いしか出てこなかった。米中は見事な実利外交を行っているのに、日本は第三者のように評論ばかりしていていいのか、筆者は憂慮せざるをえない。 「日本の国益」を口癖のように唱えている日本の一部の政治家やマスコミ、「有識者」などは冷静に、かつ真剣に「本当の日本の国益は何か」を考えるべきであり、米中の「実利外交」から学ぶことを勧めたい。中国に対する「一党独裁」、「覇権」、「人権」、「価値観外交」という脅威論的な思考経路から脱却できない日本の対中関係は「失われた10年」と呼ぶのが適切なように思う。 今回の米中首脳会談は、中国にとって画期的な外交成果と言えるだろう。数年前から米国で言い出した「G2」(中国は「受け入れない」と言っている)が、中国のGDPが昨年末に日本を超え世界第二位(購買力平価では日本を二倍以上超え米国に匹敵するとの試算もある)となったことを踏まえ、実質的には世界の二つの超大国が手を結ぶ第一歩を踏み出した。 米国は一方では「価値観外交」で中国に文句を言いながらも、他方では「国益優先」の実利外交を巧みに、そして戦略的に進めている。それはブッシュ前政権でもオバマ現政権でも変わらない。今度の胡氏の訪米で、450億米ドルのボーイングも含めた大型買付、対米投資32.4億米ドルも合意された。これは米国で20~30万人の雇用創出に繋がるという。対中投資でも2010年末までの累積で5.9万件(投資金額652億米ドル)に達し、米国は中国経済成長の果実を着実に享受している。今後もしばらくは米中の実利外交は両国に大きな利益を生み続けるに違いない。 これとは対照的に、日本は79年から08年まで対中ODA最大の供与国(2008年までの累計約3兆6千億円)で中国経済発展を支えたという有利な立場にありながら、それに見合う果実を十分に享受できただろうか。答えはNOである。この10年間は対中実利を応分に獲得できなかった「失われた10年」と言っても過言ではないだろう。日中関係は「政冷経熱」という言葉がよく使われているが、筆者はかつて「政冷経涼」という用語で日中関係の現実を分析したことがある。つまり、政治関係も冷たければ、経済関係も涼しくなりつつあるということ。反日デモやマスコミの過剰な嫌中報道で日本企業の対中国戦略は大きな圧力を受けていることも見逃せない。 例えば、日中両国の貿易や投資の数字だけみれば確かに「経熱」といえるだろう。1999-2009年までの10年間、日本の対中国貿易は輸出が234億米ドルから1,096億米ドル、4.7倍増加、輸入が323億米ドルから1,045億米ドル、3.2倍増加した。この倍率をみると日本の対中国貿易は日本と他の国との貿易に比べると急成長したのは間違いない。しかし、同時期に米国の対中国貿易は輸出が129億米ドルから695億米ドル、5.4倍増加、輸入が420億米ドルから2,517億米ドル、6.0倍に増加した。また、同時期にEUの対中国貿易は輸出が209億米ドルから1,143億米ドル、5.5倍増加、輸入が320億米ドルから2,518億米ドル、7.8倍増加した。また隣の韓国は対中国経済関係が最も緊密になった。対中国貿易では輸出が172億米ドルから1,003億米ドル、5.8倍増加、輸入では78億米ドルから537億米ドル、6.8倍増加した。対中国投資でも、米国、EU、韓国などは中国市場に官民共同で乗り込み、巨大な「実利」を得ている。 中国という畑を耕すのに最も貢献した日本は、収穫時期に来ているはずなのに他国がより多く収穫しているのではないか。小泉政権の「靖国外交」から安倍政権の「価値観外交」、そして現在の菅政権の「対米基軸外交」などが、日中間の距離を大きく引き離したことと無関係ではない。 もちろん中国の対日外交も成功したとは言えない。しかし、中国からみると、日本との経済関係で得る利益は欧米やその他の地域と比べると著しく低下している。現状の日中関係のままだと、今後の10年も「経涼」がさらに進むかも知れない。なぜかというと2008年以降、日本の対中国ODAの9割を占める円借款が終了したからである。それでも中国にとって日本が重要な経済的なパートナーであることは間違いないが、欧米やアジアの他の地域に比べて、その存在感が引き続き低下するかも知れない。 --------------------------------- <李 鋼哲(り・こうてつ)☆ Li Kotetsu> 1985年中央民族学院(中国)哲学科卒業。91年来日、立教大学経済学部博士課程修了。東北アジア地域経済を専門に政策研究に従事し、東京財団、名古屋大学などで研究、総合研究開発機構(NIRA)主任研究員を経て、現在、北陸大学教授。日中韓3カ国を舞台に国際的な研究交流活動の架け橋の役割を果たしている。SGRA研究員。著書に『東アジア共同体に向けて―新しいアジア人意識の確立』(2005日本講演)、その他論文やコラム多数。 --------------------------------- 2011年2月2日配信
  • 2011.01.19

    エッセイ277:李 軍「同根異枝の日中漢字(その2)掛詞篇」

    11月末にある学会に参加した。12時半から18時までの長丁場の発表だったので、最後の方では、発表者も参加者もみんな疲れ切ってしまった。そんな中、ようやく主催側の最後のあいさつになったが、あいさつをされた先生が学会と関係のない話で締めくくって、みんなの疲れを吹き飛ばしてくださった。それは次のような内容であった。「先日、歯が一本抜けましてね、病院に行きました。この年になると、歯無し話をすると本当にかなしいものだ。みなさんはまだ若いから、このぐらいの学会で疲れた顔をしないでくださいね」と。今の季節は「歯無し」ではなく、「葉無し」になるかなぁと、「はなし」に相当する様々な当て字を思い浮かべながら聞いていた。 著名な言語学者、鈴木孝夫先生は「日本語は目と耳の両方を利用する『テレビ型』の言語であり、ヨーロッパ語を含むほとんどの言語は、未だに『ラジオ型』で、音声に全部情報があり、書いたもの、つまり文字情報ですら音声の写しに過ぎない」と指摘している。日本語は、漢字の流入、受容、伝播、定着があったがゆえに、「ラジオ型」であった大和言葉から、聴覚と視覚が連携した「テレビ型」の言語になったのであろう。 たとえば、「あう」に「会」「合」「逢」「遭」「遇」(これらの漢字は「同訓異字」という)を当てることによって、和語「あう」の意味を細分化し、語彙拡充を可能にした。それだけでなく、当て字を用いることによって、豊かな表現が生み出されていった。その代表的なものが掛詞(かけことば)である。掛詞とは和歌などにおける修辞法の一つで、古くから用いられてきた。「まつ」に「松」「待つ」といった二つの意味があるように、同じ音、あるいは類似した音を有するものに二つ以上の意味を込めて表現する方法である。『奥の細道』の巻末に「蛤のふたみにわかれ行く船出する秋ぞ」という句がある。「ふたみ」は「蓋身(蛤の蓋と身)」と「二見(二見浦)」、「わかれ」は「見送りの人たちと『別れて』」と「川が『分かれて』」といったようにそれぞれ二つの言葉が掛けられている。 最近、テレビのお笑い番組では「なぞかけ」がよく出される。例えば、「薄い味のコーヒーとかけて、バスツアーと解く、その心は――こくない(濃くない・国内)」。このように、「なぞかけ」は掛詞の親戚のようなもので、その手法が似通っている。2010年12月2日付の『読売新聞』の「編集手帳」にも次のような「なぞかけ」が引用されていた。「『新聞』とかけて『お坊さん』と解く。そのココロは――今朝(袈裟)きて今日(経)よむ。テレビの『笑点』で人気者になったなぞかけの名手、故・二代目春風亭梅橋さんの作と伝えられる」。 このような「なぞかけ」は、むかし商売繁盛を願うときにもよく使われていた。東京都内の比較的古いそば屋や飲み屋、料理屋などの入口に、「春夏冬中」(商い〈秋ない〉中)と書いた木札が下がっていたり、店内に「春夏冬二升五合」(商いますます繁盛:二升=升〈ます〉+升〈ます〉、五合=半升〈はんじょう〉)と掲げた木彫りの看板が飾られていたりした、と東京に長く住んでいた友人から聞いた。 また、今日流行っている「サラリーマン川柳」(第一生命保険株式会社主催)を見てみると、第14回第1位の作品は「ドットコム どこが混むのと 聞く上司(ネット不安)」、第15回第1位の作品は「デジカメの エサはなんだと 孫に聞く(浦島太郎)」、第19回の優秀作品は「IT化 夫婦関係 愛低下(あずさ3号)」で、これらにも掛詞の手法が応用されている。 一方、漢字の発祥地、中国ではどうであろうか。 中国では、昔から新婚初夜に生煮えの餃子を食べさせる風習があった。生煮えの餃子を食べさせて、煮えたかどうかを聞き、「生」と言わせることが目的である。「生(なま)」と「生(子どもをうむ)」は同じ字であるので、これから子どもをたくさん作る意思を婉曲的に宣言させる儀式である。 中国では古くから「多子多福(男児が多いほど福が多い)」「不孝有三,無後為大(親不孝には三つあるが、子孫を残さないことがもっとも親不孝である)」という伝統的な倫理観が根強かった。そのため、旧正月に飾られている年画の中に「蓮子(ハスの実)=子を連れてくる」が描かれたり、新郎新婦の新居には「棗(なつめ、『早』と同音)」「花生(落花生)」が置かれたりした。いずれにも「早生貴子(早く子どもに恵まれますように)」という願いが込められている。この習慣は今日でも受け継がれているが、少子化が進む日本と同様に、中国でも、特に大都市では出産率が低下する一方である。もはや「早生貴子」の儀式は単なる形成的なものにすぎず、そのうちに姿を消してしまうのではなかろうか。 中国の民俗にはこういった漢字の多義性と同音異字を生かしたものがたくさんある。例えば、南方ではお正月の時に「桔子(ミカン)」を贈る習慣があり、「桔」の中に「吉」があり、幸せになりますようにというメッセージが「桔子」の中に込められている。また、日本のお正月でよく食べられている「お餅」は中国語では「粘◆(◆は米偏に羔)」という。「粘」の意味は日本語と同様で、ねばねばしている状態を表す。「粘」は「年」と同音で、「粘◆」は「年◆」ともいう。つまり、年越しの時にねばねばしたお餅(粘◆)を食べる習慣は漢字の読みに由来したと考えられる。 動物の中では「鹿lu」が「禄lu」と同音で、縁起の良い動物として好まれている。日本では「蝙蝠(こうもり)」に対して暗いイメージを持っているようだが、中国では「蝙蝠bian fu」は「変福 bian fu(福に変わる)」に似たような発音であるので、縁起の良い動物として飾られている。逆に「フクロウ」は日本では「不苦労」というふうに読まれることによって、人々の愛着が集まっているが、中国では「猫頭鷹」という名称で、夜しか働かないので、暗いイメージがある。 このように、日本では同じ読みに数多くの漢字を当てて、多彩な表現手法を生み出していったのに対して、中国の同音異字は、言語的な面だけでなく、民俗的、習慣的な面などにおいても活用されている。 新年早々、皆様も書き初めをお書きになったであろう。私は漢字一文字だけを書くのをやめて、「伸」「新」「信」「真」「進」「心」「親」…というたくさんの願いを込めて、「しん」とひらがな二文字を書いた。少々「慎」に欠ける欲張りな願いのようだが、自分らしいと気に入っている。 -------------------------------------- <李軍(リ ジュン)☆ Li Jun> 中国瀋陽市出身。瀋陽市同澤高等学校で日本語教師を務めた後、2003年に来日。福岡教育大学大学院教育学研究科より修士号を取得。現在早稲田大学大学院教育学研究科博士後期課程に在籍。主に日中漢字文化を生かした漢字指導法の開発に取り組んでいる。ビジュアル化が進んでいる今日、絵図を漢字教育に取り組む新たな試みを模索している。 -------------------------------------- 2011年1月19日配信
  • 2011.01.14

    あけましておめでとうございます

    HAPPY NEW YEAR!
  • 2011.01.12

    エッセイ276:シム チュン キャット「日本に「へえ~」その6:PISA調査における日本の最新結果、すごいじゃん?」

    年末年始に向けての助走が本格的に始まった12月7日に、経済協力開発機構(OECD)が各国の15歳を対象に2009年に実施した国際学習到達度調査(PISA)の結果が、世界各地で続々と発表されました。2000年に始まって以来、三年ごとに行われてきたこの国際学力調査の結果を日本の主要新聞社もそろって翌日のトップニュースとして一面に掲載しました。今回の日本の結果が思いのほか(?)よかったためか、各記事の主題や副題には「日本学力、改善傾向」「低落傾向止まる」「読解力改善、理数持ち直す」などのような穏やかな文面が多く、三年前に日本の順位がすべての分野においてガクッと落ちたときとは打って変わって、テレビ局も含め今回のマスコミ報道にはことごとく師走の喧騒とは程遠い落ち着きが感じられました。そして二、三日も経つと、PISAのPも一切報じられなくなりました。でもちょっと待ってよ、これではなんかおかしくないですか。今回の結果を受けて、15歳の日本人の学力についてもっと褒めてあげてもよかったのではないですか。学校現場や教師たちのこれまでの改善努力に対しても、もっと認めてあげてもよかったのではないですか。 まず、今回の調査結果の順位表をみると、「読解力」「数学的リテラシー」と「科学的リテラシー」の全分野において三つとも平均点数がベストテンにランクインされているのは7ヶ国・地域だけです。上海、香港、韓国、シンガポール、フィンランド、カナダと日本だけです。やりましたね、日本!しかも、この中に人口が一億人を超える国・地域は日本だけです。すごいじゃないですか!日本の学校で学ぶ生徒がこれだけ多いのに、すべての学力分野において平均点がベストテンにオールランクインされているなんて、僕の国シンガポールだったらきっとすべての教師に年末特別ボーナスが支給されると思いますよ!(嘘です。笑。)もちろん、一回目の2000年調査における日本の順位(読解力8位、数学1位、科学2位)に比べると、今回の「読解力8位、数学9位、科学5位」の結果は少々見劣りするかもしれません。でも忘れてならないのは初回の参加国の数が32であったのに対し、今回の参加国・地域の数は65と倍以上にのぼったことです。したがって、初回の順位とは単純に比較することができません。参加した国と地域がこんなに増えたにもかかわらず、今回日本がそれでも全分野においてベストテンに食い込んでいることが、ある意味初回の調査よりもすごいと僕は言いたいのです。 それだけではありません。初回の2000年調査にはいわゆる「中華圏モーレツ教育型」の香港、上海、台湾とシンガポールが参加しませんでした。言い換えれば、もしこの四つの都市・地域が今回の調査にも参加しなければ、日本の順位はスリーランクアップ、もしくはフォーランクアップし、全学力分野においてすべてベストファイブ圏内に入るという輝かしい実績を残すことになります!同じ理由で、今回の新聞記事の中に「日本の学力、アジア内では地位低下」「アジアの中での地盤沈下」などの文面やコメントも必ずしも正しいとは言い切れません。なぜなら、「中華圏モーレツ教育型」の香港は二回目の調査から、台湾は三回目から、そして上海とシンガポールは今回の四回目から参戦してきたので、その都度たとえ日本の学力が低下しなくても順位が少しずつ下がっていくのは仕方のないことだからです。そして僕は聞きたいです。今さら日本がアジア諸国と学力競争をしてどうするのですか。経済や社会が成熟し、価値観が多様化するに伴って「良い学校→良い会社→良い人生」という方程式が魅力を失いつつある時代に、日本人の生徒にアジア型モーレツ勉強をさせるなんて多くの場合もう無理でしょう。実際に、2006年のPISA調査で各国の15歳にどれぐらい本気でテストを受けたかと尋ねたところ、日本人生徒の本気度は最下位だったそうです。でも今回の2009年調査では少しは本気を出したかもしれませんね(笑)。このような背景のもとで、今回の調査における日本の最新結果は実によかったと僕は思います。 言うまでもなく、日本では学力上位層と下位層とで差が開いていることや家庭の社会階層間の学力格差など、学校教育において一層の改善への取り組みが行われなければならないところがまだまだありますが、とかくハングリー精神に欠けると言われがちな日本人の少年少女の平均学力が今回のPISA調査の全分野においてさりげなくベストテンにランクインされていることはもっと賞賛されるべきであり、また学校現場の士気を高める意味でも縁の下の力持ちである日本の教師たちに対してもっと評価すべきだと僕は思い、さらに「悪いときは叩き、良いときは称えない」という日本マスコミの報道姿勢に対しても幾分疑問を感じたので、この「ちょい熱い」エッセイを書かせていただいた次第であります! --------------------------------------------------------- <シム チュン キャット☆ Sim Choon Kiat☆ 沈 俊傑> シンガポール教育省・技術教育局の政策企画官などを経て、2008年東京大学教育学研究科博士課程修了、博士号(教育学)を取得。日本学術振興会の外国人特別研究員として研究に従事した後、現在は日本大学と日本女子大学の非常勤講師。SGRA研究員。著作に、「リーディングス・日本の教育と社会--第2巻・学歴社会と受験競争」(本田由紀・平沢和司編)『高校教育における日本とシンガポールのメリトクラシー』第18章(日本図書センター)2007年、「選抜度の低い学校が果たす教育的・社会的機能と役割」(東洋館出版社)2009年。 --------------------------------------------------------- 2011年1月12日配信